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第八章 キリスト者の霊的礼拝




第一節 キリストの体の肢体として

32 霊的礼拝 (12章 1〜2節)

 1 そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です。 2 あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし、何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

霊的礼拝の実現

 使徒パウロは、キリストにおける神の救済の働きをすべて語り終えて、「そこで」という語でこれまでに述べたことを受けて話題を転換し、以上に述べたように恩恵によって救われ、御霊によって生かされているのであるから、このように歩みなさいという実際的な勧めを語り始めます。最初に、キリストに属する者としての歩みの基本原理が述べられます(一〜二節)。
 最初に「兄弟たちよ」と呼びかけ、次に「わたしはあなたがたに勧めます」という言葉が来ます。以下の「あなたがたは〜しなさい」は、命令ではなく勧告です。すなわち、それに従うことによって聖霊による喜びと希望をますます堅くすることができるようになるのであるから、このように歩みなさいという勧めです。
 その後に「神の憐れみによって」という句が続きます。文法的には、(原文では)直前の「勧める」という動詞を修飾するか、直後の「献げる」という動詞を修飾するか、どちらの読み方も可能です。パウロの用例(たとえばコリントU一〇・一)と内容から、(ほとんどの現代語訳がしているように)「神の憐れみによって勧めます」と読みます。その場合、「神の憐れみを受けている者として」とか、「神の恵みによって使徒とされた者として」という意味に受け取ることもできますが、ここでは「(わたしたちに注がれた)神の憐れみ(恩恵)に基づいて」という意味に理解します。すなわち、これから述べる勧告はすべて、わたしたちが神の恩恵によって救われているという事実から出るものであるという意味です。

 ここで「憐れみ」と訳している語は、ルカ福音書(六・三六)で父が「憐れみ深い」と言われているのと同系の語です。

 その勧告の第一、すなわち恩恵によって救われている者としてなすべきことの根本は、わたしたちの「身体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」ことです。恩恵による救済から出てくるのは、何か新しい倫理思想というようなものではなく、この身体をもってする具体的な生き方、この身体の扱い方です。
 イスラエルの民はエルサレムの神殿で、異邦人は異教の宮で、それぞれ犠牲を献げて神を礼拝しましたが、キリストの民はもはやそのような犠牲を献げることはありません。自分の身体を神への犠牲として献げます、すなわち身体をもってする全生活を神に献げるのです。神殿や宮では死んだ動物が犠牲として献げられますが、キリスト者は自分の「生きた」身体をそのまま神に献げます。
 「聖なる」とはもともと神のために別に取っておかれたという意味ですが、キリスト者にとっては全生活が神のために取っておかれるものでなければなりません。また、その献げものが神に喜ばれるためには、神の御心に適うものでなければならないのですから、次節(二節)の勧告が続くことになります。
 その内容を示す前に、このように「身体を生きたいけにえとして献げる」ことが、キリストに属する者が行う「霊的な礼拝」であると言われます。

 「霊的な」という形容詞は、《ロゴス》の形容詞形であり、本来「理性的な」という意味の語です。しかし、この語は、ギリシャ語を用いる哲学や宗教の世界で、祭儀を霊的に解釈することを表現するのに用いられるようになっていました。ここはその典型的な用例の一つです。同じことがペトロT二・五では「霊的な」(《プニューマ》の形容詞形)という語を用いて表現されています。

 「礼拝」(worship)とか「神奉仕」(Gottesdienst)というのは、わたしたちが現在「宗教」と呼んでいる営みのことです。「宗教」には必ず祭儀があります。様々な供え物や犠牲を捧げる行為だけでなく、賛歌や祈祷や経典の朗誦などを捧げることも含めて、祭儀によって自分たちが依存する超越者(ふつう神と呼ばれます)に仕え、その超越者との関わりを確保しようとします。祭儀はほとんど礼拝とか宗教と同じです。
 わたしたちキリストに属す者たちは、神殿とか寺院というような特別の場所で祭儀を行うことによって神を礼拝するのではなく、この身体をもってする日常の生活を「神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」ことによって神を礼拝する(神に仕える)のです。このような礼拝が、霊的な礼拝であり、真理にかなった理性的な礼拝です。キリストは祭儀の終わりとなられました。神を礼拝するのに、もはや祭儀のための特定の場所とか施設は必要ありません。同じことを後にヨハネ福音書(四・二一〜二四)は、「この山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る。 ・・・・まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう。いや今がその時である。実に父はこのように礼拝する者たちを求めておられるのである。神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」と表現するようになります。

かたちを変えられて

 「霊的礼拝」とは「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」ことですが、それがどういうことか、続いてその具体的内容が説明されます(二節)。二節の初めにある《カイ》という接続詞は、別の勧めを並べるための「そして」ではなく、先の勧告を説明する「すなわち」という意味、または「その上に」とか「なお」という積み重ねの意味に理解すべきです。
 「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生きたいきにえとして献げる」霊的礼拝をするために、「あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられなさい」という勧告が続きます。「かたちを変えられる」ことがなければ、霊的礼拝は不可能であるからです。

 「(この世と)同じかたちになる」と訳した動詞は《スケーマ》(かたち)から派生した動詞です。この動詞と対比される意味ですぐ後に用いられる「かたちを変えられ」という動詞は《モルフェー》(かたち)から派生した動詞です。《スケーマ》と《モルフェー》は厳密には意味と用法に違いがありますが、新約聖書のギリシャ語ではほとんど同意語として用いられています。たとえば、キリスト賛歌の一節(フィリピ二・七)で、キリストはしもべの《モルフェー》をとり、人の《スケーマ》で現れたと用いられています。それで本節の二つの動詞も、同じ「かたち」という語を用いて訳すことにします。

 「この世」と訳した「この《アイオーン》」という表現は、黙示思想の概念であって、神の支配が顕現する「来るべき世《アイオーン》」に対して、神に敵対する力が支配する現在の時代を指します。キリストの民は「来るべき《アイオーン》」に属する民であり、聖霊によりその現実を先取りして与えられているのですから、その第一の勧告は、「来るべき《アイオーン》」と対立する「この《アイオーン》」のかたち(原理、姿、外観)に同化しないこととなります。
 「そうではなく、かたちを変えられなさい」という勧告が来ます。この受動態の命令法は現在形で、「かたちを変えられ続けよ」という意味合いを含んでいます。この《メタモルフォー》という動詞は、パウロ書簡ではこことコリントU三・一八の二箇所だけに出てくる動詞ですが、パウロの福音理解を示す重要な語です。キリストに属する者は、(黙示思想のように)ただ未来の救済を待ち望むのではなく、現在すでに聖霊によって、キリストの栄光に向かってかたちを造り変えられつつあるのです(コリントU三・一八)。それは現在の事実です。パウロはここで、その事実に身を委ね続けよと勧告します。この命令法の内容を敷衍すると、「あなたがたのかたちを変える聖霊の働きに身を委ね続けよ」となります。二節の勧告は、「肉に従うのではなく、御霊に従って歩みなさい」(ガラテヤ五・一六)と内容は同じことを言っています。
 ところで、この「かたちを変えられよ」という命令法の動詞の直後に、「意識の新しさに」という与格(三格)の名詞が続いています。大多数の現代語訳は、この与格を手段の与格と理解して、「意識を新しくすることによって」と訳しています。しかし、パウロの福音理解においては、「かたちを変えられる」のは意識を新しくするというような人間の側の改革によるのではなく、聖霊の働きによるのですから、この与格を手段の与格と理解することは困難です。八・二四の「希望へと救われた」または「希望において救われた」の場合と同じく、ここも「意識の新しさへと」と理解し(様態を示す三格)、「かたちを変えられた」ことの結果として生じた事態とすべきです。そうするとこの勧告は、「かたちを変えられ、(その結果)意識を新たにされて、・・・・をわきまえるようになりなさい」と続きます。

 二節の解釈にさいしては、「この《アイオーン》に」同化せず、「意識の新しさに」変容されよ、という原文の正確な並行表現に注目する必要があります。二つの動詞に続く三格は両方とも同じ用法(「〜に」「〜へ」)と理解すべきです。なお、「意識」と訳した《ヌース》は、「心」《カルディア》ほど広い意味ではなく、道徳的な面における思い、理解力、意志の方向を指し、八・六で用いた「志向」に近いと考えられます。

 聖霊によって「かたちを変えられて」、新しくされた意識とか理解力《ヌース》をもって、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるように」なることが求められます。この勧告は、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるか」は、律法のような基準があって、一律に外から教えられるものではなく、各自が御霊に導かれる実際の歩みの中で判断する感覚を訓練されなければならないことを教えています。
 人生の現実は複雑です。その中で、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」ことは、しばしば大変むつかしい問題です。そこには知恵が求められます。人生体験の豊かさからくる知恵も有益ですが、何よりも御霊による知恵が必要です。「御霊は一切のことを、神の深みさえも究める」方だからです(コリントT二・一〇)。今までの古い常識的な意識、ただこの世の人生体験から出る理解力だけでは、神の御心を悟る知恵は生まれてきません。聖霊によって新たに造り変えられた意識や理解力《ヌース》をもって、人生に対処していく中で鍛えられる知恵だけが、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」に至ることができます。これは困難な課題ですが、キリストにあって神の御霊の救いにあずかっている者の生涯に課せられた重い課題です。

33 一つのからだの肢体として (12章 3〜8節)

 3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがたの中の一人一人に言います。分を超えて考えることなく、むしろ神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい。 4 というのは、わたしたちは一つの体に多くの肢体を持っていますが、その肢体すべては同じ働きをしていないように、 5 わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです。 6 わたしたちに与えられた恵みによって異なった賜物を持っているのですから、それが預言であるなら、信仰に正しく対応して、 7 それが奉仕であれば奉仕において、教える者であれば教えることにおいて、 8 勧めをする者であれば勧めのわざにおいて、その賜物を用いなさい。施しをする者は純粋に、援助する者は熱心に、慈善を施す者は喜びをもって、それを行いなさい。

キリストの体の一肢体として

 キリストにある者が実際にどのように歩むべきかを勧告するにあたって、冒頭(一〜二節)でその基本原理を提示したパウロは、ここから各論に入ります。各論の最初に、キリスト者の共同体(集会)における心構えと振舞いについての勧告が来ます。キリストにある交わりと、それによって形成される実際の共同体は、キリスト信仰が生きる場として本質的な重要性をもつからです。

 「わたしに与えられた恵みによって、あなたがたの中の一人一人に言います」。(三節前半)

 パウロは使徒としての立場で未知のローマ集会にこの手紙を書いています(一・一)。迫害者である自分を使徒にしたのは神の無条件絶対の恩恵であることを深く自覚しているパウロは(コリントT一五・一〇)、「使徒として言う」をこのように「わたしに与えられた恵みによって言う」と表現します。同時に、「恵みによって」生きることを体得している者として、「恵みの下にある」者は以下のように歩むように勧める、という意味も含んでいます。

 「分を超えて考えることなく、むしろ神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい」。(三節後半)

 原文は、「当然考えるべきことを超えて考えることなく、適切な限度で考えるように考えなさい」とあります。この短い文の中に、「考える《フロネイン》」という動詞とその派生形が4回繰り返されています。この《フロネイン》という動詞とその名詞形である《フロネーマ》は、八・五〜八でも繰り返し用いられており、パウロがよく用いる重要な用語です。その意味については八・五〜六の注を参照してください。  キリスト者の共同体の中で生きるにさいして、まず第一に避けなければならないこととして、思い上がりが戒められています。信仰者の中でもとくに御霊の賜物が豊かな信仰者は、ともすれば自分が他のメンバーよりも優れていると錯覚しがちです。しかし、どのように優れた能力や賜物も、その人の立派さに応じて与えられたものではなく、受ける者の資格とか価値とは無関係に、無条件の恩恵により、賜物として与えられたものですから、それを受けた人間が誇ることは滑稽なことです。もし恩恵の原理がしっかりと自覚されているならば、「分を超えて」思い上がることはありえないのですが、パウロはここで実際的な形で思い上がりを戒めています。
 「慎み深く(適切な限度で)考えなさい」の後ろに、その「適切な限度」が、「神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて」と具体的に解説されています。ここで言う「信仰」は、イエスをキリストと告白する信仰ではありません。この意味の信仰には「度合い」とか「分量」はありません。「信仰」という語は様々なレベルで用いられていますので、意味の違いに注意しなければなりません。ここでの「信仰」は、御霊の働きによって各人に生じているキリストとの結びつきです。この意味の信仰には強い信仰とか弱い信仰という差があります(一四・一以下、一五・一)。また、信仰の不足(テサロニケT三・一〇)とか信仰の成長(コリントU一〇・一五)ということが言われます。この意味での信仰は「神が各人に分け与えた」もので、「御霊の賜物」《カリスマ》の一つです(コリントT一二・九)。
このように、キリスト者の交わりである《エクレーシア》において自分の立場を自覚し、「分を超えて考えることなく、慎み深く考えなさい」というこの勧告が、続く節(四〜五節)で人体を比喩として理由づけられます。

 「というのは、わたしたちは一つの体に多くの肢体を持っていますが、その肢体すべては同じ働きをしていないように、わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです」。(四〜五節)

 原文では、「であるように」で始まる四節を受けて、五節は「そのように」という語で始まっています。明らかに四節の人体の姿が、五節の「わたしたち」、すなわちキリストに属する者たちの共同体の在り方の比喩として用いられています。この人体の比喩は、ローマ書の少し前に書かれたコリントの集会あての第一の手紙(一二章)において詳しく展開されていました。
 コリントの集会はパウロがその福音宣教の働きによって形成した集会であり、その健全な発展にパウロは直接の責任を負う立場でした。それで、コリントの集会に注がれた御霊の豊かな賜物《カリスマ》のゆえに様々な問題が起こっていることを聞いたパウロは、豊かな賜物を与えられた者が思い上がることなく、お互いにその分を果たして、正しい秩序の下に御霊の働きが進展するように、言葉を尽くして戒めたり勧告したりしています。そのさい、パウロは「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように」(協会訳コリントT一二・一二)と、人体の比喩を用いています。そして、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』と言えない」ように、集会の各員はそれぞれお互いに必要としているのであるから、思い上がることなく、同じ一つの体に属する肢体として自分の分を果たし、《エクレーシア》の形成のために尽くすべきことを説いています。

 人体の比喩について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』205頁「一つの体、多くの部分」の項を参照してください。

 それに対して、ローマの集会はパウロ自身の働きで建てられた集会ではなく、また、御霊の賜物について問題が起こっていることを具体的に相談されたのでもありませんから、パウロはここでは一般的な原則を述べるだけで、詳しい議論には入りません。しかし、この問題がキリスト者に対する実践的な勧告の最初に来ていることは、《エクレーシア》の健全な形成という課題がいかに重要であるかを示しています。
 ところで、わたしたちキリスト者の共同体が「キリストの体」であるということは、たんに各メンバーの相互依存関係を指し示すための比喩であるだけではなく、パウロにおいてはキリスト信仰にとって本質をなす霊的現実であることを見落としてはなりません。「わたしたちはみな一つの御霊によって一つの体の中にバプテスマされた(浸し入れられた、組み込まれた)のです」(コリントT一二・一三私訳)。そして、「主の晩餐」でパンを食べることは、「キリストの体にあずかる」ことに他ならないとされています(コリントT一〇・一六)。わたしたちは御霊により「キリストの体」と合わせられることによって、キリストの死に合わせられた者となり、キリストの復活の命にあずかる者となるのです(六・三〜五)。また、このようにキリストに合わせられた者たちの共同体が地上でキリストの命を生きるとき、その姿が見えない霊なるキリストを地上で具体的に(体を具(そな)えた形で)示すことになるのです。

 キリスト者の共同体《エクレーシア》がキリストの体であるという思想は、パウロ以後の文書と見られるコロサイ書やエフェソ書で重要な役割を果たすようになります。この思想の宗教史的源泉とかキリスト信仰における重要な意義については、それらの文書を扱うときに触れることにします。ローマ書では集会メンバーの相互依存関係を指し示すための比喩として用いられているだけですから、これだけに止めます。

異なる賜物

 キリストに属する者が現す様々な霊的能力は、その人固有のものではなく、神が御心のままに恩恵によって無資格の者に分かち与えられる「賜物」《カリスマ》です。そのことはパウロがすでにコリント書簡(Tの一二章)で詳しく論じているところです。そのことをここでは、「わたしたちに与えられた恵みによって異なった賜物を持っているのですから」(六節前半)と要約して、それぞれの賜物を適切に用いるように勧告します。
 まず、「それが預言であるなら、信仰に正しく対応して」、その賜物を用いるように勧めます(六節後半)。原文では「信仰の《アナロギア》に従って」となっています。《アナロギア》は、《ロゴス》に対応した状態、すなわち「正しい対応関係」という意味の名詞で、「信仰の《アナロギア》に従って」というのは、信仰との正しい対応関係に従って」という意味になります。他の賜物と違い、預言の場合だけその賜物を用いるさいの基準が挙げられているのは、預言の重要性と特殊性からであると考えられます。預言は霊感による直接的な発言ですが、パウロはその発言内容が《エクレーシア》のキリスト信仰に正しく対応したものでなければならないと言っているのです。そのような基準がなければ、霊感による発言はしばしば人間的な要素が混入し、それが絶対的な啓示と誤解される危険があります。パウロはここでそのような危険や逸脱を防ごうとしていると考えられます。すでにコリント書簡でも預言を吟味するように勧告しています(コリントT一四・二九)。

 《アナロギア》という名詞は、新約聖書ではここだけに出てくる名詞です。これは《ロゴス》(計算)から派生した語で、比例、釣り合い、割合、調和というような意味があります。それで、この「信仰の《アナロギア》に従って」という句は、三節の「信仰の度合いに応じて」との並行関係から、「信仰の量に比例して」という理解も可能です。協会訳はこう理解して、「信仰の程度に応じて」と訳しています。「信仰に応じて」という訳(新共同訳、新改訳、岩波版)はどちらにもとれる訳です。

 「それが奉仕であれば奉仕において、教える者であれば教えることにおいて、 勧めをする者であれば勧めのわざにおいて、その賜物を用いなさい」。(七節〜八節前半)
 「奉仕《ディアコニア》」という語は本来食卓の給仕の務めを指し、奉仕、世話、接待という意味に用いられる語です。この「奉仕」の務めとは、おそらく集会の運営について、とくに「主の晩餐」の準備や実行などの実際的な世話をする役目を指していたと考えられます。そのような奉仕の務めを果たし、そのことによって集会で指導的な働きをする人が「奉仕者《ディアコノス》」と呼ばれ、パウロの時代の諸集会にすでにそのような立場の人たちがいたことが示唆されています(一六・一、フィリピ一・一)。後の時代の教会では「執事」とか「助祭」または「補祭」などと訳されて、教会制度の中で一つの聖職階級を指すようになりますが、パウロの時代ではまだ特定の聖職階級ではなく、立場上自然にそのような世話をするようになる人たちが現れて、集会で指導的な働きをしたと見られます。
 「教える者」とは、御霊の賜物として「知恵の言葉、知識の言葉」を与えられていて(コリントT一二・八)、あるいは聖書(旧約聖書のこと)によく通じていて、集会の人々、とくに新しく信仰を求めて入ってきた人々に福音の事柄とか聖書の理解の仕方などを教える働きをした者を指すと見られます。コリント書では神によって立てられた務めの中で、使徒、預言者に次いで第三番目に「教師」が上げられています(コリントT一二・二八)。
 「勧めをする者」と訳した語には、《パラカレイン》という動詞が使われています。この動詞は「励ます、慰める、勧める」という広い意味があり、パウロがよく用いる動詞です。おそらく、様々な実際の状況に応じて、苦しんだり迷ったりしているメンバーを慰めたり、信仰へと励ましたりする人たちを指すのでしょう。これも制度となった聖職階級ではなく、自然に集会の中で先輩格のメンバーがそのような役割を果たしたのでしょう。ドイツ語に「ゼーレゾルゲ」(魂への配慮・世話)という言葉がありますが、それに相当する働きを指すことになります。現代の教会用語では「牧会的配慮」というところでしょうか。現代のプロテスタント教会の「牧師」は、ここでいう「教える者」と「勧めをする者」の両方の務めを果たす立場であることになります。
 この箇所(六〜八節)には「〜しなさい」という動詞が(原文には)ありません。預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善など、それぞれの働きをなすにあたっての留意点がごく簡潔に上げられているだけです。それで、最初にこれらの働きすべてが「異なった賜物」であるとされているところから、「その賜物を用いなさい」とか「それを行いなさい」という勧めの動詞を補って訳しています。
 ところが、奉仕と教えと勧めの三つの働きについては、「奉仕において、教えることにおいて、 勧めのわざにおいて」という、それぞれの働きの分野を示す語がついているだけで、どのようにそれをしなさいという表現がありません。これは、それぞれの働きをする者は、その分野に専心没頭すべきであって、他の分野に関わりすぎて、せっかく神から与えられた賜物を十分に発揮できない、というようなことにならないように戒めています。もちろん、これは制度として確定した分野ではありませんから流動的であり、状況によっては他の働きをすることが求められる場合があるかもしれません。しかし、自分に与えられた賜物をそれぞれの分野で十分に生かすように勧めているものと理解してよいでしょう。
 「施しをする者は純粋に、援助する者は熱心に、慈善を施す者は喜びをもって、それを行いなさい」。(八節後半)
 ここに用いられている三つの(分詞形の)動詞は、集会が行っていた困窮者に対する援助の働きを指していると見られます。二番目の動詞はもともと「前に立つ」という意味から来た動詞で、「指導する」という意味と「援助する」という意味で用いられます。大多数の訳は「指導する」という意味にとっていますが、ここでは三つとも困窮者に対する働きとして「援助する」と理解する方が適切です。ただ、ここに上げられた「施しをする」、「援助する」、「慈善を施す」がそれぞれどのような対象に対するものか(内部の人たちか外の人たちか)、また、どのような仕方での援助(自分の資産からか集会の基金からかなど)を指すのかを特定することはできません。それがどのような援助の働きにせよ、それをなすときは「純粋な動機から、熱心に、喜びをもって」なすように勧められます。
 社会保障制度が整っていなかった古代社会において、キリスト者の共同体が信仰のゆえに熱心に行った困窮者への援助の働きは、その時代には新鮮な刺激になり、社会的身分を超えた平等観(ガラテヤ三・二八)と共に、キリスト教の魅力の一つになります。また、それはその後の時代に慈善事業や社会福祉制度の発展を促す原動力ともなります。

集会での務めと《カリスマ》

 この段落であげられている「預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」という集会での務めとか働きは、「賜物」《カリスマ》であるとされています(六節前半)。ここには「御霊」とか「聖霊」という語は出てきませんが、《カリスマ》とは聖霊によって与えられる能力であり働きとか務めであることは、コリント書(T一二章)の場合と同じです。同じ《カリスマ》を扱いながら、コリント書とローマ書とでは《カリスマ》の内容がずいぶん違います。コリント書にも《カリスマ》として、教師、援助する者、管理する者というようなローマ書にも見られる務めとか働きもありますが、ローマ書には出てこない不思議な霊的現象、すなわち奇跡を行う者、病気を癒す者、預言をする者、異言を語る者、異言を解釈する者などが多くを占めています(コリントT一二・二八〜三〇)。とくに預言と異言の《カリスマ》が目立っています。その《カリスマ》の現れに伴う問題もあって、パウロはコリント書Tの一四章でこの二つの《カリスマ》を詳しく扱っています。
 このような《カリスマ》についてのコリント書とローマ書の扱いの違いは、二つの集会の事情の違いと、二つの書簡の性格の違いによるものと考えられます。使徒時代の集会には多かれ少なかれコリント書にあげられているような不思議な霊的現象があったようですが、コリントの集会はそのような現象が豊かで激しかったようです。それだけに問題も起こり、パウロは集会の指導と育成に直接責任を負う者として、それらの問題に懇切に対処しています。それに対して、ローマの集会にそのような不思議な霊的現象がなかったわけではないでしょうが、少なくともパウロは《カリスマ》の問題について相談を受けたのでもなく、また直接集会の指導をする立場でもなく、外からローマの集会を訪れようとしている者として、自分の福音理解を知ってもらいたいという動機でこの手紙を書いています。もちろん異邦人への使徒としての資格で勧告をしますが、それはどの集会にも適用できる一般論として、集会の通常の務めを論じるに止めざるをえません。このような違いがコリント書とローマ書における《カリスマ》の扱い方の違いになっていると考えられます。
 《カリスマ》を集会の日常的な通常の務めと奇跡的で不思議な霊的現象との二つに分けると(それは原理的な区分ではなく便宜的なものですが)、普通後者が「カリスマ的」という語で指し示されることが多いようです。預言は別ですが、ローマ書に上げられているような「奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」など集会の通常の務めは「カリスマ的」とは言われず、コリント書にある「奇跡を行う者、病気を癒す者、預言をする者、異言を語る者、異言を解釈する者」などが行う働きが「カリスマ的」と言われます。そして、集会や宣教の働きにこのような奇跡的現象が伴う場合に、その集会や活動が「カリスマ的」と称されます。しかし、使徒時代にはこのような区別はなく、キリスト者の共同体の営みはすべて《カリスマ》の現れであったのです。この事実は、奇跡的な霊的現象だけを「カリスマ的」と呼んで聖霊の働きとし、集会の通常の働きを《カリスマ》としないで、御霊の働きから除外するような現代の傾向を戒めています。
 このようにキリスト者とその集会の営みをすべて「御霊の賜物」《カリスマ》であるとするパウロの視点は、愛の扱い方にもっともよく表れています。コリント書では、一二章で様々な《カリスマ》が取り上げられた後、「最高の道を教えます」として、一三章で愛《アガペー》が取り上げられます。《アガペー》は聖霊の賜物であり、《カリスマ》の最高の現れなのです。それと同じことがローマ書でも行われています。《カリスマ》としての様々な務めを語った後、パウロは愛についての教えに入ります(九〜二一節)。御霊とか《カリスマ》という語は用いられていませんが、これは御霊の働きまたは現れとしての《アガペー》の姿を描いているのです。その視点を見失って、ただ倫理的勧告として読むと、このような言葉を受けとめることはできません。
 御霊の賜物《カリスマ》としての愛《アガペー》を勧告する次の段落に入る前に、この段落(三〜八節)に上げられている「賜物」《カリスマ》について、もう一つ重要な点を見ておきたいと思います。ここでキリスト者の共同体において行われる通常の務めとして「預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」の七つがあげられていますが、その中に祭儀を執行する務めがない事実が重要です。
 使徒時代にもバプテスマは行われ、集会の礼拝の中心的な営みとして「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事が行われていました。しかし、バプテスマも「主の晩餐」も祭儀ではありません。バプテスマは主イエス・キリストに対する信仰を告白する一回限りの行為であり、「主の晩餐」は主イエスの十字架の死と復活を記念する共同の食事であって、資格のある祭司によって神に捧げられる供え物ではありません。供え物とか捧げ物というのであれば、キリスト者各人が「自分の身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」(一二・一)ことがわたしたちが行う礼拝であり、各人が祭司の役目を果たしているのです(これが万人祭司です)。
 キリスト共同体には特定の資格のある祭司はいないのです。定められた資格のある祭司によって執り行われる祭儀がないという事実は、キリスト共同体は宗教団体とか宗教組織ではないということです。「宗教」とは祭儀による神との関わりを確立しようとする営みであるからです。キリスト共同体は、霊なるキリストを地上に体現するための霊的な交わり《コイノニア》に他なりません。