市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第3講

第二節 神の自由な選び

24 神の自由な選び (9章 6〜18節)

 6 ところで、神の言葉が無効になったのではありません。イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです。 7 アブラハムの子孫がみなその子ではなく、「イサクがあなたの子孫と呼ばれるようになる」のです。 8 すなわち、肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められるのです。 9 約束の言葉とはこうです。「この時期にわたしは来るであろう。そして、サラに息子が生まれているであろう」。 10 それだけでなく、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもったリベカの場合も同じです。 11 というのは、子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、 12 すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために、リベカにこう告げられたのでした。「兄は弟に仕えるであろう」。 13 こう書かれています。「わたしはヤコブを愛した。しかし、エサウを憎んだ」。
 14 では、わたしたちは何と言おうか。神に不義があるのではないか。決してそうではない。 15 神はモーセに言っておられます。「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」。 16 従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです。 17 聖書はファラオにこう言っています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」。 18 こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです。

選びによる神のご計画

 パウロは先行する段落(九・一〜五)で、神に選ばれた民としてのイスラエルが、救済史の担い手としての特権を多く与えられてきたことを述べました。ところが、大祭司に率いられる最高法院は、イスラエルを代表して、イエスを拒否し、神を汚す異端者として処刑しました。このようにイスラエルが、約束によって遣わされたキリストであるイエスを公式に拒否しているのであれば、イスラエルに与えられた神の約束の言葉は無効になるのではないか、という疑問が生じます。
 この疑問は、イエスを約束のメシア・キリストと信じないユダヤ人からパウロ批判の理由にされただけでなく、イエスを信じるユダヤ人の間でも疑念として感じられていたのではないかと考えられます。パウロは、自分が宣べ伝える福音を確立するためには、ユダヤ人が抱くこの疑問に対して明確な解答を与えなければなりません。パウロはこのユダヤ人の疑問を念頭に置いて、「ところで」と切り出します。
 パウロは、イスラエルが公式にキリストとしてのイエスを退けたからといって、「神の言葉が無効になったのではありません」と断言します(六節前半)。「神の言葉が無効になる」? そんなことは断じてありません。ユダヤ人にとって、また信仰者にとって、「神の言葉が無効になる」というようなことは、一瞬も想像することはできません。そしてすぐ、その理由として「イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです」と続けます(六節後半)。
 たしかに、「イスラエルから出た者がみなイスラエルである」ならば、神の言葉は無効になったと言えるかもしれません。約束されたメシア・キリストであるイエスを公式に退けたイスラエルがイスラエルの全部であるならば、イスラエルに与えられた神の約束の言葉は無効になったと言えるでしょう。しかし、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」のです。すなわち、イスラエルと呼ばれる民の中に、イスラエルでない者がいるのです。むしろ大部分がイスラエルではないのです。しかし、イスラエルの中に神から選ばれて約束の担い手となる者、すなわち真のイスラエルがいて、その選ばれた者において神の言葉が成就するのです。
 このように主題を明示した上で、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」という主張を、創世記の父祖たちの物語から引用して論証します(七〜一三節)。
 まずアブラハムの場合が取り上げられます。アブラハムの子孫がみなその子ではなく、創世記二一章一二節にあるように、「イサクがあなたの子孫と呼ばれるようになる」のです(七節)。この聖書の言葉を説明して、パウロはこう続けます。「すなわち、肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められるのです」(八節)。アブラハムには何人もの子がありました。まず、エジプト人の女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、次に正妻サラが産んだイサク、さらにサラが亡くなった後にめとった妻ケトラとの間に六人の子がありました(創世記二五・一〜二)。その中で、イサクだけが「神の子」、すなわち神が約束された資産を受け継ぐ嫡子(「子孫」《スペルマ》という語が用いられています)と認められたのです。「肉の子」、すなわち男女の通常の営みだけによって生まれた他の子たちは、アブラハムから出た子であっても、神の約束を受け継ぐ「神の子」とは認められませんでした。

 イスラームでは、イシュマエルの方がアブラハムの長子であり、イシュマエルの子孫であるアラブの民がアブラハムの信仰の真の継承者であるとされます。

 イサクは「肉の子」ではありませんでした。サラは不妊の女であったので、アブラハムとサラの間では通常の男女の営みでは子が生まれませんでした。ところが、主がアブラハムを訪れて与えられた約束によって、男女の営みで男の子が生まれたのです。そのことは創世記一八章に詳しく物語られていますが、パウロはその中で「この時期にわたしは来るであろう。そして、サラに息子が生まれているであろう」(創世記一八・一〇と一四)という、主がアブラハムに与えられた約束の言葉だけを引用して、イサクが「約束の子」、すなわち約束によって生まれた子であることを、ユダヤ人に思い起こさせます(九節)。
 「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」ことを、アブラハムの場合で示したパウロは、続いてイサクの場合を取り上げます。「それだけでなく、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもったリベカの場合も同じです」(一〇節)。リベカはイサクによって双子の男の子を産みました。イサクとリベカの場合も、通常の営みでは子ができなかったのですが、イサクの祈りに主が応えてくださって、リベカが身ごもるようになりました。リベカが、胎内で押し合う子供を感じて、主に御心を尋ねると、主は言われました。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるであろう」。こうして、先に生まれたエサウが兄とされ、後に出てきたヤコブが弟となります(創世記二五・一九〜二六)。
 パウロはこの創世記の記事をこう解釈します。「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために、リベカにこう告げられたのでした。『兄は弟に仕えるであろう』」(一一〜一二節)。
 ギリシャ語訳旧約聖書のリベカに告げられたお言葉を直訳すると、「大きい方が小さい方に(奴隷として)仕えるであろう」となります。聖書では、神はいつも大きい者、強い者よりも、小さい者、弱い者を、また先の者よりも後の者を約束の継承者として選んでおられます。それは、神の前に人間が誇ることがないようになるためです(コリントT一・二六〜三一参照)。
 二人は同じ父、同じ母から生まれています。血統の上ではまったく区別はありません。さらに、兄のエサウが退けられて、弟のヤコブが約束の継承者として選ばれたのは、「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時」でした。すなわち、それは神がその御計画を成し遂げるために働かれる時、人間の血統や素性、行動や善悪の価値は何の関係もないことを示すためです。神は御自身の「選びによるご計画」を貫かれます。神は異教徒のクロス王を用いて、民の解放を成し遂げることもされます。エサウとヤコブの物語は、神の自由な選びによる御計画の実現を示す典型的な物語となります。
 さらに、聖書を引用して論証するさい、律法(モーセ五書)と預言者の両方からするラビの習慣に従い、パウロも創世記だけでなく、預言者マラキの「わたしはヤコブを愛した。しかし、エサウを憎んだ」(七十人訳マラキ一・二〜三)という言葉を引用します(一三節)。
 エサウはユダヤの南の地域に住むエドム人の名祖です(創世記二五・二五、三〇)。この預言者マラキの言葉は、ヤコブを名祖とするイスラエル(ユダヤ人)が約束を受け継ぐ者として神に選ばれ、エサウを名祖とするエドム人は神から退けられたと主張するユダヤ教イデオロギーの表現ですが、パウロはこの差別イデオロギーの標語にもなりかねない表現を、人間の側には何の根拠もない、神の自由な選びを示す言葉としてあえて用います。逆に言えば、このような聖書の言葉は、パウロがしているように、人間の側の条件を問わない神の恩恵の表現としてのみ受け取るべきであって、その文脈から切り離して神の名によって民族差別を正当化する言葉としてはならないことに留意すべきです。

神の絶対主権

 このエサウとヤコブに対する神の扱いを聞くと、多くの者が不審の思いを抱きます。人が何もしていないのに、ある者を愛し他の者を憎むというのは恣意であって、そのような恣意をもって人を扱う神に不義があるのではないかという疑問が生じます。この疑問をパウロは進んで取り上げ、「では、わたしたちは何と言おうか。神に不義があるのではないか」と自ら問いを出し、「決してそうではない」と断言します(一四節)。その上でその根拠を、やはり聖書を引用して説明します。
 「神はモーセに言っておられます。『わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう』」(一五節)。 引用は出エジプト記三三章一九節からです。「神に不義があるのではないか」という疑問は、人間の側の基準で神を判断しているから起こるのです。この人間の側の基準で神を見ることから起こる疑問に、人間的な正義の論理をもって答えるのではなく、パウロは神と人との関係の本質を示すことで答えます。「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」という言葉は、神と人間との関係における神の絶対的な主権を表現しています。神が行動されるとき、人間の側の状況に制約されることはいっさいありません。それが神が神であることの当然の姿です。人間は神の働きかけを受ける側であって、神の働きにあれこれ条件をつける立場ではありません。
 このことをパウロは次節の言葉でこう表現します。「従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです」(一六節)。神が働かれるとき、そこに人間の意志や努力が関与することはありません。神が働いてある出来事が起こるとき、それは人間の側の意志や努力に応えて神が働かれるのではなく、神が憐れみによって、すなわち人間の側の意志や努力、条件や資格を問わないで、神が無条件に御自身の憐れみ(恩恵)を貫くために行動される結果です。
 一方、聖書はファラオにこう言っています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」(一七節)。引用の言葉は出エジプト記九章一六節からです。この言葉は主が直接ファラオに語られたのではなく、ファラオにこう語るようにモーセに命じられた言葉です。この言葉は、主の言葉に対するファラオの頑なな拒否も、主の御力と御名を世界に現すために、主が欲せられた結果であることを示しています。
 当時エジプトの王ファラオは全世界で最高の権力をもつことを誇っていました。その権力も主が与えられたものですが、主がそのような大きな力をファラオに与えられたのは、モーセを通して働かれる主の力がさらに大きいことを示して、主の名の栄光を全世界に知らせるためであるというのです。
 この旧約聖書の言葉が示しているように、すでにイスラエルの信仰も、エジプトで自分たちを苦しめたファラオの暴虐はイスラエルの神の力と栄光を全世界に示すためであるという理解に達していました。パウロはこの理解を継承していますが、さらに一歩進めて、ファラオが最後までモーセの要求を拒み続けた頑なさも、主の力を現すために、主がそうされた結果であるとします(次節)。
 以上、聖書から二つの事例(ヤコブの選びとファラオの頑なな拒否)を引用して、パウロが言おうとしていることの結論が提示されます。「こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです」(一八節)。双子の兄弟の中で弟のヤコブを約束を受け継ぐ者として選ばれたのは、神の憐れみ(恩恵)でした。そして、ファラオの心を頑なにしたのも、神がご計画を進めるためにファラオを選ばれた結果でした。
 パウロは、聖書に記録された救済の歴史の中に、神の絶対的な主権を見ています。ここで「絶対」というのは「相対」の反対、すなわち相手の状況(資格や条件)に絶しているという意味です。この神の絶対主権を示す本節の言葉によって、人間の側の基準で神を測ろうとする「神に不義があるのではないか」という問いそのものが退けられます。この神の絶対主権はすべての神・人間関係の本質です。
 イスラエルは苦難に満ちた歴史の中で、身をもってこの神の絶対主権の事実を学ぶことになります。パウロは次の段落で、このことを語る預言者の言葉を引用して、さらに彼の議論を補強します。