市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第2講

第二節 使徒名書簡の時代

「使徒名書簡」の成立

 パウロが殉教して地上から召された後も、パウロが設立した諸集会はそれぞれの地域で活発に活動して、キリストの福音に生き、また福音を周辺世界に伝えていきます。その中からキリストの福音を証言する文書が生み出されて、新しい状況での福音の内容と、当時の信徒たちの信仰生活を垣間見させてくれます。
 そのような文書は、それぞれの地域とか交わりで権威と仰がれている人物の名によって書かれることになります。パウロが設立した諸集会の交わりの中で、パウロ以後の状況に対応するために書かれた信仰の文書は、パウロが書いた書簡という形で出されます。新約聖書には、そのようにパウロ以後にパウロの名によって書かれたと見られる書簡が六書含まれています。コロサイ書簡、エフェソ書簡、テサロニケ第二書簡、テモテへの第一書簡と第二書簡、テトスへの書簡の六書簡です。いずれもパウロの名によって書かれた「書簡」という形をとっています。
 このような文書が「書簡」の形をとったのは、パウロが集会を指導するさい、書簡を用いたことが決定的な影響を及ぼしていると見られます。パウロの書簡は、パウロなき後も、信仰の指針として尊重されていたはずです。パウロの後継者たちは、新しい状況に直面して、指導や勧告のために語りかけようとしたとき、師パウロに倣って、書簡を用いて福音を証言し、信徒たちを指導しようとします。そのさい、彼らの交わりにおいて「使徒」としての権威が確立している師パウロの名を用います。
 このように筆者が自分以外の他人の名を用いて書いた文書を、普通は「偽名文書」と呼びます。しかし、「パウロの名による手紙」の場合は「偽名文書」という呼び方をせず、「使徒名書簡」と呼ぶことにします。「偽名文書」という呼び方には、読者を欺くけしからぬ文書という価値判断的な意味合いがどうしても含まれるからです。
 では、パウロの後継者たちは、なぜ「パウロの名によって」書簡体の文書を書いたのでしょうか。現代の常識からすれば、自分の名で書く方が正直でよいように考えるのですが、古代の常識は少し違っていたようです。
 パウロ系の諸集会の人たちにとって、信仰上の権威ある文書は、聖書(七十人訳ギリシア語旧約聖書)とパウロ書簡でしたが、その他にも当時のユダヤ教が生み出した多くの信仰文書が流布していました。その中の多く(とくに黙示文書)は、エノクとかモーセ、エズラとかバルクなど、古代の聖徒の名を用いたものでした。権威ある宗教者の名で文書を作ることは抵抗感なくできる環境であったと言えます。また、古代では一般的に、「弟子たちが公にしたものは、彼らの教師の作品と見なされてよい」とされていたと伝えられています。
 パウロの後継者たちは、パウロ系の諸集会に口頭で伝承されているパウロの言葉や教えを引き継いで福音を証しする文書を生み出したとき、それを師パウロの教えとして伝えることを当然のこととしたと考えられます。とくに、テモテやシラスなど若い時にパウロから遠くの集会に派遣されて、パウロの代理として働いた経験のある人たちは、この自覚が強かったことと思われます。「パウロの名による書簡」(以後、「パウロ名書簡」と呼ぶ)を書いた人たちは、これは自分の教えではなく、使徒パウロの教えであり勧告であるとして、パウロの名を用いて書いたはずです。読む側も、これはパウロ自身が書いたものか、パウロの教えを継承する者が書いたものかを詮索することなく、使徒パウロの教えとして受けとめたことと思われます。こうして、パウロなき後の時代には、使徒の名による書簡、「使徒名書簡」が生み出されることになります。

使徒名書簡の時代

 このようにして生み出された「パウロの名による書簡」はモデルとなって、パウロやペトロら使徒たちが世を去った後の時代に、広く「ペトロの手紙」や「バルナバの手紙」など、使徒(または使徒に準ずる指導的人物)の名による書簡や文書、すなわち「使徒名文書」を生み出す原動力となります。こうして、福音の展開の歴史は、使徒たちが世を去った直後の時代、「使徒名書簡」を多く生み出し、その「使徒名書簡」によって福音が表現され、キリストの民が指導される時代、すなわち「使徒名書簡の時代」を迎えることになります。
 パウロやペトロの殉教は六〇年代前半と考えられます。また、福音宣教が始まった30年に三十歳代であった使徒たちは、この頃には六十歳代となりますので、この六〇年代は世代交代の時期になります。それで、この「使徒名書簡」の時代は、ほぼ六〇年代後半から一世紀末頃までと考えてよいでしょう。「使徒名書簡」のあるものは二世紀に入ってから成立したものもあるかもしれませんが、その大部分はこの六〇年代後半から一世紀末に成立していると見られ、この時期を「使徒名書簡の時代」と呼んでよいでしょう。ここで、福音の展開史におけるこの時期の特色をごく簡単に見ておきます。
 この時期の始まりはエルサレム神殿の崩壊と重なります。66年に始まった第一次ユダヤ戦争は、70年のエルサレム陥落と神殿破壊をクライマックスとし、73年のマサダの陥落で終結します。エルサレム神殿の崩壊よりも前に書かれたという明白な証拠がある「使徒名書簡」はありませんので、「使徒名書簡」はすべてエルサレム神殿崩壊後の時代に成立したと言ってよいでしょう。エルサレム神殿の崩壊は、もちろんユダヤ教にとって決定的な意義のある歴史的事件でしたが、福音の展開史においても時代を画する重大な事件となりました。
 それまでの時期の福音活動は、エルサレムから発しエルサレムに向かう運動、エルサレムを中心とし拠点とする運動でした。イエスの直弟子たちとイエスの家族が核となり、ユダヤ人が形成したエルサレム共同体は、イエスの教えと働きの伝承を保持する源として、その後の福音活動の出発点となり基準となります。実際の福音活動の拠点となっただけでなく、信仰内容の上でも(神学的にも)、エルサレム共同体に代表される終わりの日のイスラエルが救済史の担い手として、福音運動の中心の位置を占めていました。まずイスラエルがメシア・キリストによって救われて神の民としての栄光を回復し、異邦の諸国民がそのイスラエルに加わることで、終末的な神の支配が完成するという青写真に基づいて福音活動が進められていました。イエスの復活後に回心して異邦人への使徒とされたパウロも、ローマ書九〜一一章に見られるように、このような青写真を共有しており、エルサレムとのつながりを何よりも重要な課題としていました。
 ところが、ユダヤ戦争のすこし前にエルサレム共同体はエルサレムを去り、70年にはエルサレムも陥落して、エルサレムのユダヤ人信徒共同体は決定的に影響力を失い、世界的な福音活動の舞台から消えていきます。この時期以後のキリストの民は、イスラエルなしで異邦人だけで神の民として歩まなくてはならない状況に直面します。今や「異邦人の時」が始まったのです。ユダヤ人以外の異邦の諸民族が神の救済史の担い手として、自分たち自身の信仰思想(神学)を形成しなければならない時代に入ったのです。「使徒名書簡」は、このような時代の産物です。
 ところで、この時代の世界は「ヘレニズム」文化によって統合された世界です。とくに「使徒名書簡」成立の舞台となった「地中海地域」は、ヘレニズム文化の発祥地・発信地であり、典型的なヘレニズム世界です。「ヘレニズム世界」とは、ギリシア語を共通語として、ギリシア風の生活とギリシア文化によって統合された世界です。当時の地中海世界のギリシア人以外の諸民族は、ギリシア語とギリシア文化を受け入れて(程度の違いはあれ)ギリシア化され、その結果ギリシア化した一つの世界、「ヘレニズム世界」を形成していました。そのような世界で成立した信仰文書がヘレニズム文化の刻印を深く受けていることは当然です。
 しかし、使徒時代のユダヤ教的な信仰が、この使徒名書簡の時代に入って突然ヘレニズム的な宗教に変わったのではありません。パウロに典型的に見られるように、使徒たちの福音にもヘレニズムの刻印は刻み込まれていました。パウロは熱心なユダヤ教徒でしたが、同時にヘレニズム都市で生まれ育ったディアスポラのユダヤ人でした。だいたいパウロが育ったファリサイ派ユダヤ教がギリシア化したユダヤ教(ヘレニズム・ユダヤ教)でした。その土壌から生まれたパウロのキリスト信仰は、きわめて強くギリシア的思想の色彩を示しています。しかし、何といってもパウロは生粋のユダヤ人であり、熱烈なユダヤ教徒でしたから、その信仰の根幹には聖書的(ユダヤ教的)な救済史信仰があります。ヘレニズム世界の異邦人に福音を宣べ伝えて集会を形成したパウロは、そのヘレニズム世界の集会でユダヤ教(=律法)をどのように位置づけるかという問題で苦労しなければなりませんでした。
 ところが、「使徒名書簡」の時代になると、もはやユダヤ教の位置づけは問題ではなくなっています。「律法」という用語さえほとんど出てこなくなります。キリスト信仰は、ユダヤ教の枠の外で語られ、ヘレニズム思想の枠の中で表現されるようになります。著者は特定できない場合がほとんどですが、教養の高い異邦人であるか、ユダヤ人であってもギリシア語とギリシア思想に精通したヘレニスト・ユダヤ人であると推定されます。
 しかし、この時代にはユダヤ教の要素がなくなってしまったのではありません。この時代の「エーゲ海地域」に「ヨハネ黙示録」という強烈なユダヤ教の色彩をもつ文書が成立しています。これは例外的な出来事かもしれませんが、多くの「使徒名書簡」のある一面に、ユダヤ教的な傾向がかえって強く表れている箇所もあります。これは、ユダヤ戦争の結果壊滅したエッセネ派のユダヤ教徒が多くキリストの民に加わるようになった影響であると見る研究者もいます。「使徒名書簡」は、基本的にはヘレニズム思想の枠組みの中でキリスト信仰を表現していますが、なおユダヤ教との関係では複雑なつながりを残しています。

 「使徒名書簡の時代」におけるユダヤ教との関係については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』435頁の「マタイ福音書の神学的位置」にある「三段階」の解説を参照してください。「使徒名書簡の時代」は、その図の第三の段階になります。

 以上、「使徒名書簡」が成立した地域と時代を概観しました。本書が扱う「使徒名書簡」は、パウロの名による書簡が大部分を占めますが、そう明記してはいませんが長年パウロの書簡と見られてきた「ヘブライ書」や、内容上の必要からペトロの名による書簡も含ませています。そして、「使徒名書簡」とは言えませんが、この時代のこの地域の福音展開史にとって見過ごすことができない文書として、「ヨハネ黙示録」を例外的に取り扱うことにします。