市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第5講

第三節 神の和解

キリストの愛の迫り

 11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(五・一一〜一五)

正気でない?

 地上の働きの真実の姿が明らかにされる終わりの日を思い(五・一〇)、パウロは改めて、批判者たちと対比して「わたしたち」の真実の姿をコリントの人々に知ってほしいと願います(一一〜一二節)。ここでは批判者たちは「内面ではなく、外面を誇っている人々」と評されています。おそらく、彼らは奇跡など人々を驚嘆させる働きを誇っていたのでしょう。それに対して、パウロは使徒の資格はキリストと使命への献身という内面の姿にあると答えるのです。
 パウロの答えとなる一三節はきわめて簡潔な文で、「わたしたちが正気でなかったとすれば、神に。正気であるなら、あなたがたに」となっています。コリントの論敵たちがパウロを「正気ではない」と批判していたかどうかは確定できませんが、パウロの応答の仕方からすると、そのような批判をしていた可能性があります。もしそうだとすると、パウロは非難の言葉を逆手にとって、自分の献身を弁証していることになります。
 「正気でない」と訳されている語は、「エクスタシー」の語源になるギリシア語動詞で、本来「(自分自身の)外に出る」とか「(自分の)外にいる」という意味の動詞です。普段の常識や理性によるコントロールが外れた忘我の状態であることを意味する動詞です。この動詞はイエスについて「気が変になった」という否定的な意味で使われています(マルコ三・二一)。ユダヤ人は(自分たちから見て)非常識な説を唱える人物をこのような表現で非難しました(用語は違いますがヨハネ一〇・二〇も)。
 パウロがここで「もしわたしたちが正気でなかったとすれば」と言っているのは、過去形が用いられていることから、エクスタシー状態で受けた啓示の体験(一二・一〜六)を指しているなど様々な解釈がありますが、ここでは直後(次節)に続く「キリストの愛がわたしたちを捉えているからです」という理由の説明から見て、常識からすれば正気の沙汰ではないとされるような、自分を忘れた生き方を続けてきたことを指していると理解してよいでしょう。それは、自分を忘れ、「神に向かって」自分から出て行かざるをえない在り方です。その中で「正気である(現在形)」、すなわち理性をもって判断したり語ったりしているのは、「あなたがたに向かって」通常の人間のコミュニケーションを用いて働きかけるためである、という意味に理解できます。全体としては、キリストの愛に迫られて「正気でない」在り方の方に重点が置かれ、その内容が続く一四節以下で展開されることになります。
 「キリストの愛がわたしたちを捉える」とき、わたしたちは一種の「エクスタシー」の中に生きることになります。すなわち、我を忘れ、我の外に出て生きるようになるのです。ここでもパウロは「わたしたち」と言っていますが、先に述べましたように、これはキリストに属する者たちの在り方を代表して自分のことを語っているのです。
 パウロはダマスコ途上で復活のキリストに遭遇して以来、そのキリストが十字架につけられて死なれた事実が自分にとって何を意味するのかを御霊によって深く受け止めてきました。パウロは回心した後、エルサレム教団を通して、イエスの死がすべての人のための死であることを語る聖餐伝承や、「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」というケリュグマ伝承を受けていたはずです。しかし、パウロはそのような伝承の言葉を「受けて伝える」ことに留まってはいませんでした。復活者キリストとの御霊による個人的な交わりの中で、その方の死を自分のための死として受け止めていたはずです。一対一で相対する場で、キリストの死をそれ以外の意味で受け取ることができるでしょうか。パウロは聖霊の圧倒的な働きの中で、キリストの十字架の出来事を「わたしはあなたのために死んだ」という復活者の言葉として聴いたのです。

十字架の愛

 キリストはわたしのために死なれた! これが「十字架の言葉」であり、「十字架の愛」です。これがキリストの愛です。このキリストの愛、正確にはキリストにおいて示された神の愛が、パウロを捉え、我を忘れ、もはや自分のことを考えることなく、ひたすらキリストに仕える生涯へと駆り立て、どのような苦難をも耐え忍ばせる力、死をも超える力となるのです(ローマ八・三一〜三九)。
 このようにパウロ自身が体験し、その中に生きているキリストの愛を、パウロは「すべての人」へのキリストの愛として語り、その愛が「すべての人」を、自分が死んで復活者のために生きる新しい生へと駆り立てる力であることを語ります。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」というような言葉は、第三者の立場から観察した客観的な出来事として読めるような言葉ではありません。これはあくまで、一人ひとりがキリストとの交わりの場で聴くべき言葉です。その場では、「すべての人」というのは全員という意味ではなく、どの人もみな、このわたしも例外ではないという意味です。その場では、この言葉は「あの一人の方がわたしのために死なれた以上、わたしは死んだ」と聞こえてきます。そして、それに続く言葉は、「あの一人の方がわたしのために死なれたのは、生きているわたしが、もはやわたし自身のために生きるのではなく、わたしのために死んで復活されたあの方のために生きるようになるためです」と聞こえてきます。
 では、どうして「あの一人の方がわたしのために死なれた以上、わたしは死んだのです」と言えるのでしょうか。どうしてわたし以外の方の死がわたしの死となるのでしょうか。実は、ここにキリストによる救済の秘義があるのです。この文で、わたし「のために」と訳されているギリシア語の前置詞《ヒュペル》は、わたし「に代わって」という意味があります(英語の for と同じです)。キリストはわたしのために、わたしに代わって死なれたのです。キリストはわたしが救われるために、わたしが死ぬべき死を代わって死なれたのです。わたしは、死に限界づけられたこの自分が死ぬことなしには、死を超える真実のいのちに達すること、すなわち救われることはできないのです。ところが、この「わたし」は自己保全と自己拡張の本性を持っていて、自分で死ぬことができません。そこで福音は、キリストが自分で死ぬことができないわたしに代わって死んでくださったと告知しています。この告知は、第三者として聞くかぎり、これほど馬鹿げたことはありません。しかし、この福音を信じ、キリストに全存在を投げ入れてキリストに結ばれる者には、キリストの死が自分の死となるのです。キリストは終わりのアダムとして、キリストに結ばれるすべての者の頭(代表者)として死なれたからです。パウロが「一人の方がすべての人のために死んでくださった」と言うのは、、キリストが終わりのアダムとして、すなわち終末時に現れる人類の代表として死なれたことを指しているのです。
 パウロは同じことを他の箇所(ガラテヤ書二・一九)でこう言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」。「律法に対しては律法によって死んだ」というのは、律法の中にいるユダヤ人特有の体験ですが、律法の外にいるわたしたちは、キリストに結ばれる信仰によって「キリストと共に十字架につけられた」のです。キリストの十字架はたんなる歴史上の出来事ではありません。また、その意義を理解して告白する教義でもありません。キリストの十字架は、信仰によってキリストに合わせられることにより、そこでわたしがキリストと共に死ぬ霊的な場です。わたしが死ぬことによって、別のわたしが生き始めることになる霊の場です。そのことをパウロは続けてこう言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)。同じことをコリント書簡では、わたしたちの姿に即してやや具体的にこう言うのです。「それは、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるようになるためなのです」。

往相と還相

 この世に生きていた自分は死んだのですから、もはや自分を根拠にして生きることはできません。また、この世で自分のために求めるものは何もありません。自分のために死んでくださった復活者キリストと共に、復活のいのちの次元に生きることだけが願いとなります。この生き方は、この世の判断からすれば「正気でない」生き方になります。わたしは死んで、この世から出たのです。わたしも若いときに、聖霊の満たしの中で「わたしはあなたのために死んだ」という十字架の言葉を聴いて、大学への就職を放棄して生活の保障もない独立伝道に立つ決心をしました。その結果、親族の者たちから「正気の沙汰ではない」と罵られましたが、それ以後、わたしの生涯はキリストだけを目指すことになりました。キリストの十字架の愛がわたしを捉えたのです。
 このようにキリストの愛はわたしたちを自分から出て神に向かわせますが、わたしたちはこの世界に向かって働きかけるために「正気である」必要があります。世界の人々と同じ理性をもって思考し、表現し、語りかける必要があります。キリストの愛につかまれることによって自己から出て神に向かう方向を「往相」とするならば、理性をもって学問し、この世界に責任を負う生活の中で、世界に働きかける営みは「還相」と言うことができるでしょう。「正気でないとするなら、神に。正気であるなら、あなたがたに」というパウロの言葉は、このようなキリストにある者の往相と還相を表現していると理解できます。

神の和解

新しい創造

 16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(五・一六〜一七)

 一六節文頭の「それで」は、先の段落で述べたことを受けています。主語の「わたしたち」は強調されていて、他の人たちはともかく「わたしたちは」という意味です。この「わたしたち」は、先の段落(一四節)で「わたしたちはこう考えます」と言うときの「わたしたち」です。すなわち、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」と考えている「わたしたち」です。「すべての人も死んだことになります」という場では、一切の人間的な価値は無意味になります。どのような社会的地位があるか、どれだけの富を所有しているか、どれほどの知識や教養をもち道徳的に立派かなどは、もはや人を知る物差しにはなりません。このような物差しで人を測らないことを「だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っているのです。
 「肉に従って」という句は、パウロにおいては「御霊に従って」の反対を示す対句であり、「人間の側の働きとか価値に従って」という意味です。「キリストがわたしのために死なれた」ことを体験するまでは、自分のことも他の人のことも、すべてを人間の側の働きとか価値に従って測り、それを根拠にして判断していました。しかし、キリストがすべての人のために死なれたことを知った「今からは」、そのような判断をしないというのです。わたしが人間としてどれだけ立派であるか、どれだけの価値があるかというようなことは、「すべての人が死んだ」場では問題にならないのです。
 もし今までキリストを「肉に従って」知っていたとしても、すなわち、人間の価値を計る基準としてキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。「わたしのために死んで復活してくださった方のために生きる」ようになった今は、キリストをわたしの死であり、死からの命として知る以外の知り方はできません。キリストを人間の側の価値を超えた絶対無条件の神の恩恵として知る以外の知り方はできません。これがキリストを「御霊に従って」知ることです。パウロは「わたしたちは」だれをも肉に従って知ろうとはしないと言っていますが、これはコリントの人々に、「あなたがたも」肉に従って人を判断しないように求めているのです。

一六節は、先行する段落から「それで」と続く文脈からすると、このように理解すべきであると考えられます。ところが、この節の「肉に従ってキリストを知ろうとはしない」という言葉を、パウロが地上のイエスの働きや言葉に関心がなかったことを示すとする解釈があります。これは文脈を無視した解釈で、認めることはできません。この節の解釈と、パウロが地上のイエスの働きや言葉を伝える「イエス伝承」とどう関わっていたかについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』269頁「パウロとイエス」の項を参照してください。

 パウロは もう一度「だから」という語で先行する段落(一三〜一五節)を受けて、「一人の方がすべての人のために死なれた」結果を語ります(一七節)。この「一人の方」、すなわち、わたしのために死んで復活されたキリストに全存在を投じ、この方と結ばれて生きる場を、パウロは「キリストにある」という句に凝縮して表現します。この「キリストにある」という場では「人はだれでも新しく創造された者である」のです。わたしのために死んでくださったキリストに合わせられてわたしは死に、復活されたキリストに結ばれて別のわたし、新しいわたしが生き始めたのです。これは神が創造してくださったわたしです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」のです。
 神による「新しい創造」とか、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という言葉は、終末時に新しい天と地を待ち望んだ黙示思想の標語です。黙示思想家はそれを未来に待ち望みましたが、パウロはそれをキリストの十字架と復活の出来事においてすでに到来した現実であると見ているのです。神はキリストを死者の中から復活させて、初めの創造に対応する終わりの創造、新しい創造を開始されたのです。今「キリストにある」という場で、人間を復活のいのちに生かす新しい創造を進めておられるのです。この新しい創造は、キリストの来臨のとき、キリストに属する者が霊の体を与えられて復活するとき完成するのです。この「新しい創造」が「キリストにある」場ですでに始まっていることを見たところに、パウロの新しさと偉大さがあります。

和解の場

 18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(五・一八〜一九)

 この「新しく創造された者」になるというような出来事、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」というような変革は、「すべて神から出ることであって」、人間が関与できる事柄ではありません。神はこのような終末的な出来事を、キリストにおける「和解の場」で成し遂げてくださっているのです。
 一八節は、「ところで、すべてはキリストによってわたしたちを御自分と和解させてくださった神から出るのであり、神はその和解の務めをわたしたちにお与えになったのです」(私訳)となっています。そして、同じことが続く一九節で一般化されて、やや詳しく展開されます。「つまり、神はキリストの中におられて、世を御自分と和解させ、人々の罪過を彼らに帰することなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(私訳)。ここ(一八節と一九節)で二つのことが述べられています。一つは、神の終末的な救済の働きはすべて「キリストにおいて《エン・クリストー》」という和解の場でなされていること、他の一つは、世界に「和解の言葉」を告知して、神の和解を与える務めが、キリストの使徒に与えられていることです。ここでキリストの使徒パウロが「和解」という語を用いて語る福音を聴きましょう。
 「和解する」という動詞とその名詞形である「和解」という語は、新約聖書ではパウロ書簡だけに出てきます(動詞は六回、名詞は四回、計一〇回)。人間関係に用いられているのは一回だけで、離婚した妻は「再婚せずにいるか、夫と和解しなさい」と勧告されているところです(コリントT七・一一)。その他はすべて神と人との関係について用いられています。いま取り上げているコリント第二書簡の五章一八〜二〇節に計五回と、それより後に書かれたローマ書の五章一〇〜一一節の三回が、二つの主要な箇所です。ローマ書一一章一五節に出てくるのが最後です。
 和解は対立あるいは敵対関係を前提としています。対立し敵対していた当事者が、敵意を捨てて親しい関係に入ることです。とくに、もともと親しかったが何らかの原因で疎遠になるとか敵対するようになっていた両者が、その原因を乗り越えて再び親しい関係を回復する場合が典型的です。
 神と人は本来親しい関係です。神は決して人を自分に敵対する者として創造されませんでした。神は人を御自分の愛の対象として御自分の像に従って創造し、祝福し、天地創造の御業の冠とされました。創世記(一章と二章)の創造物語には、人の誕生を喜ぶ神と天地万物の歓喜が響き渡っています。聖書の創造物語は、神と人とは本来親しい関係であることを素朴に語っています。
 ところが、この神と人との親しい交わりが壊れ、人は神に背く者になったのです。現実の人間は神に対立し敵対する存在となったのです。これは人が自ら神になろうとした高ぶりの結果であることが、創世記三章で物語られています。この高ぶりによる神への背き、これが罪です。人間の根元的な罪です。この罪のために人は神との親しい交わりを失い、いのちの源である神の面前から追放されて、死に支配される者になったのです。
 パウロは「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」(ローマ五・一〇)と言って、神と人とが敵対関係にあったことを明言しています。コリント書簡では、敵対関係は明言されていませんが前提されています。神はキリストにおいて和解の場を与えて、敵対するようになった「人々の罪の責任を問うことなく」、御自分のもとに帰るように呼びかけておられるのです。すべては和解を与えてくださる神のイニシャティヴから出ています。人間が和解に必要なことを成し遂げて用意したのではありません。
 人間は自分たちが神から離れていることを意識し、神が敵意をもって自分たちを扱うことを恐れて、宥(なだ)めの供え物を捧げたりして、神と和解することを努めてきました。それは人の側からの和解です。しかし、キリストにおいては一切そのような人の側からの供え物や条件づくりは求められていません。神が一方的に和解の場を備えてくださっているのです。
 和解が成立するためには、敵対関係の原因が取り除かれなければなりません。神と人を敵対させたものは、人の罪です。この罪を取り除くことを、神が成し遂げてくださったのです。パウロはローマ書(五・六〜一〇)で、「キリストは不信心な者、罪人であり、敵であるわたしたちのために死んでくださった」と言い、この「御子の死によって神と和解させていただいた」と言っています。イエスの十字架上の死は、復活者キリストの死であり、神の御子が敵対する者のために死んでくださった出来事であるというのです。この方の死によって敵対関係の原因であった罪が取り除かれ、和解が成立したのです。その方の死が「わたしたちの罪のため」の死であったからです。この事をコリント書では「罪を知らない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちがその方にあって神の義となるためです」(五・二一私訳)と言っているのです。
 なぜわたしでない方の死がわたしの義となるのか、世界はこれを「愚かな」こととして退け、福音を拒否しました。たしかに、キリストがわたしと別の方である以上、この福音は愚かさの極みです。しかし、わたしたちがキリストを信じて全存在をキリストに委ね投げ入れるとき、わたしたちはキリストに合わせられて一体となり、キリストの死がわたしたちの死となるのです。死んだ者は罪の責任を問われることはありません。キリストに合わせられた者は、復活されたキリストのいのちに生きるようになります。このいのちが「神の義」、すなわち「神から賜る義」です。あくまで「キリストにあって」和解を受け、神の義となるのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ四・二五)。
 これが、パウロが福音の中心に据えている「信仰による義」です。パウロの全神学はこの「信仰の義」をめぐる論争だとも言えます。ここでその議論に入ることはできませんが、ここで重要なことは、その「信仰による義」がここでは「和解」という語で表現されていることです。いま述べたことからも分かるように、パウロがここで「和解」と言っている事態は、パウロの福音の核心とされる「信仰による義」と同じです。ところが、ガラテヤ書やローマ書では中心に置かれて、あれほど強調されている「信仰による義」が、このコリント書簡では出てきません。それに相当する内容が「和解」という語で表現されているのです。
 これは、ガラテヤ書やローマ書がユダヤ教に対する福音の弁証という性格をもっているのに対して、コリント書簡にはそれがなく、もっぱら異邦人に福音を提示するために書かれているという性格の違いから来ると考えられます。ユダヤ人やユダヤ主義者に対しては、パウロは救い(ユダヤ教では義と呼ばれた)がユダヤ教律法の実行によるのではなく、キリスト信仰によるものであることを力をこめて主張し弁証しなければなりませんでした。しかし、コリントの異邦人集会に対してはその必要がなく、異邦人には「和解」という日常の人間関係にかかわる表象の方がずっと分かりやすいものであったのです。
 ローマ書五章の九節と一〇節は並行表現になっています。九節の「義とされる」はユダヤ人向けの表現であり、一〇節の「和解させていただいた」は異邦人向けの表現です。ローマ書はユダヤ人を強く意識して書かれていますので、「信仰による義」が中心的な位置を占めていますが、同時に異邦人への使徒としてのパウロが福音を総括して提示していますので、異邦人に分かりやすい「和解」という表現が並行して用いられたのでしょう。異邦人への福音宣教において、「和解」という表象が用いられるようになったのは、おそらくパウロ以前のことで、パウロはそれを継承しているのではないかと見られています。

救済の場としての和解

 福音が告知する「和解」について、ここで二つのことを指摘しておきたいと思います。第一は、和解は神の恩恵の賜物であるということです。「和解する」という動詞の主語はいつも神です。神が世と和解されるのです。人が供え物をして神と和解するのではありません。人が主語になるときはいつも「和解させられる」と受動態で用いられます。神は御子の死という犠牲をも惜しまないで、世界に和解を与えられたのです。わたしたちは神が恩恵によって差し出してくださっている和解を受け取るだけの立場であって、和解のために何かをする立場ではありません。この意味で福音が提示する和解は「神の和解」なのです。逆から言えば、もしこの神の和解を受け入れないならば、わたしたち人間の側からは和解の手段はないということです。
 第二は、和解は救済そのものではなく、救済の御業がなされるための場であるということです。そのことは次のパウロの言葉が明確に語っています。

 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(ローマ五・一〇)

 この文の動詞「和解させていただいた」はアオリスト形(過去形)で、「救われる」は未来形です。和解は御子の死によってすでに成し遂げられた事実です。それに対して、「御子の命によって救われる」のは、現在すでに始まってはいますが、将来に向かって進められ、将来において完成される神の働きです。この救いの働きは「和解させていただいた今」という場で行われるのです。では、「御子の命によって救われる」とはどういうことでしょうか。
 「御子」とは復活者キリストを指す称号です。ダビデの子孫として生まれたイエスが「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」のです(ローマ一・四)。「御子の命」とは復活者の命、キリストを死者の中から復活させた命、復活のいのちに他なりません。神は、キリストにあって和解した者に、この復活のいのちを与えて、このいのちによって死の支配から救い、栄光へと完成されるのです。
 ここに引用した節は、「信仰による義」を主題とするローマ書第一部(一・一八〜五・一一)の結びの段落(五・一〜一一)の中の最後に位置しています。この段落は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」で始まり、信仰によって義とされたことの結果を簡潔に要約し、キリストにあって受けた和解による勝利の凱歌で終わっています。それは、和解の場で「御子の命によって救われる」ことを知っているからです。この段落では(先に述べたように)「信仰による義」と「和解」は並行表現であり、同じ事実を指しています。この和解の場でなされる溢れるように豊かな神の救済の働き、すなわち「御子のいのちによって救う」神の働きが、第二部(五・一二〜八・三九)で語られるのです。
 このように、ローマ書の節を引用したり、ローマ書の構成にまで触れたのは、和解は救済の本体ではなく、そこで終末的救済がなされる場であるということを明確にしたかったからです。たしかに、まず和解がなければ神の救済はありえません。それがなければ福音が福音でありえないという意味で、和解は福音の本質的な一面です。しかし、全部ではありません。ところが、西欧(とくにプロテスタント正統派)の神学においてしばしば、「信仰による義」が救いそのものであると扱われています。これは、救済のための場である和解を救済そのものとする誤解です。この誤解がパウロの福音から力を奪っているのです。信仰によって義とされたことが救いのすべてになれば、「御子の命によって救われる」余地がなくなってしまいます。復活信仰は信条とか教義の上のことだけになり、現実に復活のいのちに生きるという中身を失ってしまいます。聖霊によって霊なるキリストに合わせられ、その死に合わせられて古い自分が死に、復活されたキリストのいのちに生きるという救済の現実(ローマ書六〜八章)が空虚なものになります。これこそが救済の中身なのです。

久野晋良『日本人の立場から見たキリスト教の根本問題』(新泉社)は、このヨーロッパ神学の問題点を、別の視点からですが、深く追求しています。

和解の務め

 20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(五・二〇〜二一)

 このように神が差し出してくださっている和解を世界に告げ知らせる務めを委ねられた者として、この神の和解を受け取り、神と和解させていただくように、パウロは「キリストに代わって」切に願います。キリストはご自分のいのちをかけて、神の和解を実現されたのです。世界がこの和解を受け取るようにというキリストの命がけの願いを、キリストの使徒パウロが代わって叫んでいるのです(二〇節)。キリストが死なれたのは、まさにこの和解を与えるためであったことが、「神の義」という表現を用いてあらためて付け加えられます。ユダヤ人には「贖罪」という祭儀的な用語で語るところを、パウロは異邦人に分かりやすく、「罪を知らない方を、神は罪とされた」と言うのです(二一節)。
 ところで、パウロは「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」というアピールを誰に向かってしているのでしょうか。この手紙の文脈から離れてこの呼びかけを聴きますと、パウロはまだ神と和解していない世界に向かって、「和解の言葉」、すなわち「和解の福音」を語りかけていると聞こえてきます。実際、パウロは異邦諸都市で福音を宣べ伝えるさい、この「和解の言葉」で呼びかけたのでしょう。しかし、この手紙はコリントの信徒たちに向けて書かれているのです。キリストにあって神の和解を受けている者たちに向けられているのです。では、パウロがコリントの人たちにあらためて「神と和解させていただきなさい」と願うのは、どういう意味でしょうか。
 すでに見ましたように、この第二の手紙は、コリントの集会が外から入ってきた「働き人たち」に影響されて、パウロの使徒の資格に疑問をもつようになり、パウロから離れていこうとする危機に対処するために書かれたものです。パウロは離れていこうとするコリントの人たちとの和解を求めてこの手紙を書いているのです。そのことは、この段落に続く第六章からも明らかです。
 ここで見た「神の和解」についての段落(五・一八〜二〇)は、このようなコリント集会との和解を切望する気持ちの中で書かれているのです。それで、パウロがコリントの人々に「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」と呼びかけるとき、神と真実に和解するならば、キリストの使者として和解の言葉を委ねられている「わたしたち」とも和解することになると期待している、すなわち、自分との和解のために和解の場に留まることの重要性を思い起こさせていると見ることができます。この段落の直後に続く勧めの言葉も、このように理解することができます。

 1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日です。(六・一〜二)

 パウロがここで「神からいただいた恵み」と言っているのは、和解の場に入れられている事実を指しています。それを無駄にするなというのは、和解の言葉を委ねられた神の協力者パウロから離反して、和解の場から脱落するようなことのないようにという意味を含んでいると理解できます。その上で、パウロはキリストの使徒としての務めを、いかなる困苦の中でも誠実に果たしてきたことを強調した後(六・三〜一〇)、このようにコリントの人々に訴えています。

 11 コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。12 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。13 子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。(六・一一〜一三)

 そして、さらに重ねて「わたしたちに心を開いてください」と訴えて、自分とコリントの集会がいかに深い信頼で結ばれている仲であるかを強調しています。

 2 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。3 あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。4 わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。(七・二〜四)。

 この二つの段落(六・一一〜一三と七・二〜三)はごく自然に続いており、本来一体であったと考えられます。その間に、六章一四節〜七章一節の段落が入っているのは、後の編集の結果であると見られますが、どうしてこのような内容の段落(パウロの福音には合致せず、むしろ死海文書の精神に近いことが指摘されています)がここに挿入されたのか、その理由とか経緯は分かりません(次の項を参照)。
 このように、今回取り上げた箇所(五・一一〜七・四)では、パウロがコリント集会との和解を追求する実際的な努力の中に、「神の和解」という福音の基本的内容が一体として組み込まれて提示されていることが分かります。

断絶要求の手紙?

 この「最初の弁明」の手紙の最後の部分に、その部分の文章の流れをきわめて不自然に破る形で、内容的にも整合しない段落(六・一四〜七・一)が挿入されています。六章一三節に七章二節を続けて読むと、コリントの集会とよい関係を回復しようとするパウロの「弁明の手紙」の結びの部分が素直に理解できます。
 この段落(六・一四〜七・一)は、不信仰の人たちとのかかわりを断つように厳しく求めています。しかも、当時のユダヤ教黙示思想の用語と文体を用いてそれを表現しています。とくにクムランの死海文書に見られるような「光と闇」の二元論と酷似していることが指摘されています。パウロが回心前にはエッセネ派の影響を強く受けていたことを考慮すると、パウロがこのような文章を書く可能性を完全に否定することはできません。それで、この段落をパウロがコリント第一書簡(五・九)で言及している「以前に書いた手紙」の一部ではないかと見る研究者もいます。
 パウロはコリント第一書簡よりも前に、「みだらな者と交際してはいけない」という主旨の手紙を書き送りましたが、それが誤解されているとして、その手紙の真意を説明しています(コリントT五・九〜一一)。この交際を断つことを求める手紙を「断絶要求の手紙」と呼ぶならば、その手紙の一部がここに引用されていることになります。しかし、それにしてもこの位置にパウロ自身がこの段落を置いたと見ることは困難です。パウロから来た何通かの手紙を編集して一つの手紙にまとめて「コリント第二書簡」とするさい、編集者が手元にあった「断絶要求の手紙」の一部をここに置いたか、またはその時の状況に促されて異教徒とのかかわりを断つようにという勧告の必要を感じていた編集者が、これを書いてここに挿入したと考えざるをえません。パウロより後に書かれたとされるエフェソ書には、異教徒の生活習慣から遠ざかるようにという勧告が強く出ています(エフェソ四・一七〜二四)。

パウロとエッセネ派のかかわりについては、『パウロによるキリストの福音T』の53頁「エッセネ派の影響」の項を参照してください。