市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第3講

第一章 ヘレニズム世界における福音

            ―― コロサイ書におけるキリスト ――


            (本章で書名のない引用箇所はすべてコロサイ書の章節をさします。)




第一節 コロサイ書の成立

著者問題 

 パウロ系集会の中心地となったアジア州で生み出された「パウロの名による書簡」に、コロサイ書とエフェソ書があります。この両書には共通点が多く、強い依存関係が推定されます。おそらくエフェソ書がコロサイ書を拠り所にして書かれていると見られますので(その理由はエフェソ書を扱う時に触れます)、まずコロサイ書を取り上げます。
 コロサイ書はパウロの名によって書かれていますが、用語と文体、および思想内容からして、パウロ自身の手になるものと受け取ることが困難です。その理由は次の三つにまとめられます。

1 用語と文体

 用語については、他のパウロ書簡に用いられていない用語が87語に達しますが、これは決定的な理由になりません。ほぼ同じ長さのフィリピ書にもこのような他のパウロ書簡に出てこない用語が76語あるからです。しかし、文体を見ますと、パウロ書簡と同一の人物の手になる文章とは考えられません。パウロはきわめて単純で直截な文体で口述していますが、本書の文体は同じ意味の語を重ねて用いるとか、関係代名詞や分詞構文を多用して、長くて複雑な構文の文章を連ねています。訳文は短い文に区切って訳していますから、パウロの真筆の書簡との文体の違いがよく分かりませんが、原文で読むとパウロ書簡とは別の世界に入っているという印象をぬぐい去ることはできません。この違いは、獄中とかの事情の相違によって説明することはできません。

2 思想内容

 本書は、基本的にはパウロの福音理解を忠実に継承していますが、子細に見ると、パウロであればそのようには語らないであろうと考えられる仕方で福音を語っています。その違いはコロサイ書の内容そのものをまとめることになりますから、訳文につけた略解と、後述の「コロサイ書におけるキリスト」の項で詳しく取り扱うことになりますが、ここでは本書の福音理解がパウロ自身のものとは微妙な点で違っており、それは状況の違いから説明できる限度を超えているので、思想内容からも本書をパウロ自身の著作ではないと判断せざるをえないことを指摘しておきます。

3 パウロの使徒性についての理解

 本書はパウロをほとんど唯一の使徒として扱っており、パウロ自身はその書簡で自分を多くの使徒の中の一人としているのと違っています。また、使徒としてのパウロが受ける苦難を、「キリストのからだである御民のために、キリストの苦しみの不足分をわたしの肉体において満たしている」(一・二四)と身代わり的に意義づけるのは、パウロ自身が苦難について語るところ(たとえばコリントU四・八〜一三)と違います。 本書のパウロについての記述は、パウロの没後、パウロの忠実な後継者が師パウロの使徒としての意義を語っていることを示唆しています。

 以上の三点を総合すると、本書はパウロの後継者が、自分たちの状況(後述)に迫られて、パウロから受け継いだ信仰を確立するために、パウロの名によって(パウロの権威を後ろ盾にして)書いた文書であると判断せざるをえません。
 そうすると、本書に出てくる人名(その多くはフィレモン書の人名と重なっています)は、著者が自分の著述に使徒パウロの権威を持たせるために、手元に持っている資料を用いたと見ることになります。このような立場で本書を書くことができる人物として、テモテ(EKK)やエパフラスなどが想定されていますが、確定することはできません。

成立事情

 では、このコロサイ書はどのような状況の中で書かれたのでしょうか。
 本書の内容からすると、コロサイの集会に著者が言う「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」の教えが出てきたために、その誤りを示して、信徒たちがその誤りの「哲学」に捕らわれることなく、「キリストにあって根を下ろして築き上げられ、教えられた通りに信仰によって堅くされ、溢れるばかりに感謝して、キリストにあって歩む」ようになるために書かれました(二・六〜七)。このような誤った教えが現れるのは、パウロの存命中であることも不可能ではありませんが、やはりある程度の期間が経ってからと見るのが自然で、80年代と見る研究者が多いようです。
 本書がコロサイとその近隣の都市ラオディキアとヒエラポリスの名をあげているところから、エフェソを中心とするパウロの活動圏で成立したことはほぼ確実と見られます。パウロはアジア州の州都エフェソに二年余り滞在して福音を宣べ伝えましたが、その周辺都市には協力者たちを派遣して福音を伝えました。ここに名をあげられている都市はエパフラスの活躍によってキリストの民の集会が形成されました。本書が、このようにして成立したパウロ系の共同体の中で成立したことは、本書に出てくる地名からだけではなく、人名からも確認できます。
 この事実は逆に、コロサイ書がパウロ亡き後の(エフェソを中心とする)パウロ系共同体の様子を垣間見させてくれることを意味しています。以下、コロサイ書の翻訳を掲げる前に、コロサイ書によって、パウロ以後のパウロ共同体がどのような問題に直面し、そこでパウロの福音がどのように展開したかを、ごく簡単にまとめておきましょう。

コロサイの「哲学」

 著者が「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と呼ぶ教えとはどのような教えであったのか、正確に知ることはできませんが、本書に語られている警告からある程度推察することができます。その特色を上げると ――

1 特別な形の祭儀への参加を要求する
 偽りの教えの教師たちは、特別な暦による「祭りや新月や安息日への参加」を要求し、「自己卑下と天使礼拝を好む者たち」とされています(二・一六〜一八)。ここの「天使の礼拝」が何を意味しているのか、「天使を礼拝すること」なのか、「天使がしている礼拝」のことなのか、解釈が争われています。また、「参入して見たもの」という句も、密儀宗教の用語であるのか黙示思想の用語であるのかが争われています。しかし、特殊な祭儀とか儀礼への参加が魂の救済に必要であるとされていたことがうかがわれます。
 
2 禁欲的な戒律の順守を要求する
 「近づくな。味わうな。触れるな」などという戒律で、性的な分野と食事のことで禁欲的な戒律を順守することを要求し、「独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行」を伴っている教えです(二・二〇〜二三)。

3 「世の諸々の霊」に従っている
 上記二つの特色(特別な祭儀と禁欲的な戒律)は、「宇宙《コスモス》の諸霊」についての彼らの教義から出ています(二・八、二〇)。「宇宙《コスモス》の諸霊」とは「諸々の支配と権勢」(二・一〇、一五)のことであり、当時のヘレニズム世界の宇宙観から出た用語です。当時の人々は、宇宙《コスモス》は大地の上にかぶさる数層の霊界から成り立ち、それぞれの層にその層を支配する霊である《アルコーン》(支配者)とか《エクスーシア》(権勢)がいると考えていました。魂がそれらの諸霊の支配を免れて救われるためには、諸霊を祭る上記のような祭儀とか地上の身体的禁欲が必要だと教えたと見られます。

4 神の十全な知識を目標としている
 彼らが教えた特殊な祭儀への参加と禁欲的な戒律の順守は、完全な神の知識に達することを目標としていたと推察されます。それは、本書が彼らに対抗して、そのような祭儀とか戒律は必要ではなく、キリストにこそ神の完全な知識が宿っており、キリストを知ることが神を知ることだと強調している(一・二六〜二八、二・三)ことから推察することができます。著者がよく用いる「奥義《ミュステーリオン》」とか「充満《プレーローマ》」というような用語は、彼らが掲げるこのような標語に対抗して、著者がキリストにこそ《ミュステーリオン》も《プレーローマ》もあるのだと主張するためであると見られます。

 このような特色をもつ「哲学」はどのような起源をもつのであるのか、研究者の間では様々な見方が提案されていますが、確実な結論は出ていません。しかし、これらの特色を総合すると、ユダヤ教と何らかのつながりがあるグノーシス主義的な宗教(あるいはある程度グノーシス主義化したユダヤ教)とヘレニズム世界の宗教(密儀宗教を含む)との混淆形態が背後にあると考えられます。

 これらの特色とクムランとの関連が注目されます。安息日と特定の暦に基づく祭りの厳格な実行、清い食べ物と汚れた食べ物の厳密な区別、「肉の体」という用語の使用、特別の宗教的知識へのこだわりなどが、コロサイの「哲学」とクムランの両方に見られます。クムランのユダヤ教(エッセネ派ユダヤ教)が何らかの経路を経て、コロサイの「哲学」の形成に影響を及ぼしたことが推察されます。

コロサイ書におけるキリスト

 このような偽りの教えの危険に対抗して、著者はコロサイの信徒たちに、「(使徒パウロによって)教えられた通りの信仰によって堅くされ」、ただキリストに結ばれて歩むように説き勧めます(二・六〜七)。キリストこそ「奥義《ミュステーリオン》」そのものであり(一・二七、二・三)、キリストの中にこそ「神性の全き充満が体をとって宿って」いるのですから(二・九)。
 ところで、著者が語るキリストは、基本的にはパウロが宣べ伝えたキリストを継承しています。当然ながら、キリストは神の力によって死者の中から復活されたキリストであり(二・一二)、その十字架上の死によって世に和解をもたらされた方であり(一・二〇、二二、二・一四)、今は高く上げられて神の右の座に着いておられる方(三・一)であると共に、霊なるキリストとして、その体である民(一・一八)の内におられる方です(一・二七)。
 ところが、著者がこの書簡で語るキリストは、パウロがパウロ書簡で語っているキリストと微妙な点で違ってきています。その違いの中で著しい点は、パウロのキリストが旧約聖書の救済史的なキリストであるのに対して、コロサイ書のキリストは宇宙論的なキリストになってきている点です。
 すでにパウロにおいてキリストは、イスラエルの民を異教徒の支配から解放するダビデの子としてのメシア・キリストから遠く離れたところまで来ていました。しかし、パウロにおいてはキリストはなお、聖書(ユダヤ教の律法と預言書)を成就するために終わりの時に現れた救済者であり、キリストの十字架と復活の出来事は救済史の上での出来事でした。それに対して、コロサイ書になるとキリストはもはや救済史上の出来事であるよりは、宇宙《コスモス》存立の根源であり、天と地を仲介して宇宙《コスモス》の完成をもたらす救済者と見られるようになっています。一章一五〜二〇節の「キリスト賛歌」はこのような宇宙論的キリストをよく表現しています。言葉を換えて言えば、パウロにおいてキリストは終末を目指す時間軸上での救済の出来事ですが、コロサイ書においては天と地という上下の空間的な場での存在の根源であり、救済と完成をもたらす救済者となっています。
 この違いは、キリストにおける救済の出来事を語る語り方の違いとして出てきています。伝統的な終末待望の言葉が完全になくなっているわけではありませんが(三・四、六、二四〜二五)、救済は圧倒的に現在の体験として語られています。キリストに属する者は、キリストと共に十字架につけられて死んだだけではなく(この点はパウロと同じです)、コロサイ書においてはすでにキリストと共に復活した者とされています(二・一二〜一三)。この点は、キリストと共に復活することを将来の希望として語るパウロ(ローマ六・五〜八、フィリピ三・一一〜一二)と違ってきています。「希望」という用語も、パウロの場合のように将来の出来事を待望することではなく、すでにキリストにおいて実現した福音の使信の内容を指しています(一・五、二三、二七)。パウロにしばしば見られた聖霊を将来の相続の保証とする見方はコロサイ書にはありません。パウロに見られる、「すでにある」救済と、その完成が「まだない」という緊張は、コロサイ書には見当たりません。
 十字架の出来事の意義を語る言葉も、「和解」という表現はパウロとコロサイ書の両方に共通ですが、パウロにおいてよく用いられ中心的な位置を占める「義とする」とか「義」という表現はコロサイ書にはなく、パウロにはなかった「罪の赦し」という表現がよく用いられるようになります(一・一三〜一四、二・一三、三・一三)。そして、パウロがあれほど苦闘したキリストと律法の関係についてコロサイ書は関心がなく、「律法」という用語さえ全然出てきません。義とか律法に関心がなく、その用語すら出てこないということは、著者がユダヤ人ではなく異邦人であることを示唆しています。
 パウロはガラテヤ書(四・八〜一一)で、コロサイ書二章と同じような問題、すなわち「《コスモス》の諸霊」に拘束されて「いろいろな日、月、時節、年などを守る」ことを取扱っていますが、ガラテヤ書(四・三)ではそれを「奴隷として仕える」こととして、キリストにおける自由の喪失と見ています。ところが、同じ問題を扱うコロサイ書では、そのような視点はなく、まったく別の視点から見ています。この事実も、コロサイ書をパウロの書簡と見ることを困難にします。
 その他パウロに特有の用語でコロサイ書には出てこない用語もかなりあります。自由、救済、契約、約束、(神の)恩恵などはパウロ特愛の用語ですが、コロサイ書には出てきません。このようなキリストの語り方と、キリストにおける救済の出来事を語る語り方を見ますと、コロサイ書をパウロの手になる文書であると受け取ることは困難になります。この違いは、執筆時の状況の違いとか、パウロの思想の変化という説明の限度を超えていると考えざるをえません。