市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第5講

第三節 コロサイ書の位置と意義

 先に見たように、著者が律法とか義とか義認について関心がなく、聖書を引用したり参照したりすることもなく、キリストの出来事も救済史的にではなく、宇宙論的に見られているという事実は、著者がユダヤ人ではなく、異邦人であることを示唆しています。パウロはヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)であり、ギリシア文化に深く同化していましたが、やはりユダヤ人として、それも律法(ユダヤ教)に熱心なファリサイ派ユダヤ教律法学者としての育ちから、パウロの福音にはユダヤ教の救済史的枠組みがしっかりとあり、パウロはその枠組みの中でキリストを語っていました。ところが、パウロの弟子であるコロサイ書の著者は異邦人として、その思想に律法とか救済史というようなユダヤ教の枠組みはなく、むしろ自分が生まれ育ったヘレニズム世界の宇宙観の枠組みの中でキリストを語るようになっています。パウロはキリストの福音を、ユダヤ教の堅い壁を打ち破って異邦人にもたらした最大の貢献者ですが、パウロの弟子の著者の代になって、キリストの福音はさらに一歩ユダヤ教から離れ、ヘレニズム世界の宗教へと転進していったと言えるでしょう。その方向の先にヨハネ福音書の序詩のようなロゴス・キリスト論が出現します。
 パウロと著者の間の差異は、パウロがユダヤ人であり著者が異邦人であるという理由だけでなく、年代的にパウロと著者の間にはエルサレム神殿の破壊という大事件があることを念頭に置かなければなりません。エルサレム神殿崩壊以前に活躍したパウロは、イスラエルを中心とする救済史の枠組みを前提にして語っています。それは、まずメシア・キリストによってイスラエルに対する神の約束が成就し、救われ完成されたイスラエルに異邦諸民族が参与するという形で世界に神の支配が実現するという構想です。パウロが(現実のイスラエルの不信にもかかわらず)そのような救済史を確信していたことは、ローマ書の九〜一一章に熱く語られています。
 それに対してコロサイ書の著者の時代は、すでにエルサレム神殿は破壊され、その出来事は不信のイスラエルに対する神の裁きであると受け取られていたので、救済史は「異邦人の時代」に入っていると理解されるようになっていました(ルカ二一・二四)。すなわち、神の救済の担い手は、イスラエルとは別に異邦人からなる民《エクレーシア》に移っているという理解です。その異邦人のキリスト理解がこのコロサイ書で表明されていることになります。

 キリストの福音がユダヤ教の枠を越えて異邦世界に拡大する過程を三つの段階で描いている図式とその説明については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』436頁を参照してください。パウロはその第二段階に属していますが、コロサイ書は第三段階になります。その第二段階と第三段階を画する事件がエルサレム神殿の崩壊です。

 このように、コロサイ書がパウロ以後の時代に属するからといって、その価値を減じるものではありません。コロサイ書は、パウロがいなくなった後も、パウロの福音がヘレニズム世界にしっかりと根付いて展開している姿を見させてくれます。そして、その後のキリスト教は、パウロよりもむしろコロサイ書のキリスト信仰の線で進むことになります。同時に、著者がパウロを神の奥義を委ねられた使徒としていることによって、パウロの救済史的なキリスト信仰は維持され、後にパウロ系共同体の地盤である小アジアに、エイレナイオスのような救済史神学が形成されることになります。