市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第2講

第一部 信仰による義


第一部の構成

 手紙の前置きの最後の部分(一・一六〜一七)で自分が宣べ伝える福音の本質を提示したパウロは、手紙の本体部分(一・一八以下)でその福音を展開していきます。最初に、救いに至らせる神の力は、ユダヤ人であるかギリシア人であるかに関係なく、「すべて信じる者に」働くのだということを取り上げます。これは、救いに至らせる神の力が働く場に入っていくための入口を描くことになります。その入口は信仰です。信仰だけです。人を義とする神の働きは徹頭徹尾、この神の義を啓示する福音を信じる者、すなわち主イエス・キリストを信じる者に与えられるからです。信仰によって義とされることによって、人は救いに至らせる神の力が働く場に入ることができるのです。この入口の議論が、「パウロによる福音書」の第一部(一・一八〜五・一一)を構成します。

第一部が入口であることを強調するのは、第二部(五・一二〜八・三九)こそ、パウロが福音の本質とする「救いに至らせる神の力」の姿を描く重要な部分であることを明らかにするためです。西欧プロテスタント神学ではしばしば、信仰義認論をパウロ神学の核心として強調するあまり、第二部の重要性が見過ごされているのではないかと思われます。入口だけを示して、入った殿堂内部の壮麗さを十分に見ていないという傾向があるのではないかと心配されます。

 第一部の前半(一・一八〜三・二〇)では、人間はすべて神に背いており、罪の支配下にあることが明らかにされます。まず、すべての人間はいかなる区別もなく、正しい神の裁きの前には断罪される存在であることが示されます(一・一八〜二・一六)。その後、律法を与えられているユダヤ人も例外でないことが論じられ(二・一七〜三・八)、最後に「義人はいない。一人もいない」という結論が掲げられます(三・九〜二〇)。こうして前半では、人間の義が徹底的に否定されます。すなわち、人間が自分で達成できる義はありえないことが明らかにされるのです。
 後半(三・二一〜五・一一)では、前半で人間の義が否定された後を受けて、神の義が提示されます。すなわち、神の義を啓示する福音を信じる(ひれ伏して受け取る)ことによってのみ、人は義とされることが論じられます。まず、(広く受け入れられている福音の定型的な文を用いて)人は信仰によって義とされるというテーゼが掲げられます(三・二一〜二六)。ここでも義とされるのは律法の行いとは無関係であることが念を押され(三・二七〜三一)、かえって律法(聖書)からアブラハムの実例を引いて、信仰による義が根拠づけられます(四・一〜二五)。そして、最後に信仰によって義とされた結果を簡潔にまとめて勝利の凱歌をあげ、同時に第二部へ入る備えがされます(五・一〜一一)。