市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第9講

第二部 キリストにおける生

第二部への序言 ― 三楽章か四楽章か ―

 先に、ローマ書が口述筆記による書であるという観点から、五章一〜一一節の段落で大きなまとまりが終わっていることを明らかにしました。そうすると、五章一二節から新しい大きな部分が始まることになります。この区分が八章末で終わることは、内容上からも明らかであり、八章末で大きな区切りがあることは研究者の間でも異論のないところです。わたしは一章から五章一一節までを第一部とし、五章一二節から八章末までを第二部として、九〜一一章の第三部、一二章以下の第四部と対等に並べて、ローマ書を四部構成で理解しています。
 ところが、これまでのローマ書研究の多くは、(はじめと終わりの挨拶的な部分を別にして)一章から八章までを第一部とし、九〜一一章の第二部、一二章以下の第三部と対等に並べて、ローマ書を三部構成で理解しています。第一部(一〜八章)の中での区切り方については(前述したように)研究者の間でさまざまな見方があって一様ではありませんが、これを一まとまりの第一区分として、九〜一一章の第二区分、一二章以下の第三区分と対等に扱っているのは共通しています。ローマ書を交響曲にたとえると、長大な第一楽章(一〜八章)と、長さは約半分の第二楽章(九〜一一章)と第三楽章(一二章以下)という三楽章形式で聴いているわけです。それに対して、四部構成で理解しているわたしは、ローマ書という交響曲をほぼ同じ長さの四楽章形式の音楽として聴いていることになります。三楽章形式で聴こうと四楽章形式で聴こうと大した違いはないように思われますが、以下に説明するように、わたしはローマ書の理解にかなりの影響が出ていると見ています。
 交響曲においては、一つの楽章には主要な一つの主題が貫かれています。その主題を効果的に響かせるために調性やテンポが選ばれます。ローマ書において、九〜一一章がイスラエルの救いという主題に貫かれ、一二章以下がキリスト者の実際的な歩みという主題が扱われていることは問題がありません。ところが、一〜八章は一つの主題に貫かれた一つの楽章として聴くことができるでしょうか。この問題を、ローマ書は文書ですから、用語を手がかりにして検討してみましょう。
 一〜八章の前半(わたしがいう第一部)と後半(第二部)を較べますと、そこに用いられている用語の分布に大きな違いが認められます。前半では「信仰による義」が主題ですから、「信仰」とか「信じる」という語が多く出てくるのは当然です。第一部では「信仰」が一五回、「信じる」が九回出てきます。それに対して、第二部では「信仰」は全然出てきません。「信じる」も六章八節にやや特別な意味で出てくる以外は一度もありません。この「信仰」と「信じる」という用語一つとっても、第一部と第二部が同じ主題を奏でているとはとうてい聴くことはできません。さらに「義とされる」は第一部には一一回ありますが、第二部では三回に過ぎません(なお、「義」という名詞は第一部で一二回、第二部で八回と両方でかなり用いられていますが、この点については第二部の適当なところで論じることになります)。
 それに対して、第二部には《プニューマ》(霊、御霊)が一五回(八章に集中して)出てくるのに、第一部では一回(第二部を予告する五・五で)、第二部に《エン・クリストー》(キリストにあって)という句が五回出てくるのに第一部では一回(三・二四の定型的な文で)、第二部に「いのち」《ゾーエー》は一一回で出てくるのに対して、第一部では二回(その中の一回は第二部を予告する五・一〇)となります。
 このような用語の分布を見ますと、一〜八章の前半と後半でパウロが同じ主題を念頭に置いて論述しているとはとうてい考えられません。前半(第一部)では「信仰による義」が主題であることは間違いありませんが、その主題は後半(第二部)まで続いていません。後半には別の主題が現れてきています。すなわち、「信仰」とか「義とされる」という用語は消えて無くなり、「キリストにあって」とか「御霊」とか「いのち」という用語が圧倒的に多くなり、「キリストにある」という場において働く御霊のいのちが主題になっています。
 このように第一部と第二部では、用語から見ても全然別の主題が奏でられていることが分かります。そうであるにもかかわらず、一〜八章を一つの主題が奏でられている一つの楽章として聴くことには無理があります。これを一つの楽章として聴くとき、たいていの注解者は「信仰による義」を主題として聴くので、三章二一〜三一節を力を込めて「主題提示」として講解した後は、後半では消えてしまった主題に合わせようとして解釈に無理が生じ、活気を失い、つけ足しのような解説になる場合が多くなるのです。
 たとえばドイツ語の標準的な注解書であるNTDは、アルトハウスの旧い版も、シュトゥールマッハーの新しい版も、一〜八章を第一部、九〜一一章を第二部、一二章以下を第三部とする三部構成をとっています。最近この三部構成の問題点が気づかれたのか、(前後の挨拶的な部分を除いて)ケーゼマンは五部構成、ウィルケンス(EKK)は一〜一一章を本体部分として、それを三部に分けています(全体では四部構成になると見られます)。ウィルケンスは一一章までを三部構成とする点では本講解と同じですが、区分の原理はここでわたしが主張しているものとは違いますし、五章末までを第一部とするなど、区分の仕方も違います。
 これまで繰り返し主張してきたように、第一部は「救いに至らせる神の力」が働く場に入るための入口を論じる部分であり、第二部こそ「キリストにある」という場における「いのちの御霊」の働きを描くことによって、「救いに至らせる神の力」としての福音の本質を語る核心的な部分であることを、ここでもう一度、用語の観点からも確認しておきたいと思います。