市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第11講

第二節 罪の支配からの解放

13 罪に死にキリストに生きる (6章 1〜14節)

 1 では、わたしたちはどう言うべきなのか。恵みが増し加わるために罪にとどまるべきでしょうか。 2 決してそうではない。 罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか。 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです。 4 死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです。 5 もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです。
  6 わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを、わたしたちは知っています。それは、罪のからだが滅ぼされて、わたしたちがもう奴隷として罪に仕えることがないようになるためです。 7 死んだ者は罪から放免されているからです。 8 もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています。 9 キリストは死者の中から復活して、もう死ぬことなく、死はもはやキリストを支配しないことを知っているからです。 10 キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのであり、キリストが生きておられる生は、神に生きておられるからです。 11 そのように、あたがたがたも自分が、キリスト・イエスにあって、罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを認めなさい。
  12 それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、からだの欲求にあなたがたが従うということにならないようにしなさい。 13 あなたがたの肢体を不義のための武具として罪に委ねてはなりません。むしろ、死者の中から生き返った者として自分自身を神に委ね、あなたがたの肢体を義のための武具として神に委ねなさい。 14 それは、あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはないからです。

「恩恵の支配」に対する非難と誤解

 前段(五・一二〜二一)でアダムとキリストを対比して、罪の支配に打ち勝って満ちあふれる恩恵の支配を賛美して、「罪が増したところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれたのです」(五・二〇)と言ったパウロは、ここでそのような恩恵の支配の主張に対していつも提起される批判を取り上げて反論を加えます。「では、わたしたちはどう言うべきなのか」(一節前半)という句は、パウロが批判者たちの議論を念頭において、それに対する反論を始めるときにいつも用いる表現です(他に四・一、七・七、九・一四)。
 パウロは自分から論敵の批判を取り上げて言います、「恵みが増し加わるために(わたしたちは)罪にとどまるべきでしょうか」(一節後半)。批判者たちは、パウロが言うように「罪が増すところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれる」のであれば、わたしたちは罪をなくす努力をする必要はなく、恵みが増し加わるために罪にとどまっている方がよいということになるではないかと、パウロの福音を非難していたのでしょう。パウロはこの非難を取り上げ、「決してそうではない」と強く否定して、「罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」とその理由を述べます(二節)。そして続く三節以下で、キリストにあって恩恵の支配の下にある者は「罪に死んだ者」であることを論証するのです。
 ここに見られるような、徹底した恩恵の支配を宣べ伝える者に対する体制的宗教からの非難という事例は、わが国の歴史にもありました。法然や親鸞がただ念仏または信仰だけで救われるという主張をしたとき、戒律を重視する旧仏教側から激しい非難を受け、仏法を破壊する者として当時の権力者に訴えられ、ついに法然や親鸞は島流しに処せられるという事件がありました。法然や親鸞は、戒律を行うことによってではなく、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えるだけで救われると主張しました。救われるための資格を得るような行はいっさい否定して、ただ阿弥陀仏の無辺無量の慈悲から発する救済の本願だけに救いの根拠を求めたのです(阿弥陀の本願は絶対恩恵の一つの表現です)。それに対して、そのような仏教は発菩提心(菩提、悟りを得ようとする努力)を破壊し、仏教そのものを否定するものだと、旧仏教から激しく非難されたのです。これは、パウロの「恩恵の支配」の福音は律法を順守して罪を克服しようとする努力を否定し、律法(ユダヤ教)そのものを否定するものだと、ユダヤ教または一部のユダヤ人キリスト教指導者から激しい非難がなされたのと同じです。このような批判に反論して福音を確立するためにパウロは「ローマ書」を書きましたが、同じように(一二〇〇年ほど後に)法然は「選択本願念仏集」を著し、親鸞は「教行信証」を撰述したと言えるでしょう。

 福音と浄土系仏教の類似と相違、さらに遡って福音と大乗仏教成立との関係などは、きわめて興味深い問題ですが、ここで扱える問題ではありませんので別の機会に譲ります。

 外からの非難だけでなく、信仰者の中にも「恩恵の支配」を誤解して、「恵みが増し加わるために、わたしたちは罪にとどまっていてよいのだ」と考える者が出てきます。そのような考えを口にはしませんが、実際の信仰生活において、そのような考えで歩む人たちが教会の中に現れます。ここでも歴史的な実例をあげます。ルターは魂の苦悩の中でパウロの福音を再発見して、すっかり律法主義と祭儀主義の色彩を濃くしていた中世のローマ教会を批判し、「信仰義認」の旗印をかかげて宗教改革の波を引き起こしました。ルターの魂の体験から成立発展したルター派教会は、その後の数百年の歩みの中で、「信仰義認」が教条化していきます。その教義を受け入れて告白する者は救われるとされて、信じる者を変革する神の力が見失われていきます。信仰によって義とされ、恵みによって救われているのであるから、現実の人間と生活はすこしも変わらなくてもよいのだとされ、恵みが「罪にとどまる」口実にされるようになります。この現状を批判したのが、信仰者の立場からナチスに抵抗して処刑されたボンヘッファーです。彼は、そのようなルター派の、ひいては近代プロテスタンティズムの恩恵理解を「安価な恵み」と呼び、パウロの福音の誤解として厳しく批判したのでした。

 ボンヘッファーについては、左記のような邦訳と評伝がありますので、参考にしてください。
  『ボンヘッファー選集』(全9巻) 新教出版社
  E・ベートゲ著 『ボンヘッファー伝』(全4巻) 新教出版社
 なお、一冊にまとめられた読みやすい紹介書としては左記の書をお勧めします。
  宮田光雄著 『ボンヘッファーを読む』 岩波セミナーブックス51 岩波書店

 外からの非難に対しても、内における誤解に対しても、パウロはこの段落で、そして第二部全体で見事に応えています。パウロは、自分の福音の核心である「恩恵の支配」がどのような現実であるのかを、ここで精細に描き出すのです。いつもそうですが、パウロの福音は論争の中にその本質を現してきます。わたしは、ローマ書の(ここでわたしが言う)第一部の「信仰義認」だけを受け取って、パウロの福音の核心部である第二部を十分理解していないところに、近代プロテスタンティズムの弱点があるのではないかと考えています。第二部は、聖霊によって霊なるキリストと合わせられる体験と、このキリストにあって生きる「御霊のいのち」の次元を描いているので、聖霊の理解なくしては読めないのです。

罪に死んだ者

 以上のような非難と誤解に対して、パウロは「決してそうではない」と、断固否定した上で反問します、「 罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」(二節)。「わたしたち」キリストにある者、キリストにあって恩恵の支配の下にある者は、「罪に死んだ者」なのです。「罪に死んだ者」というのは、罪を犯さない者という意味ではありません。繰り返し見てきましたように、パウロがいう「罪」とは規範に違反する個々の行為ではなく、人間を支配する力です。したがって、「罪に死んだ者」というのは、罪の支配力が及ばない領域にいる者、罪の支配力とは無関係になった者という意味です。たとえば、鉄片がアルミになったために磁力が作用しなくなった状態です。
 そのように罪に死んだ者がどうして罪の支配の中にとどまって、唯々諾々と罪に支配されていることがあろうか、と反問するのです。死体が動くことがないように、罪に死んだ状態の者が罪の力に呼応して(罪の力を原動力として)動くことは事実としてありえないではないか、というのです。パウロは「死んでいる」と「生きている」という事実の対照を用いて、罪の支配からの解放を説明するのです。
 「恩恵の支配」に対する非難と誤解は、恩恵が支配する「キリストにあって」という場は罪に死ぬ場であるという事実を知らないところから出ます。先の段落(五・一二〜二一)で見たように、「アダムにある」という場では罪が支配していましたが、「キリストにある」という場では恩恵が支配しています。キリストを信じてキリストに合わせられた者は、「アダムにある」という場から「キリストにある」という場に移ったのですから、もはや罪の支配の下にはなく、恩恵の支配の下にあるのです。すなわち、罪に死んで、恩恵が与える新しい御霊の命に生きるようになっているのです。その消息が、続く三〜五節でキリストを信じたときに受けたバプテスマを象徴として用いて説明されます。

キリストの中へのバプテスマ

 パウロは、キリストを信じてバプテスマを受けた人たちに呼びかけます、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです」(三節)。パウロはこの手紙でローマの兄弟たちに語りかけています。そして、ローマの信徒たちはパウロ自身がバプテスマを授けたのではありませんが(パウロはまだローマに行っておりません)、信仰に入ったときバプテスマを受けたことを前提にして、パウロは語っています。

 パウロはローマの兄弟たちが「バプテスマを受けた」ことを前提にして、そのバプテスマを象徴として用いて語っていますが、「バプテスマ(洗礼)」という名詞は一回も用いていません。ここ(三〜四節)では、もっぱら《バプティゾー》という動詞の受動態を繰り返して用いています。ほとんどの日本語訳(文語訳、協会訳、新改訳、新共同訳、岩波版青野訳)は、これを「バプテスマ(または洗礼)を受ける」と訳しています。たしかにこの動詞は洗礼者ヨハネが「洗礼を授けた」ときにも、イエスがヨルダン川で「バプテスマを受けた」ときにも、使徒たちが信じた者たちに「洗礼を授けた」ときにも使われている動詞ですから、そう訳すのは間違いではありません。しかし、「洗礼」とか「バプテスマ」という名詞を用いて「洗礼を受ける」とか「バプテスマを受ける」と訳すと、洗礼という儀式にあずかることを意味することになり、ここでは適切ではありません。ここで《バプティゾー》という動詞は、「浸す」とか「沈める」という本来の意味で用いられています。初期の福音宣教においてバプテスマは、ヨハネのバプテスマと同様、水の中に全身を沈める形で行われていました。パウロはその洗礼儀礼の形を比喩として用いて、霊なるキリストと合わせられ、キリストの死に合わせられているという霊の(秘義的な)現実を語るのです。従って、《バプティゾー》の受動態(バプテスマされる)の後には《エイス》(の中へ)という前置詞を伴う句が続くことになります。なお、パウロがこの動詞を「洗礼を授ける」とか「洗礼を受ける」という意味で用いているのは、コリントT一・一三〜一七で否定的な意味合いで用いている場合と、コリントT一五・二九、ガラテヤ三・二七の二箇所だけです。ここのローマ六・三とコリントT一二・一三では「浸し入れる」という本来の意味で用いられています(コリントT一〇・二は予型論的)。この動詞はバプテスマという儀礼を受けることを背景にしていますので、ここでは「バプテスマされる」という動詞形にして訳しますが、あくまで「沈める」とか「浸し入れる」という意味、したがって「合わせられる」という意味で理解していただきたいと思います。

 イエスを《キュリオス》と告白して、その信仰の告白行為としてバプテスマを受けた者は、実に「キリストの中へとバプテスマされた(浸し入れられ、組み入れられた)」のです。「キリストに合わせられた」のです。そのように「キリストに合わせられた」者の在り方が「キリストにある《エン・クリストー》」と言われるのです。このような霊的事態が起こるのは聖霊の働きによります。パウロはここで「聖霊による」という表現は用いていませんが、現実に霊なるキリストの中に組み入れられる出来事は、聖霊の働きなしでは起こりえません。パウロは、ローマの兄弟たちが信仰に入ったとき、このような現実が起こっていることを思い起こさせて、「キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです」と、その中に含まれる意義を確認させています。「キリストの死の中へバプテスマされる」というのはパウロだけの表現です。「キリストに合わせられる」という出来事は、「キリストの死に合わせられる」ことを含みます。この「キリストの死に合わせられる」ことによってはじめて、わたしたちの「古い人」は死ぬのです。
 古来人間は、永遠の実在界を探求し、霊的実在界に自在に生きるという宗教的境地に到達するのに、最大の妨げは自分自身であることに気づいていました。自分を主張し、自分の欲求に従う自我が生きている限り、そのような境地に達すことはできないことを自覚していました。それで、霊的な真理に到達することを説いた智者たちは、何らかの形で自分に死ぬこと、無の境地に生きることを求めたのでした。それで、宗教的探求は何らかの形の禁欲的な修行を伴うのが普通になります(たとえば、大死一番を求める禅の修行を考えてください)。そのような禁欲的な修行は、普通の市井の生活を送る者にはとうていできないことですから、宗教的な悟得はごく限られた者が特別な状況で到達できる特権的な境地になります。
 これに対して福音では、誰でもキリストにあるならば、すなわち、キリストが自分のために死なれたことを信じて、このキリストに身を投じ、恩恵によって与えられる聖霊によりキリストに合わせられるならば、キリストの死が自分の死になるのです。自分が死ぬために厳しい禁欲的な修行をする必要はありません。自分の死という境地が、キリストにあって、上からの恩恵として賜るのです。ですから、どのような境遇の人でも到達できる境地になります。市井の普通の生活の中で、もはや自己の欲求に従うのではなく、自己を滅却した生き方が自然な無理のない形で始まります。ごく普通の市民生活の中に自己を滅却した生き方に接するとき、そこにわたしたちはキリスト者の標識を感じるのです。
 「キリストの死に合わせられた」ということを、パウロはさらに「キリストと共に葬られた」という表現で念を押します。「死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです」(四節前半)。葬られることは死の確認です。パウロが引用しているパウロ以前のキリスト伝承(コリントT一五・三〜四)に、「キリストは…死に、葬られ、復活し、現れた」とあります。キリストが死んで葬られたのに合わせられて、わたしたちも死んで葬られたというのです。これまでのわたしたちが生きている限り、別種の新しい命によって生きることはできないからです。死んで葬られるのは、わたしたちが別種の新しい命に生きるようになるためです。
 わたしたちが今まで生きてきた命とは別種の新しい命に生きるようになるために、キリストが「死者の中から復活された」のです。「それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです」(四節後半)。キリストは創造者なる神の目的と限りない力によって「死者の中から復活させられた」のです。「死者」は複数形です。死の状態から復活させられたというのではなく、「多くの死者たちの中から」キリスト一人がまず復活されたのです。キリストは「初穂」として復活されました。

 「初穂としての復活」については、拙著『パウロによるキリストの福音U』の第六章「死者の復活」第三節「初穂キリスト」を参照してください。

 このキリストの復活は、復活の順序として「初穂」である(コリントT一五・二三)だけでなく、現在のわたしたちが《ゾーエー》(命)と呼ばれる新しい人間の在り方に生きるようになるための根拠です。キリストが復活されたから、キリストに合わせられた者が「命の新しい次元に歩む」ことができるようになるのです。パウロはここで「命の新しさ」に歩むという表現を用いています。「新しさ」という名詞を用いた表現はパウロだけで、それもここと「御霊の新しさ」(七・六)の二箇所だけです。「新しさ」という名詞の元にある《カイノス》(新しい)という形容詞は、新約聖書では終末的な事態を指しています。パウロにとって、《ゾーエー》(命)とか《プニューマ》(御霊)は終末的な現実であって、今までにはなく、さらに新しいものによって取って代わられることのない終末的な人間の在り方を指し示す用語です。その御霊の命がもたらす人間の終末的な在り方を「命の新しさ」と表現するのです。そのような意味合いを表現するために、ここでは「命の新しい次元」と訳しています。
 なお、パウロがここで「歩むようになるため」という表現を用いているのは、パウロがここで将来の復活を問題にしているのではなく、現在の地上の歩みについて語っていることを示しています。わたしたちはまだ復活してはいないが、復活を目指す終末的な質の命を、現在の歩みの中で生き始めています。「歩むようになるため」は、わたしたちがバプテスマによってキリストの死に合わせられたのは、罪の中に「とどまる」ためではなく、罪の支配から解放されて、命の新しい次元に「歩む」ようになるためであることを明示して、一節の誤解とか非難に答えていることになります。

 キリストと「一緒に十字架につけられた」、「一緒に死んだ」、「一緒に葬られた」という表現(接頭語《シュン》を伴う動詞)を多用するパウロが、キリストと「一緒に復活した」という表現を用いないことが注目されます。「一緒に復活させる」という表現はコロサイ書(二・一二)やエフェソ書(二・六)になって初めて使われるようになります。パウロにおいては、わたしたちの復活が将来のことであるという面が保持されています(次節を参照)。

死の形と復活の形

 このようにキリストの中にバプテスマされてキリストの死に合わせられた者が、「命の新しい次元に歩む」ようになることが、死んで復活されたキリストと「同じ形に合わせられる」からだという表現で根拠づけられます。

 「もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです」(五節)。

 「形に合わせられる」と訳した句は、直訳すると「同じ形に合わせられる」です。あるいは「同じ姿に合わせられる」、「似姿に合わせられる」です(新共同訳は「姿」をいう語を用いています)。キリストは死んで復活されたのであるから、キリストの死と同じ形に合わせられた者は、キリストの復活と同じ形に合わせられることになるのだというのです。キリストの復活にあずかるには、キリストの死に合わせられなければなりません。他方、キリストの死に合わせられて、キリストの復活に合わせられないことはありません。両者は同じキリストに合わせられることの結果であり、一体です。片方だけではありません。パウロはこの一体性を根拠にして四節で述べたことを根拠づけます(五節は理由を示す小辞《ガル》で始まっています)。
 ところで、この文で「死の形に合わせられた」という動詞は現在完了形ですが、「復活の形に合わせられる」の方は未来形です。わたしたちがキリストの死に合わせられたのはすでに起こった霊的事実ですが、「復活の形に合わせられる」のはこれから起こることです。それが将来のことであることを示すために、「復活の形にも合わせられることになる」と訳しています。ただ、この未来形はキリストが来臨される終末の時だけを指しているのではなく、パウロにおいては、現在すでに始まっており、将来に向かって進展し、終末において完成するという過程全体を指す未来形です。これは「救われる」が未来形で語られる(たとえば五・一〇)のと同じです。パウロにおいては、《エン・クリストー》(キリストにある、キリストと結ばれている、キリストに合わせられている)という現実は、「今すでに」と「やがて将来に」という緊張をはらむ現実です。

キリストと共に十字架につけられた

 パウロはこれまでに強調してきた「キリストの死の中へバプテスマされた」とか、「キリストの死に合わせられた」、「キリストと共に葬られた」、「キリストの死の形に合わせられた」という事実を別の表現で繰り返します(六節)。

 「わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを、わたしたちは知っています」(六節前半)。

 ここで「古い人」という表現が出てきます。この表現が出てくるのは、パウロ七書簡ではここだけです(後でコロサイ三・九、エフェソ四・二二で用いられるようになります)。「古い人」というのは、わたしたちの中の一つの側面ではなく、古いアイオーンに属する人間、アダムが代表する生まれながらの人間の全体を指します。「わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられた」というのは、わたしたちの人間性の中のある一面(たとえば嫉妬深いとか短気であるとか欲深いなどなど)が否定され、なくなったというのではなく、今までの生まれながらの人間存在全体が否定され、十字架につけられたのです。パウロは以前すでにガラテヤ書(五・二四)で、「キリスト・イエスに属する者たちは、欲情や欲望と一緒に、肉《サルクス》を十字架につけたのである」(私訳)と言っています。そうすると、パウロがここだけで用いている「古い人」というのは、パウロ特有の用語である「肉」《サルクス》とほぼ同じ意味で用いていることがわかります。それは、古いアイオーンに属する人間、アダムが代表する生まれながらの人間の人間性全体を指しています。この「古い人」が死ななければ、「新しい人」、すなわち新しいアイオーンに属する人間が、新しい質の命《ゾーエー》に生きることは始まらないのです。
 このように「わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」のは何のためか、その目標が示されます。「それは、罪のからだが滅ぼされて、わたしたちがもう奴隷として罪に仕えることがないようになるためです」(六節後半)。ここに「罪のからだ」という注目すべき表現が出てきます。パウロにおいては、「からだ」《ソーマ》は精神に対立する身体ではありません。ギリシア人は精神(魂)と身体(肉体)を対立する別の存在と見て、精神が自分を閉じ込めている低い欲望の塊である身体から解放されることを救済とする傾向がありました。ヘブライの伝統にあるパウロにとっては、身体から離れた精神(魂)はありえません。「からだ《ソーマ》」というのは、身体と精神を備えた人間の全体、具体的な相で見られた人間の全体を指します。「罪のからだ」とは、罪の支配下にある人間の具体的な姿です。この罪に支配された人間の姿は、後で「死ぬべきからだ」(六・一二)とか「死のからだ」(七・二四)と呼ばれることになります。
 わたしたち生まれながらの人間は、罪という主人に支配される奴隷として罪に仕えているのだ、とパウロは見るのです。これは比喩です。奴隷制社会に生きる人たちに身近な奴隷の姿を比喩として用いて、罪の支配下にある人間の姿を描くのです。これが比喩であることは、後でパウロ自身が断っています(六・一九)。ローマ社会の奴隷は主人の温情によって解放されることがありましたが、罪という主人は決して自分の奴隷を解放しようとはしません。このような主人から解放されるのは、奴隷が死亡したときだけです。死亡した奴隷は、もはや主人に仕える責任はありません。そのように、わたしたちが罪の支配から解放されるためには、キリストの死に合わせられてわたしたちが死ぬ他には道がないのです。

ローマの奴隷制については、拙著『パウロによるキリストの福音V』303頁以下の「ローマの奴隷制」を参照してください。

 パウロは、死んだ者は罪の支配から解放されるという事実を、もう一つ別の比喩で説明します。それは法廷の比喩です。法廷の「無罪放免」という比喩を用いて、パウロはこう言います。「 死んだ者は罪から放免されているからです」(七節)。 「放免されている」と訳した動詞は、これまで「義とされている」と訳してきたのと同じ動詞ですが、ここでは法廷用語として「無罪を宣告して放免する」という意味で用いられています。七節も《ガル》という理由を示す小辞で始まっていますが、死者は罪責から放免されているという法廷の原則を用いて、六節の理解を根拠づけるのです。どのような犯罪者も、死んでしまえばもはや法律によって責任を追及されることはありません。そのように、「罪のからだ」としての人間も、その「罪のからだ」がキリストに合わせられて死んでしまえば、もはや法律によって責任を追及され、拘束され続けることはないのです。
 この奴隷の比喩と法廷の比喩は、後で「わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです」(六・一九)と断って、改めて取り上げられます。キリストに合わせられた者は、キリストの死に合わせられたのであり、罪に死んでいるのだという霊の現実を何とかして理解させたいと、パウロは実際の生活の中の身近な体験を比喩として用いて語ります。そこでは奴隷の比喩(六・一五〜二三)と結婚の比喩(七・一〜六)が詳しく展開されます。後者(結婚の比喩)は、ここでごく簡単に触れた法廷の比喩を、結婚関係を実例として用いて詳しく展開し、死んだ者は法の責任追及と拘束を受けないことを説明しようとしています。イエスは「神の国」をパレスチナの農民の生活の中からの比喩を用いて語られましたが、パウロは「キリストにある」という霊的現実を、ローマ社会の都市生活の中からの比喩で語ります。

キリストと共に生きる

 ここまで(三〜七節)わたしたちはキリストと共に死んだ者であることが、「死の中にバプテスマされた」、「共に十字架につけられた」、「共に葬られた」、「死の形に合わせられた」というような様々な表現によって畳みかけるように語られてきました。たしかに、同時にその中で、キリストと共に死んだのはわたしたちが「命の新しい次元に歩むため」、「復活の形に合わせられるため」であるという目的も指し示されていました。しかし、全体としては、「罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」(二節)という議論を根拠づけるために、「罪に死んだ」という事実を述べることに重点がありました。
 ここでパウロは視線を「キリストと共に生きる」ことに向けます。「 もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています」(八節)。「キリストと共に死んだ」という事実を見つめて確認した後、そこから始まる「キリストと共に生きる」という生の現実に目を向けます。それは、これから始まり、将来に向かって進み、終末において完成される新しい生です。八節においても(四節と五節と同じく)、「キリストと共に死んだ」は過去形であり、「キリストと共に生きるようになる」は未来形です。
 ここで「キリストと共に生きるようになること」について、パウロは「(そのことを)わたしたちは信じています」と言っています。ここで「信じる」という動詞が用いられていますが、これは「信仰」とか「信じる」という用語がいっさい出てこない第二部での唯一の例外です。第一部では、イエスを復活者キリストと信じて告白することが「信仰」と呼ばれて、義とされるための唯一の道として繰り返し出てきました。ところが、第二部ではキリストを信じている者は「キリストにある」者として語られて、もはや「信仰」という用語は出てきません。ここの「信じる」も、第一部でのような特定の内容をもつ「信仰」とか「信じる」ではなく、自分の側では理解したり根拠づけたりできない見えない世界を確実な現実として生きる姿勢一般を指しています(ヘブル書一一・一参照)。
 なお、ここの「信じています」の内容は「キリストと共に生きるようになること」です。「キリストと共に死んだ」ことは含まれていません。それは事実として前提されています。八節は原文の順序通りに訳すと、「もしわたしたちがキリストと共に死んだのであれば、わたしたちは信じます、キリストと共に生きるようにもなることを」となります。わたしたちがキリストの死に合わせられてキリストと共に死ぬことがなければ、キリストと共に生きることは始まりません。キリストと共に死ぬということが現実に起こってはじめて、キリストと共に生きることが始まるのです。ただ、「キリストと共に生きる」ことはわたしたち人間の側で理解したり根拠づけたりすることができない現実です。それは、神が与えてくださる現実として「信じて」生きていくことになるのです。
 そう信じて生きていくことができる根拠は、神がキリストを復活させたという事実です。パウロは「わたしたちは信じています」ということができる根拠を、「わたしたちは知っているからです」という(分詞形の)文で続けます。「キリストは死者の中から復活して、もう死ぬことなく、死はもはやキリストを支配しないことを知っているからです」(九節)。
 わたしたちは聖霊が働く場で復活されたキリストに出会ったので(聖霊体験はそれ以下ではありません)、キリストは死者の中から復活されたことを身をもって知っています。そしてキリストの復活は、ラザロの場合のようにこの世の生に生き返っただけで結局は死ぬような出来事ではなく、もう死ぬことはない終末の生に復活されたのです。今なお死はすべての人を支配しています。その中でキリストだけはもはや死に支配されることがない方として生きておられます。復活者キリストだけが、死がもはや支配しない終末の世界を体現しておられるのです。そのようなキリストに出会い、そのようなキリストに合わせられて生きているのですから、すなわちそのような「キリストにあって」生きているのですから、わたしたちは、見えるところではなお罪が支配し死が支配している現実のただ中で、「キリストと共に生きるようになる」ことを信じて歩むことができるのです。

罪に死に神に生きる

 パウロは、福音が宣べ伝えるキリストの死と復活の出来事を、「キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのであり、キリストが生きておられる生は、神に生きておられる」(一〇節)ことと理解しています。これは、「キリストはわたしたちの罪のために死に、三日目に復活された」というエルサレム教団のケリュグマを継承してはいますが、それにパウロ独自の理解が加えられています。むしろ、かなり決定的な変化が起こっていると言うべきかもしれません。パウロが受けて伝えたとするエルサレム教団のケリュグマは、ユダヤ教の贖罪祭儀の伝統の中で、キリストの死を「わたしたちの罪(複数形)のため」の死、すなわち、「わたしたちが律法に違反して犯した諸々の罪過を贖うために犠牲の供え物として死なれた死」と理解し宣べ伝えています(コリントT一五・三〜五)。それに対して、パウロは「キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのである」とするのです。この「罪」は単数形です。すなわち、人間を支配する力としての罪です。キリストは罪の力が支配する場で自分が死ぬことによって、自分に合わせられる民が「罪に死ぬ」ことができるように、原型となられたという理解です。キリストは自分に属する民を代表して「罪に死なれた」のです。ここにも「キリストはアダムである」というパウロの「アダム・キリスト論」が見られます。キリストは「終わりのアダム」として、すなわち、終末に現れる人間を代表する存在として、自ら罪が支配する場で死なれ、そのことによってキリストに属する人間が「罪に死ぬ」、すなわち、もはや罪がその支配力を及ぼすことができない場に置かれるようにされたのです。パウロはキリストの十字架の死を、ユダヤ教の贖罪祭儀の視点を超えて、わたしたちの霊的現実の根源をなす同時的な出来事と観ているのです(ガラテヤ二・一九)。
 この「罪に死なれた」キリストの死について、「ただ一度」という句が添えられています。この句は、罪を贖う祭儀的犠牲が繰り返し供えられたのと対照して、人間を「罪に死んだ」状態にするための救済者の死は、終わりの時に成就する決定的な出来事であって、それまでになく、またそれ以後に繰り返される必要もない、決定的な一回限りの出来事であることを示しています。この句は後に、贖罪祭儀としての意義を重視する「ヘブライ人への手紙」にも受け継がれて出てきます(ヘブライ九・二六)。
 そのキリストが復活されて今も生きておられる生は、「神に生きる」という質の生です。「罪に死ぬ」と「神に生きる」は対句となっています。罪は神に対立する霊的な支配力として現れています。「罪に」と「神に」という(ギリシア語では)三格の形は、「〜に向かって」、「〜に対して」とか「〜との関わりにおいて」という意味で用いられていると理解してよいでしょう。すでに「わたしたちは罪に死んだ」(二節)という形で用いられていました。わたしたちは「罪との関わりにおいては死んだ者となった」のです。それは、キリストが罪との関わりにおいて死なれたからであり、そのキリストの死に合わせられて、わたしたちも罪が支配する場で死んだ者となったのです。そのように、復活されたキリストは「神との関わりに生きておられる」のです。神と関わる場において、神との結びつきの中で生きておられるのです。復活とは、一度死なれたキリストが、永遠の神との関わりの中で、その神の命によって永遠に生きておられる事実を表現する言葉です。
 このように「罪に死に、神に生きておられる」キリストの事実を思い起こさせた後、パウロは「そのように、あたがたがたも自分が、キリスト・イエスにあって、罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを認めなさい」(一一節)と続けます。キリストがそうであったように、「同じように」あなたたちも罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを「認めなさい」と、パウロは求めます。「認める」という動詞はパウロがよく用いる動詞で(ローマ書だけでも一九回)、本来は「勘定に入れる」(四・三など)とか「考える」(三・二八)などという意味ですが、ここでは「しっかりとその事実を認識して(評価して)、その上に立って歩みなさい」という気持ちで用いていると見られます。
 わたしたちが「罪には死んだ者であり、神に生きている者である」のは、わたしたちが「キリスト・イエスにあって」、すなわちキリストに合わせられてはじめて、ありうることです。わたしたちは自分で「罪に死に、神に生きる」ことはできません。キリストの死に合わせられて死に、その結果、キリストの復活に合わせられて、復活のキリストの命に生きるようになってはじめて、「神に生きる」ことができるようになるのです。
 したがって、(原文で)最後に置かれている「キリスト・イエスにあって」という句は、「罪には死んだ者であり、神に生きている者である」という全体にかかるものと理解すべきです。ところが、ほとんどの邦訳(協会訳、新改訳、新共同訳、岩波版青野訳)では、この句を直前の「神に生きている」だけにかけて、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(新共同訳)というように訳しています。これは邦訳にしばしば見られる傾向ですが、修飾する語句を直前の句だけにかけて、先行する表現全体を修飾していることを見落とす誤りの一例です。この訳では、「罪に死ぬ」ことは「キリスト・イエスにあって」起こることではなく、自分で「罪に死ぬ」ことになります。自分で罪に死んだ上で、「キリスト・イエスにあって神に生きる」ことが始まります。ところが、パウロはこの段落で、わたしたち「キリストに合わせられた者」は「キリストの死に合わせられた」のであり、そのことによって「罪に死ぬ」ことになったのであることを強調しています。すなわち、わたしたちは「キリストにあって、罪に死んだ」のです。もし自分で「罪に死ぬ」ことができるのであれば、キリストの十字架の死は要らないものになります。キリストは、エノクのように地上の生から死を経ないで復活の生に入られても、救済者でありえたことになります。

義のための武具

 ここまでに述べてきたことを「そこで」または「それゆえに」という一語で受けて、そのように「キリストにあって、あなたたちは罪に死に神に生きている」のであるから、このように歩みなさいと実際の生き方を勧告します(一二〜一四節)。これは、一節の「恵みが増し加わるために、わたしたちは罪にとどまっていてもよい」ということになるではないか、という批判に対する反論を具体的な形で締め括ることになります。
 まず、「それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、からだの欲求にあなたがたが従うということにならないようにしなさい」(一二節)という勧告がきます。先に「罪のからだ」(六節)と言われていた「古い人」の在り方が、ここでは「死ぬべきからだ」、「死に定められたからだ」という表現で語られています。この場合の「からだ」は、六節の「罪のからだ」のところで述べたように、精神に対立する肉体ではなく、からだを備えた具体的な人間全体の在り方を指しており、その在り方が「罪に支配されている」とか「死に定められている」と規定されているのです。
 ここでも単数形の「罪」が人間を支配する力として登場します。罪がわたしたちの死ぬべきからだを支配するとき、わたしたちは「からだの欲求に従って」生きることになり、罪の奴隷としての生き方に陥ります。罪の支配に身を委ねないために、「からだの欲求に従わない」ように勧告するのです。罪はわたしたちの「からだの欲求」を手がかりにして支配するのですから。
 ここで「からだの欲求」というのは、食欲とか性欲というような身体が本来持っている生理的欲求が問題となっているのではありません。もしそうであるならば、この勧告は禁欲主義の勧告となります。このような生理的欲求をゼロにすることはできません。それなくしては、人間は人間として存続できないのです。人間がもつ本来の生理的欲求を可能な限り抑えつけても、それで罪の支配を脱することはできません。ここで「からだの欲求」というのは、「罪のからだ」、「死すべきからだ」の存在としての人間が本性的にもっている欲求、すなわち支配欲に他なりません。人間は支配欲の塊です。物に対する支配欲は所有欲となり、人に対する支配欲は権力欲となって現れます。人間が次から次へと際限なく物を欲しがるのは、すこしでも多くの物資を支配して自分の自由にしたいからです。人間が本性的に権力を欲するのは、すこしでも多くの人を支配する立場になって、自分の思うとおりにしたいからです。この際限のない支配欲が、人と人との愛の関係を破壊し、罪が人間を支配する場を形成しているのです。
 パウロは、このような「からだの欲求に従うことがないように」という勧告を、「肢体」という言葉を用いてさらに具体的に表現します。「あなたがたの肢体を不義のための武具として罪に委ねてはなりません」(一三節前半)。「肢体」というのは手や足、目や耳というような身体の各部分のことです。わたしたちはこのような肢体を用いて行動します。この人間としての行動をする道具としての肢体を「不義のための武具」として、罪という支配力に委ねて、罪という主人が使用するままにさせてはいけない、というのです。
 「武具」と訳した原語は「道具」という意味にも用いられるギリシア語です。パウロはキリスト者の生を闘いと見て、この語を「武具」の意味で用いることが多いので(コリントU六・七、、一〇・四、 ロマ一三・一二)、ここでも「武具」という語で訳しておきます。手や足、目や耳などの「肢体」を用いて具体的な行動をするとき、その肢体を「不義のための武具」、すなわち不義を行うための道具として、罪に用いさせてはならないのです。ここで「不義」というのは、さき(206頁の注記)に述べた「義」の反対、すなわち神が人間に求めておられる在り方とか行為に反することです。神が人間にこのような肢体をお与えになったのは、「罪」がそれを道具として用いて人間に不義を行わせるためではなく、「義のための武具(道具)」として、神の御心を行わせためであるのです。それで、パウロは続けてこう言うのです。「むしろ、死者の中から生き返った者として自分自身を神に委ね、あなたがたの肢体を義のための武具として神に委ねなさい」(一三節後半)。
 ここで、キリストにある者はキリストの死に合わせられて死に、キリストの復活の形に合わせられて「命の新しい次元に歩むようになる」のだという、この段落(とくに三〜五節)で述べてきた霊の現実が実践的な形で現れてきます。わたしたちの「古い人」は死んだのです。そして、キリストの復活の命によって歩む新しい人として生き返ったのです。このように「死者の中から生き返った者」として、自分自身を神に委ね、その具体的な表現として、自分が行動するときの道具である「肢体」を、神が用いることができるように神に委ねるように求められるのです。それが実際にどのような形をとるのかは、第四部(一二章以下)で具体的に語られることになりますが、ここでは恩恵の下にある者は恩恵の現実を自分の肢体で現していく責任があるという原理を述べるにとどめます。
 ここで「神」は「罪」と対立する「義」の源泉として見られており、自分の肢体を「義のための武具」として献げるべき対象として現れています。パウロにおいては、「罪」は究極では神と対立する支配力として、人間を支配することを神と争う力なのです。

恩恵の下にいるので

 そして最後に、このような勧告が可能になる根拠として「恩恵の支配」にもう一度目を向けさせます。

 「それは、あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはないからです」(一四節)。

 一四節は理由を示す小辞《ガル》で始まっており、一二〜一三節の勧告がなされる根拠を示しています。その根拠は「あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはない」という事実です。ここに再び、パウロ独自の律法観が現れています。すなわち、もしわたしたちが「律法の下にいる」ならば、罪の支配から逃れることはできないという見方です。律法にはわたしたちを罪の支配から解放する力はないのです。わたしたちは「恩恵の下にいる」ことによって初めて「罪の支配」から脱することができるのです。ここで明確に「律法の下にある」場と、「恩恵の下にある」場が対立するものとして対照されています。
 ユダヤ教の原理は「律法の支配」です。ユダヤ教にも罪の赦しはあり(この場合の罪は律法に違反する諸々の行為という複数形の罪です)、神の慈愛とか恵みが説かれています。しかし、ユダヤ教の基本原理は「律法の支配」です。すなわち、律法を順守する者が義であり、神の民としての資格を持つのです。ユダヤ教徒であることは、ラビの表現によれば、「律法の軛を負う」ことです。ダマスコ体験までのパウロは、「同胞(ユダヤ人)の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心でした」(ガラテヤ一・一四)。律法学者たちが口伝で伝える「先祖からの伝承」も、モーセ五書という成文律法と同じ神の律法として扱われていました。パウロはこの「律法」を守ることに誰よりも熱心でした。それが義に至る道であり、「ユダヤ教に徹する」ことだったのです。ところが、ダマスコ途上で復活のイエスに遭遇し、神はまったく別の義の道を立てておられることを体験するのです。義の道としての律法は終わったのです。キリストは「律法の終わり」となられたのです(一〇・四)。
 ダマスコ体験以後のパウロは、このキリストにおいて与えられる恩恵に生きる者となり、キリストにおける恩恵を告知する使徒となります。「恵みの下にいる」という場では、「もはや罪が支配することはない」という事実を体験します。それは、個々の律法違反行為の責任を問われないという「罪の赦し」ではありません。「罪に死んだ」結果、罪の支配から解放されているという事実の体験であり、その認識です。個々の罪の行為が赦されても、罪の支配の下にあるかぎり、罪に生きるという事実は変わりません。その結果は死です(六・二三)。それに対して、キリストにある者はキリストの死に合わせられて罪に死んだので、「もはや罪が支配することはない」のです。その結果、まったく新しい別の力が支配する場で生きることができるようになるのです。その消息は八章で詳しく展開されることになりますが、ここでは「自分の肢体を義のための武具として神に委ねなさい」という勧告の根拠として触れるにとどまっています。
 一四節の原文には「もはや」という副詞はありませんが、動詞が「(これからは)支配することはないであろう」という未来形であるので、「律法の下にあった」これまでの場と、「恵みの下にある」これからの場(現在すでに始まり、これから生きることになる場)の対比をはっきりさせるために補って訳しています。「キリストにある」という場は、第二部の導入部ともいうべき先の段落(五・一二〜二一)で明らかにされたように、恩恵が支配する場なのです。

パウロのキリスト体験の核心

 このように、この段落(六・一〜一四)は、「恩恵の支配」の宣教に対する批判に応えるという形を取っていますが、その中にパウロの福音の核心、すなわちパウロのキリスト体験の核心が語られています。その核心とは、十字架されたキリストと共に死に、復活されたキリストの命に生きることです。この「キリストにあって」、すなわちキリストに合わせられることによって、古い自分に死に、新しい命の次元に生きることこそ「救い」の中身です。
 この「救い」の体験は第二部全体で詳しく展開されるのですが、その核心部分というべきものが、ここに語られているのです。ただ、ここでは「恩恵の支配」への批判に答えるために、「罪に死んだ者は罪にとどまることはできない」と主張することに重点が置かれているので、六章では「罪に死ぬ」とか「罪から解放されている」ことを述べることが多くなっています。そして、自分に死ぬことは律法から解放されることを意味すると、「律法からの解放」が七章で語られ、最後に八章で罪と律法から解放された結果、命の御霊によって「命の新しい次元」に生きる現実が語られることになるのです。このような構成をとる第二部の中で、この段落に現れる「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」というキリストにある者の姿は、第二部の主題を示しており、パウロが体験し告知する「キリストの福音」の核心を指し示しています。
 ところで、ここに語られている「キリストの死に合わせられ、キリストの復活の命に生きる」という福音の核心は、第一部で告知された「信仰による義」とどのような関係にあるのでしょうか。神学の世界ではよく「義認と聖化」ということが言われます。信仰によって義とされるのは法廷的な無罪宣告であって、行いなくして信仰によって義(無罪)と認められた者は、それから聖霊の働きによって実際に神の御心を行う者(聖なる者)となるように召されている、という考え方です。ここでは福音が法的な義認と霊的な聖化という二段構えで理解されています。わたしは、パウロの福音にはこのような二段構えはないと考えます。
 パウロは少し先にコリント集会の人たちに向かってこう言っています、「あなたたちは、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の御霊によって、洗われ、聖とされ、義とされたのです」(コリントT六・一一後半私訳)。この文の直前で、パウロはコリント集会の人たちが信仰に入るまでは異教徒として「みだらな者、偶像礼拝をする者、強欲な者・・・・・であった」として、「しかしあなたたちは洗われた、しかしあなたたちは聖とされた(清められた)、しかしあなたたちは義とされた」と、「しかし」と三つの過去形の動詞を繰り返して畳みかけるように信仰に入ったゆえに起こった変化を描き、最後に「主イエス・キリストの名によって、そしてわたしたちの神の御霊によって」と、その変化が起こった根拠を述べるのです。パウロは三つの動詞を用いていますが、それは信仰によって、すなわちキリストにあって、神の御霊の働きによって起こった変化という一つの事態を違った用語で表現しているのです。「洗われた」という表現にはバプテスマが背景にあるのかもしれません。「洗われた」、「聖とされた」、「義とされた」というのは、順次に起こったことではなく、同じ一つの現実を指しています。それはすべて「主イエス・キリストの名において」、すなわち「キリストにある」という場における「神の御霊の働き」によるのです。こうしてキリストを信じたときに起こった変化は、「キリストにある」という場で最後の完成を目指して続きます。この過程が「救い」であることは、これまで繰り返して述べてきた通りです。
 この段落で見てきたように、パウロにおいては、神の御心にかなう在り方とか歩みである「義」は、恩恵の場で実現するのです。すなわち、「キリストにあって」、キリストの死に合わせられて死ぬ場に働く命の御霊によって義は実現するのです。ただ第一部では、その「義」が実現される場に入っていくための道が、「律法の行い」によるのではなく、律法とは無関係に「キリスト信仰による」のであることが論争的に主張されたのです。そしてこの第二部において、義の実現が直接取り上げられて論じられるのです。こうして、第一部と第二部は、「義認と聖化」というように神の救いの働きが二段構えで語られているのではなく、罪の支配下にある人間を救う神の働き(神の義)という一つの現実が、そこに入る入口とその本体の描写という二つの違った視点で語られているのです。

14 義の奴隷 (6章 15〜23節)

 15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいのでしょうか。決してそうではない。16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたは、だれかに従うために自分を奴隷として委ねるならば、あなたがたが従っている人の奴隷なのであって、罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかなのです。17 しかし、神に感謝します。あなたがたはかっては罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い、18 罪から解放され、義に仕える奴隷になりました。
 19 わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです。あなたがたの肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていたように、今はあなたがたの肢体を奴隷として義に委ね、清くなりなさい。20 あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした。21 その時、あなたがたはどのような実を得ましたか。今では恥じるようなものではありませんか。そのようなものの終局は死です。22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕える者となり、あなたがたの実を清くしています。その終局は永遠のいのちです。23 罪の報酬は死です。それに対して、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにあって賜る永遠のいのちなのです。

二つの解放のたとえ

 前段(六・一〜一四)で、キリストにある者、キリストに合わせられた者は、キリストの死に合わせられ復活の命に生きる者であること、罪に死に神に生きる者であるという福音の核心を示したパウロは、その罪の支配からの解放を、読者に身近な奴隷の身分を比喩として、分かりやすく再説します(六・一五〜二三)。そして、奴隷の比喩からすぐに、もう一つの身近な社会生活である結婚を比喩として用いて、罪の支配からの解放と一体である律法からの解放を説きます(七・一〜六)。イエスはガリラヤの農民たちの身近な日常体験を比喩として用いて「神の国」の福音を語られましたが、パウロはヘレニズム世界の都市生活の日常体験を比喩として用いて、福音の救済体験を語ります。

恵みの下にいるのだから

 キリストにある場では恩恵が支配するという福音の告知(五・二一)に対して、批判者たちは「恵みが増し加わるために罪にとどまっていよう、ということになるではないか」と非難しました。この非難に対してパウロは、キリストにある者は罪に死んだ者であり、罪にとどまることはできないことを論証しました(六・一〜一四)。その中で、「キリストにある」とは、キリストの死に合わせられ、キリストの復活のいのちに生きることであるという、福音の救済体験の核心を語ることになりました。そして、その結論の部分で、もはや罪に支配されることがないのは、キリストにある者は「律法の下ではなく恵みの下にいる」からだと宣言しました(六・一四)。
 ここで「律法の下にいる」と「恵みの下にいる」という二つの場が改めて対比され、その違いが問題にされます。前回(一節)の「罪にとどまる」ではなく、今回は「罪を犯す」という表現で、問題が律法に関連づけられて先鋭化されています。パウロは「律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪が支配することはない」と言います(一四節)。それに対して反対者は、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだから罪を犯してよい(律法の規定に違反してもよい)、ということになるではないか」と言います(一五節)。パウロと反対者(ユダヤ教徒およびユダヤ教律法の順守を要求するキリスト教指導者)の間には、律法と恩恵についての理解が根本的に違っているので、「律法の下ではなく恵みの下にいる」ことの結果が正反対になるのです。パウロは反対者の議論を取り上げて、「けっしてそうではない」と明確に否定します(一五節)。しかし、その否定を神学的な議論で根拠づけるのではなく、比喩を用いて説明します。

奴隷の比喩

 パウロは「あなたがたは知らないのですか」と反問して、当時では誰もが身近に知っている奴隷の立場を比喩として取り上げます(一六節)。実際、初期の信徒には奴隷の身分の者が多かったのです。誰もがよく知っているように、「だれかに従うために自分を奴隷として委ねるならば、あなたがたが従っている人の奴隷なのであって」、他の人に従うことはできません。二人の主人のどちらにも奴隷として仕える(兼ね仕える)とか、中間にいることはできないのです。この奴隷の立場を比喩として用いて、「あなたがたは、罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかなのです」と結論します。

 ローマの奴隷制については、拙著『パウロによるキリストの福音V』303頁以下の「ローマの奴隷制」を参照してください。

 ここで「罪の奴隷」と「従順の奴隷」が対比されています。罪は人間を支配する力ですから、罪という主人に仕える「罪の奴隷」という表現は理解できます。しかし、「従順」は従うさいの人の姿勢ですから、従順という主人に仕える奴隷という意味では「従順の奴隷」という表現は理解しにくいものになります。事実、パウロはすぐ後で「罪の奴隷」の反対を「義に仕える奴隷」と表現しています。「罪の奴隷」に対立するのは「義の奴隷」であるはずです。しかし、パウロにおいては神への不従順が罪であり、神への従順が義ですから(五・一九)、パウロは「義の奴隷」と言うところを「従順の奴隷」と置き換えることができるのです。
 この場合の「従順」とか「不従順」は、律法の規定を順守するか否かという「服従」の問題ではなく、神との関わりにおける人間の在り方そのものの問題です。自分を無にして神に聴き従う「従順」が義です。イエスはこの意味で義を全うされた方です。この「従順」は「信仰」と同じです。それで「信仰の従順」という表現も出てきます(一・五)。わたしたちがこの従順の姿勢で神に仕える姿が「従順の奴隷」と表現されるのです。

 義と従順の関係、また「従順」と「服従」の違いについては、フィリピ書二章一二〜一八節の講解(拙著『パウロによるキリストの福音V』233頁以下)を参照してください。

 しかも、「罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか」という対比において、罪という主人に奴隷として仕えた結果の死に対して、「従順の奴隷」として仕えた結果が義であるとされ、死と義が対比されています。ここでは「義」は死の反対、すなわち神との交わりにおける命を意味しています。この段落では、「義」は主人として仕える対象として現れたり、また仕えた結果として到達する目標として用いられたりしています。「義に仕える奴隷」は「神に仕える奴隷」(二二節を参照)と同じです。ユダヤ人パウロにとって、「義」は神との関わりの一切を指す用語なのです。

 「義」という名詞の用例については、本書206頁の注を参照。

古い主人から新しい主人へ

 こうして、奴隷の身分を比喩として、人間は罪の奴隷であるか従順の奴隷であるかどちらかであること、中間の立場はないことを示した後、キリストにある者は罪という主人から解放されて、新しい主人である義に仕える者になったことを確認します。

 「しかし、神に感謝します。あなたがたはかっては罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い、罪から解放され、義に仕える奴隷になりました」。(一七〜一八節)

 この文で問題になるのは、「あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い」という句の内容です。このことによってローマの信徒たちは罪の奴隷から解放され、義に仕える奴隷に変わったのです。

 「教えの型」という句はパウロには珍しい表現で、それが何を意味するのか、多くの議論がなされてきました。ここに用いられている《テュポス》というギリシャ語は、パウロにおいては普通「予型」とか「前例」という意味で用いられているギリシア語です(ローマ五・一四、コリントT一〇・六)。しかし、ここではそのような意味ではなく、伝統的に形成された教えの「形態」とか「内容」という、語の古典的な意味で用いられていると考えられます。そうであれば、コリントT一五・三〜五やローマ一・二〜四のように定型化された「福音」を指すと見てよいでしょう。日本語訳は「教えの基準」(協会訳)、「教えの規範」(新共同訳)、「教えの型」(岩波版)などと訳しています。また、ここに用いられている「引き渡された」という受動態の動詞は、「伝えられた」伝承という使用例が多いので、邦訳では「(あなたがたに)伝えられた教えの型」と訳されています(協会訳、新共同訳、岩波版青野訳)。しかし、原文の「引き渡された」という動詞の主語が二人称複数形であるので、この訳は無理です。原文の動詞はあくまで「あなたがたが(それに)引き渡された(または委ねられた)」という意味です(RSVなど多くの英訳と現代語訳は正確にそう訳し、ケーゼマン、ヴィルケンス、シュトゥールマッハーのNTDもそう理解しています)。おそらく、パウロは伝統的な「教えの型」という表現を用いながら、その内実であるキリストを念頭において、「あなたがたが(バプテスマにおいて)引き渡された主であるキリスト」を意味している、と理解してよいと考えられます。

 ここで「教えの型」というのは定型化された「福音」の内容を指し、パウロはその本体であるキリストを念頭に置いて、「あなたがたが(バプテスマにおいて)引き渡された主であるキリスト」に心から従った結果、罪という主人から解放されて義という新しい主人に仕える奴隷になった、と言っているのです。このことが起こったのは、神の恩恵の働きによるのですから、パウロは「神に感謝します」と叫びます。人間は自分の力で主人を変えることはできないのです。
 奴隷は二人の主人に同時に仕えることはできません。キリストに属する者は、罪という主人から解放されて義という新しい主人に仕える者になったのですから、もはや罪に仕えることはできません。今は義に仕える奴隷として、自分を新しい主人である義に献げるだけです。

比喩を用いる理由と比喩による勧告

 ところで、「義に仕える奴隷」という表現は矛盾を含んでいます。奴隷は仕えることを強制される身分です。しかし、新しい主人である義は決して仕えることを強制しません。義に仕えるのは、あくまで自発的な願いからすることです。キリストにある者は、そうしないではおれないから義に仕えるのです。パウロは、キリストにある者はもはや罪にとどまることはできないということを説明するために奴隷の身分を比喩として用いましたが、この比喩は「キリストにある」場においては、矛盾を含む比喩になります。そこで、パウロは比喩を用いることについて一種の弁明を入れます。

 「わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです」。(一九節前半)

 パウロはこの段落(六・一五〜二三)で「奴隷」とか「(奴隷として)仕える」という用語を繰り返し用いてキリストにある者の姿を描いていますが、神と人との関係は決して主人と奴隷の関係ではありません。すなわち、力による強制ではなく、愛による自発的な交わりです。ただ、「あなたがたの肉の弱さのゆえに」、すなわち生まれながらの人間性によって理解し判断する習慣が長く続いたので、人間は霊の現実を見る能力が衰えています。それで、罪に死んでキリストに生きるという霊の現実を語るのに、やむなく奴隷という社会制度における人間生活の現実を比喩として用いざるをえないのだと断っているのです。こう断った上で、奴隷の比喩を続けます。

「あなたがたの肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていたように、今はあなたがたの肢体を奴隷として義に委ね、清くなりなさい」。(一九節後半)

 ここで、以前の「アダムにある」生き方と、現在の「キリストにある」生き方が対比されて、勧告が行われます。福音を信受してキリストに結ばれるようになるまでは、「アダムにあって」、すなわち生まれながらの人間本性に従って生きることで、自分の「肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていた」のです。この「汚れ」とか「不法」《アノミア》という表現には、律法を持たない異教徒の放縦な生活に対するユダヤ人の嫌悪が感じられます(一・一八〜三二参照)。パウロは律法を誇るユダヤ人も同じであることを強調していますが(二・一〜二九)、ここでは両者をまとめて「汚れと不法」という表現でくくっています。
 それが現実であったように、キリストにある今は、実際に自分の「肢体を奴隷として義に委ね、清くなる」必要があります。ここでも「清くなる(聖となる)」というユダヤ教の理念が掲げられています。神は聖なる方(清い方)であるから、神に仕えるには「聖なる者」(清い者)でなければならない(レビ記一一・四五)、というユダヤ教の公理が貫かれています。しかし、その「清さ」はもはや律法を厳格に順守するという意味ではなく、キリストにあっては、神の本性あるいは栄光にあずかるという意味になっていると理解しなければなりません。これは、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(コリントU三・一八)というときの、「主と同じ姿に」なることを意味しています。そのために、自分の肢体を義という主人に献げなければならないのです。

結果の比較

 最後に、罪の奴隷と義の奴隷がそれぞれの主人に仕える生涯を送った結果を比較して、義に仕える生涯を送るように勧告します。

 「あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした。その時、あなたがたはどのような実を得ましたか。今では恥じるようなものではありませんか。そのようなものの終局は死です。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕える者となり、あなたがたの実を清くしています。その終局は永遠のいのちです」。(二〇〜二二節)

 あのアイオーンの更新を告知する「しかし今や」という句(三・二一、コリントI一五・二〇)で、キリストに来る前の時期とキリストにある今が対照されます。キリストに来ることは、個人の生涯において「アイオーンの更新」、生の質における決定的な革新なのです。それまでの時期とそれ以後の時期は、対照的な質をもち、反対の価値判断が行われます。それまでの時期に懸命に追い求めていた価値は、キリストにある「今では恥じるようなもの」になるのです(フィリピ三・七参照)。
 「あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした」とパウロは言います。ここで「責務のない」と訳した語は、奴隷が主人から解放されて、もはや主人に拘束されていない自由な状態を指す語です。ここでは「義」という主人に仕える必要のない立場を表現しています。義とは無縁な姿です。その時に得た「実」、すなわち罪の奴隷として生きていた時期に獲得した成果は、人の目には立派な成果であっても、今キリストにあって生きている御霊の命の質(それは人生において信仰と愛と希望という姿で現れます)から見れば、永遠の質を持たない空しいものであり、それを得たことを誇りとしていた自分が恥ずかしくなります。それがどのように価値あるものに見えても、それが神の霊の質をもたない限り、「終局」《テロス》においては神との関わりのないものと判断されて、神との交わりから断たれます。それが「死」です。

 二一節の「実」は単数形ですが、それを指す「恥じるようなもの」と「それらのもの」は複数形です。「実」は集合名詞として、人生の様々な行為とか成果を指していると理解できます。ガラテヤ書五章二二節の「御霊の実」も単数形ですが、その内容は複数の名詞で挙げられています。

 「しかしキリストにある今は」、罪から解放されて「神に仕える者」となりました。「仕える」という動詞は、ここでも「奴隷として仕える」という語が用いられており、奴隷の比喩が貫かれています。キリストにある者は「神に仕える奴隷」なのです。ここでは仕える主人として、罪と神が対照されています。この段落では、「罪の奴隷」に対照されるのは、「従順の奴隷」、「義の奴隷」、「神の奴隷」です。「罪の奴隷」はともかく、「神の奴隷」という比喩は、先にパウロ自身が断っていたように(一九節前半)、本来成り立ちません。神は人間を強制する方ではないからです。それにもかかわらず、「神の奴隷」というような表現が出てくるのは、パウロにおいて救済が罪と死の支配からの解放と理解されているので、それを分かりやすく語るための比喩として、奴隷の解放というローマ社会での身近な体験が有効であるからだと考えられます。奴隷が解放されることによって起こる身分と生活の劇的な変化が、「キリストにある」ことによって起こる劇的な変化の比喩としてふさわしいからです。解放された結果、もはや元の主人に拘束されない自由の身であることが強調される場合もありますが(ガラテヤ五・一以下)、ここでは新しい主人に仕える立場を強調して、「(奴隷として)仕える」という奴隷の比喩が続いています。
 「神に仕える」ことにより、「あなたがたの実を清くしている」と言われます。ここを直訳すれば、「あなたがたの実を清さに向かって結んでいる」となります。「清さ」とは、先に述べたように、神の本性あるいは栄光にあずかることですから、この文は人生の成果が「主の栄光を反映する」ものとなることを指しています。そして、「その終局《テロス》は永遠のいのちです」。

「終局」の対照

 「罪の報酬は死です。それに対して、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにあって賜る永遠のいのちなのです」。(二三節)

 このように、罪の奴隷として生きる生涯と神に仕える生涯の結果を比較した箇所で、パウロは「終局」《テロス》という語を繰り返し用いて、その二つの生き方の最終的な局面を描いていました。熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒であるパウロは、人生をいつも神の最終審判の視点から見ないではおれません。ファリサイ派ユダヤ教の基本的な問いは、「永遠の命を受け継ぐためには何を為すべきか」という問題です(マルコ一〇・一七)。この問いにおける「永遠の命」とは、来るべきアイオーン(世)における命のことです。神の最終審判を経て到来する永遠のアイオーンにおいて、神から与えられる資産として「受け継ぐ」命です。その命を受け継ぐことが、このアイオーンでの生涯、すなわち地上の生涯の目的であり意義であるのです。

 七〇年以前のファリサイ派ユダヤ教が終末的・黙示思想的な傾向を強く持っていたことについては、 M.Hengel, The Pre-Christian Paul, (SCM Press), 40頁以下を参照してください。

 パウロはこの箇所(二〇〜二三節)で「罪の奴隷」と「義の奴隷」という人間の二つの生き方の結果を比較していますが、その結果の比較においても、その結果の最終的な局面を比較しないではおれません。そのさいにもなお奴隷の比喩が貫かれます。罪に仕える生涯の「終局は死」であり、神に仕える生涯の「終局は永遠のいのち」となります。
 罪という主人が、生涯仕えてきた自分の奴隷に支払う報酬は「死」です。神の命からの永遠の断絶です。それは罪に仕えた当然の結果です。それに対して神が御自身に仕えた者に与えるものは「報酬」ではなく「賜物」《カリスマ》です。報酬は当然の支払いですが、賜物はそれを受ける資格のない者に恩恵として与えられるよきものです(四・四)。永遠のアイオーンにおける命は恵み深い神の賜物として与えられるのです。生涯神に仕えた報酬ではなく、神が恩恵の神でありたもう故に、御自身に属する者に無条件で与えてくださる賜物です。永遠の命を自分の功績と資格で獲得できる人間はいません。わたしたちは、これだけのことをしましたから報酬として永遠の命をくださいと要求することはできません。為すべき事を為した無益(無資格)の僕に過ぎません(ルカ一七・七〜一〇)。神に仕える生涯の意義は、地上にあってすでに神がこのような絶対恩恵の方であることを知ることにあります。現在「主イエス・キリストにあって」与えられているこの無条件絶対の恩恵に生きることによって、かの「終局」においても同じ恩恵の神が来るべきアイオーンにおける命を与えてくださることを確信して生きることができるのです。パウロはこの「神の賜物」を待ち望むことができる根拠として、「わたしたちの主イエス・キリストにあって」という現在わたしたちが生きている恩恵の場をあげないではおれません。
 このようにパウロにおいては、「永遠のいのち」はなお「来るべきアイオーンにおけるいのち」という終末的な意味をもっています。パウロがその七書簡で「永遠の命」という語を用いているのは僅か五回、ガラテヤ書の一回(六・八)とローマ書の四回(二・七、五・二一、六・二二、六・二三)に過ぎません。そして、どの場合も終末的な意味で用いていると見ることができます。これは、ヨハネ福音書が一つの書だけで「永遠のいのち」を一六回も用いて書の主題とし、しかもそれを現在の体験としていることと較べると、パウロとヨハネの違いが際だちます。
 しかしパウロは、キリストにある者は聖霊によりすでにこの地上で終末的な質の命に生きていることを繰り返し語っています。たとえば、「キリストの死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命《ゾーエー》の新しい次元に歩むようになるためです」(六・四)と言っています。「歩む」とは、現実に生きている姿を指しています。わたしたちは現在この地上で、新しい次元、すなわち終末的な次元の命《ゾーエー》を生きています。後にヨハネはこの《ゾーエー》を「永遠の命」と呼んで、彼の福音書の主題にしたのです。ヨハネはもはや二つのアイオーンという黙示思想的な枠組みを用いないで、すべてを現在の霊的現実として見たのですが、パウロではまだ「永遠の命」という表現は「来るべきアイオーンにおける命」という終末的意味を保持しています。しかし、いのち《ゾーエー》を現在の霊的現実として最初に、そしてその質を詳しく語ったのはパウロです。わたしたちはヨハネのいう「永遠の命」をパウロの《ゾーエー》論から理解しなければなりません。