市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第14講

第三節 ヨハネ黙示録の位置と意義

正典の中での位置

福音の場における預言書

 本書は、序章(一章)の「天上におられるキリストの姿」の黙示(啓示)で始まり、七つの集会あての励ましの手紙(二〜三章)に続いて、僕ヨハネに与えられた「すぐにも起こるはずのこと」、すなわちキリストの来臨にともなう出来事についての長大な黙示(四〜二一章)が本体を形成し、最後に「然り、わたしはすぐに来る」という復活者イエスの宣言と、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りで結ばれました(二二章)。本書が、キリストの来臨《パルーシア》を主題とする書であることは明らかです。
 先に見たように、復活して神の右に上げられたキリストがやがてすぐに来て世界にその支配を確立されるという「キリスト来臨」の待望は、最初期のエルサレム原始教団から始まり、パウロも含めて初期のキリストの民に共通のものでした。しかし、キリストの福音がヘレニズム世界に展開する過程で、ヘブライの救済史的な枠組みよりも、ヘレニズム世界のコスモロジーの枠組み(宇宙論的枠組み)が優勢になり、将来のキリストの来臨を待望するよりも、現在に霊なるキリストの充満を追及する姿勢が強くなってきます。

 ヘレニズム世界における初期の教団の来臨待望の変遷については、本書148頁以下の「来臨待望の変遷」を参照。

 そのような傾向の中で、ローマ帝国による迫害を機縁として、キリストの来臨に集中し、それを主題とする本書が生み出されます。本書の存在は、キリストの福音が急速にヘレニズム世界の枠組みに組み込まれてゆく過程の中にあって、熱烈な来臨待望によって旧約聖書の救済史的な枠組みを維持しようとする流れがあったことを証言しています。
 本書は基本的には預言の書です。預言は時代に向かって語ります。ローマ帝国の権力による信仰の抑圧という危機的状況の時代を迎えて、キリストの民の中に働く預言の霊が熱く燃え上がって、信仰を鼓舞するこのような預言の書を生み出しました。その預言を担った預言者ヨハネが、旧約聖書と黙示文学に精通したユダヤ人であったので(おそらくユダヤ教祭司の家系の学識豊かな人物であったのではないかと思います)、その預言は旧約聖書の預言書とユダヤ教黙示文学の表現や象徴で埋め尽くされ、きわめて難解な文書になりました。
 しかしヨハネ黙示録は、本稿で見たように、外見は似ていますが、けっしてユダヤ教黙示文学の一例ではありません。本書は福音の場で成立した預言の書です。ヨハネは、旧約聖書の預言と黙示が「十字架された復活者キリスト」において成就していることを宣言しています。本書の中心に立つ形姿は「ほふられた姿の小羊」、すなわち「わたしたちのために十字架につけられた復活者キリスト」です。ただ迫害という状況に迫られて、本書が提示するキリストは、やがて栄光の中に来臨し、迫害する者を裁き、信仰を貫く忠実な信徒に勝利を与えて、その支配を確立する栄光のキリストという面が圧倒的に前面に出るようになります。実際、一世紀末から四世紀初頭にいたる迫害の時代に、本書がいかに強く信徒を励ましたかは、十分に推察できるところです。本書は、福音における預言の書として、その歴史的使命を十分に果たしたと言えます。

正典となるまで

 しかし、本書がまとっている強烈な色彩の黙示文学的衣装のためか、ヘレニズム世界に展開し、ますます深くギリシア思想の影響を受けるようになった古代教会において、本書は素直に受け入れられなくなります。古代教会は、その時代に生み出された多くの信仰文書を選別し、自分たちの信仰の基準となるべき文書群、すなわち「正典」を確立していきますが、その過程でヨハネ黙示録は一部では長らく「疑わしい書」として扱われ、正典の中に確実な位置を占めるようになるまでにかなりの年月を要したようです。
 ヨハネ黙示録に対しては、東方と西方では温度差があり、西方ではかなり早くから正典としての位置が確立していたようですが、東方では長く議論が続きます。西方では、二世紀末のリヨンの司教エイレナイオスはヨハネ黙示録を権威ある書として扱い、二世紀末のローマで作成されたと推定される正典目録を伝える「ムラトリ断片」もヨハネ黙示録を入れています。三世紀初頭には、西方の最大の神学者といわれるテリトゥリアヌスも、四福音書と並んで権威ある書とした「正規の使徒書」の中にヨハネ黙示録を含ませています。
 それに対して東方では、かなり長く議論が続きます。アレクサンドリア学派の代表的神学者オリゲネス(三世紀前半)は、当時の教会の一般的習慣に従って、諸文書を「異議なく承認されているもの」、「疑わしいもの」、「偽作として拒否されているもの」の三つに分類し、ヨハネ黙示録を「承認されているもの」に入れています。しかし、その後の東方教会の有力な教父たちで、ヨハネ黙示録の正典性を否定する者もあり、議論が続きます。それを反映してか、四世紀初頭に出たエウセビオスの『教会史』は、「おそらく適当と思われるならば」という但し書きをつけて、ヨハネ黙示録を「承認されているもの」と「偽書」の両方に入れています。この扱い方は、ヨハネ黙示録の不安定な地位を示しています。四世紀半ばにエルサレムの司教キュリロスは、ヨハネ黙示録を除く二六巻の新約聖書正典表を発布しています。
 現在の二七巻からなる新約聖書正典は、三六七年のアタナシオスの「第三九復活祭書簡」によって確定したとされています。その後、西方ではヒエロニムスがアタナシオスの正典表に基づくラテン語訳新約聖書を完成しますが、東方ではヨハネ黙示録については議論が続き、それを含まない正典表が幾度も現れます。また、アタナシオスの正典表確定後も、ヨハネ黙示録は実際には尊重されず、現存する新約聖書のギリシア語写本でヨハネ黙示録を含むものは全体の三分の一ほどだということです。
 以上、新約聖書正典を確定しようとする動きの中でヨハネ黙示録がどのように扱われてきたかを概観しました。この正典確立のための動きの背景には、古代教会におけるいわゆるグノーシス派と正統派との対立があります。グノーシス派は一般的な傾向として、イエスが啓示した神を至高神とし、旧約聖書の神を一段と低く見るか否定する傾向があり、旧約聖書を拒否します。その代表的な人物が二世紀半ばに活動したマルキオンです。マルキオンをグノーシス主義者に分類することができるかどうかについては議論がありますが、旧約聖書を拒否した点では典型的なグノーシス主義者です。
 最初期の教団を指導したのはユダヤ人の使徒たちでした。それで初期の教団は当然のこととして旧約聖書を神の啓示の書としての権威を認めて、自分たちの「聖書」として用いていました。ところがマルキオンは旧約聖書の権威を否定し、それに代わって(ユダヤ教的要素を削除した)ルカ福音書とパウロ十書簡を自分たちの「聖書」としました。この「マルキオン聖書」が彼に対立する正統派を刺激して「正典」を形成する動きを始めるきっかけになったと見られます。
 二世紀に活発になったグノーシス派に対抗した正統派の代表的な論客がエイレナイオスです。エイレナイオスは二世紀末に『異端論駁』五巻を著し、グノーシス主義を論駁します。その中で彼は、旧約聖書の権威を認め、使徒たちの教えに従うべきことを説きます。そして、使徒たちの証言と教えとして四福音書とパウロ書簡や使徒書簡を尊ぶべきことを主張します。ヨハネ黙示録も使徒ヨハネの証言として権威を認められます。このようなエイレナイオスの神学が救済史的な神学になるのは当然です。
 グノーシス主義を克服するために正統派は正典を確立する努力をしますが、ある文書を正典として選ぶ際の基準は「使徒性」でした。古代教会は、多くの文書の中から使徒の著作か、使徒の証言に基づく文書を「使徒的」として、自分たちの信仰の拠り所であり基準となる正典としました。長い伝承の過程で、ヨハネ黙示録はヨハネ福音書とヨハネの手紙と共にまとめて使徒ヨハネの著作とされて、正典に入れられるようになります。
 正典の配列は、歴史書(過去)、勧告書(現在)、預言書(未来)の順に配列された七十人訳ギリシア語聖書にならい、四福音書と使徒言行録(過去)、使徒書簡(現在)、ヨハネ黙示録(未来)という順になりました。ヨハネ黙示録は将来の預言として、正典の最後に置かれることになります。こうして、古代教会は、最初にマタイ福音書、最後にヨハネ黙示録を置くことになり、旧約聖書の救済史的枠組みを強く主張する両書で囲み込まれた正典を確立するに至ります。

福音の展開史におけるヨハネ黙示録

字義的解釈と霊的解釈

 このように新約聖書正典に取り入れられたヨハネ黙示録は、その後の福音の展開においてさまざまに解釈され、重大な影響を及ぼすことになります。その解釈史と影響史を詳しくたどることはこの小論ではとうていできませんので、本書だけが預言している「千年王国」という主題を軸にして、わたしたちの関心をひく代表的な場合を数例だけ取り上げてみます。
 一世紀末から四世紀初頭に至る迫害の時代に、ヨハネ黙示録は信仰を励ます預言の書として本来の使命を果たしました。しかし、四世紀初めにコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、その世紀の末にはテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教とするに及んで、ヨハネ黙示録をめぐる状況は激変しました。ローマ帝国は自己を絶対化して悪霊化したと批判したヨハネ黙示録は、もはや字義通りには解釈できなくなりました。しかし、正典に入っているヨハネ黙示録を無視することはできません。何らかの解釈によってこの預言書を新しい世界の状況に適合させなければなりません。そのためにとられた解釈の方法が霊的・象徴的解釈です。
 聖書の内容を、それが書かれた時代の状況に即して字義通りに解釈するのではなく、律法や預言の内容を比喩的・象徴的に解釈して新しい状況に適合させようとする努力は、すでにヘレニズム時代に旧約聖書をヘレニズム世界の思想に適合させようとしてユダヤ教内おいて積み重ねられていました。その代表者がアレクサンドリアのフィロンです。その伝統を継いで、キリスト教側でもアレクサンドリアのオリゲネスらは聖書を象徴的に解釈してキリストの証言として用いました。
 象徴的解釈と言っても、ヨハネ黙示録の場合はその使信自体が象徴を用いて表現されているのですから、その理解は当然象徴の解釈に依存することになります。象徴は本来多義的ですから、その解釈は多様にならざるをえません。しかし、多様な解釈の中でも、時代に語りかける預言としてその本来の状況と意図に即して理解しようとする傾向と、時代の状況から離れて無時間的な霊的真理の象徴として理解しようとする傾向という、二つの大きな基本的傾向が区別されます。ここで仮に前者を「字義的・歴史的解釈」、後者を「霊的・象徴的解釈」と呼びますと、黙示録の解釈はこの二つの傾向の相克や混合の歴史として理解できます。それにしても黙示録全体の解釈を問題とすることは問題が大きすぎてこの小論ではできませんので、解釈者の立場が典型的に出てくる「千年王国」の解釈に限定して、その流れをたどることにします。

アウグスティヌスとヨアキム

 ヨハネ黙示録(二〇・一〜六)は、キリストと第一の復活にあずかった聖徒たちが共に世界を千年間統治することを預言しています(本書238頁以下を参照)。この時代が後世「千年王国」と呼ばれて、黙示録解釈の大問題になります。初期の教父たちはだいたいこの預言を字義通りに解釈して、キリストが再臨された後千年間、キリストが直接統治されるので地上に平和で豊饒の時代が続くと考えていました。二世紀の殉教者ユスティノスやエイレナイオス、三世紀初頭のテリトゥリアヌス、四世紀初頭のラクタンティウスに至るまで、この預言を字義通りに解釈する有力な指導者たちがいました。
 しかし、この時代にもすでに字義的解釈に反対して、この預言を霊的に解釈すべきことを唱えた教父もいました。アレクサンドリアのオリゲネス(三世紀前半)は、千年王国の字義的解釈を退け、黙示録をこの世で始まり来るべき世にまで続く魂の霊的成長の象徴として解釈しました。三世紀後半の(もとドナトゥス派の)ティコニウスは、おそらくオリゲネスとは独立に彼のパウロ理解から、この預言の字義的解釈を克服し、その霊的理解をラテン世界に導入します。彼は「第一の復活」を洗礼のさいの新生と解釈し、身体の復活を未来のこととし、黙示録二〇・四〜六は現在の時代を指すと理解します。
 アウグスティヌスは、初期には字義通りの「千年王国主義」を奉じていましたが、ティコニウスの影響で霊的解釈に変わります。彼が晩年に完成した『神の国』(五世紀初め)では、第一の復活を魂の復活とし、キリストと聖徒たちの千年の支配を教会の時代を指すと解釈しています(同書二〇巻七〜一〇章)。このアウグスティヌスの教会論的解釈はその後の西方ラテン世界の公式解釈となり、幾世紀にもわたって西方教会を支配します。
 東方では、コンスタンティヌス帝の側近として活躍したカイサリアの司教エウセビオス(オリゲネスの孫弟子)が、キリスト教に改宗したローマ皇帝を地上におけるキリストの代理者とし、皇帝を教会の首長とする政教一致の体制(いわゆるビザンチン体制)を理論づけます。このような思想は、黙示録の霊的解釈の中ではじめて成立しうるものです。地上におけるキリストの支配はキリスト教化したローマ帝国において実現したことになります。そして、この体制によるキリストの地上支配は、(皮肉にも)約千年間続きますが、一五世紀にビザンチン帝国の崩壊と共に消滅します。
 このようにヨハネ黙示録の預言はキリスト教会において実現されているとする霊的・教会論的解釈の流れの中で、この預言の書の本来の終末的視点を回復する解釈が一二世紀のヨーロッパに現れます。一二世紀後半に南イタリヤのフィオーレの修道院長として活躍したヨアキムは、霊的幻視の体験もあり、預言の賜物もあったようです。彼は全聖書を象徴的に解釈し、ヨハネ黙示録の注解も著し、独特の終末観を展開します。彼によって黙示録は地上の歴史を預言する書としての性格を取り戻します。彼によれば、完成に向かう神の歴史支配は、神の三位一体の在り方に対応して三つの時期があるとされます。第一は父なる神が律法によって直接支配される時代です。第二は子なる神が統治される時代で、新しい契約の時代であり、恩恵によって聖化された教会の時代、信仰の時代です。この時代は間もなく(彼の計算では一二六〇年に)終わり、第三の時代、聖霊の時代が始まることになります。この時代は霊的修道士に導かれる観相の時代、霊的自由が溢れる愛と喜びの時代とされます。この第三の時代は最後の審判によって実現する終末の完成ではなく、それに先行して地上の歴史の中に実現する時代であるという点で、千年王国の思想と通じるものがあります。
 このような地上における霊の王国の実現は、アウグスティヌスの教会論的解釈と対立し、現存の教会体制を批判する結果になるので、トマスなど後の教義学者から批判され、ローマ教皇から異端の宣告を受けることになります。しかし、ヨアキムの終末論は後世の西欧思想に大きな影響を及ぼし、地上に理想の国を追求する者たちの思想的源泉となります。

 フィオーレのヨアキムについては、エリアーデ『世界宗教史』Vの271節に簡潔な要約があります。なお、ヨアキムの生涯と思想だけでなく、それまでの「キリスト教歴史神学の発展」と「ラテン・キリスト教世界における『黙示録』釈義」、さらにその後の影響史を含む詳しい解説は、B・マッギン『フィオーレのヨアキム―西欧思想と黙示的終末論』(宮本陽子訳・平凡社)にあるので、それを参照してください。

中世後期の千年王国運動

 ヨアキム以後、すなわち一三世紀から一六世紀の宗教改革の時代までの時期をふつう中世後期と呼びますが、この時代はローマカトリック教会が支配するヨーロッパに「千年王国運動」の嵐が吹き荒れた時代です。この時代には、ヨハネ黙示録やシビラの託宣というような預言文書に鼓吹され、ときにはヨアキムの終末思想に影響された民衆の終末待望(千年王国待望)の運動が、当時の深刻な社会不安の中で異様な形をとり、ヨーロッパ世界に悲惨な結果を引き起こします。
 すでに一一世紀に始まりこの時期数次にわたって行われた十字軍運動において、民衆の終末意識は高揚していました。聖都エルサレムを奪還することは、キリストの地上支配実現のためでした。その前段としての反キリストとの戦いも、ユダヤ人虐殺という(見当違いの)形で始まっていました。一方、飢饉や疫病などの災害に苦しむ底辺の貧しい民衆の間には、自分たちを支配搾取して贅沢に暮らす教会の聖職階級に対する不満と、窮状を救ってくれるカリスマ的な指導者への待望が鬱積していました。
 この終末待望の熱気と体制的教会への批判や不満に膨れあがっている底辺民衆の状況の中に、修道士などで禁欲的な生活と孤独の祈りから立ち上がって、病人を癒したり奇蹟を行うカリスマ的な説教者が現れると、この人こそ約束されていたメシアであると歓呼して迎え、その人物の絶対的な支配に服し、教会から離脱して、自分たちこそキリストが直接支配される千年王国の民であるとする運動に発展することがしばしば起こります。
 この種の改革運動にも、堕落した聖職者階級を批判して使徒時代の平等な霊的交わりに生きようとする穏健な兄弟団としてとどまるものもありますが、状況によっては、集団の規模が大きくなり、民衆の熱気が高まると、段々と過激化して、中には自分たちこそ千年王国の民であるとして、自分たち以外の者に対して殺戮と強奪をこととする集団となる場合も出てきます。この「千年王国運動」の様相は多様で一律に描くことはできませんが、過激化した「千年王国運動」にはある程度の共通点が見られます。
 そのような運動は大体、修道士や職人など身分の低い個人の神秘体験から始まります。神から直接の啓示を受けたとする彼らのカリスマ的な説教と、高位聖職者に対する激しい批判は、貧窮の民衆に強く訴え、彼を信奉する集団が形成されます。民衆は彼を預言者とかメシアとして讃え、絶対的な服従を誓い、財産を投げ出して従います。指導者は自分の支配を絶対化して(自分を神とする者も出てきます)、自分に敵対する者(高位聖職者や大都市の富裕商人層など)をすべて反キリストと決めつけ(その頂点はローマ教皇です)、彼らを抹殺する(殺戮する)ことが地上にキリストの支配をもたらすための奉仕であるとするに至ります。そのさい、殺戮する敵の財産を強奪して自分たちの資金とすることは正当化されます。このような運動の中には、近い将来強力な皇帝が出現して(名声の高い皇帝が生き返って)反キリスト勢力を打ち破り、地上に至福の時代をもたらしてくれるという待望もありました。
 もちろんローマ教会はこのような運動を異端として厳しく弾圧します。指導者や信徒を宗教裁判にかけ火刑に処して鎮圧を図りますが、この運動の火はとくにライン川流域やボヘミヤなどヨーロッパ中央部に強く燃え上がり、それだけでなくイタリヤやフランス、オランダ、イギリスなどヨーロッパ中に広がります。この嵐のような運動が通り過ぎた地域では、秩序ある社会は崩壊し、田畑は放棄され、都市は焼かれるなど、悲惨な爪痕が残ることになります。

 中世後期の千年王国運動の多彩な諸相については、N・コーン『千年王国の追求』(江河徹訳・紀伊国屋書店)を参照してください。

宗教改革とピューリタン革命

 ルターが宗教改革の烽火をあげた一六世紀前半は、ここに見た中世後期の千年王国運動がその最後の炎を燃え上がらせた時期でもありました。ルターとほぼ同世代のトーマス・ミュンツァーは、初めはルター派の説教師として活動しますが、ボヘミヤの千年王国主義の思想に触れてルターから離れ、ヨアキムの終末思想からも影響されて、義人が不義なる者を武力で除いてキリストの支配を実現するという、おもに旧約聖書とヨハネ黙示録を典拠にした戦闘的千年王国主義に転向します。
 ミュンツァーの千年王国思想は、当時領主の搾取にあえいでいたドイツの農民を糾合して、大きな農民運動として展開し始め、ついには「農民戦争」を引き起こすに至ります。ルターはその動きに宗教改革を突き崩す危険を見て、ドイツ諸侯にその鎮圧を要請する文書を送るようになります。ミュンツァーもルターを反キリスト陣営の「獣」と呼んで激しく非難します。ローマ教皇を反キリストとして戦う点では共通していますが、ルターとミュンツァーは不倶戴天の敵となります。この農民戦争は諸侯によって鎮圧され、ミュンツァーは一五二五年に処刑されますが、宗教改革期にはアナバプティスト(再洗礼派)というさらに大きな改革運動の波の中から、過激な千年王国運動が生まれます。
 アナバプティスト(再洗礼派)は、スイスの改革者ツウィングリの周辺から、彼の改革をさらに徹底する運動として始まりました。ツウィングリによって福音的信仰に導かれた者たちの中から、その聖書原理(教会的伝統を否定して、聖書とくに新約聖書だけを規範とする態度)によって、ツウィングリがなお教会を市参事会のような世俗権力の支配下に置くのを批判して、自覚的な信仰者だけから成る使徒的な共同体を形成するため、幼児洗礼の効力を否定し、信仰を告白する成人が洗礼を受け直すことを求める声が出て来ます。これが「再洗礼派」の運動となって、スイスから南ドイツに広がります。
 再洗礼派の運動は本来、宗教改革を徹底させることによって使徒時代の信仰と教会の姿を回復しようとする運動であって、必ずしも千年王国主義とは関係がありませんが、一部にはその熱烈な聖書信仰と当時の終末待望の影響(ミュンツァーの弟子も活躍)から、再臨を強調し、千年王国主義を受け入れて過激な運動になる傾向もありました。再洗礼派はカトリックからもプロテスタントからも共通の敵として厳しく弾圧され、過酷な迫害を受けたために、その運動は一部で過激化し、革命的・戦闘的な形をとるにいたります。比較的再洗礼派に好意的であったドイツの都市ミュンスターに迫害を逃れて流れ込んだ多くの再洗礼派は、やがて市の実権を握り、市民に改宗を迫り、再洗礼を受けない者を処刑するなど、恐怖政治を行います。彼らはミュンスターをキリストの支配が実現する新しいエルサレムとして、神の守護を唱えて戦いますが、一五三五年にカトリックとルター派の連合軍に打ち破られ、多くの市民が殺戮され、指導者は残酷に処刑されます。
 このミュンスター事件は、アナバプティスト(再洗礼派)は過激な千年王国主義者であるという印象を後世に残しますが、本来の再洗礼派は宗教改革を徹底しようとした信仰運動であり、その穏健な形がメノー派やクエーカー派として現在まで存続していますし、次の世紀のピューリタン運動の先駆けとして、近代を切り開く重要な意義を担っています。
 改革者カルヴァンも、この時期に活躍した「霊の自由思想家」たちや千年王国主義的傾向の急進派と激しく論争し、彼らと戦っています。彼らがヨハネ黙示録を典拠として用いたのが理由となったのか、新約聖書全巻の厳密で詳しい注解を書いたカルヴァンが、ヨハネ黙示録の注解だけはついに書きませんでした。

 再洗礼派については、出村彰『再洗礼派―宗教改革時代のラディカリストたち』(日本基督教団出版局)を参照してください。なお、ミュンツァーと再洗礼派における千年王国思想(とくにミュンスター事件)については、それぞれコーンの前掲書12章と13章が詳しく取り扱っています。

 宗教改革の波はイギリスにも及び、一六世紀後半にはイギリスもローマカトリック教会の軛から離れプロテスタントの国となります。しかし、その改革は政治的な要素が強く、国王がイギリスの教会の首長を兼ねる国教会となります。多分にカトリック的な面を残す国教会制に対して、カルヴァンの流れを汲むプロテスタントたちはさらに徹底した改革を求めて国教会を批判します。こうして、大陸の再洗礼派のように宗教改革の徹底を求めて体制派の国教会と対立したイギリスのプロテスタントが「ピューリタン」と呼ばれるようになります。
 一七世紀に入るとピューリタンの間に千年王国思想が興ります。それは敬虔な学者のヨハネ黙示録の注解から始まります。初めは地上の千年期の後にキリストの再臨を期待する穏和な形のもの(ブライトマン)でしたが、国王側からの圧迫が強くなるにしたがって、近い将来の再臨の後に理想の千年期が始まるとする急進的な千年王国思想(ミード)になっていきます。さらに、当時すでに信仰の新天地を求めて新大陸に移住したピューリタンが多くいましたが、移住先のニューイングランドにもコトンのような強力な千年王国論者が現れ、本国のピューリタンを励まします。このようなピューリタンの千年王国主義は、当然のことながら宗教改革の中での思想として、ローマカトリック教会を反キリストとし、国王側からの迫害が強くなると国教会を反キリストとして戦うことになります。
 こうして、千年王国思想は国教会体制と戦うピューリタンの思想的原動力となっていきます。ピューリタン運動も、国教会の体制内で改革を志す「長老派」と、国教会から出て自分たちの理想を実現しようとする「独立派」に分かれますが、この独立派の中に強力な千年王国論者(グッドウィンら)が活動し、革命運動を牽引します。クロムウェルに率いられた独立派議会軍が勝利して、一六四九年に国王チャールズ一世を処刑するに及び、ピューリタンの革命運動は頂点に達します。このピューリタン革命は、政治的・社会的・経済的要因から観察されることが多いですが、千年王国思想を理念とした宗教的動機が重要な要因であったことが近年見直されています。
 ピューリタン革命は短命に終わり、一六六〇年には王政復古となります。その頃、「第五王国派」と呼ばれる千年王国主義者の過激な一派が武力蜂起しますが、失敗してこの派も衰退します。しかし、新旧イングランドのピューリタンの間に千年王国思想は生き続け、一八世紀後半のアメリカ合衆国の独立にさいしても指導的な理念となり、その後の合衆国のキリスト教の底流として今日まで連綿として流れ続けます。

 ピューリタン革命と千年王国思想との関係については、岩井淳『千年王国を夢見た革命―一七世紀英米のピューリタン』(講談社)を参照してください。

内村の再臨運動

 近代日本における内村鑑三の無教会主義運動も、宗教改革の徹底を求める運動と見ることができます。アメリカのピューリタン的な信仰を継承した内村は、信仰による義(十字架信仰)と聖書主義に立って、その信仰を純粋に近代日本に根付かせるため、欧米のキリスト教に付着した教派的立場から解放されたキリスト教を唱えて、無教会主義運動を展開します。
 その内村が運動の最後の時期になって、他の教派指導者たちと一緒に「キリストの再臨」を唱道する再臨運動を始めます。それまでほとんど再臨に触れなかった内村が、一九一八年になって急に再臨を唱えるようになった背景には、その年に終わった世界第一次大戦後の思想状況の変化があったのかもしれません。それは、それまでの楽観的な人類進歩の幻想が打ち砕かれ、神の終末的支配への待望が燃え上がった時期でした。
 しかし、何よりもこの時期に内村の内面に大きな変革が起こったようです。それは一人の熱烈な再臨信者のアメリカの友人が長年祈り続けてきたことの結果として、内村自身がその変革を上からのものとして自覚していました。そのことの重要性は内村がこの内面の変革を、まことの神の前に自分を罪人と自覚した第一の回心、シーリーのもとで十字架のキリストが自分の義であることを見出した第二の回心に次ぐ第三の回心としていることからも分かります。
 内村の再臨運動においては、千年王国主義は明確に否定されています。再臨運動が始まった一九一八年の二月に内村はその「聖書之研究」誌に「余がキリストの再臨について信ぜざる事ども」という文を発表し、キリスト再臨の日を計算することと並んで、黙示録二〇章の解釈としてキリストと聖徒が地上を支配する千年期を信じることを退けています。
 また、内村は再臨運動が一段落した一九二〇年に、「キリスト再臨の二方面」と題する注目すべき講演を行っています。内村は、キリスト再臨には内外の二方面があるとし、新約聖書の黙示録的部分(共観福音書やパウロ書簡の一部、とくにヨハネ黙示録)に描かれた再臨は外よりする再臨であって、われわれはこれを神の約束として信じるだけであるが、聖書は同時に(ローマ書八章などを引用して)「信者の中にすでに起これる霊の働きの外に現わるべきもの」という「内的再臨」について語っているとします。わたしたちの内に与えられている御霊は、わたしたちが終わりの日に栄光を受け継ぐこと(復活)の保証であり、わたしたちは内に再臨・復活の証明をもっているとします。あの再臨運動の熱気の中で、内村が「内的再臨」という面に注意を促したことは意義深いことです。
 この講演で、内村は再臨と贖罪の関係を重視して、再臨信仰の基礎に贖罪信仰がなければならないことを強調しています。また、再臨に、悪人に対する審判を告知する消極的な面と、信じる義人に栄光を与える積極的な面があることを描いて、信じる者には再臨は喜ばしい出来事であることを説いています。総じて内村の再臨信仰は、厳格な聖書主義に立ちながら、字句にとらわれず、その霊的内容をバランスよく受けとめて黙示思想を克服しており、十字架信仰の土台は揺るぐことなく健全な方向を指し示していると感じられます。

 内村鑑三の再臨信仰については、『内村鑑三信仰著作全集』(教文館)の13巻がよくまとめています。

 内村の再臨運動に協力した弟子の中で、藤井武はその後(一九二四年)黙示録研究をその個人誌に発表し、死の前年(一九二九年)から集会で黙示録の講義を行い、これを最後の聖書講義として天に召されます。藤井は創世記から始まり黙示録で終わる聖書全巻を一体の啓示として受け取るべきことを強調し、天地創造からキリスト再臨による完成までの救済の歴史を、「羔の婚姻」という壮大な叙事詩をもって描きます。彼はヨハネ黙示録の「小羊の婚宴」のイメージをもって救済史の全体を統合することになります。このように、宗教改革の徹底を追求する無教会運動は、藤井において黙示録の輝かしい復興を見せることになります。
 しかし、藤井は無教会主義の立場に徹し、千年王国を教会の時代と解釈したり、再臨後に地上に聖徒の支配が実現するとする千年王国主義をとることはありません。黙示録はあくまで霊的なエクレシアの終末待望の表現として理解されています。

 藤井武の「羔の婚姻」は、『藤井武全集』(岩波書店)の第一巻に収められています。最晩年の「黙示録講義」は、小池辰雄筆記で同全集第五巻に収められています。

ヨハネ黙示録と現代

「来臨」と「再臨」― 用語について

 ここまで長年のキリスト教世界の慣例に従って「再臨」( Wiederkunft, The Second Coming )という用語を用いてきましたが、実はこの語は新約聖書には出てきません。最初期には復活されたイエス・キリストが世界の支配者として栄光の中に現れる日が熱烈に待ち望まれていましたが、新約聖書ではそれはいつも《パルーシア》という語で語られていました。この語は、誰かがある場所に到着して、そこに居合わせることを意味する語で、「再び」という意味は含んでいません。この《パルーシア》は、日本語聖書では普通「来られるとき」とか「来臨」と訳されています。英語では His Coming です。わたしも「来臨」という訳語を用いてきました。
 ところが、イエスの地上の生涯は永遠のキリストが地上に降臨された出来事であるという受肉の信仰が形成されるに従い、将来に待ち望まれているキリストの来臨は、キリストが再び来られることだとして「再臨」という語が用いられるようになります。これは、イエスの生涯をキリストの降臨と理解する限り正しい用語です。しかし、「再臨」という語を用いて《パルーシア》を指すことになりますと、「再」という語の意味に引きずられて、その出来事を地上のイエスの出来事と同次元の出来事と理解する危険が生じます。すなわち、《パルーシア》をも栄光のキリストが歴史の中に現れて支配を開始されると理解する危険です。まさに千年王国思想はこのような「再臨」理解から出ています。
 しかし、《パルーシア》は時間と空間の枠の中で起こる歴史内の出来事ではありません。それはもはや時間と空間の枠を超えた終末を指し示す用語であり、歴史内の出来事であるイエスの出現と同じ次元で理解してはなりません。そのように理解する危険を避けるために、わたしは終末待望を語るときには、「再臨」という用語を避けるようにしています。「来臨」という訳語を使ったからといって、誤解がなくなるわけではありませんが、少なくとも「再臨」よりは誤解の危険が少なくなると考えています。
 では、現代のわたしたちは、ヨハネ黙示録に代表される新約聖書内の黙示思想的部分をどのように受けとめればよいのでしょうか。最後にこの問題を考察して、わたしたちの終末待望の中身を検討してみましょう。

来臨《パルーシア》の終末的性格

 ヨハネ黙示録は、その結びの部分(二二・六〜二一)で、複雑怪奇な幻を用いて語ってきた本書の使信を一言でまとめていますが、それは「然り、わたしはすぐに来る」という復活者イエスの使信であり、それに応える「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りと待望です。「わたしはすぐに来る」という宣言はこの結びで三回繰り返され、「来てください」という待望の祈りも三回繰り返されます。ヨハネ黙示録は「キリスト来臨」の書です。
 では、キリストの来臨《パルーシア》とはそもそもどういうことでしょうか。それは地上でわたしたちが経験することができる出来事、すなわち歴史の中での出来事でしょうか。時間と空間の枠の中でしか生きられないわたしたちの思考は、すべてのことをその枠内で考え表現しますが、キリストの来臨もその枠の中の出来事、歴史の中の出来事でしょうか。
 時間の中で起こる出来事には初めがあり終わりがあります。始まったものは必ず終わります。誕生で始まった地上の人生は死で終わります。神と人間の関わりを物語る聖書も、神が始めに天と地を創造し、その中に人間を創造して、その人間の救済と完成のための働きを開始されたことから始まります。そうして始まった救済の働きは、初めがある以上終わりがあります。バビロン捕囚の前後に輩出したイスラエルの預言者たちによって王国の終わりが語られると同時に、それを超えて諸国民の救済という終わりが語られるようになり、黙示思想に至って宇宙の終局が語られるようになります。イエスも世の終わりについて語られたと伝えられています。
 イエスは「人の子」というような黙示思想的な称号を用いて終わりの日のことを語られたとも伝えられていますが(マルコ福音書一三章など)、一方その日のことについて時間と空間の枠の中で考えることを禁止するような言葉も伝えられています。イエスは「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言っておられます。また、「神の国はいつ来るのか」という質問に、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものではない」とした上で、「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」と言っておられます(ルカ一七・二〇〜二四)。こちらの発言の方が終わりの日に関するイエスの本来の言葉ではないかと、わたしは考えています。
 稲妻の比喩は、「見える形では来ない」とか「その時はだれも知らない」という言葉と共に、終わりの日(終末)が時間と空間の枠の中の出来事ではないことを指し示しています。それは歴史の中の出来事ではありません。歴史とは別次元のものとして対立しながら、時々刻々歴史に襲いかかるように臨んでいる現実であると言えるのではないでしょうか。稲妻が突如闇の中にひらめいて地上のすべてを照らし出すように、終末は闇に隠された歴史の真相を照らし出して裁き、かつその意味を成就する原理として、つねに歴史に臨んでいるのです。時間と永遠が対立するように、歴史と終末は対立します。
 「来臨」《パルーシア》、すなわち栄光のキリストの支配が実現する時は、終末を言い表すシンボルであって、歴史の中の出来事ではありません。千年王国思想は、それを歴史の中の出来事とした誤りです。それは一つの文書の解釈の誤りというよりは、歴史と終末という異質の現実を混同した聖書理解の基本的な誤りです。
 このような《パルーシア》の終末としての本質を理解するとき、「来臨遅延」の問題はなくなります。来臨を歴史の中のある時点にあると期待するから、「遅延」の問題が起こります。その期待した時点に来臨がなかったとして、「遅延」が問題になります。しかし、《パルーシア》は本来時間を超えた終末に属することですから、遅延ということはありません。時はいつも終末に直面しています。

一つの光源と様々なスクリーン

 では、聖書の中にある黙示思想的な発言はどう理解すればよいのでしょうか。新約聖書の中でも黙示思想的な部分(その代表がこのヨハネ黙示録です)は、《パルーシア》が近いことを強調し、その様を特異な映像で描き出します。ヨハネ黙示録はそのような映像がぎっしり詰まっています。その映像を地上の歴史の中の事実だとすることは誤解です。それはあくまでわたしたちの内にある光が光源となって、外にある何らかのスクリーンに映し出している映像に他なりません。「来臨」《パルーシア》も、わたしたちの内にいます復活者キリストが光源となって、その光が歴史の終幕というスクリーンに映し出された映像です。歴史は時間内の出来事ですから、初めがあり終わりがあります。その歴史の終幕というスクリーンに映し出された復活者キリストの映像が《パルーシア》です。
 このことをもう少し具体的に説明してみましょう。パウロはローマ書八章で、キリストに属する者はキリストの御霊を内に宿して生きる者であるとし、その生き方を描いています。その後半部では、キリストにあって生きるゆえに受ける現在の苦難と較べて、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」の大きさを強調しています(ローマ八・一八以下)。その日のことは、「神の子たちが現れる」日と言われています。神の子としての栄光は現在の苦難の中に覆われ隠されているが、必ずそれが顕わになって現れる日が来ると確信し、その日を「切に待ち望んでいる」のです。
 ここで「現れる」とか「現れ(顕現)」という用語が繰り返し出てきますが、これはギリシア語原語では《アポカリュプシス》(およびその動詞形)です。これは、覆いが取り除かれて隠されていたものが現れることを意味する語です。実はこの用語でキリストの来臨が語られているところがあります。パウロは、コリントの集会に「あなたがたは、・・・・わたしたちの主イエス・キリストの現れ《アポカリュプシス》を待ち望んでいます」と書いています(コリントT一・七)。この用語が《パルーシア》を指しているのはここだけですが、その内容はローマ書八章で詳しく描かれていました。キリストにある者の「来臨待望」の本質はここにあります。すなわち、内にいます復活者キリストの栄光が、将来顕わになることを待ち望む現在の姿勢です。これは内村が「内的再臨」と呼んだことです。それはすでに内にあるのですから、将来の顕現は確かです。
 パウロやヨハネの時代のユダヤ教では、黙示思想が燃えさかっていました。そのような時代のユダヤ教徒が内なる栄光の終末の顕現を待ち望んで、それを言い表そうとするとき、彼らが内なる光を投影するスクリーンは黙示思想というスクリーンにならざるをえませんでした。そのスクリーンに映し出された映像を絶対化したり、歴史の中に持ち込むことは、誤りであり危険です。わたしたちは、彼らがその時代のスクリーンに映し出した映像の光源に注目すべきです。その光源はいつも同じです。それは復活者キリストの栄光です。聖霊によってわたしたちの内に宿る神の子の栄光です。

光源としての御霊の命

 わたしたちが新約聖書から受け取るべきものは、映像ではなく光源の方です。スクリーンは文化や時代によって様々に違いますから、そこに映し出される映像も違ってきます。新約聖書の範囲内でも、同じ光源が映し出す映像が大きく違っていることは、たとえばコロサイ・エフェソ書とヨハネ黙示録を較べるだけでも歴然としています。同じ復活者キリストの命に生きる場で成立した文書ですが、コロサイ・エフェソ書はその命の光をギリシア思想のコスモロジー(宇宙論)というスクリーンに投影していますから、もはや来臨という形の終末はなく、ひたすら霊界のキリストに満たされることを追い求めています。それに対してヨハネ黙示録は、その光をユダヤ教黙示思想のスクリーンに投影し、キリスト来臨の希望を時代に対する預言者的使信の映像の形にして、ローマ帝国による迫害に対抗しようとします。
 わたしたちも、同じ光を受けて、それをわたしたちの時代のスクリーンに映し出して、時代に語りかける映像を結べばよいのです。そのさい、現代はこういう時代であるから、そのスクリーンに映し出される映像はこのような形でなければならないと、一律に決めることはできません。たしかに現代には共通の世界観的な特色があります。しかし、キリストの命は具体的な一人ひとりの人間の中に宿るのですから、そこから発する光はその具体的な人間が置かれている文化的・歴史的・社会的環境によって彩られ、それぞれその人でなければ出てこない特色ある映像が現代のスクリーンに映し出されます。たとえば藤井武の『羔の婚姻』という叙事詩は、近代日本という特別の時代に、藤井の強烈な個性と結婚体験から出た、きわめて個性的な見事な映像です。
 《パルーシア》が映像であることを強調するのは、それが現実と無関係だと言っているのではありません。映像は言語と同じく現実を指し示す「しるし」です。それが指し示している本体こそ現実(真理)です。復活者キリストこそ光源であり、本体です。キリストという恩恵の場に働く聖霊によってわたしたち一人ひとりの内に始まった新しい命、この命が光源であり、そこから発する光が、一人ひとりの人生というスクリーンにキリストの映像を結びます。《パルーシア》は、歴史の終幕というスクリーンに映し出された復活者キリストの映像です。この光源とスクリーンの関係を理解することが、新約聖書の中の黙示思想的部分を正しく位置づけるのに重要であると考えます。

 黙示思想の位置づけの問題については、拙著『マルコ福音書講解U』155頁以下の「現在におけるパルーシア待望」の項、および拙著『パウロによるキリストの福音T』367頁以下の第八章二節と三節を参照してください。