市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第4講

第二節 ユダヤ人の罪

5 神の正しい裁き (2章 1〜16節)

 1 だから、すべて人を裁く者よ、あなたは弁解の余地がない。あなたは他の人を裁くことによって、自分を裁いているのです。裁いているあなたが同じことを行っているからです。 2 このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています。 3 このようなことを行う者たちを裁きながら自分も同じことをする者よ、自分は神の裁きを免れるとでも考えているのですか。 4 それとも、神の慈愛はあなたを悔い改めに導くものであることを知らないで、神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじるのですか。 5 あなたの頑なさと悔い改めのない心のゆえに、神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって、あなたは神の怒りを自分の上に蓄えているのです。
 6 神はその人のしたことに従って、各人に報われるのです。 7 すなわち神は、忍耐強く善を行って栄光と誉れと不滅を追求する者たちには永遠の命を与え、 8 自我心にかられた者たちや、真理に従わず不義に耳を傾ける者たちには、怒りと憤りが注がれます。 9 誰であれすべて悪を行う人間の魂には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、患難と苦悩が下り、 10 善を行う人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、栄光と誉れと平和が与えられます。 11 神には人を偏り見ることはないからです。
  12 律法と関係なく罪にある者は皆、律法と関係なく滅び、律法の中にあって罪にある者は皆、律法によって裁かれます。 13 律法を聴いているだけの者が神の前に義であるのではなく、律法を行う者が義とされるからです。 14 律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです。 15 このような者たちは、律法の求める行為が自分たちの心に記されていることを実証しているのです。彼らの良心も共に証しして、心の思いが互いに責めたり弁明したりしています。 16 このことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたところを裁かれる日に明らかになります。

人を裁く者

 ここまで(一・一八〜三二)パウロは、神に背いている人間の姿を描いてきました。これは決して一部の人間の姿ではなく、人間そのものの姿として語られたのです。しかしパウロは、人間の退廃と悲惨をこのように描き糾弾する立場にある者が存在することを承知しています。実は、以上に語られた人間の現実は、ユダヤ教から見た異邦人(非ユダヤ教徒)への批判であり、彼らの背神の糾弾です。それは「知恵の書」などのユダヤ教文書に見られるとおりです。パウロ自身もユダヤ教徒として、異邦人世界の現実をそのように糾弾せざるをえませんでしたし、それがユダヤ教の立場からする異邦人世界の糾弾であることをよく承知しています。
 以上のように人間の現実を批判糾弾する立場にある者は、自分たちは創造者なる唯一の神を拝み、偶像礼拝とそれから生じる退廃に陥っていないとしていました。そのように自分を「裁く(批判し糾弾する)者」の立場に置いている者はユダヤ人であることを十分承知した上で、パウロはここではユダヤ人という特定のグループの人間を名指して問題にするのではなく、あくまで原理の問題として「すべて人を裁く者よ」と呼びかけます。ユダヤ人でなくても、たとえばキリスト教徒であっても、その他誰であっても、もし誰かが自分はそのような者ではないとして、そのような現実にある人間を裁く(批判し糾弾する)立場に置いているならば、まさにその人こそ、ここで「すべて人を裁く者よ」と呼びかけられているのです。この呼びかけは、自分の宗教によって自分は正しいとし、その地点から異教徒を断罪する「すべての」宗教的人間に向けられているのです。ユダヤ人はその代表です。
 このように「人を裁く者」も、彼らが裁いている人たちに向けられたのとし同じ言葉で(一・二〇)、「弁解の余地がない」と断罪されます。同じ言葉が用いられていることにより、先の段落(一・一八〜三二)とこの段落(二・一〜一六)が一対となって、すべての人間が神に背く根元的な罪の中にあることが描かれるのです。裁く者が断罪されるのは、裁く者が自分が裁いている者と同じことを行っているからです。同じことを行っている他の人を裁くことは、自分を裁くことになります(一節)。ここでのパウロの舌鋒は、ダビデ王に向かって「それはお前だ」と指弾した預言者ナタンを思い起こさせます(サムエル記下一二章)。
 パウロがここでユダヤ人を念頭において語っていることは明らかですが、そのユダヤ人について「同じことを行っている」と断定するのは、ユダヤ人にはまったく衝撃的な発言です。事実、パウロはすぐ後(一七〜二四節)で、「ユダヤ人」の名をあげて、「裁く者」の立場に自分を置いているユダヤ人が同じことを行っている事実を列挙します。しかし、ここではあくまで原理の問題として、「すべて人を裁く者」が同じことを行っていることを取り上げて、先の段落(一・一八〜三二)で描いた人間の背神と退廃が、人間の一部ではなく全部の姿であることを強調するのです。
 その上で、「このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています」と言います(二節)。人間はすべて生得的な直感で漠然と知っていますし、とくにユダヤ人は律法に教えられて明確に知っています。 ところが、「このようなことを行う者たちを裁く者」(ユダヤ人をはじめ、前述のすべての宗教的人間)は、自分を裁く者の立場に置いていますから、同じことを行いながら自分が裁きの対象になるとは考えず、「自分は神の裁きを免れると考えている」のです。 パウロは疑問文の形を用いて、これを妄想として厳しく退けます(三節)。その理由は六〜一一節であげられますが、その前に「自分は神の裁きを免れると考えて」悔い改めないユダヤ人を初めとする「宗教的人間」のかたくなさを厳しく批判します(四〜五節)。
 ユダヤ人は、神の裁きも二種類あると考え、異邦人には「厳しい王として罰を下される」が、イスラエルには「戒める父として試練を与える」とし(知恵の書一一・一〇)、父としての慈愛を自分たちが終末の裁きを免れることの根拠としていました(知恵の書一五・一〜三)。パウロは、彼らが裁きを免れる根拠としている神の慈愛は、悔い改めに導くためのものであるから、悔い改めないで神の慈愛を当てにすることは、「神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじる」ことだと糾弾します。パウロがユダヤ人の「頑なさと悔い改めのない心」を糾弾するのは、神の慈愛の究極の啓示であるイエス・キリストを拒み続ける事実を念頭に置いて、そのような同胞に対する激しい痛み(九・一〜二参照)から出ていると見られます。
 ユダヤ教では、人間は地上の行為の結果を天に蓄えているのだと考えています。とくにユダヤ教黙示思想では、地上の苦難の中で忠実に律法に従うことにより「義の宝を天に蓄える」のだという表象が多く用いられています。ところが、パウロはこれを逆転して、義人とか選民として(裁きを免れるという)特別扱いを期待して悔い改めないユダヤ人は、「神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって」、「神の怒りを自分の上に蓄えている」のだとします。これは昔、「主の日」を自分たちの敵が滅ぼされる日であると期待していたイスラエルに向かって、預言者たちが「主の日」はイスラエルに対する審判の日であると叫んだことを思い起こさせます。

「神の正しい裁き(義の裁き)が現れる怒りの日」を前提にして語っている事実は、パウロがユダヤ教黙示思想を真剣に受け止め、黙示思想を自分の思想の枠組みとしていることを示しています。「義の裁き」、「怒りの日」、「現れる」《アポカリュプシスの動詞形》などの用語は、死海文書やその他の黙示文書によく用いられている表現です。

神の正しい裁き

 続いてパウロは、「人を裁く者」が自分は神の裁きを免れると考えていることがいかに理不尽なことかを、神の裁きの原理を掲げることで示します(六〜一一節)。神の裁きの原理とは、「 神はその人のしたことに従って、各人に報われる」ということです(六節)。そして、その原理の実現として、生涯を通じて永遠を追求して善を行い永遠の命を与えられる者と(七節)、自我心によって生きて不義の道を歩み神の怒りが注がれる者(八節)が対比されます。終わりの日の裁きの場で各人が神から受けるものは、その人が実際にその生涯をどのような原理で、何を目標にして生きたかによって決まるのです。どのような宗教に所属したか、どのような民族や文化の中で生活したか、どれほどの知的水準であったかなどは一切関係がありません。そのことが「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句を用いて表現されます(九〜一〇節)。そして、所属している宗教などいっさい関係はないことが、「神には人を偏り見ることはない」(申命記一〇・一七)という聖書引用で確認されます(一一節)。

六節は詩編六二編一三節からの引用。詩編では救いの根拠として語られていますが、パウロは神の怒りを自分の上に蓄えているという宣告の根拠として引用しています(六節は関係代名詞で五節に続いています)。六節の「報われる」は未来形で、終末時の裁きを指しています。七節と八節に動詞はありませんが、六節の展開として「報われる」とか「注がれる」という未来形の動詞を補って理解しなければなりません。
 七節で「永遠の命」という表現が用いられていますが、この表現はパウロ書簡では五例(ガラテヤ書に一回、ローマ書に四回)だけです。パウロは、キリストにある者は聖霊により現在すでに終末的な質の命に生きていることを繰り返し語っていますが、その命を「永遠の命」と呼ぶことはありません。パウロが「永遠の命」という表現を用いるときは、「来るべきアイオーンにおける命」という、当時のユダヤ教(とくにファリサイ派や黙示思想)に見られる将来の面を色濃く残しています(マルコ一〇・一七に見られるように)。現在すでに聖霊によって生きている命を「永遠の命」と呼んで、福音の主題にしたのはヨハネです。

律法を持つ者も持たない者も

 「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句は、パウロの福音提示のさいの標語です(一・一六)。律法をもつユダヤ人も律法をもたないギリシア人も区別なく、律法とは関係なく、信仰によって義とされる(救われる)ことがパウロの福音の核心です。しかしここでは、その前提として、律法の枠の中にいるユダヤ人も、律法の外にいるギリシア人も、同じ裁きの原理の下にあることが確認されます(一二〜一六節)。ここではユダヤ人は「律法の中にある者」と呼ばれ、ギリシア人に代表される異邦諸国民は「律法を持たない者」と呼ばれます。人間は律法を持つ者と持たない者に区分され(これはユダヤ人から見た区分です)、両者が同じ原理で裁かれることが確認されるのです。
 ここで(ローマ書では)初めて「律法」という語が登場します。「律法」と訳されているギリシア語原語は《ノモス》ですが、このギリシア語は《トーラー》というヘブライ語のギリシア語聖書における訳語であり、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教における《トーラー》を指していることになります。そして、この《トーラー》という語はユダヤ人にとってユダヤ教の全体を指すきわめて包括的な意味をもつ語なのです。

《トーラー》(律法)という語は実に広範な意味合いで用いられる語で、場合によって、個々の戒律規定、戒律規定の総体、モーセ五書、ユダヤ教全体などを指します。《トーラー》は、「律法」という訳語が示唆するような戒律だけを意味する語ではなく、出来事や物語、祭儀や文学など、民の歴史の中に啓示された神の意志や定め全体を指す語なのです。そのことは、ユダヤ人が普通《トーラー》という語で指しているモーセ五書の内容が、生活上の戒律規定だけでなく、イスラエルの民の歴史を語り伝える物語や、祭儀規定や、説教や文学的な作品を含む、きわめて幅広いものであることからも分かります。モーセ五書を意味する《トーラー》(律法)は、「預言者」と「諸書」と並んで、ユダヤ教聖典を構成する一部分ですが、ユダヤ人にとっては《トーラー》こそ神の意志の啓示であり、それに従うことが生活のすべてであったのです。すなわち、《トーラー》はユダヤ人にとって宗教そのものであり、宗教は生活の一部ではなく全体であったのです。ここでユダヤ人が「律法を持つ者」と定義されていることから、ここでの「律法」は個々の戒律(またはその総体)ではなく、ユダヤ教という宗教全体を指していることは明らかです。パウロが《ノモス》という語を、このようにユダヤ教そのものを指す意味で用いていることは、キリストに出会う以前の自分を語るのに、《ノモス》(律法)という語と「ユダヤ教」という語の両方を同じ意味で用いていることからも分かります(フィリピ三・五〜六とガラテヤ一・一三〜一四を比較)。

 まず、神の正しい裁きの原理として、律法をもっているかどうかと関係なく、「罪にある者」は滅びることが主張されます(一二節)。すなわち、ユダヤ教徒であろうが異教徒であろうが関係なく、神に背き、自我心から不義に生きる者は、神の裁きにより滅びに至るのです。パウロはここで個々の宗教的・道徳的規定に違反する諸々の行為を考えているのではなく、神に背いて生きる人間の生涯全体を念頭において語っているので(八節)、私訳では「罪を犯す者」ではなく「罪にある者」と訳しています。
 そして、律法をもっていることを誇る者(ユダヤ人)に向かって、「律法を聴いているだけの者」ではなく、「律法を行う者」が神の前に義とされるのだと宣言します(一三節)。自分がどれだけ律法が求めるところを行っているかどうかを省みないで、ただ安息日ごとに律法の朗読を聴き、その解釈を教えられているだけで(すなわち、ユダヤ教という宗教に所属しているだけで)、自分は神の民に所属し、義人であると考えているユダヤ人の錯覚を暴露します。「律法を行う者が義とされる」はユダヤ教の基本原理ですが、パウロはここでは律法を行うことはできるかどうかを問題にしていません。聴いているだけで義であるとする錯覚を取り上げているのです。この錯覚は、どの宗教にもあります。キリスト教徒にも、洗礼を受け聖餐にあずかり、日曜日毎に教会で説教(聖書の解釈)を聴いているから、自分はキリストに所属し、義なる民であると錯覚している人が多くいます。実際は、キリストの霊をもたない者、キリストの霊によって生きていない者はキリストに属していないのです(ローマ八・九)。
 ここでパウロはユダヤ人にとって衝撃的な発言をします。ユダヤ人は、律法という神の啓示をもっていない異邦人は律法を行う可能性はないのであるから、神の民となる可能性はないと考え、「罪人である異邦人」と決めつけていました。そのユダヤ人に向かって、パウロは「律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです」と断言します(一四節)。すなわち、律法(ユダヤ教)の外にいる異邦人(異教徒)も、「律法が求めるところを自然に行うならば」、自分自身が律法となり、律法を行う者でありうる、すなわち義とされて神の民でありうるというのです。
 ここで「自然に行う」という表現が問題になります。ここで「自然」という語は人間の生まれながらの本性を指すものではありません。パウロはそれを「肉」と呼んでいます。「肉」は律法の求めるところを行うことはできません。しかし、律法を持たない異邦人でもキリストにあって御霊により律法が求めるところを行うようになることを念頭に置いてパウロはこう言った、と解釈する説があります(たとえばアウグスティヌス)。この場合「自然に」は「モーセ律法という特別の成文律法を受けていなくても」という意味になります。これはキリストにある者には魅力的な解釈ですが(そして事実はその通りなのですが)、パウロの語法としては、御霊による生き方を「自然に」という語で表現しているとすることは無理があります。また、「自然に」を人間の理性によって普遍的に認識される法に従って、すなわち「自然法に従って」という(ストア的な)意味に理解し、異邦人が自然法に従って生きるときは神の律法を行っているのであるという解釈もあります。しかし、パウロの歴史的状況に即して見るならば、パウロはヘレニズム期のユダヤ教が用いていた「書かれざる律法」(フィロンや黙示文書に出てきている)という考え方を知っており、異邦人が律法の求めるところを行うのは、彼らが「書かれざる律法」を持っているからだとし、それをここで「自然に」という語で表現したと考えられます。それで、モーセ律法のような成文律法を持たない異邦人が「律法が求めるところを自然に(書かれた律法なしで)行うならば」、それは、律法が「自分たちの心に記されている」ことを実証していることになると言います(一五節前半)。

先に見たように、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていましたが、それは同時に創造者が人間に求めておられるところが何であるかを認識する感覚を含んでいました。知恵はイスラエルには具体的に《トーラ》という形で与えられたのですが(シラ二四章)、異邦人には「書かれざる律法」という形で与えられていたことになります。

 ここでパウロは、そのような「律法が求めるところを自然に行う」異邦人の心の姿を「良心」という語を用いて描写します(一五節後半)。「良心」というのは、当時のヘレニズム哲学で広く認められていた生得的な人間の道徳的自覚(自分の行為の善悪を自覚する能力)を指し、パウロはこの「良心」が善悪を判断して「互いに責めたり弁明したり」して、律法を持たない人間も律法が求める善をなすようにしているのだとします。

「良心」と訳している《シュネイデーシス》は、旧約聖書には対応するヘブライ語はなく、ヘレニズム世界の通俗哲学の用語です。ユダヤ教ではヘレニズム期になって用いられるようになっています(たとえばフィロンやヨセフス)。新約聖書では30回出てきますが、その中でパウロ書簡に14回あり、福音書には用いられていません。新約聖書にこの語を持ち込んだのはパウロであると言えるでしょう。

 以上に述べたこと、すなわち、一二〜一三節で原理を述べ、一四〜一五節で敷衍した神の裁きは、「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」実現します(一六節)。人間の実相がもはや隠れることなく顕わにされるとき、すなわち終末時の審判において、律法をもっていたかどうかに関係なく、罪にある者は裁かれ、義を行った者は誉れを受けるという神の裁きが明らかになるのです。

一六節は節全体が「神が裁かれる日に」という副詞句であって、一二節の裁きが行われる時を示しています(KJV.は一三〜一五節を括弧に入れて、一六節を一二節に続けています)。しかし、修飾される動詞から遠く離れているので、私訳では「このことは明らかになります」という句を補って、独立の文として訳してあります。

 パウロは「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」という文の後に、「わたしの福音によれば、キリスト・イエスによって」という句を加えます。「神が人々の隠れたところを裁かれる日」が来ることは、当時のユダヤ教に共通の認識でした。とくに黙示思想ではその間近な到来が熱烈に待望されていました。パウロは、その終末の裁きが「キリスト・イエスによって」行われることを付け加えざるをえません。「わたしの福音によれば」、すなわち、パウロが身に受け、命をかけて宣べ伝えてきた福音によれば、神はイエスを死人の中から復活させてキュリオス・キリストとして立て、この方によって世界を裁くこととされたのです(コリントU五・一〇)。このキリスト・イエスに対する態度で神の裁きが下るのです。律法のあるなしではなく、キリストへの信仰によって裁きが決まるのです。このことはローマ書全体で論証することになるのですが、パウロはそのことを示唆する句で、この神の裁きについての段落を締め括ります。

「宗教」の錯覚

 ここまで(一・一八〜二・一六)で、パウロは神に背いている人間の現実を描いてきました。ここでパウロは「ユダヤ人」という名を出していませんが、前半(一・一八〜三二)ではユダヤ人の立場から異邦人の偶像礼拝とそれに伴う退廃を糾弾し、後半(二・一〜一六)では返す刀で異邦人を裁くユダヤ人の背神を指弾しました。前半においても、人間が欲するままに悪を行っている現実が、悪に引き渡されている結果であり、それが神の裁きであるという深い洞察が見られますが、全般的に(ヘレニズム期ユダヤ教の)伝統的な思想に依存しており、描写も簡潔です。それに較べると後半の方がいっそうパウロの独自性がよく出ており、(ユダヤ人の名をあげて議論を進める二・一七〜三・二〇も含めると)はるかに詳細で表現も生き生きとしています。この事実は、ローマ書の成立事情のところで述べましたように、パウロがおもにユダヤ人を念頭においてこの書簡を書いていることを確認させます。
 ここでは異邦人を裁くユダヤ人を念頭に置きながらも、「ユダヤ人」と名をあげない点が示唆深いものがあります。すなわち、自分の「宗教」だけを真理とし、その中にいる自分たちを義とし、外にいる異教徒を不義と判断する「宗教人」一般が断罪されているからです。
 「宗教」という語はいろいろな意味で用いられますので、使用にさいしては注意が必要です。ここは厳密な定義をする場所ではありませんが、最小限度の限定をして使用しなければなりません。人間が人間以上の存在と関わる営みを広く宗教と言いますが、その中で共通の祭儀や教義や戒律によって一定の人間集団が形成されているとき、そのような宗教活動をここではカギ括弧をつけて「宗教」と呼ぶことにします。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、仏教、その他わたしたちが日常「宗教」と呼んでいるものがそうです。
 先にも見たように、パウロが「律法」というときには、このような意味での「宗教」としてのユダヤ教を指しています。ユダヤ教は代表的な「宗教」です。「ユダヤ人」とは、このような「宗教」の中にいるユダヤ教徒を指しています。パウロがこの段落(二・一〜一六)で「律法」について述べていることは「宗教」一般について言えるのです。「すべて人を裁く者」とは、自分の宗教だけを真理として、異教徒を断罪するすべての「宗教」内の人間をさしているのです。
 ここでパウロは、「宗教」をもっているから、あるいは「宗教」の中にいるから自分は義人であって神の裁きを免れていると考える「宗教人」の錯覚を暴露します。「宗教」の中にいる者がこの錯覚から免れることは、きわめて困難です。パウロが「宗教」の錯覚を見抜くことができるのは、自分が「宗教」とはまったく別の原理で義とされることを体験したからです。すなわち、キリスト信仰によって義とされるという福音を体験したからです。福音は「宗教」の錯覚を克服するのです。

6 ユダヤ人と律法 (2章 17〜29節)

 17 ところで、もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、神との関係を誇り、 18 律法に教えられて御心を知り、何をなすべきかをわきまえ、 19 自分を盲人の導き手、闇の中にいる者たちの光、 20 無知な者たちの教育者、未熟な者たちの教師であると確信し、それを律法の中に知識と真理を具体的な形で持っているからだとするのであれば、 21 他人を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか。「盗むな」と説くあなたが、盗むのですか。 22 「姦淫するな」と言っているあなたが、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌っているあなたが、宮の物を盗むのですか。 23 律法を誇っているあなたが、律法に違反することで、神を辱めているのです。 24 実際、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」と書いてあるとおりです。
 25 割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です。けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となっているのです。 26 だから、もし無割礼の者が律法の義の要求を守るならば、彼の無割礼は割礼と算定されることになるのではありませんか。 27 それで、生まれながら無割礼であるが律法を満たしている者が、律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなたを裁くことになるのです。 28 外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではないからです。 29 むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそユダヤ人であり、文字ではなく御霊による心の割礼こそ割礼なのです。そのような人の誉れは、人からではなく神から来るのです。

律法を誇るユダヤ人の律法違反

 ここまでで、パウロはすべての人間が神に背いていることを明らかにしてきました(一・一八〜二・一六)。その前半(一・一八〜三二)では、創造者である唯一の神から離れて偶像を拝む諸国民の背神と、その結果である人間性の退廃が糾弾されました。実は、この非難はユダヤ教の立場からする異邦人(異教徒)への批判・非難であったのですが、後半(二・一〜一六)で、そのように「人を裁く」ユダヤ人が、ユダヤ人という名をあげないで、同じように神に背いていると断定されました。先に見たように、ユダヤ人という名を上げないことに重要な意味があったのですが、ここからパウロは「ユダヤ人」と名指して、「人を裁きながら同じことをしている」ユダヤ人の背神を示して、ユダヤ人も例外ではないことを論じます。
 すでにユダヤ人は「律法《トーラー》を持つ者」として他の民と区別されていましたが(二・一二以下)、ここで《トーラー》を持つことを誇りとするユダヤ人の意識が直接取り上げられます(二・一七〜二〇)。周囲の異教徒たちの偶像宗教を非難するユダヤ人は、唯一の創造神を拝む自分たちを誇りをもって「ユダヤ人」すなわち「ユダヤ教徒」と呼んで、周囲の諸宗教の民と区別していました。

新約聖書で用いられている《ユウダイオス》は「ユダヤ人」という意味の語であり、普通「ユダヤ人」と訳され、この私訳でもそう訳していますが、当時の用語法ではむしろ「ユダヤ教徒」を指す名称です。たとえば、「サマリア人」は「サマリア教徒」(ヨハネ福音書四章)、《クリスティアノイ》(キリスト人)は「キリスト教徒」(使徒一一・二六)という意味で用いられています。現代の語感では、「ユダヤ人」と「異邦人」という対比は、人種的・民族的対比を意味していると受け取られがちですので、ローマ書のように信仰上の問題を扱っている文書では、「ユダヤ教徒」と「異教徒」という語で理解する方が意味が明確になると思われます。そのため、この講解では以後場面に応じて「ユダヤ教徒」を用いることにします。

 続けてパウロはユダヤ教徒の誇りを列挙していきます(一七〜二〇節)。ユダヤ教徒の誇りの根拠は《トーラー》(律法)を与えられていることです。《トーラー》を与えられているということは、神との特別の契約関係にあるということです。《トーラー》は契約の言葉であり、《トーラー》を持つユダヤ教徒だけが、神から選ばれて特別の関わりにある民なのです。そして、「《トーラー》の中に(唯一神に関わる)知識と(コスモスの真相としての)真理を具体的な形で(自分たちの歴史的体験として)持っている」ので、この《トーラー》に教えられて、ユダヤ教徒だけが明確に神が人に求めておられるところを知り、人間は何をなすべきか、いかに生きるべきかを知っている民であると誇っているのです。そして、《トーラー》を持たない異教徒たちを、このような知識をもたない「盲人」、「闇の中にいる者」、「無知な者」、「未熟な者」と呼び、自分たちユダヤ教徒こそ、そういう異教徒たちの「導き手」、「光(灯火)」、「教育者」、「教師」であると自認していたのです(パウロは当時のユダヤ教文献によく出てくる用語を用いて、ユダヤ教徒の自負と誇りを描いています)。預言者イザヤ(四二・六〜七、四九・六)が言ったように、自分たちユダヤ教徒こそ「主の僕」であり、「諸国民の光」として異教徒を教え、真の神の知識と真理に導き、救いをもたらさなければならないと自負していました。そのような使命感から、ユダヤ教徒は周囲のヘレニズム世界の人々に積極的に宣教活動をしていたのです(マタイ二三・一五参照)。
 パウロは「もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、・・・・・とするのであれば」という形でユダヤ教徒の誇りを列挙しますが、この「もし・・・・・ならば」は仮定ではなく、自覚を促す語りかけです。学生に学生たる本分を尽くすようにアピールするときに、「君がもし学生であるならば」と言うように、パウロはユダヤ教徒にユダヤ教徒としての自負を思い起こさせているのです。その上で、そのように《トーラー》を誇る者が《トーラー》に違反している事実を突きつけて、その責任の重さを強調するのです。
 パウロがここで「他人(異教徒)を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか」と言って、ユダヤ教徒が異教徒に《トーラー》を教えながら自ら違反している三つの罪をあげます。すなわち、盗み、姦淫、宮の物の盗みです。盗みと姦淫はどの社会にもあることで説明は要りませんが、「宮の物を盗む」は「偶像を忌み嫌っている」ユダヤ教徒独特の罪です。この「宮」はエルサレム神殿ではなく偶像の宮を指します。偶像に属する金銀財宝は徹底的に焼き尽くすべきであると《トーラー》の命令(申命記七・二五〜二六)があるにもかかわらず、ディアスポラのユダヤ人がその売買に関わって利益を得ていることを指していると見られます。

ユダヤ教社会にもこの他にいろいろと《トーラー》違反や犯罪行為があったでしょうが、とくにこの三つをあげるのは、パウロと同時代のフィロンにも並行例があり、当時のラビたちによってよく取り上げられ議論されていたことがうかがわれます。また、経験的には例外的な行為をユダヤ人共同体全体にとって代表的なこととして述べるのは、「黙示文学的見方による」(ケーゼマン)と見ることもできるし(黙示文学は神の民の中に見られる腐敗を終末の徴候の一つと見ました)、また、「彼らは言うだけで実行しない」という、シナゴーグに対する原始キリスト教の論争の定型的表現(ルカ一一章、マタイ二三章など)の一つである(ウイルケンス)と見ることもできます。

 こうして、「律法を誇っている(一七〜二〇節)あなたが、律法に違反する(二一〜二二節)ことで、神を辱めている」と結論します(二三節)。《トーラー》が与えられたのは、それに従うことによって神の栄光を現すためでした。ところが、《トーラー》に違反することによって、周囲の民からそのような悪しきことをする民の神と見られるようになり、「神を辱めている」ことになるのです。ユダヤ教徒は日頃「神の大いなる名が称えられ、聖とされんことを」という「カデシュ」の祈りを口で唱えながら、実際の行為では神の名を汚しているというのです。そしてこの結論を、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」という聖書の言葉(イザヤ五二・五)を引用して根拠づけます(二四節)。

このイザヤ書の箇所は、ヘブライ語聖書では「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている」ですが、七十人訳ギリシャ語聖書は「わたしの名は常に、あなたがたのゆえに異邦人の間で汚されている」となっています。この引用は、ギリシャ語を用いるヘレニスト・ユダヤ人にとって、また初期キリスト教徒にとって、ヘブライ語聖書ではなく七十人訳ギリシャ語聖書が正典聖書であったことを思い起こさせます。なお、イスラエルの民にゆえに主の名が異邦諸国民の間で汚されていることについては、エゼキエル書三六章一六〜二四節なども明白に語っています。

御霊による心の割礼

 次にパウロはユダヤ教徒の誇りである割礼を取り上げます(二五〜二九節)。ここまで(一七〜二四節)、《トーラー》を与えられていることが義の保証にならないことを示したパウロは、続けてユダヤ教徒が神と特別の契約関係にあることを保証する最も確かな拠り所としている割礼の有効性を問題にします。割礼の有効性を問題にすること自体がすでに正統ユダヤ教への挑戦です。

「割礼」は男性性器の包皮を手術で切除する儀式で、古代諸民族によく見られる習慣ですが、イスラエルではヤハウェとの「契約のしるし」として重要な意味をもっていました(創世記一七章)。とくに捕囚期と捕囚以後においては、異教徒からユダヤ教徒を分かつしるしとして重視されました。それで、異教の支配者がユダヤ教を禁圧しようとするとき割礼禁止という形をとり(セレウコス朝のアンティオコス四世やローマ皇帝ハドリアヌス)、ユダヤ人はこれに命がけの抵抗をして、マカベヤ戦争やバルコクバ反乱となりました。
 ユダヤ人は生後八日目に割礼を受けました(フィリピ三・五)。異教徒がユダヤ教に改宗するには割礼を受けることが求められました。ユダヤ教会堂には、ユダヤ教の教えに引かれた異邦人が参加しましたが、割礼を受けるまでは正式のユダヤ教徒とは認められず、「神を敬う者」と呼ばれました。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、異邦人を「無割礼の者」と呼んで、不浄の民であるとしました。

 パウロは「割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です」と言って、割礼の意義を認めます。しかし、割礼が主との「契約のしるし」という意義を持つ(有効である)のは、あくまで《トーラー》を行い実現している場合です。割礼という儀礼にあずかっていること自体が、神の民であることを保証するものではないのです。「けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら」、契約を破っているのですから、割礼は「契約のしるし」としての意義を持たず(無効となり)、「あなたの割礼は無割礼となっているのです」(動詞は完了形で、すでに無割礼となってしまっている)。身体に割礼の跡をとどめていても、ユダヤ教徒が不浄の民として軽蔑する「無割礼の異教徒」と同じだというのです。こうしてパウロは、割礼という外面的儀礼を神との関係の保証だとするユダヤ教の錯覚を粉砕します。パウロは、儀礼に客体的な有効性を保証するすべての「宗教」の錯覚を粉砕するのです。
 続いてパウロは、同じ原理を反対側から描きます。パウロはすでに「《トーラー》を持たない異教徒が、《トーラー》が求めるところを自然に行う」場合を論じていました(二・一四)。ここで、「《トーラー》を持たない異教徒」を「無割礼の者」とか「生まれながら無割礼である(者)」という表現で指して、彼らが《トーラー》の要求を満たす場合を取り上げます(二六〜二七節)。その箇所(二・一四)の講解でも触れましたように、《トーラー》を持たない異教徒が《トーラー》の要求を「自然に」満たす可能性は、すでにヘレニズム期のユダヤ教が知っていた「書かれざる律法」という原理によっていました。たしかに、原理としてはそうですが、パウロがこのような場合を論拠にしてここに見るようなユダヤ教徒には革命的な主張をすることができるのは、やはり生まれながら無割礼である異教徒が御霊によって《トーラー》の要求を満たしているという、「キリストにある」現実を念頭に置いているからであると考えられます。そのことは、ここで「御霊による心の割礼」が言及されていることからもうかがえます。
 このような場合(無割礼の者が律法の義の要求を守る場合)、「彼の無割礼は割礼と算定されることになる」とか、「律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなた(ユダヤ教徒)を裁くことになる」というのは、(両方とも動詞は未来形であり)最終的な神の裁きの場で起こることを指しています。現在のユダヤ教徒が想像もできないことが終末の裁きで起こるというのです。割礼を受けているユダヤ教徒が無割礼の汚れた者として退けられ、割礼を受けていない者が割礼ありと「算定されて」受け入れられるというのです。「算定される」という動詞は、四章でアブラハムについて繰り返し「義と認められた」と語られているときの動詞と同じです。すぐ後に述べることになる「信仰によって義と認められる」という福音の原理を、パウロはここで先取りして用いているのです。
 それだけでなく、無割礼の異教徒が割礼のあるユダヤ教徒を裁くことになるのです。黙示文学に、終わりの日には救われたイスラエルが自分たちを迫害した異邦諸国民を裁くという期待がありますが、パウロはこの期待を逆転して、律法を満たした異教徒が律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるユダヤ教徒を裁くようになるというのです。ただし、この場合の「裁く」は、世界を裁くのはあくまで神だけですから、自らが裁判官の席に着いて裁くのではなく、神が外見ではなく各自のなしたことに従って裁かれるとき(二・六)、その裁きの正しさを証言する者となる、と理解すべきでしょう。福音書(ルカ一一・三二)に、悔い改めた異教のニネベの人たちが、裁きの時に「今の時代と一緒に(神の裁きの座の前に)立ち上がり、これ(ヨナに勝る者の宣教にも悔い改めないイスラエル)を罪に定める」と語られているのも同じです。

黙示思想には「聖なる者が世を裁く」という思想があります。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。そして、さらに天使への裁きに聖徒が参与すると理解されて、「聖なる者たちは天使をも裁く」(コリントI六・三)という思想になったと見られます。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、また、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。このような黙示思想の流れの中で、パウロがそれを逆転して、割礼の者と算定された異教徒が裁きの座に着いて、律法違反の割礼の者たち(ユダヤ教徒)を裁くことを語った可能性もあります。しかしここでは、福音書の並行事例に従い、証人として神の裁きの正しさを証明すると理解します。なお、引用した福音書の語録は「語録資料Q」からのものです。

 こうして、「外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」という原理が、神の正しい裁きの帰結として確認されます(二八節)。そして、その原理の肯定的な面として、「むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそ(真の)ユダヤ人である」という重大な宣言がなされます(二九節)。この「隠れたところにおけるユダヤ教徒」は、「外見上のユダヤ教徒」と対照されています。「外見上のユダヤ教徒」とは「肉に施された外見上の割礼」を受け、書かれた文字としての《トーラー》を持ち、《トーラー》に従って生活することを標榜している者たちのことです。それに対して、「隠れたところにおけるユダヤ教徒」とは、「肉に施された外見上の割礼」は受けていないが「御霊による心の割礼」を受けており、書かれた文字としての《トーラー》はもっていないが、《トーラー》が求めるところを現実の歩みにおいて満たしている者たちのことです。そのような者があることを、パウロは長年の異邦人伝道によってよく知っています。そして、そのような「隠れたところにおけるユダヤ人」の誉れは、「人からではなく神から来る」、すなわち、人からユダヤ教徒と認められなくても、神からそう認められると言って議論を締め括ります。ここで神から契約の民ユダヤ教徒と認められることが「誉れ」という語で語られるのは、ユダヤ人とかユダヤ教徒という名称は名祖のユダから来ていますが、「ユダ」という名は「ほめる」という動詞から来ているとされているからです(創世記二九・三五)。ユダヤ人は自分たちこそ神からの誉れにあずかっている民だと誇っていましたが、パウロはそれを「外見上のユダヤ人」ではなく、「隠れたところにおけるユダヤ人」のものとします。

 この割礼の意義を論じる箇所に、「御霊による心の割礼」というパウロの福音の中心的な内容を指し示す句が出てきます。「心の割礼」の重要性はすでに預言者たちによって説かれていました(申命記一〇・一六、 三〇・六、 エレミヤ四・四、 九・二五、 エゼキエル四四・七)。また、当時の死海文書やフィロンなどのユダヤ教文書にも「心の割礼」を重視する主張が見られます。しかし、ユダヤ教の中で、神の契約の民となるのに割礼が必要であることを否定する者はありません。割礼はユダヤ教の生命線です。パウロはその一線を超えて、神の民となるのに必要なのは「御霊による心の割礼」であって、モーセ律法による(文字による)身体の割礼は必要でないとするに至ります(ガラテヤ書)。「心の割礼」とは、内面の根底的な転換を、ユダヤ教の割礼儀礼を比喩として用いて表現したもので、それは御霊によって古い存在の殻が破られ、その中から新しい人が生まれ出るとき、初めて実現します。預言者たちが説いた「心の割礼」は、御霊を受けることによって実現するのです。
 パウロは、ユダヤ人が誇る割礼を「文字による外見上の(身体の)割礼」とし、これと対照して、神の民と認められるのに有効な割礼とは、「御霊による心の割礼」だとします。これがなければ、身体に受けている割礼は無意味だとするのです。この「御霊による心の割礼」を受けていれば、身体の割礼はあってもなくてもよいとするのです(ガラテヤ六・一五)。ガラテヤ書の講解で詳しく見ましたように、パウロはこの原理によってユダヤ教を乗りこえます。熱烈なユダヤ教徒パウロが、あの堅いユダヤ教の殻を突破して、自由な福音の境地に生き、それを宣べ伝えるようになったのは、ただ一つ「御霊による」という現実を体験して知ったからです。この「御霊による」現実は、第二部(とくに8章)で詳しく展開されることになりますが、ユダヤ教徒も罪の下にある点では例外でないことを論じるこの箇所で、その事実を見させる原点として、「御霊による割礼」という句で言及されるのです。

パウロは、信じる者が聖霊を受けて新しい命に生きるようになることを、ユダヤ教儀礼である割礼を比喩として用い、「御霊による心の割礼」と呼んでいますが、「聖霊によるバプテスマ」という呼び方はまだしていません。強いて捜せば、「一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされた」(コリントI一二・一二直訳)という表現がありますが、聖霊が与えられることを強調しながらも、それを「聖霊のバプテスマ」と呼ぶことはありません。この呼び方はマルコ福音書以降になります。七〇年代以降の福音書の時代になって、他のバプテスマ運動との差異を強調するために、「水によるバプテスマ」に対して「聖霊によるバプテスマ」という呼び方が用いられるようになります(拙著『教会の外のキリスト』の中の「7 聖霊のバプテスマ」参照)。この呼び方も、パウロの「御霊による心の割礼」を源流としていると見てよいでしょう。

7 ユダヤ人からの抗議 (3章 1〜8節)

 1 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。また、割礼の益は何か」。 2 それはすべての面で多くあります。まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです。3 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」。 4 決してそんなことはありません。すべての人を偽り者として、神が真実とされますように。あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう、と書かれているとおりです。
 5 「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」 ――わたしは人間の論法に従って語っているのです。 6 決してそうではありません。そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう。
 7 「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」。8 わたしたちは中傷され、わたしたちが「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と言っていると、ある者たちが噂しているが、そのような者が断罪されるのは当然です。

ユダヤ人に対する神の信実

 これまで進めてきたパウロの議論は、ユダヤ教徒と異教徒を同列に置いて、ユダヤ教徒が誇る《トーラー》と割礼の救済史的意義を無視しているように思われます。そこで当然、ユダヤ教徒から抗議の声があがります。パウロはその抗議を自分の方から取り上げて、その抗議を退けます。この段落は、論者であるパウロ自身が反論を立てて、それに答えていくという「ディアトリベー」と呼ばれる論争文体が用いられていると見られます。この訳では、ユダヤ人論敵の抗議と見られる文は「 」に入れて示してあります。

ここに立てられている反論は、(イエスを信じない)ユダヤ教徒からものか、それともパウロの割礼なしの福音に反対した「ユダヤ主義者」(異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ人伝道者)からのもの(シュトゥールマッハー)かが問題になります。たしかにパウロは、ガラテヤ、フィリピ、コリントと、パウロの割礼なしの福音を覆すために働きかけてきた「ユダヤ主義者」の働きがローマにまで及ぶのを恐れて、彼らの反論に対して自分の福音を弁証するためにこの書簡を書いたという面があります。しかし、ここの文脈(神に背いている人間であるという点ではユダヤ人も例外ではなく、異邦人と同じであることを示そうとする文脈)では、とくに「ユダヤ主義者」に限定する必要はなく、彼らも含んでユダヤ教徒一般を指すと理解してよいでしょう。

  「では、ユダヤ人の優れた点は何か。すなわち、割礼を受けてユダヤ教徒であることの益は何か。お前の議論では何もなくなるのではないか。神がユダヤ人を選ばれた意味はなくなるのではないか」(一節)という抗議に、パウロは「たしかに何もない」と否定するのではなく、「それはすべての面で多くあります」と言って、ユダヤ教徒であることの救済史的な特権を認めます。そして、その「多くある」特権を数え上げようとして、「まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです」と言います(二節)。事実、イスラエルの選びの意義を正面から取り上げる第三部(九〜一一章)では、その多くの特権が列挙されています(九・四〜五)。しかし、ここでは第二以下は触れられることなく、「神のもろもろの言葉が信託された」という基本的な特権だけが取り上げられます。
  「神のもろもろの言葉」というのは、イスラエルの歴史の中で与えられた契約の言葉、律法、預言、約束など、神を啓示する様々な種類の言葉を指しています。神はイスラエルの民を信じて、その導きの歴史の中で御言葉を委ねられたのです。そのようにしてイスラエルの歴史の中で委ねられた神の言葉を土台にして成立したユダヤ教《トーラー》を持つことは、他の異邦諸国民にはないユダヤ人だけの特権です。この特権を認める点では、パウロは他のユダヤ人と同じです。
  ところが、福音を信じないユダヤ人から反論が起こります。もしイエスがイスラエルに約束されたメシア・キリストであるならば、イスラエルの民は全体としてはイエスをメシア・キリストと信じていないのであるから、神の契約とか約束の言葉は無効になるのではないか、という反論です。パウロはその反論を自分の言葉で表現します。 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」(三節)。実はパウロは、イスラエルの「ある者たち」(実は大多数)がイエスを信じないからといって神の言葉が無効になったのではないことを、九章六節以下で詳しく論じることになるのですが、ここでは先を急ぎ、ほとんど議論をしないで、「決してそんなことはありません」と断定します。その断定は、「すべての人を偽り者として、神が真実とされますように」(人間は偽るものだが、神は本性上偽ることはありえない)という一般的原理によってなされます。そして、その原理を聖書の一句、「あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう」(詩編五一・六後半、ただし引用は七十人訳ギリシャ語聖書から微妙な変更をして)を引用して根拠づけて、この抗議に対する反論を終えます(四節)。現代の人間には強引な反論の仕方に見えますが、聖書を絶対とするユダヤ教徒の間の論争では、聖書の言葉を引用して反論を封じることは普通のことです。

中傷に対する反論

 次にパウロは、不信心な者、不義なる者を義とする神の義(四・五)というパウロの福音宣教に対する反論を取り上げます。パウロに反対するユダヤ教徒は、パウロが主張する「神の義」の論理的矛盾を衝きます。パウロ自身が彼らの反論をまとめます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」(五節)。パウロが主張するように、もし神の義が不義なる人間を義とする働きにあるならば、そのような神の義は人間の不義があって初めて成立するものである。そうすると、自分の義を貫くために人間の不義を必要としながら、その不義なる人間に怒りを注ぐ(処罰する)とは、神の振舞いに矛盾があることになる。すなわち、神は不義となるのではないか。したがって、パウロが主張するような「神の義」はありえない、という論法です。
 このように論敵の反論をまとめながら、かりそめにも「神は不義ではないのか」というような冒?的な言葉を発するのは、論敵の人間的な論理による批判を引用しているだけだとして、「わたしは人間の論法に従って語っているのです」という断り書きを付け加えないではおれないのです。その上で、「決してそうではありません」と断固否定します。ここでも詳しい議論は一切しないで、神が不義であるという結論など、とんでもないことだと退けます。パウロが宣べ伝える「神の義」とはどういうものか、パウロはこの書簡全体(とくに第一部と第二部で)展開するのですが、ここでは先を急ぎ、「そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう」という、ユダヤ教徒には当然の前提(神は世界の審判者であるというユダヤ教の公理)を持ち出して反論を退けます。
 パウロはさらにユダヤ教側からの反論をまとめます。「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」(七節)。この反論は、先の「わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、わたしたちに怒りを注ぐ神は不義ではないのか」という反論と論理的構造が同じです。先の「わたしたちの不義」と「神の義」の対比が、ここでは「わたしたちの偽り」と「神の真実」という対比に変わっているだけです。この反論が出ることから逆に、パウロの福音宣教には、「不義なる者を義とする神の義」の告知と並んで、「不信実な人間を支える神の信実」という告知が際だっていたことがうかがわれます。「不義なる者を義とする神の義」については、パウロはこの書簡全体を通して弁証の議論を展開しますが、「不信実な人間を支える神の信実」という主張は、表面に現れて組織的に論じられることはありません。しかし、パウロ書簡の全体に底流として流れており、パウロの救済論の土台になっている事実を見逃してはなりません。

三節では「信じる」という動詞とその名詞形である「信実《ピスティス》」と「不信実《アピスティス》」が用いられ、「神の信実《ピスティス》」という重要な句が出てきます。これはパウロに特徴的な表現です。それに対して、四節と七節では、人間の「偽り」に対して「真実な」と「神の真実《アレーセイア》」という表現が用いられています。この語は、七十人訳ギリシア語聖書が神の「まこと、誠実」を《アレーセイア》で訳していることから、新約聖書でもよく用いられ、パウロも聖書(とくに詩編)の表現を意識してこの語を用いていると考えられます。両者は同じと見てよいでしょう。新共同訳は両方とも「真実」と訳していますが、この講解ではパウロ的な表現である「神の信実」を用いて講解を進めます。

 パウロは、人間の不信実と対比して(人間の信実をあてにしないで)「神の信実」を救済の土台と見ていたことが、書簡の各所に見られます。この段落以外では、ロマ一五・八、コリントT一・九、コリントT一〇・一三、コリントU一・一八などです。パウロはこの主張を書簡で組織的に展開していませんが、論敵が「不信実な人間を支える神の信実」というパウロの主張を取り上げて非難している事実は、パウロの福音宣教においてこの主張が際だっていたことを示しています。パウロのこの主張はパウロ系の諸教会で受け取られて、「パウロの名による書簡」の時代になると、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテU二・一三)という信仰告白の形で定式化されます。わたしは、マルコ福音書の「神の信実に生きよ」(マルコ一一・二二私訳)という信仰理解もこの線上にあると考えています。そこから、「絶信の信」の消息が出てくることになります(マルコ福音書の当該箇所の講解を参照)。
 この反論(七節)にはパウロはもはや答えることをしないで、二つの反論(五節と七節)をまとめて、「わたしたちは中傷され、わたしたちが『善を来たらせるために、悪をしようではないか』と言っていると、ある者たちが噂している」(八節)と言います。この二つの反論は自分たちの福音宣教に対する中傷だというのです。パウロに反対するユダヤ教徒は、パウロの福音に含まれる主張、「不義なる者を義とする神の義」と「不信実な人間を支える神の信実」という恩恵の告知をねじ曲げて、それは「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と主張していることだと言いふらしているのです。神の義とか神の信実(という善)を現すために、人間は不義を働くとか、偽りを行うという悪をしておればよいのだ、とパウロは主張していることになるとして、パウロの福音に反対しているのです。
 このように、パウロはこの二つの反論を「中傷」だとするので、中傷にはもはや議論で対抗せず、「そのような者が断罪されるのは当然です」という一言で退けて、このユダヤ人からの抗議に対する議論を切り上げます。「そのような者」が、パウロを中傷する者を指すのか、「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と考える者を指すのか、両方の解釈が可能ですが、自分に反対の議論をする者を断罪するよりは、「善を来たらせるために、悪をしようではないか」というような原理に生きる者が神からの断罪を受けることは明白であるとして、中傷が的外れであることを示そうとしたと理解する方が適当でしょう。
 この段落(三・一〜八)は、これまでのパウロの議論(とくに二・一七〜二九)に対して、ユダヤ教徒からの抗議を取り上げています。パウロはこの抗議に対して、議論らしい議論はしないで、聖書を引用したり、ユダヤ教的公理を指すだけで退けています。パウロはここでは、次の段落で示そうとしている「ユダヤ人もギリシア人もすべて罪の下にある」(三・九)という結論に至るために、議論を省いて急いでいます。しかし、この抗議は神学的にはパウロの福音の問題点を鋭く衝いており、パウロはこの書簡全体で弁証の議論を展開することになります。したがって、ここに取り上げられた抗議の論点は、これからのパウロの福音弁証の議論を理解するための視点としての意味を持っていると考えられます。その意味でこの段落は重要です。