市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第8講

第三節 エフェソ書の位置と意義

ユダヤ教からの距離

 エフェソ書の位置と意義については、先にコロサイ書の講解の最後に書いた「コロサイ書の位置と意義」とほぼ同じことが言えます。コロサイ書に強く依存し、コロサイ書と同じ信仰思想に立つエフェソ書(同じ著者の可能性も捨てきれません)は、コロサイ書がそうであったように、キリスト信仰がユダヤ教から分離独立していく過程の第三段階に属しています。すなわち、キリスト信仰が完全にユダヤ教の外に出てしまっており、もはやユダヤ教律法は問題になっていません。著者ははっきりと「キリストは律法を無効にされた」と宣言します(二・一五)。

 キリストの福音がユダヤ教の枠を越えて異邦世界に拡大する過程を三つの段階で描いている図式とその説明については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』436頁を参照してください。パウロはその第二段階に属していますが、コロサイ・エフェソ書は第三段階になります。

 コロサイ書に較べると、旧約聖書への引照が多くなっていることや死海文書への類似が見られることから、著者がユダヤ人であるという推察もなされることがありますが(たとえばEKKのシュナッケンブルグ)、この事実は異邦人であっても長年の信仰生活の中で聖書に親しんできたことや、集会に入ってきたエッセネ派ユダヤ人の影響から説明ができるので、著者がコロサイ書の場合と同じくヘレニズム世界に深く呼吸している異邦人であると見ることを必ずしも妨げません。
 エフェソ書のこのような位置から、ユダヤ教律法の問題と格闘したパウロの場合とは違い、著者はもはやユダヤ教律法との関係に煩わされることなく、もっぱら異邦人信徒がエクレシアの外の異教世界にどのように対処したらよいかという問題に集中することができます。この状況は現代の状況に近く、現代のキリストの民がパウロ書簡よりもエフェソ書の方に親近感を覚えることが多い理由です。
 もはやユダヤ教律法をキリスト者の倫理の源泉とか基準にすることができない状況で、パウロの場合は明確に聖霊による生き方が倫理の源泉とされていた(たとえばガラテヤ書五章)のに対して、エフェソ書になると聖霊への言及はそれほど明確ではなく、キリストにある新しい生き方が、世間一般の人々との対比で「光の子」という象徴的な標語で指し示めされるようになっています。しかし、終わりの日を前にして「贖いの日のための保証」である聖霊を悲しませるような振舞いをしないように(四・三〇)という形で倫理の動機付けがなされており、パウロ的な終末の場での聖霊による倫理の枠組みは維持されています。

《エクレーシア》と「教会」

 同じようにヘレニズム世界での宇宙論的なキリスト理解に立ちながら、エフェソ書がコロサイ書からさらに一歩を進めている点は、本文の講解で繰り返し見てきたように、キリストの民《エクレーシア》がキリストの充満体、神の奥義の充満体であるという理解です。著者はこの《エクレーシア》論を中心に据えて、キリストにおける救済を語っています。このエフェソ書の《エクレーシア》理解は、後のキリスト教の歴史、とくにその教会論に巨大な影響を及ぼすことになります。
 しかしここで、エフェソ書のいう「御民」と、その後の歴史の中で成立したキリスト教の「教会」とは直ちに同じものではないということに留意する必要があります。日本語訳はほとんどみな、エフェソ書の《エクレーシア》を「教会」と訳していますので、両者の混同は避けられないようです。

 キリストの福音あるいはキリスト信仰とキリスト教という宗教の違い、またキリストの民《エクレーシア》とキリスト教会との違いについては、拙著『教会の外のキリスト』の「序章 教会の外のキリスト」および「終章 キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

 キリストの民も地上で歴史の中を歩む以上、共同体としての制度化は避けることはできません。キリストの民の共同体は、その後の歴史の中で、信条と教義を掲げ、洗礼や聖餐の儀礼を行い、聖職者の組織をもつ制度となっていきます。その制度的共同体が「教会」と呼ばれ、そこに表現されている宗教が「キリスト教」と呼ばれるようになります。その中での御霊による交わりは《エクレーシア》そのものですが、その《エクレーシア》の容れ物(容器)となっている「教会」は直ちに《エクレーシア》ではありません。
 「キリストにあって」という場における御霊による交わりは、そこにキリストが現れてくださるキリストの充満体です。しかし、その交わりを入れている容器である「教会」は、歴史的状況に制約された相対的な制度にすぎません。相対的な制度に過ぎない「教会」を絶対化して、その制度(教義や祭儀)に従うことを強要し、従わない者を排除・迫害するならば、その「教会」は《エクレーシア》の敵対者になっています。キリスト教会の歴史は、そのような教会の絶対化とそこから発する対立抗争で血塗られた歴史となりました。
 エフェソ書は《エクレーシア》をキリストの充満体として絶対化していますが、それを「教会」の絶対化と混同してはなりません。むしろ、《エクレーシア》の絶対性の視点から、歴史的教会の相対性を認識する必要があります。それができるとき、エフェソ書は「教会」を絶えず内から変革して、神の奥義の充満体にふさわしいキリストの民の共同体にしていく拠点となるでしょう。

正典におけるエフェソ書の位置

 最後に、新約聖書正典の中におけるエフェソ書の位置について触れておきます。
 エフェソ書は、ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書という、いわゆるパウロの四大書簡の直後に置かれ、それ以後の小書簡群の先頭に立っています。四大書簡もその後の小書簡群も、それぞれ長さの順に配置されているのに、ガラテヤ書よりも長いエフェソ書がガラテヤ書の後に来ている事実に注目して、G・タイセンは次のような分析の結果、「エフェソの信徒への手紙は初めからパウロの手紙の結集を意図して、そのために構想されたということがあり得る」としています。

 「エフェソでパウロ書簡集が最初に結集されたとき、それは長さの順にまとめられた四大書簡の集成であった。この元の収集の第二版が作られたとき、やはり長さの順にコロサイ書、フィリピ書、テサロニケTとU、フィレモン書が付録として加えられた。その時、この付録部分への導入としてエフェソ書が起草され、先頭に置かれた。だからガラテヤ書よりも長いが、その後に置かれることになる(マルキオンの聖書はこの段階の一〇書簡をパウロ書簡としている)。さらに、その後に第二の付録として牧会三書簡が加えられた(そのさい、一番短いフィレモン書が最後に回された)」。― G・タイセン『新約聖書』(大貫隆訳・教文館)201頁以下。( )内は筆者の解説。なお、パウロ書簡の収集活動とエフェソ書の関係については、拙著『パウロによるキリストの福音V』の293頁以下「第二節 パウロ書簡集とオネシモ」も参照してください。

 このように見ると、エフェソ書がパウロの福音の要約としての性格を見せていることが諒解できます。この性格が、ヘレニズム時代とよく似た様相を見せている現代において、パウロを慕う者たちにエフェソ書への親近感を感じさせる所以でしょう。