市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第14講

第三節 福音と奴隷制

ローマの奴隷制

古代社会における奴隷制

 ここでローマの奴隷制について簡単に触れておきます。今回取り上げた「フィレモンへの手紙」が奴隷制を前提として、とくに一人の奴隷の取り扱いをめぐって書かれているので、この手紙を理解するためには当時の奴隷制の知識が必要です。それだけでなく、この機会に奴隷制に関する新約聖書の発言を検討して、福音が奴隷制に対してどう関わっているかを見ておきたいと思います。
 人間が他の人間を所有物として支配し労働を強制するという「奴隷制」は、古代文明の初期から存在しました。しかし、一口に奴隷制と言っても、それぞれの文明社会によってその内実はかなり違います。聖書に関係する奴隷制理解のためにはユダヤ、ギリシア、ローマの三つの文明社会における奴隷制を見なければなりませんが、ここでは新約聖書に関係する帝政期ローマ社会の奴隷制について簡単に見ておきます。
 ギリシアの高度な芸術と学問が奴隷制労働によって生み出された余暇によって成立していたことは有名ですが、ローマ社会もその経済、政治、法律の全体が奴隷制を基盤として成り立っている社会です。しかし、その奴隷制は現代のわれわれが(たとえば近代の北米における黒人奴隷などから)漠然とイメージしているものとかなり違う面がありますので、まずローマ社会の奴隷制の特色を理解して、先入観を取り去っておかなければなりません。

ローマ社会における奴隷の状況

 最初に、誰が奴隷になったのか、あるいは人はどうして奴隷になるのかという問題を見ておきます。一世紀以前では、戦争捕虜とか海賊による拉致などが奴隷のおもな供給源でしたが、一世紀の頃までにはそのような奴隷は少なくなり、奴隷女性が生んだ子供が奴隷人口を構成するおもな要素になっていました。それに、経済的な苦境から自分を売る人、債務による奴隷、子供の売買、捨て子の養育などが加わって、ローマ社会の奴隷人口を構成していました。子供などを誘拐して奴隷に売り払う「人さらい」というような用語が、新約聖書の悪徳表(テモテT一・一〇)に見られます。ローマの奴隷は、特定の人種・民族とか宗教の人間が、同等の人間として扱われず奴隷という身分に固定されたのではありません。人種・民族や宗教に関わりなく、戦争とか貧窮、奴隷の子として生まれたとか捨て子というような不運に見舞われた者が陥った境遇なのです。
 奴隷はその仕事や生活が主人によって決められるのですから、自由がないことは共通ですが、個々の奴隷の境遇は一律に描くことはできません。比較的恵まれた安定した生活から過酷な労役に服する境遇まで様々ですが、それは主人によって決まります。温厚で慈愛深い主人か、冷酷な主人かで個々の奴隷の生活は随分と変わります。奴隷は(ときには主人よりも)高い教養を持つ者もあり、その知識や特技で教師や医師(カエサル以後は奴隷でなくなりました)、秘書や管理人などとして働いて厚遇された者もあり、決して一様に無知で無教養な階層とは言えません。奴隷は住居と食料を与えられ、妻と子供を持つこともありました。ときには奴隷が自分の奴隷を持つことすらあったのです。もっとも奴隷の家族は当然奴隷として扱われました。奴隷はだいたい富裕層の奴隷でしたから、生活は一応安定していました。社会の最底辺をなしたのは奴隷ではなく、その日その日の糧を得るために仕事を探さなくてはならない貧しい自由人でした。それで、自分を奴隷に売り渡す自由人が絶えなかったのです。
 ローマの奴隷制は家父長制の中で理解されなければなりません。ローマの父親は家長として妻や子供、および奴隷に対して絶大な支配権をもち、生殺与奪の権をもっていたと言われます。奴隷は家の中で家事に従事する家事奴隷と農園や主人の事業などで働く奴隷がありました。その規模は様々で、詩人ホラティウスは3人の家事奴隷と8人の農場奴隷を持ち、ネロ帝時代のある元老院議員は家事奴隷だけで400人の奴隷を持っていたと伝えられています。皇帝の家になると奴隷の規模は数千人に及んだとされています。このような一人の家長に属する奴隷の集団が「誰それの家の者たち」と呼ばれることになります。

解放奴隷

 ローマの奴隷制の大きな特色は、「解放奴隷」という身分(または社会層)の存在です。これは他の奴隷制社会には見られません。ローマでは奴隷は生涯ずっと奴隷であるというような固定した身分ではなく、時が来れば解放されて自由人となり、法的権利の主体となって、ローマ社会の正規の一員として活動したのです。それまでは権利の客体であった人間が、解放によって一夜にして権利の主体となるという劇的な変化が起こるのです。
 解放は忠実な働きの報酬として所有者が温情によって与えるものですが、とくに所有者の死に際して遺言によって解放する場合が多かったようです。この場合は、まとめて(ときには全員が)解放されました。また奴隷がその働きよって得た報酬が蓄えられて、解放されるときに主人に支払う場合もありました。その金額で若い奴隷を買う方が有利である場合、主人は古い奴隷を進んで解放したようです。奴隷はだいたい30歳までに解放されるのが普通でした。もちろん例外もあり、老年まで奴隷である者もあり、ずっと若くて解放される場合もありました。とくに主人が奴隷の女性が気に入って結婚する場合は(結構あったようです)、15〜20歳で解放されました。
 解放された奴隷は元の主人の家に対して忠誠を尽くす道義的な責任があり、同じ家で奴隷であった者たちは連帯感から一つの集団を形成しました。新約聖書で「クロエの家の者たち」(コリントI一・一一)や「アリストブロの家の者たち」(ローマ一六・一〇)、「皇帝の家の者たち」(フィリピ四・二二)というのは、現に一つの家で奴隷である者の集団か、あるいは同じ家から解放された解放奴隷のグループを指しています。
 解放された奴隷は、翌日から自分で生活の糧を得なければならないので苦境に陥る者もありましたが、富裕な権力者の奴隷は、解放されてからも仕事を任せられて、元の主人の後ろ盾によってローマ社会で高い地位につく者もありました。ある程度の要件を満たせば、解放奴隷は原則としてローマ市民権を得ることができました(ローマ市民権は世襲でしたから、市民権を得た解放奴隷の子孫はローマ市民権所有者でした)。とくに宮廷で皇帝や側近の奴隷であった者は、解放されてから高い地位の行政官になって権力を得た者もありました。たとえば、パウロの裁判をしたユダヤの総督フェリクス(使徒言行録二三・二三以下)は、クラウディウス帝の母アントニアの解放奴隷でした。そのクラウディウス帝は自分の家で仕えていた解放奴隷を皇帝秘書官として用い、彼らは皇帝側近の高官として権力を振るい巨額の富を蓄えたと言われます。
 こうして奴隷が年に何万人も解放されて新しいローマ市民が生み出されたのです。解放という制度をもったローマの奴隷制は、もともとローマ社会に所属しない者がローマ社会に入っていく一つのプロセスであったのです。ローマ社会は奴隷制というシステムによって、自分以外の要素を組織的に組み込みながら運営され、発展していったのです。ですから、ローマの知識人で奴隷制を非難する者は誰もありません。奴隷制をローマ社会存続の当然の前提として考えているのです。例外的に発生した奴隷の反乱も、奴隷制そのものに対する反抗ではなく、非道な主人に対する反乱に過ぎません。
 ところが、解放奴隷の数が増えすぎると問題が起こります。それは非ローマ的な要素がローマ社会に入ってくることを意味するので、ローマの伝統の衰微を心配するようになった皇帝は次々に「奴隷解放規制法」を出すようになります。アウグストゥス帝は一人の遺言による解放の上限を一〇〇人とする法律を公布し、さらに存命中の解放にも様々な制限をつけるようになります。この政策は次代の皇帝たちにも引き継がれていきますが、この事実は逆にローマの奴隷制がいかに流動性に富んだシステムであったかを物語っています。

ローマの奴隷制、とくに「奴隷解放規制法」については、塩野七生『ローマ人の物語』Z337頁以下の「奴隷解放規制法」の一読をお勧めします。

奴隷制についての新約聖書の発言

イスラエル社会における奴隷制

 このような奴隷制に福音はどのように関わっていったのでしょうか。奴隷制に関する新約聖書の発言を検討してみましょう。ここではとくに、ローマの異邦人社会に福音をもたらした使徒パウロの発言を中心に見ていきます。
 使徒は奴隷制そのものには反対していません。奴隷制は人道とか人権に反する社会制度であるから廃棄しなければならないというのは、啓蒙思想以後の近代の思想であって、古代の奴隷制社会のどの思想家も、奴隷制の存在そのものには反対していません。ただ、ギリシアの哲人たちはすでに、体は奴隷の軛に繋がれていても、内面の魂は自由でありうることを強調していました。
 パウロを含め、初期の教団を指導し、新約聖書の諸文書を書いたのはほとんどがユダヤ人でした。そのユダヤ人が信仰の拠り所としている旧約聖書は奴隷制を認めています。もともとイスラエルの宗教は奴隷からの解放として出発しました。イスラエルの神は、「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記二〇・二)と名のられた神です。ですから、イスラエルは奴隷でない者たちの共同体であり、そこでは成員はみなお互いに平等で、その中に奴隷はいないはずです。ところが、沃地に定住し王国を形成してからは、権力や富の偏在による社会階層の分化から、周囲の古代社会と同様に奴隷制をもつ社会になっていきます。その時期に形成された律法は奴隷制を追認しますが、同時に主人の強欲から奴隷を保護するための律法を次々に作っていきます。主はイスラエルに、「エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである」(申命記一五・一五)と言って、奴隷をよく扱うように命じられるのです。イスラエルでは同胞のユダヤ人を六年以上奴隷として使うことは許されず、七年目には無条件で解放しなければなりませんでした(申命記一五・一二以下)。
 奴隷を保護するためのものであっても、奴隷に関する律法が存在することは、ユダヤ人にとっては神が奴隷制を認めておられることになります。パウロもこのような律法の下に生きる者として、古代の哲人たちと同じく、奴隷制の存在そのものには反対せず、福音によって奴隷であるままで神の子とされ、神の民に所属することができることを強調します。ただし、パウロの福音の場合、それは内面の魂の自由だけでなく、現実に奴隷と自由人の社会的差別を克服する力を秘めている点が違います。奴隷制に関係する使徒パウロの三つの発言を取り上げ、使徒の態度をまとめておきます。

奴隷のままで神の子

 一 福音が信じる者を救う力として働くとき、信じる人間の社会的身分は関わりがありません。パウロはそのことを次のように言っています。

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ三・二六〜二八 一部私訳)

 この文は初期の教団のバプテスマ定式(バプテスマを受けるときに唱えられた信仰告白)を用いていると言われています。この告白文が示しているように、福音は、ユダヤ人とギリシア人(異邦人)という宗教的区別も、奴隷と自由な身分の者という社会的身分上の差別も、男と女という性的差異も関係なく、誰であっても「信仰により、キリスト・イエスにあって神の子なのです」と宣言します。「キリストにあっては」みな同じなのです。モーセ律法を守るユダヤ人も律法の外にいる異邦人も同じく神の民なのです。奴隷と自由な身分の者は、社会での扱いはまったく違いました。家父長社会では女の立場は弱く、男に従属していました。しかし、キリストにあっては、すなわち信じる者の共同体の中では、そのような差別は一切なく、みな同じ立場の神の子なのです。この福音がもたらす平等が、とくに厳しい差別の下で抑圧されている階層の人々を惹きつけました。
 事実、初期の教団では、奴隷または解放奴隷の身分の人たちが多く、集会の中核的なメンバーとして活躍していました。たとえば、ローマ書一六章の人名表には、奴隷または解放奴隷と見られる人名が多くあります。そこだけでなく、パウロの手紙には女性が指導的な立場で活躍していることが見られます。パウロの手紙には、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由な身分の者、男と女が差別なく、一つの共同体を形成し、同じように活躍していることが読みとれます。

バプテスマ定式の文については拙著『パウロによるキリストの福音T』206頁の「キリストにあって神の子」の項を、また、集会における女性の立場については拙著『パウロによるキリストの福音U』174頁の「集会の中の女性」の項を参照してください。ローマ書一六章の人名については、次に出版予定の『パウロによる福音書―ローマ書講解』の一六章の段落「個人的な挨拶」で詳しく扱うことになります。

キリストの解放奴隷

 二 キリストにあって神の子とされた奴隷に対して、パウロは次のように勧めています。

 20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。 24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。(コリントI七・二〇〜二四)

 この一段の要旨は、枠としてこの一段を囲い込んでいる文(二〇節と二四節)が明示しているように、「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」ということに尽きます。召されたときに奴隷であった者は、奴隷であるという身分を気にしたり、嘆いたりするのではなく、奴隷という身分の中で主に仕えるように勧告されています。その理由は、「主によって召された奴隷は、主の解放奴隷である」(二二節私訳)からだとされています。先に見ましたように、解放奴隷は解放してくださった方に忠誠を尽くす立場にあります。普通は元の所有者ですが、キリストに属する者の場合は、主キリストによって解放された者、「主の解放奴隷」ですから、これからは主キリストに忠実に仕える者とされたのです。「同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」から、主にあっては、奴隷も自由な身分の者も区別なく、主に仕えるべく召された奴隷であることに変わりはありません。どちらも、主イエス・キリストがご自身の命という身代金をもって買い取られた者なのです。その生涯をもって人に仕えるのではなく、主キリストに仕えるように召されているのです。
 この一段の要旨は以上の通りですが、その中に「もし自由の身になることができるならば」、すなわち、解放される機会があるならばという特別の場合が取り上げられています。この二一節後半の意味については長年議論が続いており決着していません。それは、この場合のパウロの勧告が「活用しなさい」というだけで、何を活用するように勧めているのか明示されていないからです。ルターやカルビン以来の解放の機会を活用して自由の身となりなさいという解釈(たとえば協会訳)と、たとえ解放の機会があっても、むしろ奴隷の立場を生かして主に仕えなさいと解釈する最近の傾向(たとえば新共同訳)が対立したままです。議論の詳細に入ることはできませんので、ここでは二者択一ではなく、主に召された者、主に属する者としての立場を活かしなさい(その立場で生きなさい)という第三の解釈の可能性もあることを示唆するに止めます(これは実質的には解放の機会を活かしなさいという解釈に近いですが、自由を享受しなさいではなく、主にあって生きるためであることに重点を置いている点で違います)。この文の直後に、「主によって召された奴隷は、主の解放奴隷であるから」という理由を示す文が続いていますが、この理由の文も第三の解釈の可能性を示唆しています。解放奴隷という身分を比喩として用いてキリスト者の立場を語るのは、新約聖書ではここだけですが、イグナティオスがローマの人たちにあてた手紙(四・三)の中で用いています。
 パウロは、奴隷は奴隷の身分のままで「主によって解放された者」、すなわち「自由な者」として生きることができることを強調しています。そして、その自由を奴隷制の比喩で語ります。この内面の自由は、自由な身分の者も奴隷も同じです。
 この内面の自由は、とくにガラテヤ書で詳しく展開されています。パウロはユダヤ教律法を養育係にたとえ、異邦の諸宗教を後見人とか管理人にたとえ、相続人である者も未成年の間は奴隷と変わることなく、「(モーセ律法とか諸宗教という)世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」とします。キリストにおける神の救いの働きが成就したとき、このキリストに合わせられる「信仰」が人をこのような奴隷状態から解放し、神の子としての実質を与えるのであることを力をこめて語っています(ガラテヤ三・二三〜四・七)。
 さらに、モーセ契約を奴隷の子を生む女奴隷にたとえた上で、「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ四・二一〜五・一)と求めます。そして、その自由が聖霊による自由であることを詳しく展開します(ガラテヤ五章)。

奴隷制を比喩としてキリストにある者の自由を語るガラテヤ書については、すでに「ガラテヤ書講解」で詳しく述べていますので、ここではこの問題がそこで語られていることを指摘するに止めます。詳しくは拙著『パウロによるキリストの福音T』219頁の「第五章 御霊による自由」を参照してください。なお、パウロはローマ書(六・一五〜二三)でもキリストによる救済を語るのに奴隷の比喩を用いていますが、この箇所については『パウロによる福音書―ローマ書講解』で別に扱う予定です。

奴隷制廃絶の力

 三 ところで今回取り上げたフィレモン書を見ますと、福音は奴隷身分の者をも差別なく神の子とし、内面的な自由を与えるだけでなく、現実に奴隷制という社会的差別を克服していく力であることが分かります。パウロはフィレモンに、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」(一六節)オネシモを受け入れるように求めています。キリストにある共同体では、みな同じ父から生まれた子であり、お互いは兄弟姉妹であるのです。社会では奴隷とその所有者という関係であっても、キリストにあっては兄弟であり姉妹であるのです。「もはや奴隷ではない」のです。パウロは、キリストにあってはフィレモンとオネシモは所有者と奴隷の関係ではなく兄弟であるということを前提にして、オネシモを福音の働きのために送り帰してほしいと頼んでいるのです。そして、ここで見たように、フィレモンはキリストにある者としてこの関係を理解し、オネシモを兄弟として扱い、自由にしてパウロのもとに送り帰したのです。パウロはオネシモを「愛する兄弟として」慈しみ、苦労を共にしていきます。キリスト共同体では、奴隷と所有者という関係はなくなっているのです。現実に「キリストにあっては、奴隷も自由人もない」のです。
 パウロは奴隷制を批判したり反対したりはしていません。しかし、パウロは奴隷制社会に、人をもはや奴隷と所有者という関係ではなく、兄弟として結びつける場、「キリストにあって」という場をもたらしているのです。福音は奴隷制の廃止を叫びませんが、奴隷制が消失する場を現実にもたらしているのです。フィレモン書はこの事実を具体的に示す証言です。フィレモン書が新約聖書正典に入れられた事情は、先の「パウロ書簡集とオネシモ」で述べたとおりですが、入れられた結果、この小さい書簡は世々にわたって、奴隷とその所有者という社会関係を克服する起爆剤としての福音の最良の証人となります。
 実際に福音が古代奴隷制社会を変革する力として社会を変えていった歴史を跡づけることは、この講解ではできません。ただ、近代になってキリスト教世界が奴隷貿易を行って新世界に多数の黒人奴隷を導入した事実に触れないでおくことはできません。それはキリスト教史における最大の汚点です。しかし、同時にその奴隷制を廃絶する力を提供したのもキリストを信じる人たちの精神であったことも事実です。そのことは、奴隷制廃絶のために生涯を捧げたリンカーンの第二期目の大統領就任演説(一八六三年、凶弾に倒れる6週間前)に見事に表現されています。この演説は、ゲティスバーグ演説と並んでリンカーン記念堂の壁に刻まれ、世界に語り続けています。フィレモン書からリンカーン演説まで、同じ福音の精神と力が貫いています。その演説の一節を引用して、この章を終わります。
 「誰であっても、自分のパンを他人の顔の汗から絞り出そうとして、正しい神の助けを求めるとしたら、それは奇妙なことである。・・・・・われわれは、この戦争という強烈な鞭が速やかに過ぎ去ることをひたすら望み、切に祈っている。しかし、奴隷とされた人たちの二五〇年にわたる報いられざる苦役によって蓄積された富がすべて消滅し、鞭によって流された血のどの一滴も、剣によって流される一滴によって償われるまで、この戦争が続くことが神の意志であるとしても、三千年前に言われたように、今もなお言われなければならない、『主の裁きは真実にして、ことごとく正しい』と」。