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第二節 兄弟をつまずかせるな

39 兄弟をつまずかせるな (14章 13〜23節)

 13 それゆえに、これからはわたしたちは互いに裁かないようにしよう。むしろ、兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように決心しなさい。 14 わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています。何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになるのです。 15 食べ物のことであなたの兄弟が傷つけられるならば、あなたはもはや愛によって歩んでいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死なれたのです。 16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしられないようにしなさい。 17 神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです。 18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々から認められるのです。
 19 だから、わたしたちは平和に関わることやお互いを建て上げることを追求しようではありませんか。 20 食べ物のことで神のわざを壊してはなりません。たしかにすべてのものは清いのです。しかし、つまずきを感じながら食べる人には悪いものになります。 21 肉を食べず、酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことを何もしないことが良いのです。 22 あなたは、自分が抱いている確信を、自分で神の前に持ち続けなさい。自分が承認することで自分を裁かない人は幸いです。 23 食べるときに疑っている人は裁かれているのです。確信から出ていないからです。確信から出ていないことはすべて罪です。

浄不浄の区別を超える道

 「それゆえに、これからはわたしたちは互いに裁かないようにしよう。むしろ、兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように決心しなさい」。(一三節)

 前の段落で、「主に属する者は主の僕であるから、他人の召使いを裁くことはできない。裁く方は主である」という原則を述べたことを受けて、使徒は「それゆえに」と言って以下の勧告を展開します。
 イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようになるためである」(マタイ七・一)と言っておられますが、これは広く恩恵の場に生きる者の原則を述べています。パウロがこのイエスの語録を知っていたかどうかは確認できませんが、パウロは同じように恩恵の場に生きる者として、「裁くな」という原則をここでローマ集会の状況に適用します。すなわち、集会内でユダヤ教律法を順守して、肉を避け、特定の日を重んじなければならないと考えている人たち(弱い人)と、そのような規定は守らなくてもよいと考えている人たち(強い人)が、これまでは「互いに」相手を批判し、裁きあうことがあったとしても、「これからは」お互いに裁かないようにしようと呼びかけます。
 一三節の最初の部分は直訳すると、「それゆえ、わたしたちはもはや互いに《クリセーナイ》するのではなく、むしろあなたたちは(以下のことをするように)《クリセーナイ》しなさい」となります。同じ動詞《クリセーナイ》が、前の文では「(他者の)価値を決める」という意味で用いられており、後の文では「(自分の)判断を決める」という意味で用いられています。使徒は同じ動詞を用いて、相反する行為の対照を際だたせます。
ここで「決心しなさい」と求められている行為は、「兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように」することです。その具体的な実例としてこの段落で、(とくに肉を)食べる行為が取り上げられていることから見ますと、パウロはここで「強い者」に対して、弱い人たちにとってつまずきになるような振舞いをしないように戒めていることになります。

 「わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています。何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになるのです」。(一四節)

 使徒は、「わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています」と言っています。「主イエスにあって」というのは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである」というイエスの語録(マルコ七・一五)を知っているという意味ではなく(パウロがその語録を知っている可能性を排除するものではありませんが)、主イエスにあって賜っている御霊の自由(律法からの解放)と知恵によって、それ自体で汚れたものは何もないと言う知識をもっているという意味であろうと見られます。パウロはここで「強い者たち」を代表して自分の確信を語っています。
 清いものと汚れたものの区別はユダヤ教の基本原理です(レビ記一〇・一〇〜一一)。汚れたものとの接触を避けて、自分を清く保つことがユダヤ教徒の宗教生活の目標です。この区別は日常生活のあらゆる面に及んでいます。ここで問題になっている食べ物については、清い肉(牛や羊)と汚れた肉(猪や豚)が区別されます。また、清い肉でも、偶像に供えられた肉は汚れているとされます。そのような肉を食べる者は自分を「汚れたもの」とすることになります。また、そのような肉を日常食べている異邦人は汚れているとされるので、異邦人との接触も人を汚すとされます。
 神は万物を創造して、それをことごとく「良い」とされました(創世記一・三一)。神が造られたものはすべて「良いもの」であって、「汚れたもの」(神に嫌われ拒否されるもの)は何もないのです。「主イエスにあって」、すなわち復活者イエス・キリストに結ばれることで与えられる御霊の場で受けているこの知識と確信は、ユダヤ教の清浄規定を克服しています(無効にしています)。ペトロにはこの知識と確信が、三回も繰り返された幻という非常手段によって与えられたとされていますが(使徒言行録一〇・九〜一六)、この物語は、この知識と確信を持つことがユダヤ教徒にとっていかに困難なことかを示しています。
 それ自体で汚れたものはないのですから、汚れとは人の意識の問題になります。「何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになる」のです。一四節全体は、「主イエスにあって」生きる者には、ユダヤ教の浄不浄の規定は実体的な効力を持つものではなくなっており、各人の意識の問題になっていることを主張しています。パウロは、(ユダヤ教律法が有効か無効かを議論することによってではなく)愛によって各人の意識を尊重するように求めることで、ユダヤ教律法がエクレシア内の交わりにもたらしている「隔ての垣根」を乗り越えようとするのです。

 この「意識」(新共同訳では「良心」と訳されています)の問題は、コリントT八・七〜一三で詳しく扱われています。詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』のコリントT八章七〜一三節の講解を参照してください。

 「食べ物のことであなたの兄弟が傷つけられるならば、あなたはもはや愛によって歩んでいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死なれたのです」。(一五節)
 「食べ物のことであなたの兄弟を傷つける」とは、一般論としては「食べ物のことで互いに裁く」ことを意味していますが、この段落全体の内容からすると、「それ自体で汚れているものは何もない」と確信している「強い人」が、ユダヤ教律法で禁じられている肉とか偶像に供えられた肉を食べるなどして、「確信の弱い人」をつまずかせることを指していると見られます。ここでもコリントT八・七〜一三と同じような問題が扱われています。
 もし何を食べてもよいと信じている「強い人」であるあなたが、「弱い人」の前でユダヤ教律法で禁じられている肉とか偶像に供えられた肉を食べるようなことをすれば、それを見た「弱い人」の意識は、戸惑い、傷つけられ、苦悩に陥り、信仰を失って滅びるということにもなりかねません。このような結果については、すぐ後の二〇〜二三節で繰り返していますので、そこで詳しく取り上げることにします。

 「傷つけられる」と訳した動詞は普通「悲しむ」と訳される動詞です。しかしここでは、後に出てくる「滅ぼす」という動詞と並行して用いられていることから見ても、「悲しむ」とか「心を痛める」というよりはさらに激しい意味であると考えられます。

 もし、「それ自体で汚れているものは何もない」ことを知っている「強い人」が、その知識に誇って弱い兄弟を傷つけるようなことをするならば、その人は兄弟の信仰を建てるのではなく壊す行為をしていることになり、もはや兄弟に仕えるという愛の原理から落ちており、キリストにある者としてふさわしくない歩みをしていることになります。キリストはその兄弟のために死なれたのですから、その行為はキリストの救いの業を壊す行為となります。イエスも、「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい」と言っておられます(マルコ九・四二)。

 「ですから、あなたがたにとって善いことがそしられないようにしなさい」。(一六節)

 本来知識に基づいて自由に生きることは「善いこと」です。しかし、その「善いこと」が兄弟をつまずかせるならば、それはエクレシアの交わりを妨げ、キリストの業を壊す行為として、「そしり」を受けることになります。そうならないように、知識に誇ることなく、愛によって歩むように、使徒は説き勧めます。それは、コリントの集会に説き勧めた(コリントI八・七〜一三)のと同じです。

 「神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです」。(一七節)

 パウロは「神の国」という表現を、こことコリントT四・二〇などの数箇所でしか使っていません。それらの箇所の多くで、「神の国」は、福音書の場合のように終末的な栄光に満ちた神の支配を指すのではなく、現在神との交わりの中に生きるリアリティーを指しています。そして、そのような意味での「神の国」あるいは「神の支配」に生きることは、特定の食べ物を食べること、あるいは食べないこと、また、特定の飲み物を飲むこと、あるいは飲まないことによってもたらされたり、妨げられたりするものではありません。そのような食べることや飲むこととは関係なく、キリストにあって賜る聖霊によってもたらされる義と平和と喜びが、神の国のリアリティーそのものなのです。

 原文では、「義と平和と喜び」という三つの名詞の後ろに、「聖霊による」という修飾句がついています。欧米諸語ではギリシャ語原文と同じ語順で訳せますが、修飾句を前に置く日本語では、「聖霊による」という修飾句を三つの名詞すべてを修飾するのか、または直前の名詞「喜び」だけを修飾するのか、解釈を決めて訳さなければなりません。文語訳、協会訳、岩波版青野訳はみな「喜び」だけを修飾すると理解して、「義と平和と聖霊による喜び」と訳しており、新共同訳だけが三つの名詞すべてを修飾するとして、この私訳と同じ訳をしています。協会訳などの訳は、「聖霊による義」という思想を避けるためではないかと考えられます。すなわち、義は聖霊の働きと関係なく、キリストに対する信仰によって義と認められる(無罪判決を与えられる)という法廷的な義認論に立ち、義とされた者に聖霊が与えられて、愛とか平和とか喜びという実を結ぶようになるという二段構えの救済論が、このような訳を生みだしていると考えられます。しかし、ガラテヤ書三章の講解で詳しく論じたように、パウロにおいて義は聖霊の働きと一体であり、パウロ自身「主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖とされ、義とされた」と言っています(コリントT六・一一)。「義と平和と喜び」は一体であり、その全体が聖霊によってわたしたちの中に現実となるのです。そのような聖霊の現実こそが、パウロの言う「神の国」であると言えます。
 このような原理を掲げることによって、使徒は弱い人には、酒を飲まないことや特定の肉を食べないことにこだわることのないように諭し、強い者には、あえて酒を飲み肉を食べることで自分が神の国の現実に生きていることを誇示するのではなく、弱い兄弟への愛のゆえに、酒を飲まず、肉を食べないように求めていることになります。食べる者も食べない者も両者ともに、聖霊による義と平和と喜びの中に一致を見いだすように、使徒は切に願います。

 「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々から認められるのです」。(一八節)

 前節までに述べたように、知識に基づくのではなく愛の原理に従って兄弟に仕える者、また、飲食の区別ではなく聖霊による義と平和と喜びを増進するように働く者は、神に喜ばれ、人からも真のキリストの僕として認められるようになります。

自分の確信に従って

 「だから、わたしたちは平和に関わることやお互いを建て上げることを追求しようではありませんか」。
(一九節)。

 だから、論争と対立に導くようなことは一切避けて、エクレシアの交わりと一致に役立つことだけを追求しようと、使徒は呼びかけます。また、「お互いを建て上げることを追求しよう」と呼びかけます。ここで用いられている《オイコドメー》(建てること)という語は、もともと家などを建てることを意味する語ですが、パウロはその名詞形と動詞形を、エクレシアの「形成」という意味でよく用いています(コリントT一四章など)。ここでは交わりにある兄弟を、「お互いに」つまずかせたり滅ぼしたりすることなく、キリストにある者として信仰を確立するように助けることを指しています。

 「食べ物のことで神のわざを壊してはなりません。たしかにすべてのものは清いのです。しかし、つまずきを感じながら食べる人には悪いものになります」。(二〇節)

 一人ひとりの信仰は、神が恩恵によってその人の内に働いて形成された「神のわざ」ですから、兄弟をつまずかせてその信仰を傷つけ滅ぼすこと(一五節)は、「神のわざ」を壊すことになります。また、エクレシアの交わりは、神がキリストにあって聖霊により働き形成された「神のわざ」ですから、エクレシアの交わりを妨げることも「神のわざ」を壊すことになります。食べ物のことでお互いを批判し裁くこと、とくに強い人が弱い人をつまずかせることは、神の業を壊すことであり、厳に慎まなければなりません。
 使徒はここで強い人への勧告として、彼らの「すべてのものは清い」という主張を認めて、その上で、その知識に基づいてする行為が弱い人をつまずかせる消息を説明します。もし、弱い人が強い人の食べる行為に励まされて、「つまずきを感じながら」、すなわち、食べてはいけないと感じているものを食べるような行為をすれば、本来清いものであるその食べ物が悪いもの、その人をつまずかせる悪いものになるのです。

 「つまずきを感じながら食べる人」と訳した箇所の直訳は、「つまずきによって(つまずきを伴って)食べる人」です。この場合の「つまずき」は、意識と行動の分裂を指すと考えられます。すなわち、食べてはならないと意識しながら食べる人を意味します。二三節の「食べるときに疑っている人」と同じ意味と見てよいでしょう。しかし、「(他の人に)つまずきをもたらすような仕方で食べる人」という意味も可能です(RSV、NRSV、新共同訳はこう解釈しています)。直前の文(二〇節前半)と直後の文(二一節)に挟まれた文脈からすると、この解釈が適切であるようにも見えますが、原語の意味からすると無理があります。この一段の結論としている二二節と二三節の内容からすると、この私訳の解釈の方が整合性があると思われます。二〇節から二三節までの箇所は解釈困難なところがありますが、主題はコリントT八・七〜一三と同じなのですから、その箇所との整合性を考慮して理解しなければなりません。

 「肉を食べず、酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことを何もしないことが良いのです」。

(二一節)
 パウロ自身も、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、わたしは今後決して肉を口にしません」と言っています(コリントI八・一三)。パウロはこの決意を内に秘めて、ローマ集会の「強い人」に同じ愛の配慮を求めます。

 「あなたは、自分が抱いている確信を、自分で神の前に持ち続けなさい。自分が承認することで自分を裁かない人は幸いです」。(二二節)

 肉を食べるか食べないか、あるいは特定の日を重んじるか重んじないかは、各自の確信の問題であるとしたパウロは、その確信が強いか弱いかは問題ではなく、各自が自分の確信を神の前に持ち続け、その確信に従った歩み方をすることが大切であると説きます。各自が自分の確信に従った歩み方をするとき、その人は「自分が承認することで自分を裁かない人」となることができます。すなわち、良いとした意識(良心)に反した行動をすることがなく、自分の確信を傷つけられず維持することができます。そのような人は幸いであると、各人が自分の確信に従って歩むように(そして、その上でお互いに他者の確信を尊重するように)、パウロは勧めます。

 「食べるときに疑っている人は裁かれているのです。確信から出ていないからです。確信から出ていないことはすべて罪です」。(二三節)

 逆に、「食べるときに疑っている人」、すなわち本当は食べてはならないと意識しながら食べる人は、確信に従って行動していないのであり、意識と行動が分裂しているのです。そのような人は「裁かれている」のです。この動詞は完了形です。すなわち、終末の裁きの時に責任を問われるのでなく、意識と分裂した行為は、今すでに神から拒否されていて、神の祝福を受けることができないのです。
 確信から出ていない行為は、意識と行為の分裂を含んでいるので、「すべて罪です」と否定されます。良しとする意識(良心)から出ていない行為は、それ自体すでに存在の分裂を含んでいて、全存在を捧げることを求められる神に喜ばれることができません。すなわち、御心にかなわない行為という意味で「罪」であると言われます。
 なお、ここの《ピスティス》を「信仰」と訳すと、キリスト教信仰から出ていない行為はすべて罪である、すなわち、キリスト教信仰と関係ない行為とか、異教にいる者の行為はすべて罪であるとする誤解を招きかねないので、注意が必要です。