市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第9講

第四章 福音にふさわしく

        ― フィリピの信徒への手紙から ―


        (本章で書名のない引用箇所はすべてフィリピ書の章節を指しています)




第一節 独立伝道者パウロ

フィリピ書について

獄中書簡

 パウロはその伝道生涯の中で何回か投獄されています。その中でフィリピ書とフィレモン書の執筆の場所となった可能性のあるのは、最晩年のエフェソ、カイサリア、ローマの三カ所です。フィリピ書とフィレモン書の二書がこの中のどこで書かれたのかについては、研究者の間で議論が続いていますが、先に見てきたように、パウロがエフェソで投獄されたことは、使徒言行録に報告がなく、パウロも明確に地名をあげて語っていないにもかかわらず、確かであると見られます。コリント集会との和解を達成したパウロは、エフェソを出発しマケドニアを経てコリントに至り、そこで冬の三ヶ月を過ごします。使徒言行録によれば、マケドニア州とアカイア州の諸集会の献金を携え、ミレトスでエフェソなどアジア州の諸集会(またガラテヤの諸集会も含まれる可能性があります)の代表と合流してエルサレムに向かいます。エルサレムに到着したパウロは、ユダヤ人との紛争に巻き込まれ、ローマの軍隊に逮捕され、総督府のあるカイサリアに連れていかれ、そこで二年間拘留されます。ローマ市民権を用いて皇帝に上訴したパウロは、ローマ軍に警護されてローマに連行され、そこで二年にわたって監禁されます。
 古代から伝統的に、フィリピ書とフィレモン書は最後のローマでの監禁中に書かれたとされてきました。「兵営」(一・一三)や「皇帝の家」(四・二二)への言及があることも理由の一つです。ところが、書簡が前提にしているフィリピの集会との頻繁な接触には、ローマはフィリピからあまりにも遠いという難点があります。また、西を目指してようやくローマに達したパウロが、近い中にはるか東方のフィリピを訪ねることを希望している(一・二六、二・二四)ことも、ローマ説を困難にします。
 「兵営」(一・一三)や「皇帝の家」(四・二二)への言及は、フィリピ書がローマで執筆されたことの論拠にはなりません。この二つの表現は総督府がある他の州都にも適用できるからです。一章一三節の《プライトーリオン》(ラテン語ではプラエトリウム)は、ローマでは近衛兵の兵営を指しますが、各州の総督所在地では総督府(総督が行政や裁判を行う建物、そこに軍団も駐在)を指します。この語はマルコ一五・一六、マタイ二七・二七、ヨハネ一八・二八でも用いられており、「総督官邸」とか「官邸」と訳されています(新共同訳)。福音書では総督ピラトの官邸を指しています。ここでも「兵営」よりも「総督府」とか「総督官邸」の方がよいのではないかと考えられます。エフェソも総督がいる州都ですから総督府がありました。また、四章二二節の「カエサルの家の者たち」という表現も、ローマの皇帝の親族の者たちを指すとは限りません。むしろ、パウロの時代に皇帝に身近な者が信徒になっていたことは考えられません。この表現は皇帝所属の奴隷を指す用語です。エフェソには皇帝所属の奴隷または解放奴隷がかなりいて、彼らが結社を作っていたことが伝えられています。そのような奴隷または解放奴隷の人たちがエフェソの集会に加わっていたと考えられます。

「カエサルの家の者たち」という表現については、本書303頁の「ローマの奴隷制」の項を参照してください。

 それで近年(二〇世紀)になって、カイサリア説とエフェソ説が主張されるようになりました。カイサリアは、フィリピ再訪の希望などの状況に適合する点もありますが、やはりあまりにも遠く、書簡が示すフィリピとの頻繁な交流には適しません。それに対してエフェソは、ローマやカイサリアに比べるとはるかに近くて交通の便もよく、フィリピ書が語っている弟子や使者の往復(二・一九〜三〇)にも適合します。さらに、割礼を誇るユダヤ主義者に対する激しい非難(三章)も、ガラテヤ書やコリント第二書簡と同じ時期にエフェソで書かれたと見るのが適当です。また、書簡のどこにも、最初の伝道の時以後にフィリピを訪ねたことが示唆されていません。ところが、パウロはエフェソでの活動の後、マケドニアを経てコリントに向かったのですから、フィリピを訪れていることは確実です。そうすると、カイサリアやローマはこの書簡の執筆地ではありえなくなります。
 このような理由で、フィリピ書をエフェソで書かれた獄中書簡として見ていきます。フィリピ書がパウロのエフェソ時代のいつどのような状況で書かれたかは、この書簡の構成とも関わっていますので、ここでこの書簡の構成の問題を見ておきます。

 フィレモン書もエフェソで書かれた獄中書簡であることは、この後でフィレモン書を扱うときに取り上げます。

フィリピ書の構成

 フィリピ書を一つの書簡と見る伝統的な見方は、現在でも多くの研究者によって支持されています。しかし、三章一節で「最後に、兄弟たちよ、主にあって喜びなさい」と言った後、二節から始まるユダヤ主義者への激しい非難は、それまでの文と内容も調子も違い、別の機会に書かれた手紙であることを示唆しています。それで、フィリピ書は二つの書簡が集められたものであるという見方がされるようになりました。
 三章一節の最初の語は、「最後に」という副詞と理解できます(英訳はほとんどみな Finally)。新共同訳も同じ語を四章八節では「最後に」と訳しています。また、この節の「喜びなさい」という語も、「挨拶します」という訳が可能です(NRSV欄外)。ここで一つの手紙が終わっていたと見られます。内容でも、一章で問題となっている分派的な伝道者と三章のユダヤ主義伝道者の問題は全然違います。また、自分や仲間の行動予定(二・一九〜三〇)はパウロの手紙ではふつう最後に来ることも考慮に入れますと、三章一節までとそれ以降の部分は別の手紙であったと見る方が自然です。
 さらに、四章一〇〜二〇節でフィリピからの援助の贈り物を感謝している部分も、もともとは独立した手紙であったと見られるようになり、フィリピ書は三つの手紙が編集されたものであるという見方が、最近では有力になってきています(たとえば岩波版青野訳)。ただ、ユダヤ主義者への非難と贈り物への感謝を主題としたそれぞれ別の手紙があり、それが獄中からの書簡に組み込まれて現在のフィリピ書が構成されたとしても、この三つの手紙の範囲(現在の手紙のどの部分がそれぞれの手紙に属するのかの問題)やその順序については、研究者の間で相違があり、現在も議論が続いています。
 この手紙は一つの手紙であるのか、二つまたは三つの手紙が集められたものであるのかは、この手紙に溢れている福音の現実を追求する上で本質的な問題ではありません。しかし、書かれた状況に即して少しでも具体的に理解するために、この手紙の各部分を順当と考えられる状況に置いて講解していきます。

独立伝道者パウロ

パウロの自給伝道

 パウロがアンティオキアの教会から分かれて独立の伝道活動を開始し、ルカオニア地方やガラテヤ地方など小アジア内陸部で活動した後、トロアスから海を渡りヨーロッパに入り、フィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ、コリントへと福音を宣べ伝える活動を進めていったこと(いわゆる「第二次伝道旅行」)については先に書きました。その時に、フィリピでの宣教活動と信じる群の形成については触れました。ここではその後のパウロとフィリピ集会との関わりについて見ていきたいと思いますが、その前に、その関わりの性質を理解するために、パウロが原則としていた独立の自給伝道活動について簡単に見ておきましょう。
 パウロはフィリピを去った後、マケドニア州の州都テサロニケでしばらくの間滞在して伝道し、続いてベレア、アテネを経て、アカイア州の州都コリントに来ます。コリントでは一年半滞在して、腰を据えて伝道します。パウロはその地方の中心となる大都市に集会を形成し、それを拠点として周辺の地域に福音を伝えるという方針をとっていたようです。マケドニア州では州都テサロニケ、アカイア州では州都コリントがその拠点都市でした。それで、この両都市では、パウロはかなりの期間滞在して活動します。そのように滞在が長期にわたる場合、パウロは信仰に入ったばかりの信徒たちに負担をかけないように、自分で働いて生活と活動に必要な費用を得ていました。パウロの職業は「テント造り」であったとルカが報告しています(使徒一八・三)。以前に書きましたように、ユダヤ教の律法学者は他者に負担をかけないで独立に律法研究ができるように、生計を得るための手仕事を身につけることを求められていました。パウロは出身地タルソの名産であるキリキア布のテント加工を職業として習得していたのです。
 先に見たように、この第二次伝道旅行の後にエルサレム会議とアンティオキアにおけるペトロ・バルナバとの衝突事件があったとすると、それ以前の第二次伝道旅行はなおアンティオキア集会との交わりと支援の下に行われたことになります。しかし、たとえ第二次伝道旅行がなおアンティオキア集会との交わりと支援のもとにあるとしても、経済的にはパウロの宣教活動が独立の活動であったことは、パウロがテサロニケやコリントでは天幕造りの仕事をしながら活動したことが示しています。アンティオキア集会はなお、パウロたちのティームの活動を全面的に支援するほどの経済力はなかったと見られます。あるいは、パウロが自分の方針として独立自給の活動方針を選び貫いた可能性もあります。とにかくパウロ一行の第二次伝道旅行以降の働きは独立自給の態勢で行われています。
 テサロニケで手仕事をして収入を得て活動したことは、後にテサロニケの人たちにあてて書いた手紙の中で、パウロ自身がこう証言しています。

 「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした」。
(テサロニケT二・九)

 コリントではパウロは同業のアキラとプリスキラ夫妻の家に住み込んでテント造りの仕事をしたことが、ルカによって報告されています(使徒一八・一〜三)。それだけでなく、パウロはコリント集会からの経済的援助を受けずに、自分で働いて生活の資を得ながら伝道活動をしたこと、また、それを原則として福音のために働いていることを、コリント集会にあてた手紙の中で誇りをもって書いています(第一の手紙九章)。
 この「コリントの信徒への手紙I九章」は、パウロのキリストの使徒としての働きが独立自給の働きであることを語る重要な箇所ですが、コリント書簡の講解で触れることができませんでしたので、ここで簡単に取り上げておきます。
 パウロはまず、福音のために働く者が福音によって生活の資を得ることは主が定められた権利であることを、自費で戦争に行く者はないとか、神殿で奉仕する者は祭壇の供え物の分け前にあずかるという実例をあげ、さらに牛に関する聖書の規定を福音の働き人に適用したりして主張します。霊のものを蒔いた者が肉のものを刈り取ることは、主が定められた権利であるとも言います(コリントI九・三〜一四)。しかし、パウロはこの権利を用いなかったことを誇りとしてこう言います。

 「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだほうがましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです」。
(コリントI九・一五〜一八)

 この短い一文に、復活者キリストに捉えられている現実から出る燃えるような激しい使命感と、誰にも依存しない自由で独立の伝道者としての気概と誇りが溢れています。このように、パウロは「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いない」ことを原則として、福音のために文字通り命を賭して働いたのです。ここに使徒パウロの偉大さがある、とわたしは思います。
 コリントI九章では、続く一九節以下で、誰にも依存しない自由なパウロが、様々な立場の人をキリストに導くために、すべての人の奴隷となったという、伝道者としてきわめて重要な発言がなされています。この箇所はルターが名著『キリスト者の自由』の主題として取り上げたことで有名ですが、この側面は別の機会に触れることにして、ここでは使徒パウロの独立伝道者としての一面に限定して、先に進むことにします。

パウロとフィリピ集会との交流

 フィリピを去ったパウロは、マケドニア州とアカイア州で福音宣教の活動を進めていきますが、その中でテサロニケとコリントでは手仕事で生活を支えながら、かなりの期間滞在して活動します。後に残されたフィリピの集会は伝道意欲の盛んな集会で、パウロの伝道活動を支えることで福音の働きに参加しようとして、活動のための資金や物資を送り続けます。テサロニケでフィリピ集会からの援助を受けたことについては、フィリピ集会にあてた手紙の中でパウ自身がこう証言しています。

 「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」。(フィリピ四・一五〜一六)

 コリントでフィリピ集会からの援助を受けたことについては、次のような書き方でルカが間接的に報告しています。コリントに到着したパウロは、ローマから最近やって来た同業のアキラとプリスキラ夫妻の家に住み込んで、一緒にテント造りの仕事に従事しながら、安息日ごとに会堂で福音を語ります(使徒一八・一〜四)。その後こう続きます。

 「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」。(使徒言行録一八・五)

 シラスとテモテはパウロと一緒にフィリピを出てテサロニケで活動しますが、テサロニケではユダヤ人たちからの激しい迫害で、一行は夜中にベレアに脱出します。パウロはベレアから(おそらく海路で)アテネ、コリントへと向かいますが、シラスとテモテはベレアに残ります。そして、パウロがコリントに着いてからしばらく後にコリントに到着します。そのことをルカは「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると」と書いているのです(ベレアはテサロニケに近いマケドニア州の都市です)。この時からパウロは「御言葉を語ることに専念」します。これは生活のための手仕事をやめて、伝道活動に専心するようになったことを指しています。マケドニア州から来たシラスとテモテが生活のための資金をもたらしたからです。このマケドニアからの資金は、パウロが「マケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」と語っていることからも、フィリピ集会からのものであると見られます。 
 テサロニケT三章一〜六節によると、テサロニケ集会の様子を見るために、パウロはアテネからテモテを派遣しています。そのテモテがテサロニケからコリントに戻ってきてテサロニケ集会の様子を報告したことが、パウロがテサロニケ第一書簡を書く動機になっています。その時に援助の資金を携えたフィリピ集会の使者が同行していたのかもしれません。ルカの報告と少し違いますが、数十年後に書かれたルカの報告よりも、テモテ到着の直後に書かれたパウロの手紙の方が正確であることは当然です。しかし、フィリピもテサロニケもベレアもマケドニア州の都市ですから、テモテたちが「マケドニア州からやって来ると」というルカの報告も間違いではありません。
 このルカの報告はパウロ自身の証言によって確認されます。パウロは後にエフェソからコリントの集会にこう書いています。

 「それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです」。(コリントU一一・七〜九)

 「他の諸教会からかすめ取る」というのは、パウロに批判的な人たちがパウロを非難した言葉であって、パウロはその非難を逆手にとって、コリント集会に負担をかけなかったことの論拠にしているのです。パウロがコリント集会に負担をかけずに伝道活動ができたのは、「マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたから」でした。その「マケドニア州から来た兄弟たち」というのは、先にも述べた理由でフィリピからの兄弟であったと見られます。フィリピの集会は、後で見るように、エフェソで活動するパウロに資金だけでなくエパフロディトという人物を協力者として派遣しています。コリントでも「マケドニア州から来た兄弟たち」には、このような協力者も含まれていたとも考えられます。
 このように、誇り高く独立自給を原則として活動してきたパウロが、フィリピ集会からの援助だけは感謝して受け入れている事実は、パウロとフィリピ集会の信頼関係がいかに深いかを物語っています。この信頼関係が、このフィリピ集会にあてた手紙を喜びに満ちた美しい手紙にしているのです。

援助への感謝の手紙

 パウロはフィリピ集会からの援助に対して感謝の手紙を書き送っています。その手紙が現在の「フィリピの信徒への手紙」の中に保存されて伝えられています。まずその手紙(四章一〇〜二〇節)を見ましょう。

 10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物があり余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13 わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。
 14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。16 また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
 17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。20 わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(四・一〇〜二〇)

 この部分が獄中から書かれた手紙の一部であるのか、または別の手紙の一部であるか、別であればどちらが先かなど、現在もなお争われています。いずれにせよ、この部分はパウロとフィリピ集会の信頼に満ちた美しい交わりを示すことには変わりはありません。ここでは独立伝道者としてのパウロの一つの面を語る資料として、手紙の本体とは別に先に扱います。
 パウロは最初に、フィリピの人たちが「ついにまた」パウロのことを思い起こして援助を再開してくれたことを大いに喜び感謝しています(一〇節前半)。先に見たように、パウロはテサロニケとコリントでフィリピ集会からの継続的な援助によって助けられ、福音を宣べ伝える活動を力強く続けることができました。パウロはコリントでの騒乱に巻き込まれて裁判にかけられ、釈放後コリントを去ってエルサレムに向かいます(52年の春)。エルサレムとアンティオキアで重要な協議を重ね、小アジア内陸部を通ってアジア州の州都エフェソに到着します(53年)。この旅の間は、十分連絡もとれず、フィリピ集会からの援助は中断していたのでしょう。そのことをパウロは、「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」(一〇節後半)と言って、フィリピの人たちの変わることのない友情に対する信頼を表明しています。
 パウロがエフェソに到着して福音宣教の活動を始めたことを伝え聞いたフィリピの人たちは、さっそくエパフロディトという人物をパウロのもとに送って、活動のための資金を届けます。エパフロディトは資金を届ける使者であるだけでなく、パウロの働きに協力したいと願うフィリピ集会の気持ちを代表して、エフェソに留まってパウロの宣教活動に参加したのです。彼はエフェソにおけるフィリピ集会代表です。実はこのエパフロディトの病気が、パウロが獄中から「フィリピ書簡」を書く動機となるのです(二・二五〜三〇)。
 パウロはさっそく援助への感謝の手紙を書きます。しかし、この手紙はたんなる贈り物に対する個人的な礼状ではなく、福音のために力を合わせて働く者たちの間に溢れる神の豊かな恵みへの賛美となっています。
 パウロはまず、援助が再開されたことを喜ぶと書きましたが、それは自分の窮乏を助けてくれたことを喜んでいるのではないことを明らかにします(一一〜一三節)。パウロは「わたし自身は(原文では強調されています)自分が置かれている境遇で自ら足ることを心得ている」(一一節)と言います。だから、自分のことで援助再開を喜んでいるのではない、という意味です。
 「自ら足りている」《アウタルケース》という語は、新約聖書ではここだけですが(名詞形は他に二箇所)、ストア派を初めギリシアの哲人たちが追求した境地を指す語です。外界のいかなる状況にも依存せず、自分の内にあるものだけで満ち足りて生きる(幸福である)ことを意味しています。パウロはキリストにあってその境地に達しているのです。パウロはその境地を、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物があり余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(一二節)と具体的に描きます。
 「貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」(協会訳)というのは意味深い表現です。普通は貧を逃れ富を求めるのですから、貧に対処する心得だけが説かれ、富を得たら目的達成というので、その富に処する道はあまり説かれません。しかし、実際は貧に処する道よりも富に処する道の方が難しく、また重要なのです。貧にあるときは、人は反省したり努力したりして、謙虚に自己の真実の姿を見ることができ、感謝や思いやりというような人間的な感情も豊かになります。ところが、富を得ると心が高ぶり、自己が見えなくなり、傲慢になって他者を傷つけること多く、人間としての品位を失いがちです。
 このことは個人の人生においてもよく体験することですが、わたしたち日本人は戦後の半世紀の歴史の中で、民族として体験しました。敗戦後の、物が不足し皆が空腹であったとき、わたしたちは必死で働きながら、民族が世界の中で生きる道を模索しました。その結果、奇跡と呼ばれる経済復興をなしとげ、世界有数の富める国になりました。ところが、物があり余って皆が満腹するようになると、社会の内部に腐敗が進み、目標や気概を失って漂流しつつあるようです。日本は富にいる道を知らないように見えます。
 パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と言います(一二節)。ここで用いられている「秘訣を授かる」という動詞は、当時の密儀宗教で用いられる動詞で、秘密の儀式に参加して救済の秘義にあずかることを指す用語です。もちろん、パウロはバプテスマや主の晩餐をそのような密儀としているわけではありません。霊なるキリストに結ばれて生きることによって《アウタルケース》(自ら足りる)の境地に導き入れられていることを、密儀宗教の用語で象徴的に語っているのです。その結果、どのような状況においても、恐れることなく対処することができる知恵と勇気を与えられていることを感謝しているのです。
 パウロは自分の境地を「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」(一三節)という言葉でまとめます。「すべてが可能」というのは、先の「どのような状況にも対処できる」ことを指しています。人間的にはどのように困難で不可能に見える状況でも、乗り切ることがきるのは自分の能力によるのではなく、「わたしを強めてくださる方にあって」(直訳)できるのです。パウロの存在の奥底を支える「キリストにあって」が、ここでは人生の具体的な問題を乗り切らせてくださる力の源泉として告白されているのです。こうして、集会からの援助に心からの感謝を表しつつ、同時に誰にも依存しないで福音のために働く独立伝道の原則が確認されています。
 このように「わたし自身は自ら足りている」ことを強調したのは、この援助への感謝が自分への援助を感謝しているのではなく、援助する者と援助される者との福音のための協力の中に、神の恵みが溢れることを感謝するためでした。パウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」(一四節)と言って、ここで改めてこれまでのフィリピ集会からの援助の事実を取り上げます(一五〜一六節)。フィリピの人たちがパウロに活動資金を送ったのは、福音のために「わたしと苦しみを共にする」ことであるというのです。
 パウロはフィリピの人たちが有り余る中から資金を出しているのではなく、「極度の貧しさ」(コリントU八・一〜二)の中から身を削るようにして出していることを知っているのです。フィリピ集会に集まりの場所として自分の家を提供したリディアは富裕な商人であった可能性がありますが、コリントの場合(コリントI一・二六〜二八)と同じように、集会の大部分の人たちは貧しい人たちであったのでしょう。その貧しさの中からパウロの働きを援助し、また、パウロの呼びかけに応じてエルサレムの聖徒たちへの献金に協力しているのです(コリントU八・一〜二)。

フィリピの信徒たちは無産階級の貧しい人たちではなく、大部分が中産階級の人たちであったとする見方もあります(NTD)。もともとこの町は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)が退役兵士たちを住まわせた軍人植民都市で、イタリア権(イタリア本土の市民と同じ権利)を与えられた都市であるから、その市民は土地を所有する自由人であった、というのがその理由です。そうだとすると、パウロがフィリピの人たちについて「極度の貧しさが溢れ出て、人に惜しまず施す豊かさになった」(コリントU八・二)と書いているのは、修辞上の技巧であるということになります。たしかにフィリピには土地を所有する中産階級の人が多かったのでしょうが、奴隷の身分の人たちもいたはずですから、都市の性格から集会員の構成を推測することはできないのではないかと思われます。

 パウロは改めて、このように書くのは「贈り物を当てにして言う」のではなく、「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」からだと強調します(一七節)。「あなたがたの益となる豊かな実」というのは、直訳すると「あなたがたの貸借勘定(あるいは決算書)を満ちあふれさせる果実」という商業用語が用いられています。いまフィリピの人たちが福音のために献げているのは、自分の資産をすり減らしているのではなく、自分の最終的な決算書をプラスにしているのだと言うのです。パウロがこの手紙で贈り物を喜んでいると書いたのは、さらに贈り物を期待しているからではなく、献げることによってフィリピの人たちの決算書が豊かになることを願っているからだというのです。

ここで用いられている「あなたがたの《ロゴス》」という語は、「不正な管理人のたとえ」で「あなたの管理業務の決算書《ロゴス》を出せ」(ルカ一六・二)と言われているように、貸借勘定とか決算書という意味の商業用語です。

 さらに贈り物を期待しているのでないことが、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」(一八節前半)と語られ、彼らの贈り物は「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」(一八節後半)であるから、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(一九節)と、彼らの貸借勘定が溢れるようなプラスになることを、神の栄光の富によって保証します。
 こうして、窮乏の中で福音のために献げ合い助け合う交わりの中に、神の豊かな恵みが満ちあふれ、「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように」という賛美に帰していくのです(二〇節)。