市川喜一著作集 > 第13巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解U > 第1講

第三部 イスラエルの救い

はじめに―第三部への序言

 第一部(一・一八〜五・一一)で、律法とは無関係にキリスト信仰によって義とされる「信仰の義」を論証し、続く第二部(五・一二〜八・三九)で、キリストにあって罪の支配と律法の拘束から解放されて生きる御霊のいのちの豊かさを描いたパウロは、最後にキリストにおける神の愛の勝利を高らかに歌い上げました。
 このようにキリストにおける救いの原理と現実は余すところなく語られたのですが、そのパウロになお深い悲しみと絶え間ない心の痛みがあることを、パウロはここから語り始めます。それは、彼の同胞であるユダヤ人が全体としてはイエス・キリストを受け入れず拒否しているという事実です。ユダヤ人の中にも、十字架につけられたイエスをキリストと信じて告白する者もいますが、大多数はイエスをキリストと認めず、ユダヤ教を代表する指導者層はそう信じて告白するユダヤ人を迫害しています。パウロも同胞ユダヤ人から激しい迫害を受け、いのちを狙われるまでになっています。
 ユダヤ人は神から選ばれた契約の民イスラエルです。この民が救われなければ、神の世界救済の御計画は達成されません。パウロは預言者以来のイスラエルの終末期待を継承しています。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むように招かれ、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。
 その御計画の中で、ペトロたちは割礼の者たち(ユダヤ人)にメシア・イエスを宣べ伝え、パウロは無割礼の異邦諸民族をこのメシアの信仰に呼び集める使命を与えられたことを、あのエルサレム会議で確認しました(ガラテヤ二・七〜九)。パウロは自分の使命を「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務める」ことだとしています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています(一五・一六)。パウロはこの使命に応えて、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく(異邦諸民族に)宣べ伝えました」。
 ところが、ペトロたちのユダヤ人に対する宣教は受け入れられず、ユダヤ人は全体としてはメシア・イエスに敵対したままです。むしろペトロはアンティオキアから西へ活動を進め、広くヘレニズム世界に福音を宣べ伝えるようになり、ローマまで達したと伝えられています。その過程で、イエスを信じた異邦人に割礼を施してユダヤ教に改宗させなければならないと主張し、パウロの無割礼の福音を批判した「ユダヤ主義者」たちの背後に、その影が見え隠れするようになります。
 このようにユダヤ人からは迫害され、ユダヤ人キリスト教徒からも批判されるという状況の中で、パウロは異邦人諸集会から集めた献金をもってエルサレムに行こうとしています。パウロは何としても、自分が異邦人世界で進めている働きの意義をユダヤ人信徒に理解してもらわなければなりません。パウロは、自分が異邦人のために祭司の役を果たしているのは、異邦人が救われることによってイスラエルも救われるようになるためであることを、「神の奥義」として語ります。この奥義としての「イスラエルの救い」が第三部(九〜一一章)を構成します。
 第三部は、不信のイスラエルに対する心の痛みを吐露する前置き(九・一〜五)と、神の奥義の大きさを賛美する結び(一一・三三〜三六)に囲まれています。その本体部分は、

 1 神の恩恵の選び(九・六〜二九)
 2 イスラエルのつまずき(九・三〇〜一〇・二一)
 3 神の恩恵によるイスラエルの最終的な救い(一一・一〜三二)

の三つの部分から構成されていると見ることができます。しかし本書では、全体の構成上のバランスから、「神の恩恵の選び」と「イスラエルのつまずきと回復」の二章に構成して講解しています。