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第四章 来臨待望と黙示思想

            ―― ヨハネ黙示録における終末待望 ――


            ( 本章で書名のない引用箇所はすべてヨハネ黙示録の章節をさします。)

はじめに

 前章(第三章「来臨待望の変遷」)で、エルサレム原始教団からパウロを経て、パウロ以後の時期に来臨待望がどのように変遷していったのかを概観しました。そこで見たように、パウロ以後の時期においては、コロサイ書・エフェソ書やヨハネ福音書のような、来臨待望にほとんど触れることなく、現在の霊的現実に集中する流れが表面に出てきますが、キリスト来臨への待望も底流として続いていたことが、テサロニケ第二書簡やヨハネ黙示録の存在によって確認されます。前章ではテサロニケ第二書簡によってこの底流の姿を見ましたが、今回はパウロ以後の来臨待望では代表的なヨハネ黙示録を取り上げます。
 ヨハネ黙示録は、その成立事情についても議論が多く、誰がどのような状況でこのような文書を書いたのかを確定することは困難です。その内容の理解(解釈)はさらに困難で、ほとんど象徴的表現だけを用いて書かれたこの文書は謎に満ちています。ヨハネ黙示録は、新約聖書の中でもっとも理解困難な文書です。ここでは、その詳細に立ち入ることは到底できませんので、パウロ以後の時期における来臨待望の証言として、その成立事情と内容を概観し、この時代に成立したこのような来臨待望の黙示録的文書を、現代のわれわれがどのように受けとめるべきかという問題に重点を置いて考察します。



第一節 ヨハネ黙示録の成立

成立場所

 ヨハネ黙示録の成立事情で確実に分かっていることは、その成立地域です。本書は、著者ヨハネから「アジア州にある七つの集会」に宛てられた手紙の形を取っています(一・四)。事実、本書の前半部(二〜三章)には、アジア州の州都エフェソを筆頭に、アジア州の七つの都市の名があげられ、それぞれの都市にある集会の実情に即した勧告が、手紙の形式で書き送られています。
 この事実からして、本書はローマ帝国のアジア州、すなわちエフェソを中心とする小アジア西岸の地域で成立し流布していたことは確実であると見られます。しかし、本書が実際に書かれた場所となると、パトモス島であるのか、エフェソであるのかが争われています。著者は、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」ときに、イエス・キリストの黙示を受けたと明言しています(一・九以下)。しかし、黙示を受けたパトモス島で本書を書いたのか、または、エフェソに帰ってパトモスで見た幻を文書にしたのかは確定できません。

 パトモス島は、ミレトス(エフェソから南へ40キロほどの都市)の西方50キロほどの沖合にある周囲約95キロの小島です。ローマ帝国はこのあたりの小島を政治犯の流刑地としていたとされています。
なお、ローマ属州の名称としては、正式には「アシア州」ですが、新共同訳もそうしているように、慣用に従い「アジア州」と表記します。

 しかし、執筆の場所はどちらでもよいことでしょう。重要なことは、本書が成立し流布した地域が、エフェソを中心とするパウロ系の諸集会の地域と重なっている事実です。本書は、「エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの集会」に書き送られています(一・一一)。この七つの都市は、エフェソとラオディキア以外は直接パウロ文書と使徒言行録には触れられていませんが、エフェソを取り囲むアジア州の近隣都市として(みなエフェソから150キロ圏内)、エフェソを拠点とするパウロと彼の協力者たちの活動によって、パウロ以後黙示録成立までの時期に集会が形成されたことが十分に推定できます。パウロ自身およびパウロの協力者たちの活動によって形成された集会群を「パウロ系諸集会」と呼ぶならば、この「七つの集会」はアジア州のパウロ系諸集会と呼ぶことができます。

 アジア州のパウロ系諸集会の成立については、拙著『パウロによるキリストの福音V』第一章第二節「エフェソでの活動」の中の「周辺地域への宣教活動」(44頁以下)を参照してください。この地域ではミレトスやコロサイにもパウロ系の集会があったことが知られています。ヨハネ黙示録がこの七つの集会に限定した理由は、推測の域を出ませんが、七という数字に完全数という象徴的な意義を担わせている著者が、七にこだわったからだと見ることができます。そのさい他の都市ではなくこの七都市が選ばれたのは、これらの都市が裁判所の所在地であって、ローマ帝国官憲の皇帝礼拝の圧力が強かったからだとする見方もあります(NTD)。あるいは小集会を格上げして独立集会として数えて七としたとか、著者が実際に関わりのあった集会が選ばれたと見ることもできます。

 エフェソには、イエスの年若い弟子であったヨハネが晩年に移住してきて活動し、ヨハネ福音書を生み出すなど、この弟子を中心に「ヨハネ共同体」が形成されていたと考えられます。それで、ヨハネ黙示録がパウロ系諸集会とヨハネ共同体の両方にどのように関わるのかが問題になってきますが、「ヨハネ共同体」についてはその性格やパウロ系諸集会との関係が明確には分かりませんので、答えることが難しい問題です。この問題は後の「ヨハネ黙示録とヨハネ共同体」の項で取り扱いますが、いずれにせよヨハネ黙示録の存在は、ここに名をあげられたパウロ系諸集会があった地域に、熱い来臨待望があったことを証言しています。

成立年代

 ヨハネ黙示録の成立年代について最も古くて重要な証言は、一八〇年頃に書かれたエイレナイオスの『異端論駁』です。その中でエイレナイオスは、ヨハネがドミティアヌス帝(在位81〜96年)の終わりの頃、すなわち95年前後にパトモスで幻を見たと伝えています。他の時代だとする伝承もありますが、このエイレナイオスの証言が古代教父たちの一般的見解となり、エウセビオスも『教会史』でこの証言に従っています。
 ヨハネ黙示録の内容からその成立年代を決めることは困難です。しかし、バビロン崩壊への言及(一四・八、一六・一九など)から、七〇年のローマ軍によるエルサレム破壊以後であることは確実だと、一般に見られています。エルサレムを破壊したローマが、昔エルサレムを破壊したバビロンを暗号として指示されていると見られるからです。
 ただ、七〇年以後のどの時期かとなると、決定は困難になります。よく一七章九〜一〇節の「七人の王」の記事から、「今王の位についている」ローマ皇帝を特定しようとする試みがなされますが、この記事の解釈は様々な可能性があり、この記事から年代を決定するのは困難です。ある人物を指すとされる「六百六十六」という数字(一三・一八)も、その人物を特定して年代を決定することは、きわめて困難です。
 全体の内容からすると、古代教父以来伝統的に受け入れられているドミティアヌス帝末期の成立と見ると、内容と状況がもっともよく適合すると考えられます。前章の「パウロ以後の来臨待望」の項で、ドミティアヌス帝の迫害とヨハネ黙示録の成立について見たように、著者ヨハネは、アジア州で自分を「主また神」として拝むように求めたドミティアヌスの命令に抵抗したためにパトモスに流刑されたと見ると、ローマ帝国に対する激しい批判を示している本書の表現や内容がもっとも自然に説明できます。
 また、二〜三章に見られる「七つの集会」の現状も、パウロの活動直後の集会が若々しい時期よりも、四〇年ほど経った95年前後と見る方が、霊的高揚の低下や不健全な教えの浸透など、よく適合します。
 いずれにせよ、本書はパウロの活動からかなり経った時期に、アジア州のパウロ系諸集会が活動する地域で、皇帝礼拝の要求によって生じた迫害により困難な状況にあった信徒を励ますために書かれた文書であると言えます。

著者ヨハネ

 著者は自ら「ヨハネ」と名乗っています(一章一、四、九節)。ところが、「ヨハネ」という名はユダヤ人男性の間ではごく普通にある名前で、新約聖書にも多くの「ヨハネ」が登場します。洗礼者もヨハネですし、十二使徒の中にも「ゼベダイの子ヨハネ」がいます。それに、「イエスが愛された弟子」も、彼が指導した共同体が生み出した福音書が「ヨハネ福音書」と呼ばれていることから、「ヨハネ」という名であったことが推察され、普通そう呼ばれています。そこへ本書の著者ヨハネが登場します。それで、後の時代にこの四人の同名の人物(実際には洗礼者ヨハネを除く三人のヨハネ)が混同されて、複雑な「ヨハネ問題」を引き起こすことになります。以下論述の便宜上、十二使徒の中の一人であるゼベダイの子ヨハネを「使徒ヨハネ」、イエスが愛された若い弟子で、後にヨハネ福音書を生み出した共同体の指導者となった人物を「長老ヨハネ」、そして本書の著者を「預言者ヨハネ」と呼ぶことにします。

 ヨハネ福音書とその「著者」ヨハネについては、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』の附論『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。その附論で述べたように、この人物は彼が指導した共同体では「長老」と呼ばれていました。「イエスが愛された弟子」と「長老ヨハネ」は同一人物と見て、ここでは「長老ヨハネ」を用います。なお、ヨハネ黙示録の著者を「預言者ヨハネ」と呼ぶ理由は、後の「文書の性格」の項で扱います。

 新約聖書の中にある「ヨハネ」の名を冠した五つの文書、すなわちヨハネ福音書と三通のヨハネの手紙およびヨハネ黙示録は、現代でも「ヨハネ文書」という呼び方で一つのグループとして扱われることが多いようです。古代ではこの「ヨハネ」の名を冠する五つの文書をみな「使徒ヨハネ」の著作として扱う傾向がありました。それは、形成期の教会が、正典として受け入れた文書を権威づけるために、使徒の著作だとする必要また願望があったからだと考えられます。ヨハネ黙示録も長らくヨハネ福音書と共に「使徒ヨハネ」の著述だとされてきました。
 古代教会で最初にヨハネ福音書とヨハネ黙示録が同一の著者ではありえないことを主張したのは、三世紀の半ばにオリゲネスの後継者となったアレクサンドリアのディオニュシオスです。事実、福音書と黙示録では、その用語と思想内容があまりにも違い、同一の人物の著述と見ることは困難です。両書が別人の著作であることは、現代では研究者の間では通説になっていると言えるでしょう。

 ヨハネ福音書とヨハネの手紙も、同一の著者かどうかが争われていますが、その用語も思想内容も同一線上にあり、同じヨハネ共同体において成立した文書として、「ヨハネ文書」という名でまとめることができます。しかし、ヨハネ黙示録もはたしてヨハネ共同体で成立したものかどうかは問題が残り、「ヨハネ文書」とは別に扱われるようになっています。ただ、ヘンゲルのように、黙示録を60年代末とし、福音書を90年代と見て、三〇年の隔たりと状況の違いから、両書が同一著者か、そうでなくても同じ共同体に属するものでありうると主張する研究者も
あります。ヨハネ黙示録とヨハネ共同体の関係は、次の項で改めて取り上げます。

 現代では、ヨハネ福音書が使徒ヨハネの著作ではないことは、研究者の間ではほぼ常識となり、「弟子ヨハネ」とか「長老ヨハネ」と呼ばれる人物によって形成された共同体(ヨハネ共同体)が、この人物の証言とか説教を基にして生み出した作品であると見られるようになっています(ヨハネ二一・二四)。そして、ヨハネ黙示録は、この福音書の「著者」とは別の、ヨハネという名の預言者的人物(使徒ヨハネではない)によって書かれたと見なければなりません。

ヨハネ黙示録とヨハネ共同体

 パウロ系諸集会が活動したエフェソを中心とするアジア州の地域には、ヨハネ共同体も形成されていたことが知られています(拙著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』参照)。ではパウロ系諸集会とヨハネ共同体がどのような関係に立っていたのかという問題は、ヨハネ「共同体」がどのような性格の共同体であったのかが確認できないので、難しい問題です。パウロ系諸集会はアジア州各都市で、監督とか奉仕者などを有する、ある程度組織化された集会の形態をとっていたと考えられますが、ヨハネ共同体はそれと競合するような別の集会や組織として活動したのではなく、指導者である「長老ヨハネ」(「イエスが愛された弟子」の晩年の呼び方)のカリスマ的な説教を慕う者たちの開かれた交わり《コイノニア》ではなかったかと推察されます(ヘンゲル)。
 その地域で「預言者ヨハネ」が活動します。当然その活動はこの地域のパウロ系諸集会に及びますが、同時にヨハネ共同体とも深く関わることになります。この「預言者ヨハネ」は、原始キリスト教の預言者集団に属する指導的な一員ではないかと見られます(二二・九)。この預言者集団はもともとパレスチナで活動していたのですが、ユダヤ戦争のときパレスチナを逃れてエフェソに移住してきたものと推察されます。ヨハネ黙示録の用語や思想の背景は、明らかにパレスチナのユダヤ教を指し示しています。

 この預言者集団は、ローマ軍によるエルサレムの徹底的な破壊を体験しているのではないかとも推察されます。一一章一〜二節に引用されている預言は、ユダヤ戦争の末期に神殿前庭がすでに占領され、ユダヤ人は内側の神殿域に立てこもって抗戦し、なおも神の奇跡を待ち望んでいた時期のものである可能性があるとされます。この預言者集団は、ローマ帝国の殲滅的な力を知っているようです。

 ユダヤ戦争は多くのユダヤ人難民を生みました。その中で、パレスチナからエフェソなどアジア州諸都市に移住した難民も多くいました。ユダヤ人はすでにディアスポラとしてこれらの諸都市に暮らしていましたから、パレスチナからのユダヤ人難民が移住してきたのも了解できます。その移住の波の中には、預言者ヨハネのグループだけでなく、ヨハネ共同体を指導した「長老ヨハネ」とそのグループがあり、福音宣教者フィリポの群れも見られます(フィリポとその娘たちはアジア州に葬られたという伝承があります)。
 これらのパレスチナからの移住難民は、その思想的傾向は異なっていても、同じ根っこから出た者として共通の宗教的伝統の中にあります。それがヨハネ福音書とヨハネ黙示録との共通点として現れているのではないかと考えられます。たとえば、福音書(一・二九)も黙示録(五・六他多数)もキリストを「神の小羊」と呼び、また「神の言葉」と呼んでいます(福音書一・一、黙示録一九・一三)。その他、命の水のモティーフ(福音書四・一〇以下、黙示録七・一六〜一七、二一・六)など、共通するイメージが用いられています。
 このような共通点は、両者が同じ宗教的伝統から出たものであることを推察させますが、ヨハネ黙示録がヨハネ共同体に属する文書である根拠とするには不十分です。福音書を生み出した長老ヨハネのグループと黙示録を書いた預言者ヨハネのグループが別であっても、同じ地域で活動する同じパレスチナからの移住難民として、外部の人たちからは一まとめにして扱われ、後の時代に新約正典が形成される過程ですべて使徒ヨハネの著作と見なされ、「ヨハネ文書」として正典化されたと見られます(タイセン)。したがって、ヨハネ黙示録がヨハネ共同体の文書である可能性は否定はできませんが、確認もできないので保留のまま、ここではその内容を検討していきます。

文書の性格

 著者が使徒ヨハネでないことは、この文書の内容からも確認できます。著者は、天から降る都について、「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(二一・一四)と書いていますが、「十二使徒」がエクレシアの土台とされるのは、使徒たちの時代からかなり時間が経った時期のことで、エフェソ書などの見方と同じです。
 エフェソ書(二・二〇)では、神の民は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」と言われています。著者ヨハネは自分を預言者とは称していませんが、自分が見た幻の証言を「預言」とし(一・三、二二・七、二二・一〇)、その「預言」の神的権威を主張しています(二二・一八〜一九)。わたしたちは、このヨハネ黙示録に初期のエクレシアにおける預言者の活動の実例を見ていることになります。
 初期のエクレシアにおける「預言者」には二つの型があったと見られています。一つは特定の集会に所属し、その集会の中で活動する預言者で、そのような預言者とその活動はすでにパウロのコリント第一書簡(一二章と一四章)にも扱われています。彼らはその都市に定住していたと見られます。
 もう一つの型は、特定の集会に止まらず、集会から集会へと巡回して、ある地域の諸集会に自分が受けた啓示を語り、教えを説いて回った預言者です。このようなタイプの預言者が活動していたことは、二世紀初頭の文書と見られる『ディダケー』にも描かれています。
 この黙示録の著者ヨハネは、エフェソを拠点にして、ここに名をあげられている周辺のアジア州諸都市を巡回して預言活動をしていた指導的人物と見られます。この地域で預言者としての彼の権威は確立していたようです。彼はこれらの諸都市にある集会の霊的現状をよく知っています。そして、それぞれの集会にあてた手紙で、その現状にふさわしい警告や勧告をすることになります(二〜三章)。
 このようにエフェソを中心とするアジア州の諸集会で指導的な活動をしていた「預言者ヨハネ」は、この地域で盛んになってきた皇帝礼拝の要求を拒否したために裁判にかけられ、流刑の判決を受けて、アジア州の沖合の孤島パトモス島に流されたと見られます。ヨハネがパトモスにいたのは、流刑ではなく、福音の宣教のためであるとか、祈りと瞑想のためであるとする見方もありますが、やはり古代教父たちが伝えているように、流刑によると見るのが適当でしょう。著者は「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(一・九)と言っていますが、この「のゆえに」《ディア》という前置詞は、本書では常に原因とか理由を示す意味で用いられており、目的とか意図を指すことはありません。何よりも本書の内容全体が、著者およびこの地域の諸集会がローマ帝国から激しい迫害を受けていることを示しています。

 流刑は貴族とか身分の高い者への刑だとされています。一般市民とか奴隷であれば鉱山などでの労役刑が課せられました(パトモスには鉱山などはないようです)。それで、このヨハネはエルサレムの名門貴族祭司階級の出身であるという見方の根拠ともされます(ヘンゲル)。

 預言者ヨハネは、孤島パトモスで強烈な霊的体験を与えられます。それは様々な幻を伴う啓示体験であって、彼はそれを巻物に書き記して七つの集会に送るように命じられます(一・一一)。著者はそれを、パウロ以来指導的な立場の者が集会に語りかける形式として定着していた書簡の形で書き送ります。本書は、「ヨハネからアジア州にある七つの集会へ。・・・・イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」という書簡の書き出しで始まり(一・四〜五)、「主イエスの恵みがすべての者と共にあるように」という書簡の結びの言葉で終わります(二二・二一)。本書は全体として、預言者ヨハネからアジア州にある七つの集会に宛てられた書簡です。

 本書での《エクレーシア》の用例は一〜三章に集中しており(二二・一六に一例)、すべて個々の集会 congregations を指しています。コロサイ書やエフェソ書に見られるような、単数形でキリストの民全体を指すような用例はありません。本稿では《エクレーシア》は「集会」と訳して用います。

 最初に個々の集会の実情に即した警告と勧告の書簡が七つ置かれます(二〜三章)。その後(四章以下)、啓示の本体である「すぐにも起こるはずのこと」が多彩な幻によって語られます。この一人称で語られている書簡の本体部分(一・四〜二二・二一)の前に、本書の性格を説明するような、三人称で書かれた「序文」が置かれています(一・一〜三)。この「序文」は、預言者ヨハネの書簡が諸集会に回されて朗読されるさいに、第三者によってつけられた可能性が考えられます。この「序文」の最初にある「イエス・キリストの黙示」という句が本書の標題となり、「黙示」という語が本書の性格を決定的に表現する語となります。本書は、初期キリスト教における黙示文書の一つの実例であり、「黙示録」と呼ばれることになります。

ユダヤ教黙示文書との関係

 「黙示」と訳されている原語は《アポカリュプシス》です。《アポカリュプシス》という語は、覆いを取り除いて、覆いの下に隠されているものを顕すという意味の語です。「啓示」と訳してもよい語です。したがって、この語は「隠されているもの、秘密にされているもの」の存在を前提しています。この「隠されているもの、秘密にされているもの」が、宗教文書では《ミュステーリオン》(秘密、奥義、秘義)と呼ばれます。
 この《ミュステーリオン》(天界とか神の御旨の中に隠されている奥義)を明らかにする《アポカリュプシス》(啓示、黙示)であると主張する宗教文書は、すでにユダヤ教に多くの先例があり、ダニエル書を初めとするそれらの文書は「ユダヤ教黙示文書」と呼ばれています。このヨハネ黙示録はその流れの中にある文書(同じ系統に属する文書)であることは明らかです。

 ユダヤ教黙示文書については、拙著『パウロによるキリストの福音T』369頁「黙示思想の成立」を参照してください。

 典型的なユダヤ教黙示文書であるダニエル書と比較すると、それとの異同を通して、このヨハネ黙示録の性格がいっそう明確になると思います。まず、両者の成立の状況と執筆意図がたいへんよく似ています。ダニエル書は、前二世紀の半ばにセレウコス王朝のアンティオコス四世エピファネスが、支配領域のヘレネス化を強行しようとして、ユダヤ教を禁圧し、異教の神々を礼拝することを強要したとき、父祖以来の信仰に熱心な「ハシディーム」(敬虔な人々)がそれに抵抗して、激しい弾圧を受けます。その迫害の中にある信徒を励ますために、預言者的な信仰の人物が、迫害者に対する神の裁きと、信じ抜く者に対する救済の時が近いという「奥義」(神の御旨の中に隠されている計画)を書き記したものがダニエル書です。これは、これまでに見てきたように、ドミティアヌス帝の皇帝礼拝の要求に対する抵抗と迫害という状況でヨハネ黙示録が書かれたのと同じ状況であり、同じ目的であると言えます。黙示文書は、迫害や苦難の状況という場で生まれる思想であり文学です。
 書き方もよく似ています。黙示文書は、迫害下にある状況から、迫害者を名指しすることは避けて、獣などの象徴的な姿で暗示しながら、やがて直ぐにも起こるはずの神に敵対する者への裁きと義人の救済や栄光を、夢や幻という形で語ります。ユダヤ教黙示文書は謎や象徴的な表現で満ちています。ヨハネ黙示録も同じような象徴的表現を用います。著者はユダヤ教黙示思想の伝統の中で育ち、その用語法に習熟している学識あるユダヤ人信仰者であると見られます。しかし、ユダヤ教黙示文書によく見られる(天使らによる)言語的な説明や解釈が少なく、視覚的象徴表現だけで劇的世界を構成する手法が他のユダヤ教黙示文書と違います。

 著者はユダヤ教黙示思想に精通しているだけでなく、当時の古代世界の占星術的宗教や神話にも詳しい学識人で、その分野の伝承をも活用しています。ヨハネ黙示録の解釈にあたっては、この両方面を含む宗教史的背景が考慮されなければなりません。

 何よりも両書は思想の枠組みが共通しています。両書とも、現在は神に敵対する勢力が力を振るって義人(神に所属する民)を苦しめているが、やがて直ぐに神が裁かれる時が来て、迫害者は裁かれ、義人は栄光を受けるという、同じ確信と待望で書かれています。すなわち、現在と将来という時間の枠組みを基本的枠組みとする思想であるという点で共通しています。

 時代の転換を語るのに、ユダヤ教黙示文書は「今の《アイオーン》」と「来るべき《アイオーン》」とか、よく《アイオーン》(時代)という用語を用いましたが、ヨハネ黙示録では《アイオーン》は、「永遠から永遠に」という慣用的な用法に出てくるだけで、時代の変換を示す用例はほとんどありません。しかし、現在の時代と来るべき時代の対立という構図は同じです。

 このように、ヨハネ黙示録はユダヤ教黙示文書と同じ性格の文書と見ることができる面があります。しかし、性格が似ていることに目を奪われて、その内容に決定的な違いがあることを見逃してはなりません。
 まず、著者は自らヨハネと名乗り、偽名を用いていません。ユダヤ教黙示文書はみな、ダニエルとかエノク、エズラなど、過去の有名な人物の名を用いて書かれた「偽名文書」です。たとえば、前二世紀半ばに書かれたダニエル書は、四百年ほど前のバビロン捕囚期の伝説的人物であるダニエルによって書かれたとされています。昔の人物が書いたとすることによって、著者は自分の時代までの出来事が、過去の人物によって預言されていた通りに起こったとすることができます。すなわち「事後予言」を用いることができます。そうすることによって、著者がこれから起こることとして語る内容を保証します。
 それに対して、ヨハネ黙示録の著者は自分の名で書いています。したがって事後予言を用いることなく、自分に与えられた幻によって、自分の責任で「これから起こること」を予言します。それは、黙示文書よりもむしろ旧約聖書の中の預言書に近い性格です。著者はユダヤ教黙示文書だけでなく、それ以前にユダヤ教伝承の根幹をなす旧約聖書の預言書に精通していて、それを自分の血肉としていたことが、その著作から十分うかがえます。著者は、旧約の預言者が召命体験を語るように、自分の霊的体験を語り(一章)、そこから現在の諸集会への警告と勧告を語り(二〜三章)、続いて「すぐにも起こるはずのこと」を語り出します(四章以下)。
 さらに決定的な違いは、ユダヤ教黙示文書が救済を将来のこととして、ひたすら未来に目を向けているのに対して、ヨハネ黙示録はイエス・キリストにおいて救済がすでに成就したことを宣言し、その上でキリストの来臨(再臨)による完成を望み見ています。黙示思想にとって決定的な時は未来にありますが、著者ヨハネにとって決定的な時は、十字架と復活のキリストによってすでに到来しています。ダニエル書では幻は遠い未来に関わり、啓示の言葉は現在では秘められ封じられなければなりません(ダニエル一二・四、九)。それに対してヨハネ黙示録では、今その時が来ているのですから、啓示の言葉は秘密にせずに告知するように求められます(二二・一〇)。これは、なお黙示思想的用語で将来の完成を語りつつも、すでに起こったキリストの十字架と復活を終末的救済の出来事として宣べ伝えたパウロと同じ線上にあります。黙示思想における現在と未来の悲劇的断絶は、福音においてはキリスト信仰によって克服されています。
 このように本書は、終末的救済者としてすでに到来しておられるキリストが、どのようにしてその働きを完成して栄光を顕されるのかを語ることになります。そのキリスト使信の内容は、次節の「ヨハネ黙示録のキリスト使信」で扱うことになります。
 ただ本書の表現は黙示文書特有の謎や象徴的表現に満ちていますので、その解釈は議論が多く、その意味を確定することはしばしば困難です。その一つ一つの議論に入ることは到底できませんので、ここでは全体の要旨をつかむことに限定します。