市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第23講

第二節 諸民族の中のパウロ

初期の福音の展開史におけるパウロ

福音宣教の拡大

 パウロは福音宣教の歴史において最も早い時期に位置しています。ペトロたちイエスの弟子であった者たちがエルサレムでイエス復活の証言の声を上げてからほぼ三年後にパウロの回心があり、それ以後パウロは福音宣教の第一線に立っています。パウロが宣教の活動を終える60年前後までの約30年間に、イエス・キリストの福音はエルサレムから始まり、北のパレスチナ・シリアの各地へ、そこから東に向かった流れは両河地方に、西へ向かい小アジアとギリシア、イタリアの諸地域に、南は北アフリカのエジプトからキレネに至り、キリストの福音は東地中海世界に広く伝播しています。それは復活のイエスの顕現に接した者たちが、復活者イエスの証人として各地に旅をして福音を宣べ伝えたからですが、それがこのように短時日の間にヘレニズム世界に広く伝わったのは、各地にディアスポラのユダヤ人(離散のユダヤ人)の共同体があり、ユダヤ教会堂が活動していたからです。ペトロら有名な使徒たちだけでなく、イエスの復活顕現を体験した多くの無名のユダヤ人たちが世界の各地に散って、各地の会堂でユダヤ人や会堂に集う異邦人に復活者イエスを伝えたからです。
 古代教会の伝承によると、ペトロはアンティオキアで働いた後、西に向かいローマに達し、ローマで殉教したと伝えられています。トマスはシリア(エデッサ?)で活動した後、東に向かいインドに至り、そこで殉教したと伝えられています。パウロははじめ東に向かいアラビアで活動しましたが、(おそらく戦争などの事情に妨げられて)ダマスコに戻り、その後、タルソやアンティオキアなどシリア・キリキア地方で活動し、さらに御霊に導かれて西に向かい、エーゲ海を渡ってヨーロッパに入り、マケドニア州やアカイア州などギリシアの諸都市に伝道します。最後にアジア州に戻って、エフェソを中心とする諸都市に力強い共同体を形成します。

エルサレムからローマへ

 パウロの宣教活動が西に向かったことは、その後の福音の展開にとって、また将来のキリスト教の拡大にとって、そして世界の歴史にとって、きわめて重大な結果を生むことになります。使徒言行録は、パウロが西に向かったのは御霊の働きと導きによるものとしていますが、パウロ自身も書簡の中でローマを訪れることを長年の念願としていることを率直に語っています(ローマ一・一〇、一五・二二)。パウロが西に向かったのは、ローマが西にあるからです。ローマは帝国の首都として、世界の中心です。当時の人々にとって、ローマ帝国こそ世界であり、帝都ローマは世界の中心です。どこでも地域の中心都市(多くは州都)に拠点を作ることを方針としてきたパウロが、帝国の中心、世界の中心にキリストの福音を確立することを終生の念願として活動を進めてきたことは理解できます。
 前章「使徒パウロ最後の日々」で見たように、パウロはついにローマに達します。しかし、それはパウロが「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」(ローマ一五・三二)と願っていたような形ではなく、囚われの身としてローマに入ります。ルカは、どのような形であれ福音がパウロによってローマに入り、パウロがローマで「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝えたことを述べれば、それでエルサレムからローマへ至る福音の進展を描く著作(使徒言行録)の目的は達せられたのです。使徒言行録は、エルサレムでのペトロの福音告知に始まり、パウロのローマでの宣教で終わります。ルカもペトロがローマまで来てローマで殉教したことは知っていたでしょうが、パウロによって福音がローマに達したという形で終えたのは象徴的です。エルサレムからローマに至る福音の進展にとって、それを可能にする原理を確立したのはパウロだからです。
 エルサレムはユダヤ教の本拠地であり、ユダヤ人の牙城です。ローマは多くの民族からなる帝国の首都です。もし福音宣教がユダヤ教内部の信仰運動であるならば、たとえローマにも信徒がいたとしても、福音はエルサレムに止まったままだと言えます。福音がエルサレムを出て諸国民の中に入って行くためには、「無割礼の福音」の原理、すなわちユダヤ教徒でなくてもキリストの民でありうるという原理が必要です。前節で見たように、その原理を命がけで確立したのはパウロでした。この原理によって、キリストの福音は世界のどの民族にも受け入れられるものとなったのです。この原理の体現者パウロが諸民族統合の象徴であるローマに達することで、福音はローマに達したと言えるのです。
 パウロは最後までユダヤ教徒としてエルサレムを神の働きの中心地として尊重しています。パウロにとってエルサレム教団が代表するユダヤ人キリスト教団はイスラエルの継承者として救済史の中核であり、異邦人教団はそれに接ぎ木される形で救済史に参加するのです。ですから、パウロはエルサレム教団との交わりを何よりも重視し、どのような困難や危険があっても、エルサレムを訪れ、エルサレム教団と交渉し、両者の一致を追求しています。この面を重視して、パウロを「エルサレムとローマの間に立つ使徒」と見ることもできます(佐竹)。しかし、パウロがパウロたる所以は、やはり「無割礼の福音」の原理の確立によって、キリストの福音を「エルサレムからローマへ」と進展させたこと、すなわち、キリストの福音をユダヤ教の枠から解放して、世界の諸民族のものにしたことにあると言えるでしょう。

「キリスト教の源流」としてのパウロ

「キリストの福音」と「キリスト教」

 「キリストの福音」と「キリスト教」は同じものではありません。「キリストの福音」は、神が復活者イエス・キリストにおいて人間の救済のための業を成し遂げられたという告知であり、キリストにあってその救いにあずかって生きる者の証言です。それに対して「キリスト教」とは、そのようにキリストの福音によって生きる者たちがある程度の社会的広がりをもって共同体(教会)を形成するようになったとき、その信仰を表現し、共同体を統合するために形成された共通の教義とか祭儀のシステムが「キリスト教」です。キリスト教は、パウロがキリストの福音を宣べ伝えてから数百年かかって徐々にヘレニズム世界に形成された新しい宗教です。

キリストの福音からキリスト教が成立する必然性とその過程については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」、あるいは拙著『福音の史的展開U』の最後に置かれている「終章 キリストの福音からキリスト教へ」を参照してください。

 パウロは「キリストの福音」を宣べ伝えましたが、「キリスト教」という宗教を創唱したわけではありません。しかし、パウロは「ユダヤ教の外で」《コーリス・ノムゥ》キリストに生きる原理を確立したので、ユダヤ教とは別に「キリスト教」が成立する道を開いたと言えます。その意味でパウロはキリスト教の創始者である、と言っても言い過ぎではありません。もし「無割礼の福音」の原理を命がけで唱えたパウロがいなかったら、キリストの福音はユダヤ教内部の運動に止まり、キリスト教という別の宗教は成立しなかったでしょう。
 キリスト教は世界の諸民族に広がり、すでに二〇〇〇年にわたる歴史をもっています。そのキリスト教の歴史を遡ってその源流を探ると、どこに行き着くのでしょうか。大陸を貫く大河も、その源流は山の中の木立に埋もれた小さい湧き水であることが多いようです。小さい湧き水が谷川となり、多くの支流を集めて平野を潤す大河となります。キリスト教という大河を遡ると、その源流はどこにあるのでしょうか。わたしはキリスト教の源流はパウロにあると見ています。
 こう言うと、いや、キリスト教の源流はイエス御自身ではないのか、という反論が出ると思います。たしかに、イエスはキリスト教の信仰対象です。キリスト教は、イエスをキリストと信じる信仰から出た宗教です。しかし、イエスは御自分をキリストと宣べ伝えた方ではありません。それをしたのは、イエス復活後の弟子たちです。彼らは復活されたイエスの顕現を体験し、復活者イエスをキリストとして宣べ伝えました。彼らは「使徒」と呼ばれました。この呼び方を使うと、キリスト教を始めたのは使徒たちであるということになります。その中で、先に見たように、パウロこそユダヤ教の外に新しい宗教を形成する原理を確立する使徒となったのですから、キリスト教の源流はパウロであると言うことになります。
 地上のイエスはまだユダヤ教の中におられました。ユダヤ教徒に父の恩恵を語るのを原則とされました(例外もありましたが)。そのイエスを復活された神の子として、そして世界の諸民族を救う救済者キリストとして宣べ伝えたのは使徒たち、とくに異邦人への使徒パウロでした。世界宗教、すなわちどの民族にも伝えられる普遍性のある宗教としてのキリスト教への突破口は、使徒パウロが切り開きました。その意味で、世界宗教としてのキリスト教の源流はパウロにあると言えます。

道備えとしてのファリサイ派ユダヤ教

 ところで、復活者イエスの顕現に遭遇し、この方を世界の諸民族の救済者キリストとして宣べ伝えたパウロは、熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒でした。この事実は、パウロが宣べ伝えた「キリストの福音」に、そしてその福音から生まれた「キリスト教」に深い刻印を刻み込んでいます。
 先に見たように、ファリサイ派ユダヤ教はヘレニズム化したユダヤ教でした。ファリサイ派は、アレクサンダー以後の滔々たるヘレニズム化の波に抵抗して、先祖伝来の宗教を護持しようとする熱烈なユダヤ教徒の信仰の戦いから生まれたものですが、その戦いの中で相手の思想を共通の土俵として戦わざるをえなかった結果、ユダヤ教自身がギリシア思想の諸前提を受け入れて変容することになったのでした。すでにヘレニズム文化自体が、ギリシア文化の中に東方諸宗教を取り込んでいたので、ファリサイ派ユダヤ教にはギリシア思想だけでなく、東方の諸宗教の思想が流れ込んでいました。ゾロアスター教から出ているペルシャ系の宗教からは体の復活の思想や善悪の二元論や終末論、ピュタゴラスやプラトンを生んだギリシアからは霊魂不滅の思想や諸霊の階層からなる宇宙論など、様々な宗教思想がユダヤ教の中に流れ込んでいます。ユダヤ教はモーセ律法という成文化された厳格な規定をもっていました。しかし、その規定を堤防(護岸壁)としながらも、その中に流れる水流にはギリシアや東方諸宗教の様々な思想が流れ込んでいました。一つの河が多くの支流の水を集めて大きな流れになるように、ユダヤ教という流れは様々な宗教や思想を含む流れになっていました。ユダヤ教の中でもファリサイ派はとくに、古来のモーセ律法を時代の要請に合わせて解釈し、その解釈をモーセ律法と同じ権威のある律法とした(すなわち堤防をどんどん広げた)ので、外からの流れを自身の中に受け入れる傾向が強く、ファリサイ派ユダヤ教はヘレニズム・ユダヤ教(ヘレニズム化したユダヤ教)であると言われることになります。
 キリストの福音はヘレニズム世界に入っていってはじめて「ヘレニズム化」して「キリスト教」になったのではなく、その源流であるファリサイ派ユダヤ教徒パウロ自身にヘレニズム化の端緒があります。パウロ自身の中にヘレニズム世界の諸宗教と諸思想が流入しているのです。そして、そのパウロからキリストの福音に包み込まれた形で、それらのヘレニズム諸思想が流れ出してキリスト教を形成するのです。キリスト教はヘレニズム世界の宗教です。ユダヤ教の中から出現したキリストの福音は、ヘレニズム世界に進出して、その中でさらにヘレニズム文化と思想を吸収してヘレニズム宗教としての姿を強くしてゆきます。すでに自分の中にヘレニズム的要素があるのですから、外からさらに同じものを受け入れるのは容易です。その過程の源流にパウロがいることになります。
 ここで少し本題から逸れますが、新約聖書に見られるファリサイ派ユダヤ教についての批判と非難について述べておきます。新約聖書、とくに福音書において、ファリサイ派は偽善者として厳しく批判され、また律法主義者として救いから締め出されています。それは、福音書が成立した時期(70年の神殿崩壊から一世紀末まで)においては、サドカイ派やエッセネ派は消滅し、ユダヤ教はファリサイ派の律法学者たちによって再建されて維持されていたからです。したがって、イエスを信じるユダヤ人たちが自分たちを迫害する不信のユダヤ教会堂と論争し戦うとき、相手はファリサイ派ユダヤ教ということになります。この歴史的事実が、福音書におけるファリサイ派や律法学者に対する激しい非難となって、イエスの口に置かれることになります。その結果、この福音書を聖典として信仰の拠り所としてきたキリスト教会には、ファリサイ派に対する激しい敵意と軽蔑が刻み込まれることになります。福音書成立期のユダヤ教とキリスト教の厳しい対立は、両者が(イエスの神性を認めるかどうかの一点以外は)あまりにも似ていることから来る近親憎悪の性格があると思われます。このように、福音書の反ファリサイ主義はユダヤ教のある時期のユダヤ教内の内輪争いであって、それをキリスト教とユダヤ教の時代を超えた敵意として固定してはなりません。むしろ、ファリサイ派ユダヤ教がキリスト教に豊かな養分を供給して、世界宗教としてのキリスト教の形成に大きく寄与している面を忘れてはなりません。ファリサイ派ユダヤ教徒のパウロがキリスト教の源流であることは、この面をわたしたちに思い起こさせます。
 
 福音書の反ファリサイ主義はマタイ福音書二三章に集約されていますが、その受け止め方については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』320頁の「マタイの反ユダヤ教論争」の項を参照してください。

小アジアのキリスト教

 エルサレムから始まった福音の宣教活動は、はじめにパレスチナを含むシリアに広がり、シリアがキリスト教の揺籃の地となります。その中心都市はエルサレムとアンティオキアです。ところが、その後パウロが西に向かい、小アジアからギリシアの各地に集会を形成するに至り、とくにエフェソを中心とするパウロ系諸集会の交わりが形成されます。第一章「エフェソにおけるパウロ」で見たように、エフェソは伝道活動の最後の時期にもっとも長期間滞在して活動した拠点都市であり、その地理的位置からも、パウロがそれまでに設立した諸集会の交わりの核となる場所です。州都エフェソ周辺のアジア州諸都市だけでなく、背後の小アジア内部の諸州、さらにエーゲ海対岸のマケドニア州やアカイア州の諸都市(フィリピ、テサロニケ、コリントなど)を含む広範囲の地域のパウロ系諸集会の交わりが形成されます。これをパウロ系共同体というならば、この共同体が一世紀後半から二世紀にかけて、キリスト教が形成されるのに重要な意義をもつことになります。このギリシア各地を含むパウロ系共同体の地域を「小アジア」というのは適切ではありませんが(「エーゲ海域」と呼んだ方がよいかもしれません)、エフェソに代表させて「小アジア」と呼ぶならば、この「小アジア」はシリアと並んで重要なキリスト教の揺籃の地となります。第三の重要地域であるエジプト(その中心都市はアレクサンドリア)は少し遅れて舞台に登場します。
 パウロが地上での働きを終えてからほぼ一世代後の80年代とか90年代に、この小アジアの共同体の中でパウロの名による書簡コロサイ書とエフェソ書が書かれ、ヘレニズム世界での福音がどのような形をとっていたかを見させてくれます。そして、さらにそれより後に(おそらく一世紀終わりか二世紀初めに)、同じくパウロの名によって書かれた牧会書簡が成立し、パウロ系共同体の制度的側面が見えてきます。
 ヨハネ黙示録の著者が誰であるのか、またその成立事情がどうであったのかは、確定困難な問題ですが、それがエフェソを中心とする「アジア州の七つの教会」にあてられたものですから、この地域で成立した文書であることには間違いありません。それと、テサロニケ第二書簡とを合わせると、この地域のパウロ系共同体にも黙示思想的な終末待望がなお熱く燃えていた面があることを見させてくれます。この事実は、少し後の二世紀半ばに、小アジア中央部のフリギアにモンタノスに率いられた再臨運動(モンタノス主義)が起こったことにも、強い影響を及ぼしていると考えられます。
 小アジアでのキリスト教の進展にとってもう一つの重要な因子は、エフェソにおけるヨハネ共同体の活動です。ヨハネ福音書を生み出した共同体(それは複数の集会を含む開かれたゆるやかな交わりであると考えられます)は、その成立と初期の活動はシリアである可能性がありますが、少なくとも後期にはエフェソで活動し、ヨハネ福音書をその地にもたらしたことは、二世紀の教父たちの証言から見て事実であると考えられます。パウロ系共同体とヨハネ共同体が実際にどのようなかかわり方をしたのかは確認が困難な問題ですが、ヨハネ福音書の神学がパウロの福音理解の延長上にあることは広く認められている事実です。
 それに、ルカ福音書と使徒言行録のルカ文書も、この地域の成立である可能性が高いと見られます。ルカ文書の成立地域については諸説があって確定できませんが、マルキオンが自分の聖書にパウロ十書簡とルカ福音書を用いている事実から、ルカ文書は小アジアで成立したのではないか、とわたしは見ています。マルキオンは小アジアのポントス州シノペ(黒海に面した港町)出身の船主ですが、後にローマに出てきて活動し、144年に異端としてローマの教会から追放されたと見られています。この年代は最近問題視され、もっと早かったのではないかと見られています。いずれにせよ、マルキオンはローマに来る前、小アジア西部、とくにエフェソを中心に活動し、そこでパウロ書簡集に接し、過激なパウロ主義者になり、イエスの神は旧約聖書の神とは別であると唱えるに至ります(アンカー聖書事典)。そのマルキオンがパウロ書簡集に加えてルカ福音書を用いている事実は、ルカ福音書がこの地域に流布していたことを示しています。それが成立地を証明するわけではありませんが、ルカ福音書がこの地域で広く認められていた文書であったことは確実であり、成立地である可能性が高いと言えます。

パウロの名によって書かれた書簡については、後に出す予定の拙著『パウロ以後のキリストの福音』において取り扱う予定です。エフェソにおけるヨハネ共同体の活動については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』に収めた『附論 「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。ルカ文書ついて、ケスター『新しい新約聖書概説・下』はルカ文書をこの地域に位置づけています。

 こうして見ると小アジアは、パウロ文書(パウロ書簡とパウロの名による書簡)、ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡、それに著者は福音書とは別人であるとしてもヨハネ黙示録も含む)、ルカ文書(福音書と使徒言行録)という新約聖書の主要文書の大部分を成立させ、また流布させていた地域であることが分かります。この一事からしても、小アジアが古代におけるキリスト教の成立にとっていかに重要な地域であるかがうかがわれます。新約聖書の主要文書でこの地域以外の成立がはっきりしているのは、マタイ福音書です。マタイ福音書は、パレスチナ・シリアで「語録資料Q」を生み出したユダヤ人信徒の運動の流れに属し、おそらくアンティオキアで成立したものと見られます。マルコ福音書もシリアで成立した可能性が高いですが、パウロの協力者であった経歴から、パウロの福音理解を継承していると推察できる面があります。

マルコ福音書とマタイ福音書の成立事情については、拙著『マタイによる御国の福音』序章「イエスの語録と福音」、および拙著『福音の史的展開U』の第五章を参照してください。

 この地域において「使徒」と言えばパウロを指していました。それは、パウロの名による書簡において示されていますが、マルキオンにとってとくに重要な意味を持っていました。そのマルキオンを含むグノーシス主義者たちを反駁するために、二世紀末(180年頃)に大部の『異端反駁』を書いたエイレナイオスにおいても、「使徒」はパウロを指していました。エイレナイオスはローマからさらに西にあるガリアのルグドゥーヌム(現在のリヨン)の監督ですが、アジア州スミルナの出身で、若いときに殉教者として有名なスミルナのポリュカルポスに師事したと伝えられています。彼は小アジアの神学を十分身につけて、未開の地ガリアに赴任したわけです(ただしルグドゥーヌムはすでに200年にわたってガリアの中心地として開けていました)。エイレナイオスは小アジアの神学を集大成した教父として重要ですので、ここで少しだけエイレナイオスについて述べておきます。
 同じくパウロを「使徒」としてほとんど唯一の権威と仰ぎながら、マルキオンとエイレナイオスはまったく反対の立場に立つに至っています。マルキオンは、パウロがキリストの福音を律法(ユダヤ教)の外に置いたことに感銘を受け、その一面を徹底させました。マルキオンは、イエスが啓示された愛の神は、旧約聖書の義の神、律法の神とは別の神であるとして、旧約聖書と福音の連続性を否定しました。それに対してエイレナイオスは、パウロがキリストの出来事を旧約聖書の律法と預言の成就であるとしている面を見落とすことなく、旧約聖書と福音の連続性の面を保持しました。その結果、エイレナイオスの神学は救済史の神学となっています。すなわち、旧約聖書に語られている、天地創造からイスラエルの選びを経て、キリストにおいて成就する神の救済計画実現の歴史となっています。マルキオン派の教会は一時大いに勢力を増し加えますが、エイレナイオスらに代表される旧約聖書を正典として受け入れる正統派教会に論駁され、ついには異端として歴史の舞台から消えることになります。

エイレナイオスの神学については、鳥巣義文『エイレナイオスの救済史神学』(新世社)を参照してください。なお、エイレナイオスの主著『異端反駁』全5巻の中、最近第3巻が小林稔氏の訳により日本語で読めるようになりました。「キリスト教教父著作集3」(教文館)の『エイレナイオス3―異端反駁V』です。さらに、最近発見されたアルメニア語写本からの重訳ですが、小林稔・小林玲子訳『エイレナイオス・使徒たちの使信の説明』が「中世思想原典集成1」(平凡社)に入れられています。詳しくは、これらの諸書の解説を参照してください。

 このごく簡単なスケッチからも分かるように、小アジアのキリスト教はその後のキリスト教の成立に指導的な役割を果たすことになります。この後、有力な指導者が帝国の首都ローマに集まり(パウロもローマを目指した一人でした)、ローマがキリスト教の重要な中心地の一つとなります。キリスト教の展開の歴史は、エルサレムとアンティオキアが中心地であった時代から、エフェソとローマが中心地となる時代へと移って行きます。
 このようにキリスト教の成立の歴史において重要な位置を占める小アジアは、実にパウロがキリストの福音の土台を据えた地域です。このことからも、パウロがキリスト教の源流であるということの意味が具体的に了解できます。

「宗教改革」の源泉としてのパウロ

「宗教改革」の原理を据えたパウロ

 前節「ユダヤ教徒パウロ」で見たように、パウロはユダヤ教を「相対化」しました。ユダヤ教を否定してユダヤ教から飛び出したのではなく、ユダヤ教の内に留まりながら、キリストの絶対性、恩恵の絶対性のゆえにユダヤ教の絶対性を否定しました。この姿勢は、ユダヤ教を破壊するのではなく、ユダヤ教を別の原理によって内部から変革することを意味します。パウロ自身やパウロによってキリストの福音を受け入れたユダヤ教徒たちは、ユダヤ教の中に留まりながら、なおユダヤ教を絶対化し続ける周囲のユダヤ教徒とは質の違ったユダヤ教を生きることになります。このような「相対化」が、宗教を内部から改革する原理となります。自分の宗教を絶対化する限り、その宗教の内部から自己を変革する力は出てきません。パウロはユダヤ教を相対化することで、宗教を内部から改革する原理を据えたことになります。
 マルキオンは、パウロのユダヤ教の相対化をユダヤ教の否定と読み違えたことになります。マルキオンはパウロがガラテヤ書で律法(ユダヤ教)とは無関係の救済を宣言しているのを読んで感動し、他のユダヤ人使徒たちの教えを受けている周囲のキリスト教が十分このことを理解していないと批判し、パウロだけを使徒として、キリスト教の改革を進めます。マルキオンは、キリスト教史上最初のパウロ主義改革者となります。しかし、マルキオンはパウロのユダヤ教の相対化をユダヤ教の否定と誤解したため、旧約聖書を全面的に排除するに至り、パウロの福音が本質的な内容としてもっている救済史の視点を見失います。この致命的な誤りをエイレナイオスが批判して、旧約聖書からキリストの福音に続く救済史の構造を回復することになります。

ルターの宗教改革

 先にキリストの福音からキリスト教が成立するに至る過程について述べましたが、この過程は数百年を要しました。キリストの福音はイエス復活の直後から宣べ伝えられ始めましたが、キリスト教はいつ成立したのか、その年代を確定することはできません。どの段階でキリスト教が成立したと見るのかによって違ってきます。しかし、四世紀前半にはローマ帝国から公認され、四世紀後半には帝国の国教となったのですから、キリスト教は四世紀には十分巨大な勢力として確立していたことは確かです。
 その後ローマ帝国が東西に分割されたことに伴い、キリスト教も東ローマ帝国の国教として東方に勢力を拡大した東方キリスト教と、西ローマ帝国の崩壊後にローマを拠点として西方に拡大した西方キリスト教という二つの大きな流れに分かれます。東方キリスト教は、キリスト教成立当初からの言語であるギリシア語を用い、東地中海地域と北方のスラブ系諸民族に拡大していきました。西方キリスト教は、ローマ人の言語であるラテン語を用いるようになり、ヨーロッパのゲルマン系諸民族や北アフリカに拡大していきました。東方キリスト教は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国、一五世紀半ばまで存続)の国教である東方正教会(ギリシア正教会)とその周辺の東方諸教会に担われ、ビザンチン帝国滅亡後にはロシア正教会に継承されることになります。西方キリスト教は、ヨーロッパの地にローマを中心とするキリスト教共同体を形成し、ローマ・カトリック教会となります。

日本でキリスト教といえば西方キリスト教を指していることが多く、東方キリスト教については十分知られていません。キリスト教について考察するときには、東方キリスト教をもっと理解する必要があるでしょう。東方キリスト教については、「世界宗教史叢書3」(山川出版社)の森安達也『キリスト教史V』を参照してください。東方キリスト教の中心に位置するギリシア正教については、高橋保行『ギリシア正教』(講談社学術文庫)を参照してください。

 キリスト教の長い歴史において、パウロは理解されないまま、キリスト教会の教理や祭儀や制度の固い堆積の下に埋もれてきました。すでに新約聖書の時代から、ヤコブ書に見られるようにパウロ主義を修正ないし制限する努力が行われてきました。とくにマルキオンが極端なパウロ主義者として正統派教会を脅かすようになったために、パウロの思想に対する警戒感が強くなったようです。パウロを使徒の中の使徒と認めるエイレナイオスも、四つの福音書をみな同等に信ずべきことを説いて、パウロを新約聖書全体のバランスの中に置こうとしています。その後、キリスト教の歴史において散発的にパウロを理解する神学や運動もあったようですが、やはり何といってもキリスト教史において、そして世界史的にも巨大な影響を及ぼすことになる最大のパウロ復興は、ルターの宗教改革です。
 ルターは、ローマ書によってパウロの「信仰による義」の福音を再発見します。千年を超えるローマ・カトリック教会の教義の中に埋もれていた「福音の真理」、すなわち人が義とされる(救われる)のは律法の行いによるのではなく信仰(キリスト信仰)によるのだという原理を再発見します。その真理を妥協することなく主張したためにローマ教会から破門され、その福音に立つ教会を別に(ローマ・カトリック教会の外に)形成せざるをえなくなります。当時のローマ教会は、ルターを破門することで自分がいかに深く人間の行為(戒律や祭儀の実行)に依り頼む宗教になっていたかを示したのです。ルターは、パウロがユダヤ教の律法主義と戦ったのと同じ戦いをローマ・カトリック教会のキリスト教に対して行ったのです。
 宗教改革はルターだけによるのではなく、カルビンをはじめ多くの改革者が出て、ヨーロッパにパウロの福音に立つ福音派・改革派の教会を形成しました。このプロテスタント諸教会がヨーロッパに近代を切り開いたことは周知の事実です。宗教改革によって、外から「宗教」に抑圧されていた人間の霊性が解き放たれ(パウロの福音は自由の福音です)、自由にされた精神が放つエネルギーによって進歩した文化(学芸や技術など)と変革された社会が、ヨーロッパを近代化し、繁栄に導きます。この近代化された西欧が世界をリードし、世界の各国は近代ヨーロッパをモデルとして近代化を図るようになります。中世までは世界の片隅、辺境の地であったヨーロッパが、宗教改革以後の近代では、近代化のモデルとなって世界をリードする立場に立つようになります。この事実を見るとき、改めてパウロの偉大さを思わないではおれません。

内村鑑三の「無教会主義」

 この近代化の波は、極東の島国日本にも押し寄せてきました。日本は欧米列強に対抗するために近代化を熱心に押し進めます。日本の開国にともない、それまで禁制であったキリスト教の活発な布教活動が始まります。北からは東方キリスト教の流れに属するロシア正教、西からは西方キリスト教の代表者ローマ・カトリック教会、そして東のアメリカからヨーロッパ近代の体現者プロテスタント・キリスト教が入ってきます。このように多様なキリスト教の流入が始まったごく初期に、日本でそのどれでもない特異な形態のキリスト教が始まります。すなわち、内村鑑三による「無教会主義」のキリスト教です。
 内村は、洗礼を受けたり聖餐にあずかったりして教会に所属しなくてもキリスト信仰はありうるとし、教会の外でのキリスト教を主張しました。内村は決してキリスト教会を否定したのではなく、教会と協力して伝道活動も行っています。内村は教会を相対化したと言えます。教会の存在価値を認めつつ、教会の外でもキリスト信仰がありうることを身をもって主張したのです。
 内村の無教会主義は、日本に入ってきた欧米のキリスト教には福音本来の真理に多くの歴史的付属物が付着していることを見抜いて、その歴史的付属物を除いて、福音本来の姿を回復し、それを日本にふさわしい形で根付かせようとした運動であったと言えます。それは、ルターの場合のように直接パウロの「信仰による義」による律法主義の批判から出たものではないかもしれませんが、やはり内村自身がキリスト信仰によって救われるという福音の真理をしっかり身につけていたから可能になった運動であったと言えます。それがあったからこそ、内村は欧米のキリスト教には福音にとって本質的でないものが付着していることを見抜くことができたのだと考えられます。その意味で内村の場合も、キリスト信仰だけを絶対としたパウロの福音理解によって、欧米のキリスト教を相対化した宗教改革の一種として見ることができます。

結び ― 現代におけるパウロ

現代における宗教相対化の必要

 以上本節で見てきたように、パウロはキリスト教の源流であると同時に、キリスト教を内側から改革する原理を据えた者として、宗教改革の源泉となってきました。この事実は、現代においてパウロが占める位置、あるいは現代に対してパウロがもつ意義を再考するように迫ります。
 現代世界のもっとも大きな特徴は、交通通信手段の劇的な発達により世界が狭くなり、どの国も、またどの文明圏も、自分だけで孤立して存在することができなくなったことにあると見られます。この事実は、宗教の在り方にも変革を迫っています。今までは各宗教はそれぞれ固有の文明圏を構成し、その文明圏の中で自己を絶対化して存立していくことができました。他の文明と接触し交渉することがあっても、それは周辺的な事件に過ぎませんでした。その文明圏における宗教の絶対性が問題になるようなことはありませんでした。しかし、現代においては経済のグローバル化や情報の世界的共有の時代となって、世界は多くの文明や民族を一つのシステムに組込む方向に進みつつあります。もはやどの国も、どの文明も単独では生き残れない時代です。各民族や各文明の統合原理としての宗教も、その一つのシステムに組み込まれた世界の中では絶対性を主張することはできず、自分を多くの宗教の中の一つとして相対化せざるをえません。これはそれぞれの宗教に外からやってくる相対化の圧力です。
 この相対化を拒否して自己を絶対化する限り、「文明の衝突」や民族紛争は避けることができなくなります。そして、宗教は自己絶対化の体質を深く染み込ませていますから、自分で自分を相対化することはきわめて難しい問題です。もし宗教が自分自身の中に自分を相対化する原理をもっていなければ、外からの圧力で宗教を相対化することは至難の問題です。他の宗教の場合はそれぞれの宗教に委ねなければなりませんが、キリスト教の場合は、パウロこそ宗教が自己を相対化する原理を確立した使徒として、現代に対して重要な意義をもつことになります。

原理主義克服の必要

 先に見たように、パウロはユダヤ教の中にあってユダヤ教を相対化しました。それでユダヤ教を絶対化する周囲のユダヤ教徒から妨害されたり迫害されたりすることになります。当時のユダヤ教の絶対化は、武力をもって異教のローマ支配を排除する運動となり、その結果ユダヤ戦争と神殿の崩壊を招き、ユダヤ人を塗炭の苦しみに陥れました。このユダヤ教の歴史は、現代に対する範例として重要な意味をもっています。現代においても宗教における原理主義が深いところで世界の禍根となっているからです。
 宗教における原理主義は、その宗教の基本原理に厳格に忠実であろうとする姿勢であって、必ずしもその宗教の絶対化を意味するものではありませんが、しばしばその原理主義的熱心さがその宗教を絶対的価値として他者に押しつける態度になります。すなわち、宗教の原理主義はしばしばその宗教の絶対化を招いています。パウロの時代のユダヤ教原理主義者たちは「熱心党」と呼ばれていましたが、彼らがユダヤ教徒をユダヤ戦争に駆り立てることになります。現代では、イスラーム原理主義者の過激派がテロに走り、キリスト教原理主義の勢力がアメリカの武力による対抗を支持するという構図で、世界の不安定と紛争を招いています。もちろん、現実の世界に起こる問題は、このような単純な図式で割り切れるものではありません。経済上の利害や民族主義など様々な要因が重なって起こっています。しかし、その中で宗教原理主義が一つの要因、しかも深いところで事態を紛糾させる要因となっていることは事実でしょう。現代の宗教は、それぞれ自分の中に原理主義を克服する原理をもっていなければなりません。

原理主義克服の範例としてのパウロ

 本章で繰り返し見たように、パウロはユダヤ教を相対化することによってユダヤ教原理主義を克服していました。このパウロの姿は、現代における宗教原理主義を克服する努力の範例となります。現代のキリスト教徒は、パウロに従って、キリスト教を否定するのではなく、キリスト信仰の絶対性によってキリスト教という宗教を相対化し、キリスト教原理主義を克服していかなければなりません。キリスト信仰はキリスト教という宗教とは別です。それは、一人ひとりがキリストにあって御霊の働きにより霊なるキリストと共に生きる現実です。その御霊の現実があるとき、キリスト教という宗教形態は、それなりの価値があるとしても、それがなければ自分の救いとか御霊の命がないというような絶対的なものでなくなります。
 御霊は、自己に属するものを無にすることによって宗教を相対化します。自分の霊的体験を絶対化して、そこから出る宗教を絶対化するのは、御霊の働きではなく肉の働き、すなわち自己絶対化を本性とする生まれながらの人間本性の働きです。原理主義は肉の働きです。自分の霊的体験とそこから出る思想を絶対化することによって、他者の絶対化された宗教と対立し、党派心とか分派とか争いとなります。わたしたちは御霊によって肉の働きを克服し、御霊による愛の交わりを回復しなければなりません。それぞれの宗教が自己を相対化することによってはじめて宗教間の対話が成り立ち、宗教を超える人間の交わりが成立します。

宗教から解放された福音

 パウロのユダヤ教の相対化は、ユダヤ教原理主義を克服するという消極的な面だけでなく、それによってキリストの福音の絶対性を確立するという積極的な意味をもっていました。パウロは、絶対化されたユダヤ教の枠の中にキリストの福音が閉じこめられるのを防いで、福音をユダヤ教という宗教から解放しました。その結果、キリストの福音は諸国民の間に命の道として広がり、確立することができたのでした。現代においても、キリストの福音が人間にとって神から与えられた命の道であることには変わりはありません。少なくともわたしたちはそれを体験し、それを証言する者たちです。わたしたちは、その命の道であるキリストの福音を、キリスト教という宗教の枠から解放し、宗教の枠の外でキリストを世界に告げ知らせて行く課題を負っています。
 キリストの福音、あるいはキリスト信仰の中身であるキリスト御自身とわたしたちとのかかわりは絶対的なものです。すなわち、それがなければわたしがないという意味で絶対的です。そのキリストの絶対性を確立するためにも、その容器であるキリスト教という宗教は相対化しなければなりません。キリスト教が絶対化されている限り、キリストの絶対性はキリスト教の絶対化という肉の働きの中に埋もれてしまいます。その間の消息は、先に『キリストの絶対性とキリスト教の相対性』という論考に書きました(拙著『教会の外のキリスト』所収)。それは、わたしがパウロから学んだところを生涯の結論としてまとめたものに他なりません。今回、パウロの生涯とその働きの意義をまとめるこの終章の結びとして、繰り返しになりますが、同じ課題をかかげて結びとします。