市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第17講

第三節 募金の手紙

二つの募金の手紙

 第二書簡の八章と九章は、エルサレム教団への献金の問題を扱っています。この二つの章が一つの手紙なのか別の手紙なのか、また、いつどのような状況で書かれたものかについては、説が分かれています。扱い方や状況が違っているので、この二つの章は別の手紙と見る方が適切でしょう。おそらく「和解の手紙」が書かれた後、マケドニアで書かれたのでしょう。この二つの章には、あの「涙の手紙」に見られた動揺や不安や厳しさはもはやなく、安らかな信頼の雰囲気で献金の勧告がなされています。
 「和解の手紙」と「募金の手紙」はいったんエフェソに帰ってから書かれたという見方もありますが、マケドニアでテトスと再会してコリント集会の変化を知ったパウロは、募金活動を再開するためにテトスを再派遣し(八・一六〜二四)、そのままマケドニア州の献金を携えた諸集会の代表者たちとコリントに向かったと見る方が自然だと考えます(九・一〜五、とくに四節)。そうであれば、「募金の手紙」は出発前にマケドニアで書かれたことになります。そして、(編集のさいに)同じ時期に書かれた「和解の手紙」の最後に置かれ、その手紙の一部となったと見られます。
 コリントではエルサレム教団のための募金活動は第一書簡が書かれる前から始まっていました(コリントT一六・一〜四)。それが、コリント集会とパウロの関係悪化により、とくにパウロがその献金を一部私用に流用しているのではないかという疑念により(一二・一六〜一七)、一時中断したか停滞していたようです。コリント集会との信頼関係が回復した今、パウロは改めてこの募金活動を再開し、コリント集会に対して「始めたからにはやり遂げるように」勧めます。

募金の手紙T

 「募金の手紙T」(八章)では、前半(一〜一五節)で、まずマケドニア州の諸集会の募金への熱意を伝えてコリント集会を励まし(一〜七節)、次いでキリストの恵みへの応答として自発的に献げるように勧めます(八〜一五節)。後半(一六〜二四節)では、献金をとりまとめるために派遣するテトスと他の二人の兄弟を推薦します。二人の中の一人は「福音のことで至る所の教会で評判の高いあの兄弟」で、その人は「わたしたちの同伴者として諸教会から任命された」人物です。この人物はパウロの宣教活動の仲間ではなく、募金活動の公正を期するために(おそらくパウロが依頼して)諸集会から任命されて同伴するようになった人です。他にパウロは「もう一人わたしたちの兄弟」を同伴させます。このような配慮は、パウロが「主の前だけでなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけている」ことの現れです。
 八章でテトスと評判の高い「あの兄弟」を派遣することが、これからの予定として語られているのに、一二章(一八節)で二人の派遣が過去のこととして語られています。この事実は、(第二書簡を九章までと一〇章以下の二つの書簡から成ると見て)九章までの部分が一〇章以降の部分よりも前に書かれたと見る説(ハーパー聖書注解)の根拠になっています。本講解が取ってきた立場からすると、八章ではテトスを含めて三名の派遣が予定されていますが、一二章(一八節)では二人なので、これは「涙の手紙」以前に行われた別の時期の募金活動を指していると見なければなりません。コリントでのエルサレム教団のための募金活動は、第一書簡が書かれる前から行われていたので、その可能性は十分あります。

募金の手紙U

 「募金の手紙U」(九章)では、まず(一〜五節)、マケドニア州の人々にアカイア州(コリントがその中心都市)の人たちの献金への熱意を語って誇ったことに言及して、パウロがマケドニア州の人たちと一緒に(マケドニア州の諸集会の献金を携えて)コリントに行ったときに恥をかくことがないように、献金を集めて用意しておくように依頼します。「兄弟たち」(八・一六〜二四で推薦された三名の兄弟たち)を一足先に派遣するのも、パウロが到着したときには献金の用意ができているようにしてもらいたいからであると、派遣の意図を説明します。マケドニア州の人々にはアカイア州の熱意を伝えて励まし、アカイア州(コリント)の人々にはマケドニア州の熱心を語って励ます(八・一〜七)など、パウロはこの募金活動の成功のためにはあらゆる手段を用いて努力している様子がうかがわれます。
 次いで、「人は蒔くものを刈り取る」という格言を用いて、自発的な心で(喜んで)献げるように励まし(六〜一〇節)、最後に、この惜しみなく施す奉仕の業が、キリストの福音の証となり神の栄光の賛美となるのだと、コリントの人々の信仰心に訴えます(一一〜一五節)。

パウロの異邦人伝道と募金活動

 こうしてコリントの集会との和解を達成したパウロは、マケドニア州の諸集会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)を訪れて献金を集め、その代表者たちと一緒に念願のコリント再訪を果たし、コリントで冬を越します。これは五五年から五六年にかけての冬のことであると見られています。この時の旅とコリント滞在についてルカは、「そして、この地方(マケドニア)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシア(コリント)に来て、そこで三か月を過ごした」(使徒二〇・二〜三)と簡単に触れるだけです。パウロがエフェソを出て、トロアスからマケドニア州に渡り、コリントに至る今回の旅については、次章で詳しく見ることになりますが、ここでは今回の旅の主要な目的の一つである募金活動の意義についてまとめておきましょう。
 パウロは決して、この献金をたんに困窮しているエルサレム教団の貧しい人たちを助けるための経済的援助だとは考えていません。パウロにとってこの献金が何を意味するのかは、幸いにしてパウロ自身が語っているところがあります。それは、マケドニア州とアカイア州の諸集会の献金を集めて、いよいよエルサレムに出発しようとしてコリントで待機しているときに書いたローマ書の最後の部分です(ローマ一五・一四〜三三)。
 ここでパウロはまず、これまで自分が進めてきた異邦人伝道を総括しています(ローマ一五・一四〜二一)。パウロは初めから自分を「すべての異邦人を信仰の従順へと導くために恵みと使徒職を受けた」(ローマ一・五私訳)者と自覚し、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。パウロはここでその働きを「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」と表現しています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています。この表現に、パウロが自分の使命をどのように理解していたかがうかがわれます。
 パウロは預言者以来のユダヤ人の終末期待を共有していたように見受けられます。その終末待望はこのように要約できるでしょう。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むようになり、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。パウロはこのようなメシア・キリストの意義を先行する箇所(ローマ一五・八〜一三)で述べて、異邦人がイスラエルの神に帰するようになることを多くの預言者からの引用で確証し、異邦人への使徒また祭司としての自分の務めの意義を語る準備をしています。
 パウロはまさに神の計画の後半部、すなわち異邦人がイスラエルの神に帰するための働きを委ねられたのです。いわゆる「エルサレムの使徒会議」で、割礼の者たち(ユダヤ人)への福音はペトロたちエルサレムの使徒に委ねられ、無割礼の者たち(異邦人)への福音はパウロたちに委ねられました(ガラテヤ二・九)。今パウロは自分の福音宣教の活動で集められた異邦人集会の代表とその実である献金を携えてエルサレムに上り、元来の約束の継承者であるイスラエルと共に、この異邦人集会を初穂としてイスラエルの神への供え物としようとしているのです。それが異邦人のための祭司の務めを果たすことです。異邦人集会から集めた献金がエルサレム教団に受け入れられることは、パウロが形成した異邦人の諸集会とエルサレム教団に代表されるユダヤ人の諸集会が一つであることを象徴する重要な条件です。
 ところが、今回のエルサレム訪問については不安があります。エルサレムの律法に熱心なユダヤ人から襲撃されないかという心配と、この献金がエルサレム教団に受け入れられないのではないかという不安です。この不安についてパウロは、ローマの兄弟たちに共に祈るように求めて、このように言っています。「兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい。すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように、そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい」(ローマ一五・三〇〜三二)。
 パウロがコリントでローマ書を書いたときに抱いていた不安と、エルサレムに着いたときにその不安が現実のものとなったことについては、次章で詳しく見ることになります。