市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第6講

第三章 信仰による義

第一節 律法と無関係の神の義

9 信仰による義 (3章 21〜31節)

 21 しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が現されています。 22 すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義であり、すべて信じる者に与えられるのです。 そこには何の差別もないからです。 23 人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 24 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。 25 神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです。それは、これまでになされた諸々の罪を免責してこられたために、御自身の義を示すためでした。 26 その免責は神の忍耐によるものでしたが、ついに今この時に、自ら義であり、かつイエス信仰の者を義とする者となるために、御自身の義を示されたのです。
 27 では、誇りはどこにあるのですか。誇りは排除されてしまっています。どのような律法によるのですか。行いの律法によるのですか。そうではありません。信仰の律法によるのです。 28 わたしたちは、人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰によると判断するからです。 29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。たしかに、異邦人の神でもあります。 30 神は唯一である以上、神は割礼の者たちを信仰によって義とし、無割礼の者たちをも信仰によって義とされるのです。 31 では、わたしたちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、律法を確立するのです。

しかし今や

 「しかし今や!」、この一句を蝶番(ちょうつがい)として舞台は転換します。これまで舞台の上では、罪の支配の下にある人間すべてに神の怒りが注がれていることが描かれてきました。「しかし今や」舞台は変わり、神の義という光が現れて舞台を照らし出します。神の救済史(人間救済の物語)は新しい段階に入ったのです。
 このような神の働きによる時代の転換(舞台の転換)は、黙示思想に特有の思想です。パウロは黙示思想家ではありませんが、当時のユダヤ教に深く浸透していた黙示思想の枠組みと用語を用いて、キリストの福音を提示しています。「しかし今や」という一句は、黙示思想から出てくる典型的な表現です。
 黙示思想では二つの時代を峻別します。黙示思想は、「神は二つのアイオーンを造られた」と宣言します。《アイオーン》は神によって創造された諸々の時代、もうすこし正確に言うと、神によって創造された、異なる秩序の中にある諸々の世界を指します。「世」と訳すのが比較的近いかもしれません。黙示思想では、神は「この(現在の)アイオーン」と「来るべきアイオーン」の二つを創造されたとされます。「この(現在の)アイオーン」では、神に敵対する悪しき者たちが権力を持ち、神に属する義人たちを苦しめているが、神がもたらされる「来るべきアイオーン」では逆転して、悪しき者は滅ぼされ、義人たちが救われて神の栄光にあずかり、世界を支配するようになるとされます。この《アイオーン》の転換は、旧い世界が滅びる宇宙的な破局を経て、新しい世界が創造されることによって行われます。現在「この世《アイオーン》」の支配者たちによって苦しめらている神の民(来るべきアイオーンに属する民)は、苦難の中でその大いなる転換の時を待ち望み、信仰に生きるように励まされます。
 このような黙示思想を背景として、パウロはその「大いなる転換の時」が到来したことを、この「しかし今や」で告知するのです。しかし、その転換はユダヤ教黙示思想が描いていたものとはずいぶん違います。その出来事は、この「しかし今や」が用いられているもう一つの重要な箇所で次のように告知されています。

 「しかし今や、キリストは眠った者たちの初穂として、死者たちの中から起こされた(復活された)のです」。(コリントI一五・二〇 私訳)

 キリストの復活こそ、新しいアイオーンの到来を告知する出来事なのです。終わりの日に、神に属する義人たちが死者の中から復活して、神の栄光にあずかるようになることが、黙示思想における希望の重要な中身でした。イエスが復活してキリストとして立てられたとき、その「死者の復活」という終末の出来事がイエスの身に起こったのです。キリストは「初穂として」復活されたのです。終わりの日に復活する神の民をその一身に含んで、民を代表して復活されたのです。この出来事によって「来るべきアイオーン」が到来したのです。正確に言うと、旧いままの「この現在のアイオーン」のただ中に、新しいアイオーン、終末そのものが突入してきたのです。ユダヤ教の黙示文書が描いたような「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」というような宇宙的破局ではなく、キリストの復活が「来るべきアイオーン」の到来を告知するのです。その出来事を、パウロは「しかし今や」の一句で告知するのです。

キリストの復活がアイオーンの転換を告知する出来事であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』271頁「第三節 初穂キリスト」を参照してください。

神の義が現れた

 コリント書簡では、死者の復活を否定する者たちを論駁するために、キリストの復活が終わりの日に復活する者たちの「初穂として」の復活であることが強調されていました。しかし、ローマ書では違う視点から、新しいアイオーンをもたらすキリストの出来事が見られています。すなわち、キリストの十字架・復活の出来事が「救いに至らせる神の力」としての「神の義」の現れであると告知されるのです。キリストが来られるまでの旧いアイオーンでは神の義は隠されていました。「しかし今や、神の義が現れた」のです。
 パウロは自分が宣べ伝えている福音を提示するためにこの書簡を書き始めたときすでに、福音とは主イエス・キリストに関わる告知であることを確認した上で(一・一〜六)、この福音の中に「神の義」が現れているので、この福音こそが「救いに至らせる神の力である」という形で、この書簡の主題を提示していました(一・一六〜一七)。ただ、福音の中に神の義が現れているという主題を取り上げる前に、「神の怒りが天から現れている」ことを語り、すべての人間が罪の支配下にあることを明らかにしなければなりませんでした(一・一八〜三・二〇)。それは、神の義が神の義であるための前提でした。それがなされた今、パウロはついに本題の「救いに至らせる神の力としての神の義」が現れたことを語ることができるのです。
 パウロはすでに、人を偏り見ることなく(二・一一)、人のしたことに従って各人に報われる(二・六)という意味で、「神の正しい裁き」が現れることを明らかにしていました(二・五)。この「神の正しい裁き」も神の義の一面です。若き日の修道僧ルターは、福音の中に現れる神の義をこのような「神の正しい裁き」と理解して、恐怖におののいたのでした。しかし、キリストの出来事の中に現された「神の義」はまったく別のものであると気づいた時に、パウロの福音の再発見があり、宗教改革が起こったのです。その別の「神の義」とは、人を義とする神の働きなのです。
 もともと旧約聖書において「ヤハウェの義」は契約に忠実に行為されるヤハウェの働きを指していました。契約に背く悪しき者を裁き、忠実な義人を救い高く挙げるヤハウェの働きが「ヤハウェの義」として賛美されていたのです。それで、預言者においてはしばしば、神の義は神の救いと同じ意味で用いられています(たとえばイザヤ五一・五など)。
 ユダヤ教においてもその意味は受け継がれ、とくにクムラン文書では、「神の義」は神が罪を取り除き、契約を確立して民を救われる働きと理解されていました。黙示思想文書では、「神の義」は不義の民を裁き、義人を救われる神の終末審判における働きを指していました。そのように終末時に現されるとされていた神の義、すなわち民の罪を取り除き、義の賜物を与えて救われる神の働きが、今やキリストの出来事において実現したのです。パウロはこの書簡の全体で、キリストにおいて神の義が実現したとはどういう事態であるのかを、全存在をかけて語るのです。福音書としてのローマ書は、キリストにおいて現れた神の義の提示であると言えます。
 なお、この神の義はキリストの十字架・復活という出来事が起こったときだけに現されたのではなく、このキリストの出来事によって始まった新しいアイオーンの原理として現在の事実となっているのですから、「神の義が現されています」と訳しています(動詞は受動態の現在完了形)。

律法とは無関係に

 ところで、この「神の義が現れた」の前に重要な説明の句がついています。パウロは(原文の順序では)「しかし今や」と新しいアイオーンの到来を告げる角笛を吹き鳴らした直後に、「律法とは無関係に」という句を置き、その後に「神の義が現れた」という主題を述べる文を続けます。パウロにとっては、キリストによって始まった新しいアイオーンの新しさとは、神の義が「律法とは無関係に」現れたことにあるのです。今まで神の民においては律法が支配していました。義は律法を行うことによって到達されるものでした。「しかし今や」律法の支配は終わり、まったく別の原理による「神の義」が支配する時代に入ったのです。キリストは律法の終わりとなられたのです。

「律法とは無関係に」と訳した句《コーリス・ノムゥ》は、「律法とは別に」とか「律法なしに」とか「律法の外で」という訳も可能です。この句は、文法的には「現れた」を説明する副詞句と理解するのが順当ですが、内容的には「神の義」という名詞を説明する形容詞句として、「律法とは無関係の(律法の外での)神の義」と理解してもよいでしょう。パウロが宣べ伝えた「割礼なしの福音」(ガラテヤ書)の神学的内容が、「律法とは無関係の(律法なしの)神の義」としてローマ書で展開されていると見られます。

 この「律法とは無関係に」という新しいアイオーンの原理をユダヤ教徒に納得させるために、パウロはこの書簡を書いていると言ってもよいのではないかと思います。「律法とは無関係に」ということがユダヤ教徒にとっていかに衝撃的な発言であるかは、「律法」という語を《トーラー》というユダヤ教徒の用語に戻してみると、ある程度理解できるのではないかと思われます(《トーラー》については「用語解説」の「律法」の項を参照)。ユダヤ教徒にとって、自分たちの神が《トーラー》と無関係に人を義とされるとか救われるという宣言は、とても受け入れることができないものです。ユダヤ教徒にとって、《トーラー》こそ自分たちと神とを結びつけるすべてであるからです。《トーラー》はユダヤ教と呼ばれる神聖な宗教そのものです。それと無関係に神と人間の関係が成り立つとは考えられません。この発言の衝撃は、キリスト教徒が「キリスト教と無関係に神の救いが現れた」という宣言を聴いたときの衝撃から想像してみることができます。

律法と預言者に立証されて

 パウロはこのローマ書で、人を救う力としての神の義が「律法とは無関係に」現れたことを(とくにユダヤ教徒に対して)論証しようとしているのですが、ガラテヤ書の場合と異なり、その執筆の事情から律法の積極的な意義に触れることが多くなっています(執筆事情については本書第一章「福音書としてのローマ書」を参照)。ここでも「神の義が現れた」ことについて、「律法とは無関係に」と言いながら同時に、「律法と預言者によって立証されて」と続けます。これからの講解で見ていくことになりますが、パウロは「律法とは無関係の神の義」を立証するのに、当然のように「律法と預言者」を論拠として議論を進めます(この事実にもパウロがユダヤ教徒を念頭においてこの書簡を書いていることが示されています)。

律法学者たちは自分の主張を聖書を論拠として立証するときは「律法」(モーセ五書)と「預言者」の両方から引用するのを常としました(当時、正典としての権威を持っていたのは、この二つだったからです)。これはパウロも本書簡でしていることです。この習慣が「立証されて」の場合に「律法と預言者」という表現を用いさせたと考えられます。

 《トーラー》自身が「《トーラー》と無関係の神の義」を立証しているというのです。この一見矛盾した論法は、わたしたちに「宗教」の存在意義を考える重要なヒントを与えています。《トーラー》はユダヤ教という宗教そのものであり、ユダヤ教は代表的な「宗教」であるからです。「宗教」は、その本質に徹すれば、「宗教と無関係の救済」を立証するという主張をしていることになります。
 なお、「律法と預言者に立証されて」という句は、福音書(とくにマタイ)がしているように、イエス・キリストの生涯の出来事が旧約聖書の預言を成就するものであることを指すという意味だけに限定されてはなりません。パウロにおいては、《トーラー》自身が「律法とは無関係の神の義」という福音の内容そのものを立証しているという意味であることを見落としてはなりません。

キリスト信仰による神の義

 では、「律法とは無関係の神の義」とはどういう「神の義」でしょうか。パウロはそれを、すぐ後に続く同格名詞で説明します。それは「すなわち、イエス・キリスト信仰による神の義」であるのです(二二節)。パウロの表現を直訳すると、「イエス・キリストの信仰による神の義」となります。この「イエス・キリストの信仰」はふつう「イエス・キリストを信じる信仰」(協会訳、新改訳)とか「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波版青野訳)と訳されています。わたしはこれを「イエス・キリスト信仰」と訳しています。

この訳には説明が必要です。「イエス・キリスト信仰」と訳した句は、原語では「イエス・キリストの《ピスティス》」です。《ピスティス》は本来誠実、忠実、真実を意味する語ですが、新約聖書では宗教的な「信仰」の意味で用いられています。この句における「イエス・キリストの」という属格は、ふつう対格的用法と理解して「イエス・キリストを信じる信仰」とか「イエス・キリストへの信仰」と訳されています。現代語訳ではこれが大多数です。しかし、少数ながら、これを主格的用法として「イエス・キリストがもつ誠実、真実」とか「イエス・キリストを通して顕れた神の信実」(バルト)と理解すべきであるという主張があり、論争されています。しかし、これは語句の文法上の形から決定できることではなく、パウロの実際の用法全体から理解すべきことです。これまでのパウロ書簡の講解で見てきたように、パウロが「信仰」と言うとき、それはイエス・キリストを信じ、主と言い表すこと(キリストを対象とする信仰)から始まるにはちがいないのですが、霊なる主イエス・キリストとの交わりに生きる人間の在り方全体を指しています。それで、「イエス・キリストの」という属格も、そのような「イエス・キリストとの関わりにおける」という総体的な内容と理解すべきであると考えられます。それで、わたしはパウロ書簡の翻訳では、《ピスティス・クリストゥ》を、名詞を二つ並べる「キリスト信仰」という表現で訳し、キリストとの交わりに生きる人間の在り方全体を指すことにしています。この「キリスト信仰」の内容は、この講解全体(むしろパウロ書簡全体の講解)で語らなければならない事柄ですので、ここでは訳語の説明にとどめます。英訳の faith in Jesus Christ は、「イエス・キリストへの信仰」の意味にも、「イエス・キリストにあっての信仰」、すなわち「イエス・キリストとの交わりにおける信仰」という意味にも理解できます。訳者は前者の意味で使っていると考えられますが、後者の意味に理解すれば、わたしの「キリスト信仰」という訳に近いと思います。

 イエス・キリストを復活された主《キュリオス》と告白し(一〇・九)、この方に自分の全存在を委ねて生きる者、すなわち「信じる者」にはすべて誰にも与えられる「神の義」なのです。信仰という名詞は、直ちに「信じる」という全存在をかけた在り方を指す動詞で説明されなければならないのです。一人ひとりの「信じる」という在り方抜きでは、信仰という事柄が客観的に問題にされることはありえません。

二二節前半は、「すべて信じる者へのイエス・キリスト信仰による神の義」という長い名詞句の形で、前節の「律法とは無関係の神の義」を説明しています。「与えられる」という動詞はありませんが、分かりやすくするために補って訳しています。二四節の「神の恵みにより、無代価で義とされる」という内容からすると、「すべて信じる者に賜るのです」と訳した方が正確かもしれません。

差別はない

 新しいアイオーンに現された「キリスト信仰による神の義」、すなわち、すべて信じる者には誰にでも与えられる「人を義とする(救う)神の働き」は、人間の側の条件とか状況と無関係に与えられます。「そこには何の差別もない」のです。信じる者が、男であろうが女であろうが、自由人であろうが奴隷であろうが、肌の色がどうであろうが、どの民族に属する者であろうが、「何の差別もない」です。しかし、ここでパウロが「何の差別もない」と言うとき、パウロはとくにユダヤ人と異邦人、すなわちユダヤ教徒と異教徒との間に何の差別もないことを言いたいのです。
 パウロはすでに、罪の支配下にあり、神に背いているという事実において、ユダヤ教徒も異教徒も違いがないことを明らかにしました。今や現された「人を義とする神の働きとしての神の義」を受けることにおいても、ユダヤ教徒と異教徒には「何の差別もない」のです。このことは、ユダヤ教徒がとても承認することができない宣言です。ユダヤ教徒にとって、《トーラー》を与えられ、それを行っているユダヤ教徒と、《トーラー》を持たない異教徒が同じ扱いをされることは、とうてい承服することはできません。パウロは、この「差別はない」ことをユダヤ教徒に説得するためにこの手紙を書いているとも言えます。「何の差別もない」ことを説明するために、次の二三節以下を述べることになるのです。二三節は、理由を導入する《ガル》で始まっています。

恩恵によって義とされる

 「何の差別もない」ことを理由づける文は、二四節の終わりまで続いています(二三節と二四節は一つの文です)。「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、 ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」(二三〜二四節)から、「何の差別もない」のです。
 まず、これまで(一・一八〜三・二〇)に明らかにされた人間の現実、すなわち「(人は)すべて罪の下にある」という現実が、「人間はすべて罪に陥った」という文で再確認され、その結果が「神の栄光を失っている」と要約されます。「罪に陥った」と訳している動詞は、個々の律法規定に違反する行為をしたという意味の「罪を犯した」ではなく、「罪の支配に陥った」という意味であり、過去の出来事を指す形(アオリスト形)が用いられています。これは、パウロがアダムにあってすべての人間が罪に陥ったこと(五・一二)を念頭においてこの形を用いたのかどうかは確定できませんが、「罪の力の支配下にある」という現実が、既成の動かしがたい事実であることを指していることは間違いありません。その結果、人間はすべて、本来人間に宿っているはずの神の栄光を失っているのです(動詞は現在形)。人間が罪に陥らないで神との妨げられることのない交わりにあるならば、自分たちの中に宿していたはずの自由、愛、誠実、平和などの神的な質(神の栄光)が、罪に陥ったために失われてしまい、先に描かれたような(三・一〇〜一八)、まったく正反対の者になってしまったのです。この神の栄光の回復こそ救いの内容であり(コリントU三・一八)、その完成は終末時に待ち望まれることになります(五・二)。
 このような現実にある人間は、自分の力で義となって神との交わりを回復し、神の栄光に達することはできません。「ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされる」ほかはありません。「神の恵みにより、無代価で義とされる」のですから、人間の側の条件とか資格はいっさい無関係です。《トーラー》の中にいるか外にいるか、すなわちユダヤ教徒であるか異教徒であるかは関係ないのです。「何の差別もない」のです。

「ただ」という語句は原文にはありませんが、二三節に含まれている意味を明らかにするために補っています。二四節は「義とされて」という分詞形で始まっており、二三節との接続が不自然であり、文章の構造がここで崩れています。おそらくこれは、パウロがここで初期の教団に広く伝承されていた信仰告白文か賛歌の一部を引用している結果であるとされています(ケーゼマン)。

 ここで「義とされる」という重要な表現が出てきます。「義」とか「義とする」は、ユダヤ教で神と人との関わりを語るときに中心的な位置を占める用語です。もともと法廷用語である「義とする」という動詞は、裁きの場で神が人を、神との関係において正しい者(義なる者)と判決して扱われることを指しています。裁くのは神であり、人は裁かれる立場ですから、人について用いられるときは必ず受動態で「義とされる」という形で出てきます。人は義とされて初めて神との正常な関わりに入っていくことができるのですから、「義とされる」ことは、「救いに至らせる神の力」が働く場に入る入口になるのです。「義とされる」ことが救いではなく、 神の栄光を回復する救いの過程に入る入口となるのです。
 「義とされる」のは「神の恵みにより、無代価で」されるのです(原文では「義とされる」という動詞の後にすぐ、この二つの句が続いています)。これがパウロの言いたい点です。「神の恵みにより」と「無代価で」は同じことを指しています(元の賛歌に「無代価で義とされる」とあったところに、パウロが「神の恵みにより」という句を入れたと見る研究者が多くいます)。「無代価で」と訳した語は、本来「賜物として」という意味の語です。資格のある者への報酬とか、働きに対する対価としてではなく、一方的な好意から、資格のない者に無条件でよいものを与えることです。新約聖書は、神がこのように無資格の者に無条件で賜物を与えることを《カリス》(恵み、恩恵、恩寵)と呼んでいます。パウロの福音の核心は「恩恵」です。パウロは恩恵の宣教者です(《カリス》の用例は圧倒的にパウロ文書に多く、ルカ文書がそれに続きます)。パウロはこの恩恵の賜物を、ここでは「義とされる」というユダヤ教特有の用語で語るのです。パウロが宣べ伝える「キリストの福音」の中身は、イエスの「神の国」の福音と同じく、「恩恵の支配」です。このことは、このローマ書講解の全体で見ていくことになります。

キリスト・イエスにある贖いによって

 神が恩恵によって人に義という賜物を与えるのは、「キリスト・イエスにある贖いによって」である、と(原文では後に)続きます。そして、この「キリスト・イエス」を説明するために、「神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」(二五節前半)という文が、(関係代名詞によって結ばれて)続きます。したがって、「キリスト・イエスにある贖いによって」という句は、それに続く二五節前半の文と一体として理解しなければなりません。

二二節後半の「何の差別もない」から二六節にかけての文は、実に複雑な構造をした一つの文章です。このような破格(文法上の不適合)を伴う複雑な構成は、パウロが自分が語りたい事柄を、当時のユダヤ人キリスト教団が形成した伝承を用い、そこに自分の主張を示す表現を組み入れて語った結果であると考えられます。それは、パウロが他ではほとんど用いることがないユダヤ人キリスト教的な用語や表現が多く出てくることや、文章の不自然な構成からも分かります。どの部分が「ユダヤ人キリスト教団が形成した伝承」であるかは争われていますが、二四節から二五節の部分がそうであることは、ほぼ確実と見られます。この伝承は、一・二〜四の福音伝承と共に、エルサレムかアンティオキアで形成され、ローマの人たちにもすでに伝えられていたもので、パウロも異邦人世界への宣教においてこの伝承を用いたと見られます。

 ここで、義とされるのは「贖いによる」あるいは「贖いを通して」とされています。では「贖い」とは何でしょうか。内容に入る前に、用語をすこし調べておきましょう。どの民族にも「あがなう」という考え方はあるようで、日本語では「あがなう」には二つの漢字があって、別の意味を表しています。「贖う」は金品を代償として出して罪をまぬかれる、つぐないをするという意味で、「購う」は買い求めるの意味です(広辞苑)。両方とも貨幣を表す「貝」扁がついていて、金を支払うことが共通です。ここで問題になっているのは、もちろん「贖う」ほうです。
 イスラエルにも二つの「あがない」があります。一つは、捕虜や奴隷になった者を身代金を支払って買い戻すこと、あるいは他人の所有に渡った資産を買い戻すことです。この場合の「あがない」は解放の意味になります。この買い戻す立場にある者(普通は近親者)は「贖う者」と呼ばれ、預言者においてはヤハウェが「イスラエルを贖う者」と呼ばれています(イザヤ四一・一四など多数)。もう一つは、罪の汚れを犠牲の血によって拭い清めて、神との交わりを回復するという祭儀的な意味です(レビ記一六章が典型的です)。この場合の「贖い」は「贖罪」とも表現されます。

この二つの「贖い」は別の概念であり、ヘブライ語旧約聖書ではまったく別の語で表されており、その区別はギリシア語訳旧約聖書でも保持されています。英訳聖書では、解放の意味は redeem / redemption 、 贖罪の意味は atone / atonement と区別しています。日本語訳旧約聖書では両方とも同じ「贖う」とか「贖い」という語で訳されているため、概念に混乱を生じているようです。解放の意味では、「人(または資産など)を贖う」と用いられ、贖罪の意味では「罪を贖う」と用いられます。

 新約聖書では、キリストの十字架と復活の出来事によって両方の意味の「贖い」が実現したとして、それを《アポリュトローシス》というギリシア語で指しています。この語はもともと解放を意味する語ですが、新約聖書では、キリストの血によって祭儀的な「贖罪」が成し遂げられ、復活者キリストの命によって死の支配からの「解放」が実現したとされ、両方の意味を実現する神の働きを指しています。こうして新約聖書の《アポリュトローシス》は「救い」とほぼ同じ意味で使われるようになっています。日本語訳ではこの《アポリュトローシス》を「贖い」と訳しているわけです。

パウロ書簡では、「贖い」《アポリュトローシス》はローマ書(ここと八・二三)とコリントI(一・三〇)の三箇所に出てくるだけです。パウロはこの語を、ここに見られるようにユダヤ人キリスト教の伝承を引用する場合以外は、ほとんど用いていないことが注目されます。すなわち、異邦人に自分の言葉で福音を語るときに、このユダヤ教的な用語をほとんど使っていないようです。ところが、「パウロの名による書簡」になると、罪の赦しという意味の「贖い」が救済論の中心的な位置を占めるようになってきます(コロサイ一・一四、エフェソ一・七、一・一四、四・三〇)。この傾向はさらに発展し、後のキリスト教史(とくに西方キリスト教)では「贖い」(贖罪論)が救済論の大きな主題となり、中心を占めるようになります。

 信じる者がそれによって義とされる「贖い」は、「キリスト・イエスにある贖い」です。すなわち、神がキリスト・イエスにおいて成し遂げてくださった、罪を拭い清め、罪の支配から解放する働きです。ここではとくに罪を拭い清めるという意味が強いことは、この「キリスト・イエスにある贖い」が、直後に続く「神はこのキリストをその血による贖いの場としてお立てになったのです」という、きわめて祭儀的な色彩の濃いユダヤ教的伝承文で説明されていることからも分かります。

「贖いの場」と訳した原語《ヒラステーリオン》は、七十人訳ギリシャ語聖書では例外なく、神殿至聖所に置かれている契約の箱のふたを指すヘブライ語《カッポレート》の訳語として用いられています。年に一度大祭司が至聖所に入って、その黄金の板で造られたふた《カッポレート》に犠牲の血を注いで、民の罪のために贖いをするのです(レビ記一六章)。それでレビ記では「贖罪所」とか「恵みの座」と訳されています。ところが最近、この語の原意を超えて「罪のための供え物」と理解する傾向が強くなっていますが(口語訳、新共同訳、岩波版青野訳)、この伝承断片がユダヤ人キリスト教徒の中で成立したことを考えると、オリゲネス以来伝統的に理解されてきたように(現代ではEKKのウルケンス、NTDのシュトゥールマッハー)、《カッポレート》の原意を保持するのが適切であると考えられます。なお、この語は新約聖書ではこことヘブル書九・五だけで用いられていますが、ヘブル書では明らかに供え物ではなく場所を指しています。《ヒラステーリオン》を「贖いの場」と理解すると、イエス・キリストがその血を自分自身に注ぐことになるという反論は、現代の論理による思考であって、古代の象徴的な思考(あるいはユダヤ教の予型論的思考)では不条理ではなく、そのような思考は各所に見られます(たとえばヘブル書九・一以下)。

 神は今や、神殿至聖所の契約の箱のふたである「贖いの場」ではなく、十字架されたキリストを「贖いの場」として、そこで神の贖いの業が成し遂げられ、そこに神が現れ、そこから神が語られる場としてお立てになった(世界に公示された)のです。今や、神が世界の罪を贖ってその聖なる臨在を現される場は、エルサレム神殿の幕によって隠された至聖所の中にあるのではなく、「十字架されたキリスト」なのです。繰り返し強調してきましたように、キリストとは復活者の称号です。キリストは復活者として、その中に神の《エゴー・エイミ》という自己啓示が起こっているのです。その復活者キリストは、「わたしたちの罪のために死んだ」という「十字架につけられたままの姿で」(ガラテヤ三・一)、世界に宣べ伝えられ、御霊によってわたしたちの内に現れてくださっています。このような「十字架につけられたままの姿の復活者キリスト」こそ、罪が贖われて神との交わりが回復する場なのです。
 このキリストの死、すなわち十字架上のキリスト・イエスの死による贖いが、「彼の血による」という句で表現されています。もはや年に一度エルサレム神殿の至聖所の中の「贖いの場」に注がれる動物の血ではなく、御子であるキリストが十字架の上に流された血によって「永遠の贖い」が完成されたのです(ヘブル書九・一二)。このようなキリストの血による贖いが実現したことは、神の「信実による」出来事です。旧約聖書の祭儀は予型として、終末の時に神ご自身が成し遂げてくださる贖いの業を約束していました。今や、その約束が神の信実によって実現したのです。

原文では、「《ピスティス》によって」という句が「贖いの場」と「その血による」との間に入ってきて、二五節の構文を破っています。「その血による」は明らかに「贖いの場」を説明する句ですが、間に入ってきたこの句は後ろの「血」に関連させて、「その血に対する信仰によって」と理解することも、前の「贖いの場」に関連させて、「信仰によって受けるべき」と意訳することも無理です。この句は、パウロが伝承に無理に挿入したものとしか理解できません(この点では多くの注解者は一致しています)。そうだとすると、パウロは「このキリストを神は贖いの場としてお立てになった」とまで語ったところで、それが神の信実による約束の成就の出来事であること(一五・八参照)に触れざるをえない思いになり、この句を入れ、再び伝承の文を続けたと推察することになります。このような理解では、《ピスティス》は「信仰」ではなく、「信実」とか「真実」と訳さなければならないことになります。この《ピスティス》が「神の信実」であることは、この句を「神がお立てになった」という動詞を修飾する(挿入された)副詞句であると理解する以上、当然です。

 パウロは福音を異邦人に宣べ伝えるにさいしては、この福音の核心部をここに用いられているようなユダヤ教の祭儀的な用語を使わないで表現しています。たとえば、コリントの異邦人たちに語るときは、「神はキリストの中におられて、世を御自分と和解させてくださった」(コリントU五・一九私訳)と言っています。パウロは異邦人に語るときは、「贖い」とか「義とされる」というユダヤ教的術語をあまり用いないで、ヘレニズム世界で親しまれている「和解」という用語で同じことを語っています(この点については、五・九〜一〇の講解で詳しく触れる予定です)。

神の義の証示

  続いて、神が今この時に、信じる者を義とするため、贖いの場としてキリストをお立てになったことの目的(意図)が示されます。「それは、これまでになされた諸々の罪を免責してこられたために、御自身の義を示すためでした」(二五節後半)。「免責」は法廷用語で、刑の免除を意味します。それは罪の「赦し」、すなわち無罪判決ではありません。有罪だけれども、刑の執行は免除するのです。執行猶予というところです。御自分の民イスラエルは契約に背き、イスラエル以外の諸国民も偶像礼拝の中で退廃していて、神の前に有罪ですが、神は忍耐して処罰を実行することを控えてこられたのです(二六節最初の「神の忍耐によって」は二五節の「免責」を説明しています)。このように忍耐をもって免責し、正しい裁きを執行されなかったので、「今この時に御自身の義を示すために」キリストを贖いの場としてお立てになったのです。

「免責」《パレシス》の用例はここだけです。罪の「赦し」には、新約聖書では別の語《アフェシス》が用いられます。ところで、 神がキリストを贖いの場としてお立てになったのは「御自身の義を示すため」であることを語る二五節後半から二六節にかけての文の構造も複雑です。二六節最初の「神の忍耐によって」の句は二五節の「免責」を説明しているので二五節に含ませて理解する必要があります。すなわち、二五節は「神は、これまでになされた諸々の罪を神の忍耐をもって免責してこられたために、ご自身の義を示すために、キリストを・・・・贖いの場としてお立てになった」となります。「免責」の前に《ディア》という前置詞がありますが、ここでは「によって」という意味、すなわち、神はこれまで罪過を免責することによって御自身の義を示された(新共同訳、岩波版青野訳)というのではなく(罪過の免責が神の義の証示になることはありません)、これまでの罪過を免責されたことで必要になった「ゆえに」、と理解しなければなりません。なお、二五節の「罪」が複数形であることを明示するために「諸々の罪」と訳しました。この複数形での用例は、この部分がユダヤ人キリスト教の伝承断片であることを示しています。 二六節で、二五節の「御自身の義を示すために」という句が、「ついに今この時に」という句を添えて繰り返され、その内容が詳しく説明されていますが、この繰り返し以下の部分は元の伝承に含まれるのか、パウロが加えたものかは争われています。パウロが加えた部分である可能性が高いと見られます。

 「これまでになされた諸々の罪」は明白で、有罪は確かであるのに、神がその処罰を猶予されたのは、「神の忍耐によるものでした」。その免責は人間的な忍耐ではできないこと、神だけがもちうる忍耐、神にふさわしい忍耐によってなされたのでした。ところが、「ついに今この時に」、この新しいアイオーンを導入するにあたって(二一節の「しかし今や」を参照)、神はキリストを贖いの場として立てることによって「御自身の義を示された」のです。そして、伝承が「御自身の義を示された」とだけ語っているところを、パウロはさらに正確にその内容を展開してみせます。すなわち、「自ら義であり、かつイエス信仰の者を義とする者となるため」です(二六節)。
 「自ら義であるため」あるいは「自ら義となるため」というのは、神が御自身の「正しい裁き」を実行せず、諸々の罪を免責してこられたのは、神が裁きを曲げて、すなわち不義によって免責されたのではなく、これまでは隠されていたけれども、実はキリストにある贖いによって免責されたのであることを、キリストの十字架・復活が起こった「今この時」に現された、という意味です。パウロが用いたユダヤ人キリスト教の伝承(二五節)も、「神の正しい裁き」を知る《トーラー》の民イスラエルの枠内で、ここまでの意味は含んでいたのかもしれませんが、パウロは重大な句を付け加えます。神が自ら義であるために現された「キリスト・イエスにある贖いによる」人を義とする神の働きは、同時に「イエス信仰の者を義とする」神の働きを現しているのです。
 「イエス信仰の者」とは原文では「イエスの信仰による者」ですが、二二節で「イエス・キリストの信仰」を「イエス・キリスト信仰」と訳したのと同じ理由で、「イエス信仰」と訳しています。「イエス信仰の者」とは、イエスを復活された主《キュリオス》と信じて告白し(一〇・九)、このキリストであるイエスに全存在を委ね、このイエスと結ばれて生きる者です。「ついに今この時に」、神はキリストを贖いの場として立てて、「自ら義である」ことを現されただけでなく、「イエス信仰の者」はだれでも義とする者として、御自身を現されたのです。すなわち、《トーラー》の中にいようが外にいようが関係なく、誰でも「イエス信仰の者」は、この「イエス・キリストにある贖いによって義とされる」のです。

ローマ書の主題?

 今回取り上げた一段(三章二一〜二六節)は、しばしばロマ書全体の「テーゼ」(主題)を提示する中心部であるとされます。しかし、ユダヤ人の罪を指摘する先行部分(二・一〜三・二〇)や、義がユダヤ人だけがもつ律法によるものでないことを論証する後続部分(三・二七〜四・二五)が長大で、パウロ独特の思想や表現に満ちているのに比べると、この一段は、パウロの中心主題を述べる段落にしては、あまりにも短く、パウロの独自性が希薄です。この段落では、パウロはすでに流布している信仰告白や賛歌の伝承断片を多く引用して、自分の主張を表現しているために、文章も錯綜したものになっています。たしかに、二一〜二二節や二六節はパウロの特色をよく示していますが、二四〜二五節は(僅かの挿入を別にして)ほとんど伝承の引用であると見られます。そこにはパウロが他ではほとんど用いない用語や思想が見られます。このように、この段落はパウロの主張で囲みながら、全体としては、パウロ以前のユダヤ人キリスト教の福音伝承を示しているものと見られます。パウロは、この書簡のおもな読者と想定しているローマのユダヤ人キリスト教徒に対しては、彼らが熟知している共通の伝承を用い、それを自分の主張にふさわしい形で用いるだけで十分とし、このような簡潔な形で、キリストによる新しい救済の時の到来について語ったと考えられます。そして、その前後に彼独自の詳しい説明をつけて、自分の「信仰による義」の主張をユダヤ人に対して展開することになるのです。
 ところで、「信仰による義」を提示するこの一段(三章二一〜二六節)は、パウロが命がけで宣べ伝えた「律法とは無関係の神の義」を提示する一段として、きわめて重要です。しかし、ロマ書全体の「テーゼ」ではなく、「救いに至らせる神の力」が働く場に入るための入口を示す第一部(一・一八〜五・一一)の中心であるにすぎません。ローマ書全体の「テーゼ」(主題)は、一章一六〜一七節で提示された、「救いに至らせる神の力」としての福音です。そして、この「救いに至らせる神の力」はむしろ第二部(五・一二〜八・三九)で詳しく展開されることになります。それゆえに、この一段だけにパウロの福音を見る見方は、パウロの福音の全体像を見失う危険があるのではないかと思います。

信仰の律法によって

 パウロはここまで述べてきたこと全体を受けて、「では、誇りはどこにあるのですか」と問います(二七節)。「神の恵みにより、無代価で」義とされるのですから、人間の側にいかなる誇りを持つ余地もありません。「誇りは排除されてしまっている」のです。このことはすべての人間の誇り一般について言えることですが、ここではとくにユダヤ教徒の誇りが問題にされていると見られます。ユダヤ教徒は《トーラー》を持っていることを誇り、神に選ばれた民の特権を誇っていました(二・一七以下)。このユダヤ教徒の誇りが、「律法と無関係に現された神の義」によって、無代価で義とされることになり、完全に「排除されてしまっている」のです。
 パウロは続けて、「どのような律法によるのですか」と問います。これは、前の問いの一部として、「どのような律法によって排除されているのか」と続くのではなく、ここでのパウロの主要関心事である「義とされる」ことについて、「どのような律法によって義とされるのか」と問うているのです。このように問いを立てて、「行いの律法によるのですか。そうではありません。信仰の律法によるのです」と自ら答えます(以上二七節)。

二七節の「律法」の原語はみな《ノモス》です。「信仰の律法」という句が理解困難になるので、この節の《ノモス》はほとんどの翻訳で「法則」と訳されています。しかし、ユダヤ人に対する高度な宗教論争の中に、ギリシャ的な(あるいは近代的な)「法則」という理念を持ち込むことには、極度に慎重でなければならないと考えます。また、二一節から三一節までの段落全体で「律法」を問題にしている中で、ここだけを「法則」と理解することは不自然で、思想の一貫性を欠くことになります。ここまでで見てきましたように、ギリシア語を用いるユダヤ人の間で《ノモス》と言えば、それは常に《トーラー》を指し、彼らの宗教、すなわちユダヤ教の全体を意味しています。ガラテヤ書とは異なりローマ書では、パウロは「律法」、すなわちユダヤ教が神聖なものであり、霊的なものであることを認め(七・一二、七・一四)、その上で「どのような律法によって義とされるのか」、すなわちどのように理解され受け取られたユダヤ教が人を生かすのかを議論するのです。

 「行いの律法(ノモス)」(「律法の行い」ではないことに注意)というのは、すべての規定の実行を要求し、その実行に対して義を約束すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)を指しています。ファリサイ派だけでなく、当時のユダヤ人はすべて自分たちの宗教《トーラー》をこのように理解していました。このように理解された《トーラー》は明確に否定され、代わって「信仰の《トーラー》」が登場するのです。
 「信仰の律法(ノモス)」とは、信仰を要求し、信仰によってはじめて真意が開示され、信仰によって義が実現すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)です。パウロは《トーラー》(ユダヤ教)をこのように理解したのです。彼はキリストに出会うまでは「行いの律法」のチャンピオンでした。ところが、キリストに出会うことによって、《トーラー》の本質、すなわち「信仰の《トーラー》」を見出したのです。彼が主張する「信仰による義」は《トーラー》によって立証されている(三・二一)ことが、四章で詳しく論証されることになりますが、四章は「信仰の律法」の典型的な実例です。
 このような「信仰の《トーラー》」という理解と主張は、イエスを信じないユダヤ人からはもちろん、イエスを信じたユダヤ人からも反発され、パウロは迫害を受け、その働きは妨害されることになります。多くのユダヤ人は、イエスを信じても「行いの《トーラー》」の枠から出ることはできないのです。パウロの福音宣教を妨害した「ユダヤ主義者」は、イエスを信じながらも、なお「行いの《トーラー》」に固執し、イエス・キリストを信じた異邦人たちに割礼を受けて《トーラー》の規定を守るように要求したのです。そのようなユダヤ人たちに対して、パウロは「わたしたちは、人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰によると判断するからです」(二八節)と、自分の立場を鮮明に示す旗印を改めて掲げます。
 「わたしたちは判断する」というのは、推量するとか見なすというような意味ではなく、自分の立場や確信を宣言する強い言葉です。その内容は、「人が義とされるのは、律法の行いとは無関係に、信仰による」ということです。この言葉はしばしば、人が義とされるのは道徳的な規定を守る外面的な行為によるのではなく、神への信頼とか宗教的な信条の理解と告白というような内面的な在り方によるのだと理解されています。これは誤解です。パウロはここで人間の外に現れた行為と内面の姿を比較しているのではありません。あくまで、《トーラー》を順守する行為とキリスト信仰を対立させているのです。「律法《トーラー》の行い」とは、ユダヤ教が順守を要求しているすべての行為です。割礼を受け、安息日を守り、豚肉を食べないなどの食物規制を順守し、清めの儀礼を守り、ラビたちが教える(解釈し伝承する)細かい生活規定をことごとく守ることです。パウロは、人が義とされるのは、そのようなユダヤ教規定の順守とはいっさい関係がなく、ただキリスト信仰によるのだと言っているのです。
 「信仰による」と言うときの「信仰」は、漠然と人間の宗教的・内面的態度を言っているのではなく、具体的にキリストを内容とする信仰、すなわち「キリスト信仰」のことを言っています。この段落の冒頭(二二節)で掲げた「すべて信じる者に与えられる、イエス・キリスト信仰による神の義」です。そこには何の差別もありません。《トーラー》を守っているかいないかは関係ないのです。そして、驚くべきことに、パウロはこの主張を、ユダヤ教の根本教義である「神は唯一である」という信仰告白によって根拠づけるのです。

唯一の神

  「神は唯一である」という信条は、ユダヤ教の根本的な信仰告白です。ユダヤ教徒は日々「シェマ」を唱えて、この信仰告白をしています。「シェマ」とは、「聴け《シェマー》」という呼びかけで始まるユダヤ教の信仰告白文です。それは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主(ヤハウェ)は唯一の主(ヤハウェ)である」という、きわめて簡潔な文です。その後に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」という命令ないし勧告が続きます(引用は新共同訳の申命記六・四〜五)。この信仰告白の本体をなす部分は、(ヘブライ語原文では)わずか四つの単語が並んでいるだけで、その読み方には数種類ありますが、ユダヤ教ではこれを「主(ヤハウェ)はわたしたちの神、主(ヤハウェ)は唯一である」と読んで(ユダヤ教エンサイクロペディア)、神が唯一であることを告白する文としています。ユダヤ教徒は、この「シェマー」を唱えて死ぬことを、ユダヤ教徒としての生涯を全うすることだとし、誇りとしたのです。
 このように神は唯一であり、その神はモーセを通してイスラエルに《トーラー》を与えた神ですから、この《トーラー》を持つユダヤ人だけが唯一のまことの神を知る民であることになります。先に見たように(二・一七〜二〇)、ユダヤ教徒はそのことを誇っているのです。したがって、異教徒がこの唯一の神の民となり、神の救いにあずかるためには、ユダヤ教徒になって、この唯一の神を自分の神として告白しなければならない、ということになります。そして、ユダヤ教徒になるには、割礼を受けて、ユダヤ教の定め《トーラー》を順守する必要があります。
 「異邦人への使徒」として異邦人にキリストの福音を宣べ伝えたとき、パウロは異邦人に唯一の神を伝え、この神に立ち帰るように説きました。キリストの福音を受け入れた異邦人たちは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」のです(テサロニケT一・九)。イスラエルの歴史の中で預言者たちによって形成された唯一神信仰の遺産は、キリストの福音によって異教諸国民に受け継がれて、世界に広まったのです。

福音による唯一神信仰の継承については、テサロニケ書簡Tの講解の中の「唯一の神」という節で詳しく触れましたので(拙著『パウロによるキリストの福音T』360頁)、それを参照してください。

 イスラエルの歴史の中で預言者たちによって形成された唯一神信仰を受け継ぐことでは、ユダヤ教もキリストの福音も同じです。ところが、その継承の仕方が違うのです。ユダヤ教では、この唯一神はモーセを通して《トーラー》を与えているのであるから、この唯一神を拝する者は《トーラー》を順守しなければならないとし、《トーラー》を順守するという仕方でこの神に仕え、その救いに達しようとするのです。すなわち、ユダヤ教に改宗しなければ神の民となることはできないとするのです。それに対して、パウロが告知するキリストの福音は、神は唯一である、だから異邦人は《トーラー》を順守しなくても(ユダヤ教に改宗しなくても)この神に仕え、その救いに与ることができると主張するのです。「神は唯一である」という同じ告白から発して、ユダヤ教とパウロではまったく逆の結論を出すのです。
 パウロは、「神は唯一である」と確信しているユダヤ教徒に問います、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか」。神は唯一人しかおられないのですから、その神はユダヤ人の神であるだけでなく、異邦人の神でもあるはずです。パウロはこの問いに、「たしかに、異邦人の神でもあります」と自ら答えを出します(二九節)。これは、神が唯一であることの論理的結論です。そして、その答えから,「神は唯一である以上、神は割礼の者たち(ユダヤ教徒)を信仰によって義とし、無割礼の者たち(異教徒)をも信仰によって義とされるのです」(三〇節)という、ユダヤ教徒が卒倒しそうな結論を導くのです。もしユダヤ人の神と異邦人の神が別の神であるならば、ユダヤ人の神はユダヤ人を律法の行いによって義とし、異邦人の神は信じる者を信仰によって義とするということがあるかもしれない。しかし、神は唯一である以上、同じ神がユダヤ人も異邦人も同じ原理で義とされるのでなければならない。これまでに明らかにしたように、人は律法の行いによっては誰も義に達することはできず、「律法とは無関係の神の義」によって、それを受ける信仰によって義とされるのです。そして、「神は唯一である」から、この原理はユダヤ人にも異邦人にも同じように貫かれるのです。
 このように、律法の行いによる義に固執するユダヤ教徒に向かって、パウロは「神は唯一である」というユダヤ教の根本信条をもって、信仰による義を根拠づけます。この「神は割礼の者たち(ユダヤ教徒)を信仰によって義とし、無割礼の者たち(異教徒)をも信仰によって義とされる」という宣言は、おもにユダヤ教徒に向かってなされているのです。

「福音と律法」の問題

 すると、ユダヤ教徒からは、それでは《トーラー》は無意味になるではないのかという反問が出てくることは避けられません。事実、パウロは《トーラー》を汚す者としてユダヤ人から迫害され、妨害されるのです。それに対して、ここでもパウロは自ら「では、わたしたちは信仰によって律法を無効にするのでしょうか」という問いを立てて、「決してそうではありません。むしろ、律法を確立するのです」と答えます(三一節)。
 ここで問題になっているのは「信仰」と「律法」の関係です。そして、これまで繰り返して見てきたように、ここでの「信仰」はキリスト信仰のことであり、「律法」とはユダヤ教のことです。キリスト信仰によって義とされるという福音の告知は、ユダヤ教を無効にするのではないか、という問いです。したがって、ここの問いはキリストの福音とユダヤ教の関係を問題にしている、と言うこともできます。
 ところが、「福音と律法」の関係という問題は、信仰と道徳的行為の関係として取り上げられることが多いようです。すなわち、イエス・キリストを信じることが救いであるならば、道徳的行為は救いにとって無意味になるのではないか、信仰と道徳的行為はどのような関係にあるのか、という形で取り上げられています。たしかに、これも神学上の問題になります。しかし、すくなくともここでパウロが問題としていることとは違います。パウロは、キリスト信仰とユダヤ教との関係を問題にしているのです。ローマ書の理解には、当然のことながら、まずここでパウロが問題にしている内容を理解する必要があります。
 これまで詳しく見てきたように、パウロが告知する福音の核心は、神の義が「律法と無関係に」現れたということにあります。そうであれば、神によって義とされるのに律法は無関係であり、律法を持っているかどうか、律法を順守しているかどうかは意味がないことになります。パウロは「信仰によって律法(ユダヤ教)を無効にしている」という非難が、ユダヤ教徒から、またイエスを信じながらもユダヤ教の枠の中に留まっている者たちから出るのは当然です。その批判と非難に対して、パウロは断固として、「決してそうではない。むしろ、律法(ユダヤ教)を確立するのだ」と答えるのです。
 では、福音がユダヤ教を確立するとはどういう意味でしょうか。パウロはそれを以下に続く律法解釈によって示します。それがローマ書四章です。信仰によって義とされることは、律法自身が証明しているという議論です。パウロは四章で、信仰によって義とされるという福音の告知は、律法(ユダヤ教)の本来の内容を明らかにしているのだ、という主張を展開するのです。これが「律法を確立する」ことなのです。これは、この段落の冒頭で掲げた主題、「しかし今や、律法とは無関係に、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が現されています」の中の「律法と預言者に立証されて」の部分を展開することになります。「信仰の律法」、すなわち、信仰を要求し、信仰によってその本来の内容を現すユダヤ教の姿を、ユダヤ人たちに見せるのです。
 パウロは、キリスト信仰によって義とされるのであって、律法の行い(ユダヤ教規定の順守)は義とされることにおいては無関係であると主張しますが、キリストを信じたユダヤ教徒にユダヤ教を捨てることを求めてはいません。むしろ、「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡をなくそうとしてはいけません」(コリントT七・一八)と勧めています。すなわち、キリストを信じて新しい神の民として召されたユダヤ教徒は、ユダヤ教徒のまま留まっているように勧めています。ユダヤ教徒の優れた点、割礼の益は「すべての面で多くある」のです(三・一〜二)。ユダヤ教は「聖なるもの」(神に属するもの)であり、「善いもの」であり、「霊的なもの」なのです(七・一二〜一四)。人類が持ち得た最上の宗教の一つです。
 このようなパウロの議論の展開を見ていきますと、パウロがこの書簡を、おもにユダヤ人に自分が告知する福音、すなわち「律法(ユダヤ教)と無関係の神の義」の福音を納得させるために書いているという印象がますます強められます。この福音のためにパウロは、ユダヤ教を否定する者として、ユダヤ教徒から命を狙われますが、パウロは決してユダヤ教を否定しているのではありません。パウロはユダヤ教を「相対化」しているのです。ユダヤ教が唯一絶対の宗教であって、救われるためには、人は誰でもユダヤ教に改宗してユダヤ教徒にならなければならないというユダヤ教の「絶対化」を否定して、ユダヤ教徒であろうと、非ユダヤ教徒であろうと、キリストにおいて現された神の義、神の恩恵によって救われるのであると主張しているのです。このような「キリストにおいて現された神の義、神の恩恵」の前では、ユダヤ教であれ何教であれ、「宗教」はそれに改宗しなければ救われないという絶対的なものではなくなり、「相対化」されます。パウロはユダヤ教を相対化することによって、ユダヤ教を本来の位置に置き、「キリストにおいて現された神の義、神の恩恵」の絶対性を明らかにするのです。このようにユダヤ教を相対化して、宗教としての本来の位置に置くことが、ユダヤ教を「確立する」ことの一つの面になります。