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第六章 寄留の民の苦難と希望

       ―― ペトロ第一書簡におけるキリストとその民 ――


       (本章で書名のない引用箇所はすべてペトロ第一書簡の章節をさします。)

はじめに

 この「パウロ以後のキリストの福音」シリーズでは、パウロ以後の時代にキリストの福音がどのような姿をとったのかを、これまでおもに「パウロの名による手紙」(パウロ名書簡)を中心に見てきました。ただヨハネ黙示録は明らかにパウロ以外の人物によって書かれた文書であり、パウロの名も用いていませんが、それが流布した地域がパウロ系の諸集会の地域と重なっているために、このシリーズの主題に関連する文書として例外的に取り扱いました。
 ところで、新約聖書正典の中にペトロの名によって書かれた手紙が二通あります。この二通の手紙は、以下に見るように、使徒ペトロ自身によって書かれたものではなく、ペトロの名によって書かれた「使徒名書簡」であることは明らかです。しかもその内容、とくに第一書簡の内容はきわめてパウロ的な信仰を指し示しています。それがいかにパウロ的であるかは、この書簡の概要を見てゆくとすぐに分かります。個人的には、わたしがパウロに導かれて信仰を形成しつつあった初期に、新約聖書の中でもっとも感銘深く読んだ文書の一つが「ペトロの第一の手紙」です。そのようなパウロ的な書簡がなぜペトロの名を用いてパウロ系の諸集会に宛てて書かれたのかが最大の問題点です。この問題点を念頭に置きながら、ペトロの名によって書かれた手紙の概要をたどり、その位置と意義を探りたいと思います。

 このシリーズではペトロ第一書簡だけを扱い、ペトロ第二書簡は別枠で扱うことになりますが、その点については本章末尾の「付記」を見てください。




第一節 ペトロ第一書簡の成立

使徒名書簡としてのペトロ第一書簡

 まずこの手紙自身がその成立について語るところを見ましょう。差出人と宛先については最初にこう記されています(新共同訳から引用)。

「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。(一・一)

 そして、成立事情を示唆する文言が手紙の結びにあります。

「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」。(五・一二〜一三)

 著者は自らを「イエス・キリストの使徒ペトロ」と名乗っていますが、次のような理由から、本書はペトロ自身の手紙ではなく、すでに確立していたペトロの権威を用いてペトロ以後の人物が書いたもの、すなわち「使徒名書簡」の一つと見ざるをえません。
 「成立年代」の項や次節の「概要」で詳しく見ることになりますが、本書の背景となっている状況が70年のエルサレム陥落以後の状況を示しており、60年代前半に殉教したと見られるペトロの筆になるとすることは困難です。
 さらに、この手紙のギリシア語がかなり高度に洗練された文学的なギリシア語であり、ガリラヤの漁師であったペトロの筆になるものとは考えられないことが上げられます。ペトロもヘレニズム的な要素の強いベトサイダの出身であり、ある程度の日常的なギリシア語は使えたのでしょう。しかし、日常的な用を足すだけのギリシア語が使えることと高度な文学的ギリシア語を書くこととは別です。アラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人であるペトロがこのようなギリシア語を書いたとすることは困難です。たしかにペトロはローマに至るまで広くヘレニズム世界に伝道したと伝えられていますが、そのさいマルコを通訳として伴ったという古代教会の伝承も、ペトロのギリシア語の限界を語っています。

「シルワノによって」

 このギリシア語の問題を説明するために、結びにある「シルワノによって書いた」という文言から、この手紙はペトロの秘書としてシルワノが書いたとする説が出て来ます。この説を検討するために、ここでシルワノがどういう人であったのかをまとめておきましょう。
 「シルワノ」は、使徒言行録で「シラス」とアラム語形で呼ばれている名のラテン語形です。パウロはその手紙の中でいつも「シルワノ」とラテン語名で呼んでいます。使徒言行録によると、シラスはもともとエルサレム原始共同体の指導的な一員で、ステファノ事件以後もエルサレムに残った「ヘブライオイ」(アラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人)の一人でした。当然ペトロをはじめとする使徒たちと密接な関係をもっていたはずです。ギリシア語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人ではなかったのでしょうが、かなりギリシア語をよくしたので(このようなバイリンガルなパレスチナ・ユダヤ人も珍しくありませんでした)、エルサレム会議の後に異邦人諸集会に会議の決議を伝えるために、「バルサバと呼ばれるユダ」と共に使節に選ばれています(使徒一五・二二〜三五)。
 この役目はたんに手紙を手渡すための使いではなく、エルサレム共同体を代表して手紙の真正性を保証し、その内容を伝え真意を説明する全権大使のような任務です。ユダとシラスの二人は「預言する者でもあった」と伝えられており、共同体で指導的な役割を担っていたことがうかがわれます。アンティオキアでこの任務を果たした後、ユダはエルサレムに帰りますがシラスはアンティオキアに残ります(一部の写本にある一五・三四)。
 アンティオキアの集会で共同の食卓をめぐる対立からバルナバと決裂したパウロは、この時から始まる彼の独立の福音宣教の活動にシラスと行動を共にすることになります(使徒一五・三九〜四〇)。この時から始まるパウロの伝道活動(いわゆる第二次伝道旅行)で、途中から加わったテモテと共に、シラスはパウロの有力な協力者として、フィリピやテサロニケやコリントで福音を宣べ伝えます。そのため、パウロがコリントからテサロニケに手紙を書くときには、テモテと共に共同執筆者として差出人に名を連ねることになります。また、コリントでの福音宣教も「わたし(パウロ)とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリスト」(コリントU一・一九)と回顧されることになります。このような事情からすると、「シルワノによって」書かれた手紙がきわめてパウロ的な内容になることも当然と納得できます。

 パウロとシラスがフィリピで投獄され鞭打たれた後、パウロが「ローマ帝国の市民権を持つわたしたち」(使徒一六・三七)を裁判もなしで鞭打ったことを抗議しているところから、シラスもローマ市民権を持つユダヤ人であったとする見方があります。

 コリントでパウロと共に働いた時期以後のシラスの行動は伝えられていません。次にシラスの名が舞台に現れるのはこのペトロ第一書簡です。すぐ後で見ることになりますが、シラスはローマに行ったと推察されます。プリスカとアキラ夫妻の場合に見られるように、ローマからのユダヤ人追放令が解除(54年)された後、コリントなど東方からローマに移ったユダヤ人も多かったはずです。ただ、56年に書かれたパウロのローマ書一六章の個人的挨拶の中にシラスが含まれていないことから、シラスのローマ移住はそれ以後のことと推察されます。シラスはいったんエルサレムに帰り、それからローマに移住した可能性もあります。
 ではこのペトロ第一書簡がシラス、すなわちシルワノによって書かれたとする見方は成り立つでしょうか。たしかに、その内容がパウロ的であることはシルワノ著者説でよく説明できます。しかし、この説にも困難があります。
 まず、そのギリシア語はパウロ書簡よりも洗練された文学的なギリシア語ですが、シルワノがパウロ以上に洗練された文体のギリシア語を書くことができたかどうかが問題になります。シルワノはパウロと一緒にヘレニズム世界で福音を宣べ伝える活動をした人物ですから、ギリシア語をよくしたことは事実です。しかし、アラム語を母語とするパレスチナユダヤ人のシルワノが、ギリシア語を母語とするディアスポラユダヤ人のパウロよりも流麗なギリシア語を書くことができたと推察することは困難です。
 さらに困難な理由は、もしこの文書をシルワノが書いたとすると、書いた本人が自分のことを「忠実な兄弟であると認めているシルワノ」(五・一二)と、自己推薦あるいは自己賞賛をしていることになり、不自然な文章になります。
 では、「シルワノによって書いた」という文はどう理解すればよいのでしょうか。これは「シルワノを通じて手紙を書き送る」、すなわち「シルワノを持参人として手紙を送る」という意味に理解することができます。「誰それによって《デイア》書き送る」という表現で、この前置詞を持参人の意味で用いている用例はイグナティオスの書簡にも見られます。また先のエルサレム会議の決定を伝える手紙の場合にも見られるように、古代の書簡では持参人が重要な役割を果たしています。この手紙は、シルワノに近い人物で、ギリシア語を母語とする教養あるディアスポラ・ユダヤ人が書き、それを使徒ペトロの名で、シルワノを持参人とする形で送ったと推察されます。シルワノを手紙の持参人とすると、「忠実な兄弟であると認めているシルワノ」という句も、持参人への推薦の言葉として自然に理解できます。

共に選ばれてバビロンにいる人々

 この手紙の成立事情を示唆するもう一つの重要な句が結びの挨拶に出てきます。「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」(五・一三)という同伴者の挨拶の句は、この手紙が「バビロン」で書かれたことを示しています。ペトロの活動範囲から見て、この「バビロン」はユウフラテス川沿いのバビロンではなく、またローマ軍の駐留地があったナイル川デルタのバビロンでもなく、ローマの異称であると見なければなりません。「バビロン」がローマを象徴する名であることは、とくにエルサレム陥落以後の時期においては、ユダヤ教徒の間でもキリスト教徒の間でも広く知られていました。ヨハネ黙示録だけでなく、当時のユダヤ教黙示文書にも「バビロン」はローマを指す異称として用いられています。著者はごく自然にこの異称を用いてローマを指していると考えられます。

 原文では「共に選ばれてバビロンにいる者」には単数女性形の冠詞が用いられています。それでこれを一人の女性を指す(たとえばペトロの妻)と理解することも可能ですが、ここはやはり多くの翻訳がしているように、著者には《エクレーシア》が念頭にあると見て「人々」と訳して良いでしょう。

 著者の身近にいる者として、もう一人マルコの名が上げられています。マルコがもともとエルサレムの住民であり、「わたしの子」と呼ばれているようにペトロによって回心し、ペトロの身近な同伴者であり協力者であったことは初期の共同体に広く知られていたようです。そのマルコが一時期パウロと伝道旅行を共にし、パウロの晩年に至るまで協力関係が続いていた(フィレモン一・二四)ことは注目すべき事実です。

 使徒言行録によると、ペトロはエルサレムでは「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」を拠点として活動していたようです(使徒一二・一二)。青年期のマルコはペトロから大きな影響を受け、生涯ペトロの協力者として仕え、ペトロから「わたしの子」と呼ばれるようになっていました。

ローマにおけるペトロ・グループ

 このようにペトロとのつながりが強いシルワノとマルコの名が用いられていることは、この手紙がローマにおけるペトロ・グループから出ていることを推察させます。ペトロが広くヘレニズム世界に伝道し、最後にローマまで来てそこで殉教したことは、なお議論も残っていますが、初期の伝承が伝えている通り事実であると考えられます。そのローマにペトロを指導者と仰ぐグループが存在することは自然なことです。パウロのローマ書一六章が示しているように、当時のローマでは一つの組織的な共同体が活動しているのではなく、多くの「家の集会」や各種のグループが並行して活動していました。その中の一つであるペトロに近い人たちのグループが、個人ではなくグループとして共同で、迫害に苦しめられている遠方の兄弟たちを書簡の形式で励まそうとしたとき、十二使徒の筆頭者としてその権威が確立しているペトロの名を用いたことは自然です。
 一方シルワノもマルコもパウロと働きを共にし、パウロの福音理解を継承しています。ローマではパウロの手紙「ローマ書」がよく読まれていたはずです。シルワノやマルコの経歴からしても、またローマにおけるパウロの影響からしても、ローマのこのグループから出た文書がその内容においてパウロの影響を強く示しているのは当然です。こうして、パウロ的な内容の文書がペトロの名で書かれるという結果が生まれたと推察されます。

離散して仮住まいをしている人たちへ

 この手紙の宛先は、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」(一・一)と明記されています。ここに列挙されている地名はみな小アジア(現在のトルコ領)に位置するローマの属州の名です。この中でエフェソを州都とするアジア州とガラテヤ州にはパウロが伝道して集会が形成されたことが使徒言行録やパウロ書簡から知られますが、その他の州のことはほとんど触れられていません。しかし、パウロ以後の時期にはこれらの諸州にも福音が伝えられ、この手紙が書かれるころ(おそらく80年代)にはかなりの数のキリスト者が集会を形成していたと考えられます。事実、すこし後の二世紀に入ると、これらの諸州を含む小アジアは多くの著名な指導者を輩出し、キリスト教の一大中心地となります。

 これら小アジア諸州の一世紀末の人口は約八〇〇万人で、その中でユダヤ人は約一〇〇万人、キリスト教徒は約八万人と推定されています。

 これらの諸州にいるキリスト者たちは「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」と呼ばれています。「離散して」という表現は、アッシリアやバビロンに捕囚となって連れて行かれたユダヤ人がその後も世界の各地に住み続け、新約聖書の時代には本国のパレスチナに住むユダヤ人よりも多くなっていましたが、そのような他国に住む離散のユダヤ人(ディアスポラ・ユダヤ人)をモデルとした用語です。キリストの民も同じように世界の各地に離散していますが、ユダヤ人のように地上のどこかに本国を持つ者ではありません。キリストの民の本国は天にあります。
 この「仮住まいをしている人たち」という呼び方に、この手紙の特質がよく出ています。こう訳されているギリシア語《パレピデーモス》は、ここと二・一一に出てくる著者独自の用語で、「(他国の町に一時的に)寄留している人」を指します。この特色ある語はヘブライ書(一一・一三)にも用いられ(新約聖書ではこの三箇所だけです)、本書とヘブライ書の関連をうかがわせます。二章一一節ではほぼ同じ意味の語を並べて、「あなたたちは旅人であり、仮住まいの身なのですから」と言われています。ここで「旅人」と訳されているギリシア語《パロイコス》は、「自分の国(故郷)でない地に一時身を寄せて寄留している人、寄留者、(そのように一時的に寄留している)旅人、市民権を持っていない他国人」という意味の語です(ギリシア語の語意は織田『新約聖書ギリシア語小辞典』による)。二つのギリシア語はほぼ同じ意味ですので、その内容を本稿では「寄留者」という訳語で指すことにします。
 ところで、キリストの民はこの世界では寄留者であるという自覚は、社会からの冷笑や蔑視、あるいは敵意にさらされながら、この世界とは別の原理によって生きる者であり、別の原理によって与えられている目標に向かって歩む者であるという自覚を表現しています。すでにパウロも「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ三・二〇)と言っています。この告白は、地上では寄留者であることを含んでいます。地上で多くの苦難を体験したパウロも、そのような自覚をもって生きました。その自覚は、社会からの圧迫や迫害が具体的になるに従って強くなり、キリスト者としての自覚の中心的な位置を占めるようになります。ヘブライ書や本書の「寄留者」の自覚は、このような段階を示しています。
 本書は、キリスト者であるという理由で迫害に苦しむようになった人たち(四・一六)を励ますために書かれています。著者とそのグループも、ペトロの殉教を知っており、ネロ以来のローマで同じような立場で苦しみを体験した者として、キリストのゆえに受ける苦難の共同体として、現在苦難の中にある兄弟たちを励まします。
 しかし、この手紙で問題にされている迫害は、まだローマ帝国の公式の政策としての迫害ではありません。そのような帝国の法律に基づく迫害は、デキウス帝の251年の迫害から始まります。それ以前の迫害は、ネロの迫害(64年頃)も、ドミティアヌス帝の迫害(95年頃)も、トラヤヌス帝時代の迫害(112年頃)もみな、限られた地域での散発的な迫害でした。本書に見られる一世紀末の小アジア諸州での迫害も、まだローマ帝国の政策としての迫害ではありません。しかし、ローマの宗教祭儀から身を引き、世間の伝統的習慣からも距離を置いて、自分たちだけの生き方を貫く新興の宗教グループに対して、ローマ社会からの批判と風当たりが強くなり、それが冷笑や蔑視の段階を超えて、何らかの具体的な訴追や暴力行為にまでなっていたと見られます。

成立年代

 本書は、パウロのローマ書(56年)の影響が強く見られることから、パウロ以後であることは明らかです。ペトロの名を用いた使徒名書簡の一つとして、ネロ帝の時代のペトロの殉教(64年)よりも後であることになります。「バビロン」というローマの異称の使い方からすると、70年のエルサレム陥落以後であると推察されます。それに、パウロが行かなかった小アジアの諸州にもキリストの民の集会が形成されていることから、50年代のパウロのアジア州での働きよりも二〇年とか三〇年は経っていると見なければなりません。しかし、ヨハネ黙示録の成立の背景となったアジア州でのドミティアヌス帝による迫害(95年)はまだ始まっていません。もしその迫害を知っていたら、宛先にアジア州を含む本書の書き方は違ったものになっていたでしょうし、またローマ皇帝に対する態度(二・一三〜一六)は、同じものではあり得なかったでしょう。さらに95年頃の成立とされるローマのクレメンスのコリント集会あての書簡に影響を与えていることからも、それ以前と見られます。
 このような状況からすると、本書の成立は70年代後半から80年代ぐらいと見るのが順当ではないかと考えられます。また、シルワノとマルコの年齢から見ても、それ以後とは考えられません。二人は、ペトロやパウロよりも十数歳若いとしても、80年には70歳前後になっているはずだからです。81年にはドミティアヌス帝の治世が始まっていますが、91年頃に恐怖政治が始まるまでは、キリストの民も比較的平穏な歩みを続けることができたようで、ヨハネ黙示録(一三章)のようにローマ皇帝をサタンの権化のように見ることなく、パウロのローマ帝国に対する態度(ローマ一三章)を引き継ぐことができた時代です。このように推定される成立時期は、ヘブライ書の成立時期と重なります。両書は共にこの時期のローマとの深い関連の中で成立しています。