市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第4講

第二節 復活信仰の具体相

土の器に

はじめに

 前章(第三章)で、自分が御霊による新しい契約に仕える使徒であることを明らかにしてきたパウロは、続く箇所(四章一〜一五節)で、その務めを委ねられた自分の姿を率直に告白します。その務めを果たすために与えられた啓示の偉大さと対比して、担い手である自分の惨憺たる現状を語り、その落差を「このような宝を土の器に納めています」という一句で表現します。そして、この矛盾を担い抜かせる力は復活信仰であることを語りだします。

啓示の光

 1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(四・一〜六)

 パウロは自分が使徒として召されるにさいして受けた啓示については、あまり多くを語っていません。他ではガラテヤ書(一・一六)で「わたしの内に御子を啓示してくださったとき」と語っているぐらいです。その啓示の内容がここですこしだけ詳しく展開されています。ここでも「わたしたち」について語っていますが、これはパウロ自身のことであると見てよいでしょう。
 イエスをメシア・キリストと信じる者たちを迫害していたパウロは、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇し、イエスを主キリストと告白し、この方に仕える僕となりました。その時の体験を、ここでは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えられた」と表現しています。パウロの側には何の根拠もないのに、天地創造のときに闇から光を輝かされたあの神が、パウロの魂の暗闇の中に突如輝いて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」を照らし出し、イエス・キリストがどのような方であるかを悟る《グノーシス》(霊知)を与えてくださったのです。イエス・キリストは見えざる「神の似姿《エイコーン》」なのです。復活者イエス・キリストに神の本質が現れ、神の栄光が輝いているのです。それを見させるのは聖霊の働きです。聖霊は光を見させる光です。
 この啓示を受けてからパウロはひたすら、この「神の似姿であるキリストの栄光の福音」(直訳)を宣べ伝える者になりました。パウロを批判する「ある人たち」がしているように、奇跡を現す霊的能力を誇ったり、聖書や語録伝承を解釈する霊的知恵を見せびらかすのではなく(それは結局自分自身を宣べ伝えているのです)、パウロは自分について語るのではなく、ひたすら主イエス・キリストがどのような方であるかだけを語ってきました。それを語るにさいして、人間的な工夫や策略を弄することなく、単純率直に語り、それを真理として受け取るかどうかは、聴く者の良心に委ねてきました。パウロは、自分が啓示として受け、率直に語ってきた真理そのものが自分の働きの誠実さを保証すると、人の良心に及ぼす真理の力に自分を委ねているのです。
 それでもなお、反対者たちの影響で、パウロが語る福音は未熟であるとか「覆われている」という批判がコリント集会に広がり始めていたようです。反対者たちは自分たちが受けている特別な啓示を誇り、パウロの福音は初歩的なものであると批判していたのでしょう。そのような批判に対して、パウロは彼らこそ「心の目がくらまされている」のだと反論します。そのさいパウロは、「この世《アイオーン》の神」が信じようとしない者たちの心の目をくらまし、「神の似姿であるキリストの栄光の福音の光が輝かないようにしている」(直訳)のだと言っています。「今の《アイオーン》の神」とは、「今のアイオーン」と「来るべきアイオーン」という二つの《アイオーン》(世)の対立で思考するユダヤ教黙示思想の表現です。「来るべきアイオーン」では、神の支配が完成するのですが、「今のアイオーン」では神に敵対する霊的諸力が活動を許されています。その霊的諸力の頭が「今のアイオーンの神」と呼ばれるのです。この時代では「サタン」とも呼ばれるようになっていました。善神と悪神という二神の対立ではありません。
 このように心の目をくらまされてキリストの栄光を見ることができない「滅びの道をたどる人々」とは、キリストの福音を拒否している外の人々だけでなく、ここの文脈では、パウロの福音を「覆われたもの」と批判する働き人や、彼らに影響されて福音的なキリスト信仰から離れていくコリント集会内部の人たちをも含んでいます。これは、もしわたしたちが自分の霊知を誇り、パウロが宣べ伝え新約聖書が証する「キリストの福音」を低いものと見るならば、それは「滅びの道をたどる」ことになるという警告です。

イエスの死を負う

 7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。(四・七〜一二)

 新しい契約の使徒としての自覚から、パウロは自分に与えられている啓示について語りましたが、その尊い価値と偉大さのゆえに、その啓示を「宝」と呼んでいます。そして、受けた啓示の偉大さは、それを受けている容器としての自分の卑しさをいっそう際だたせます。自分が立派だから偉大な啓示を受けたのではなく、ただ何の価値もない自分を選ばれた神の恩恵によるのです(四・一、コリントT一五・一〇)。パウロはこの自分の弱さと卑しさを「土の器」と表現します。金や銀のような尊い素材でできた特別の器ではなく、どこにでもある土くれから造られた、毀れやすい、卑しい器です。
 何よりも尊い宝がこのような卑しい土の器に入れられているのは、この器である使徒の働きによって生じる結果が、人間の能力から出るものではなく、神からの力によるものであることが明らかになるためです。使徒が宣べ伝えるキリストの福音は、それを信じて受け入れる者を変容する力であり、人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。それは人間から出る力ではなく、神の力であることが明らかになるために、キリストの福音という宝が「土の器」に入れられて世界に来るのです。
 ところで、パウロは受けた啓示の偉大さに対して人間としての弱さを「土の器」という表現で語るだけでなく、その啓示の担い手としての使徒の生涯の惨憺たる姿をも指しています。霊的能力や霊知を見せびらかして宗教家として成功を収めているような人たちとは反対に、キリストの福音の使徒パウロは、その福音のゆえに「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒され」るという扱いを受けているのです。そのような苦難を負う生涯を、パウロは「いつもイエスの死を体にまとっている」とか「絶えずイエスのために死にさらされている」生涯と受け止めています。
 「イエスの死」は、原語ではイエスの《ネクローシス》です。この語は、死一般を指す《タナトス》ではなく、「殺すこと」を意味します(バウアー)。「イエスの《ネクローシス》」と言うとき、パウロはイエスが迫害され処刑されたことを念頭に置いて語っていることがうかがわれます。したがって、「いつもイエスの死を体にまとっている」という表現には、自分もいつ処刑されるかもしれない状況にいるのだという覚悟が暗示されていると見られます。これは決して修辞的な技巧ではなく、これまでの体験から出た実感です。もしこの書簡がエフェソでの入獄体験の直後に書かれたものであれば、実際の処刑を意識した表現と見るべきでしょう。この段落の悲愴な気分を見逃すべきではありません。
 なぜ、また、何のために福音の使徒はこのような苦難を負わなければならないのか。パウロはその意義また目的を「イエスの命がこの体に現れるために」とか「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と言います。すなわち、苦難の中で上よりの力に支えられ、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という不思議な生き方の中に、「イエスの命が現れる」のです。福音の使徒は、言葉によるだけでなく、自分の苦難の生涯の中にイエスの命を現すという使命に召されているのです。
 このようにイエスの使徒がイエスの死を身に負って歩むのは、その身にイエスの命が現れ、使徒を受け入れる者がその命に生きるようになるためです。そのことをパウロは「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いている」と語ります。使徒が「絶えずイエスのために死にさらされている」という生涯を使命として課せられているのは、それによって福音を信じる者たちがイエスの命に生きるようになるためです。パウロはコリントの人々に、自分の死に引き渡された生涯が彼らの命のためであることを分かってほしいのです。パウロは福音を信じる者たちのために自分をたえず死に引き渡しているのです。父から遣わされたイエスが、信じる者たちのために自分を死に引き渡されたように、キリストから使わされた使徒は、信じる者たちのために自分を死に引き渡して歩むのです。

イエス神秘主義

 四章七〜一五節の段落において、パウロは「キリスト」という名を用いず、もっぱら「イエス」という名で、苦難の中に現れる命、死の中に現れる復活の命という神秘を語っていることが注目されます。これまでにもしばしば触れたように、パウロは福音を宣べ伝え、エクレシアを指導するにあたって、地上のイエスの生涯や言葉を伝えるイエス伝承をほとんど用いていません。パウロはもっぱら、復活して今も信じる者の中に働きたもう霊なる「キリスト」を告知しています。パウロにとって、このキリストに合わせられて生きることが救済であり、命であるのです。この「キリストに合わせられて」という霊的現実が《エン・クリストー》という句で繰り返され、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・一九〜二〇)という形で典型的に告白されます。このように霊なるキリストとの交わりを核心とする宗教性は「キリスト神秘主義」と呼んでもよいでしょう。
 「神秘主義」という用語は意味の範囲が広いのですが、ここでは社会一般の規範としての公教的な宗教に対して、何らかの意味で個人が内面において絶対者を直接体験しようとする宗教性を指す語であるとしておきます。A・シュヴァイツァーの『使徒パウロの神秘主義』(白水社「シュヴァイツァー著作集」第十巻と第十一巻)は、「パウロは神秘主義者である」という文で始まりますが、人間の魂が直接神と融合するという「神・神秘主義」ではなく、あくまで霊なるキリストとの交わりを根幹とする「キリスト・神秘主義」であることを明らかにし、その上で、信仰義認ではなく、このキリスト神秘主義こそパウロ神学の核心であることを詳しく展開しています。
 そのパウロがここではもっぱら、「イエス」の死に合わせられることによって、「イエス」の命が現れることについて語っています。この事実は、パウロの「キリスト神秘主義」が決してパウロ一人だけの個人の内面における主観的な体験でないことを示しています。すなわち、パウロの神秘主義は、ナザレのイエスという歴史上の具体的人物の生きざまを原型とする霊性だということです。
 たしかにパウロは、彼の福音宣教においてイエス伝承に依存していません。しかし、パウロが宣べ伝えるキリストはあくまで「イエス・キリスト」です。すなわち、つい最近十字架刑によって処刑された自分と同時代のユダヤ人であるイエスを、復活者キリストとして宣べ伝えているのです。それで、イエスに関するパウロの関心は、十字架の死と復活に集中せざるをえません。イエスの地上の生涯も教えもすべて、十字架の死に向かう生として、そして十字架を通して復活に至る生として見られています。パウロはこの「イエス・キリスト」の使徒としていま自分が受けている苦難を、地上のイエスの苦難と重ね合わさざるをえないのです。
 イエスが苦難の中で神の命に生きるとはどういうことかを身をもって示し、最終的には神がイエスを復活させて、イエスが生きておられた命の質を現されたように、パウロはいま自分が使徒として苦難を受けているのは、イエスの死をこの身に負うことによって、この体にイエスの命が現れるためであると受け止めているのです。イエスの死を身に負うというのは、イエスの言葉に従うことによって、死に至らざるをえなかったイエスの生きざまにならうことです。そうするのは、死に定められたこの体に、あの復活に至ったイエスの命が現れるためです。イエスの死に合わせられることによって、イエスの命に達しようとするのですから、これは「イエス神秘主義」と呼んでよいでしょう。
 キリスト神秘主義の代表者であるパウロに、このようなイエス神秘主義の要素があることは注目されます。パウロはこのイエス神秘主義を詳しく展開していませんが、パウロに萌芽としてあったイエス神秘主義は、その後のキリスト教の歴史の中で多彩に展開します。ある意味では、福音書、とくにヨハネ福音書は、キリスト神秘主義から展開したイエス神秘主義の一つの形であるとも言えます。ここでその後の歴史的な展開を詳しく見ていくことはできませんが、代表的な実例を一人だけあげると、アッシジのフランチェスコでしょう。彼は、福音書のイエスの言葉に文字通りに従い、一切の所有を放棄して貧しい人々に仕えました。文字通りイエスの死を負うような生涯を通して、イエスの命の質を人類の歴史に刻み込んだのです。
 「神秘主義」という用語は意味が広いので慎重に用いなければなりませんが、誤解を恐れずあえて用いるならば、キリスト教は、イエス神秘主義にまで展開するキリスト神秘主義、あるいはキリスト神秘主義に基礎づけられたイエス神秘主義を核として、文化世界に展開しなければならないと思います。キリスト神秘主義とイエス神秘主義の統合が重要です。キリスト神秘主義だけでは、個人的・主観的霊性に陥る危険があります。また、キリスト神秘主義なしにイエス神秘主義に向かうと、イエスの教えに外面的に従おうとする律法主義に陥る危険があります。霊なる復活者キリストとの交わりの中で、イエスの言葉が受け入れられ、イエスに従うことが追求されるとき、健全で活力あるキリスト教が成立するはずです。霊なるキリストとの交わりを証言するパウロ書簡と、イエスの言葉と生涯を物語る福音書という二本の柱で構成される新約聖書の構造自体が、この方向を指し示しています。

イエスを復活させた神

 13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。(四・一三〜一五)

 たえずイエスの死を身に負う苦難の中にありながらも大胆に語らせる力は何か。それは信仰であるとパウロは続けます。昔の信仰者が「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と叫んでいるように、同じ「信仰の霊」を持っているので語るのだというのです。この場合の「信仰の霊」とは、どのような逆境でも大胆に語らせる霊的な力という意味でしょう。
 この引用は七十人訳ギリシア語聖書の詩編一一五編一節の一部の引用です。ヘブライ語聖書では一一六編一〇節で、新共同訳では「わたしは信じる。激しい苦しみに襲われていると言うときも」となっています。
 「わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と言うときの「信じている」の内容は、「知ったので」という分詞形で始まる次節(一四節)で説明されています。すなわち、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」という信仰です。この信仰が、死を負う生涯の中で大胆に語らせるのです。パウロの神は「主イエスを復活させた神」です。もはや律法を与え、その実行を要求し、どれだけ実行したかによって裁く神ではありません。イエスの十字架の死を贖いの座として背く世と和解し、イエスを復活させて、信じる者に復活の命を与える神です。神がイエスを復活させたのは、復活したイエス(すなわちキリスト)に結ばれる者を、イエスと共に復活させるためなのです。イエスの復活は、イエスの身だけに起こった孤立した出来事ではありません。キリストであるイエスに合わせられる者すべての復活を含む終末的な出来事なのです。これがパウロの信仰であり、最初期のエクレシアの信仰なのです。パウロはこの信仰を先に第一書簡(一五章)で詳しく展開しています。
 この復活信仰が、ここでは「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いている」という相の下で告白されています。すなわち、パウロは自分が死に引き渡されており、実際いつ死ぬかもしれないという状況にあることを自覚しています。もし自分が今この世を去っても、命にあずかっている「あなたがた」が終わりの日に復活するとき、自分も「起こされて」一緒に神の御前に生きるようになると信じているのです。もしコリントの人たちが信仰から離れて復活に達しないのであれば、パウロの「たえずイエスの死を負う」生涯は無意味になるのです。
 この「あなたがた」はこの箇所ではコリントの信徒を指していますが、パウロは彼らに代表されるキリストの民全体を見ているのです。自分は福音のために命を捧げるが、その福音によって生きるようになった民が現実に復活にあずかるようになるとき、自分もそのエクレシアの栄光にあずかるのだというのがパウロの希望であり、命であるのです。このように、自分の復活も栄光もエクレシアの復活と完成と一体であるとして、エクレシアのために死を負う生涯を貫く姿に、パウロの「エクレシア神秘主義」を見ることができるかもしれません。
 このようにパウロが使徒として「イエスの死を身に負う」生涯を送るのは、具体的にはパウロの宣教によって福音を信じるようになった人たちのためであり、原理的には将来のすべてのキリストの民が「豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」。

復活の希望

見えないものに目を注ぐ

 16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(四・一六〜一八)

 前段の復活信仰の告白を受けて、「だから、わたしたちは落胆しません」と続きます。「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒され」ても、また、今この命を失うことがあっても、落胆しないのは、イエスの死を負うこの体にイエスの命が来ていることを知っているからであり、「イエスを復活させた神」が自分をも復活させてくださることを知っているからです。
 パウロはここでキリストにある者の将来を、「外なる人」と「内なる人」の二重の視点から見ています。すなわち、わたしたちの「外なる人」は衰え、やがて滅んでいきますが、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされ、ついには栄光に達するのだと見ています。ここの「外なる人」と「内なる人」は、人間の外的・身体的側面と内的・精神的側面の区別ではありません。年と共に身体は衰えるが、精神はますます新たにされて強くなるという意味ではありません。ここの「外なる人」とは、身体も精神も含む生まれながらの人間全体を指しています。この生まれながらの自然の命に生きる人間は、年齢と労苦の中で身体も精神も、体力も気力も共に衰えていきます。それに対して「内なる人」というのは、この「外なる人」の中に、福音という神の言葉と信仰によって新しく生まれた「わたし」です。十字架の言葉にひれ伏し、復活の約束を喜ぶ新しい「わたし」です。この「内なる人」は、神の言葉と聖霊の働きによって、苦難の中で御言に対する信頼を日々強められて成長していきます。歳と共に衰えることはありません。
 この「内なる人」が、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と言うのです。この世で信仰の故に受ける患難は、キリストと共に来るべき世であずかる栄光の保証です。やがて現される栄光を現在の生の根底として見つめている「内なる人」にとって、この世の患難や苦労は、それがどのような種類であれ、また「外なる人」の目にはどのように深刻なものであっても、「一時の軽い患難」なのです。「内なる人」は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」からです。
 「見えるもの」とは、この世のすべての現象、またわたしたちがこの世で体験するすべての出来事です。それに対して「見えないもの」とは、永遠界に属する事柄であり、来るべき世の栄光であって、わたしたちが直接五感で感じたり体験することはできません。それに「目を注ぐ」とは、それを究極の関心事として、それに自分を投入して生きることです。「見えるもの」か「見えないもの」か、どちらに目を注ぐかによって、人生はまったく違ってきますし、世界は全然別の様相を示します。
 ところで、ここで「見えないものに目を注ぐ」と言うとき、パウロは漠然と永遠界のことを語っているのではなく、文脈から見て、とくに復活のことを念頭において語っていると見なければなりません。この段落(四・一六〜一八)は復活を語る二つの段落(四・七〜一五と五・一〜一〇)に挟まれています。パウロは、この三つの段落全体(四・七〜五・一〇)を通して、死に直面している状況で自分を支えている復活信仰を語っているのです。復活信仰については、すでに第一書簡の一五章で詳しく論じていましたが、それは反対者に対する論争でした。それに対してここでは、復活信仰が生死の境界に立つ一人の人間を支える具体的な相で現れています。復活信仰の内容を確立するための論争も重要ですが、死に定められた人間の中に働いて希望を持たせる現実の力となる「復活信仰の具体相」はさらに重要です。
 「死者の復活」は「見えないもの」です。「外なる人」の五感や理解力や経験で把握できるものではありません。それは福音という神の言葉によって約束され、信仰によって望む将来です。キリストの十字架と復活の出来事に含まれた将来であり、恩恵として賜る聖霊のいのちによって「内なる人」が身を乗り出して待ち望み、それに向かって走り続けざるをえない将来です。「内なる人」はこう言わざるをえないのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ三・一〇〜一一 一部私訳、以下一二〜二一節も参照)。
 こうして、パウロは自分の死を見据えながら、死を超える復活のいのちの世界を語りだします。

天にある住みか

 1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。(五・一〜四)

 復活という「見えないもの」を語るには比喩を用いざるをえません。パウロは、「内なる人」が与えられる身体(からだ)について、幕屋とか住まいという建物の比喩を用いて語ります。しかし、その中に「着る」とか「脱ぐ」という衣服の比喩に関する用語が入り込んでいます。パウロは、「わたし」自身とからだの関係を、建物と衣服という二重の比喩で語っていることになります。
 地上の身体は、その中に現在「わたし」が住んでいる住まいですが、それは時と共に古び、やがては滅んでいく定めにありますから、年月と共に古びやがては折り畳まれて撤去される「幕屋(テント)」という比喩で語られます。それに対して、終わりの日に神から与えられる住まいは「建物」と呼ばれています。それは、テントのように古びたり折り畳まれて撤去されることなく、石造りの建造物のようにいつまでも存続する「永遠の住まい」です。現在の身体は地上にあり、地を構成するものと同じ素材で造られていますから、見たり触れたりすることができ、ある程度理解することもできます。それに対して、かの時に与えられる身体は別次元の「天にある」ので、現在のわたしたちの感覚や理解は到達できず、「天に隠されている」と言えます。その身体が「人の手で造られたものではない」と言われているのは(地上の身体も人の手で造られたものではないのは同じですが)、創造者なる神が新しく創造して与えてくださる身体であることを言おうとしています。
 ここでパウロは「身体《ソーマ》」という語は用いていませんが、「幕屋」とか「建物」という比喩で身体《ソーマ》のことが語られているのは明らかです。《ソーマ》はわたし自身ではありませんが、わたしの「住まい」であり、わたしと一体です。身体なきわたしはありえません。ただ、「外なる人」としてのわたしには「外なる人」にふさわしい身体、すなわちこの地上の身体があり、「内なる人」としてのわたしには「内なる人」にふさわしい身体が備えられているのです。
 このことを「わたしたちは知っている」とパウロは言います。このような別種の身体があることを知る(理解する)ことができないので、「死者の復活」を信じようとしない人たちに対して、パウロはすでに第一書簡(一五・三五以下)で、この新しい種類の身体について詳しく論じています。「外なる人」には「自然の命のからだ」があるように、「内なる人」には「霊の命のからだ」が新しく創造して与えられるのだと説いています。

この二種類の「からだ」については、拙著『パウロによるキリストの福音U』301頁の第六章第五節「復活の体」を参照してください。なお岩波版青野訳は、一節の「わたしたちは知っている」の内容を、パウロが論敵の発言を引用していると解釈しています。しかし、この内容はパウロが主張していることと同じですから、強いて論敵の発言としなくても、福音の人間理解をパウロが代表して語っていると理解してよいと考えられます。

 わたしたちの身体を「幕屋」とか「建物」という比喩で語り始めた(一節)パウロは、「脱ぐ」とか「着る」という衣服について用いる動詞を使って、その身体についての切なる思いを語っていきます(二〜四節)。身体をわたしの「住みか」と見る意識は続いているので、「住みかを脱ぐ」とか「住みかを着る」という、やや奇妙な表現になっていますが、この「住みか」はわたしたちの身体を指していることは明らかです。
 着るとか脱ぐという比喩で注目すべき点は、パウロはその中で苦しんでいる地上の身体を脱ぎ捨てることを願ってはおらず、ただ天からの身体を「上に着る」ことを呻き待ち望んでいることです。この弱くて卑しい身体をもって苦難の多い地上の生を続けることは辛いから、早くこの身体を脱ぎ捨てて、安らかな眠りにつきたいとは願っていません。むしろ、「天からの住まいを上に着る」ことで、いまその中で呻いている地上の住まい(身体)が永遠の住まいに変えられることを願っているのです。パウロは、地上に生きている間に主の来臨を迎えて、この身体が「変えられる」ことを切望しているのです。パウロは直前の第一書簡で、「わたしたちは皆が眠りにつくわけではなく、わたしたちは皆、最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、今とは異なる状態に変えられるのです」(コリントT一五・五一〜五二私訳)と言っています。パウロは地上にいる間にこの「一瞬」を迎えることを期待していますが、それと同じことを第二書簡のここでは、「上に着る」という表現で語っているのです。
 しかし、第一書簡執筆の後エフェソで入獄し、死の危険に直面したことは、主の来臨を迎える前に自分がこの世を去ることになる可能性をパウロに強く意識させたのでしょう。パウロは地上の住まいを脱ぎ捨てないで、その上に天からの住まいを着ることを切望する文(二節と四節)の中に、「たとえもし脱いでも」という自分の死を示唆する文(三節)を入れています。条件また仮定は強調されていて、「たとえもし脱ぐようなことがあるとしても」となっています。もちろん、この地上の住まい(身体)を脱ぐこと、すなわち死が語られているのです。

三節は写本の読みに「着ると」と「脱いでも」の二種類があります。有力な写本の多数は「着る」であり、多くの現代語訳(協会訳も)はそれに従っていますが、内容から見ると「脱ぐ」が適切と考えられます。「着ると裸でいない」は当然のことで同義反復に過ぎません。「脱いでも裸でいない」と読むのは逆説的ですが、パウロの思想によく適合します。脱ぐのでなければ、裸に言及する必要はないはずです。逆説を避けるために、ギリシア語で一文字だけを変えて「脱ぐ」を「着る」にして、論理的な文に変えたのでしょう。最近の翻訳は「脱ぐ」をとるものが増えています(NRSV、新共同訳、岩波版青野訳など)。

 衣服を脱ぐと、裸になります。しかし、パウロは、たとえ今この地上の体を脱ぎ捨てる(すなわち死ぬ)ことになっても、「裸のままでいることはない(未来形)」と言います。ここでもパウロは、終末の時に「天にある永遠の住まい」が着せられることを知っているので、こう言うことができるのです。では、地上の体を脱ぎ捨てた後、新しい霊の体を着せられるまでの間はどうなるのか、その間は裸ではないのか、という問いは成り立ちません。死の彼方の世界も終末の出来事もともに時間を超えた次元のことで、その間の時間の経過は問題にならないからです。
 むしろここで重要なことは、「裸でいない」という確信です。裸とは、体を持たない人間存在を指す比喩です。体を持たない人間存在を考えることはできない、救われるのも滅びるのも体を持った人間、具体的な人間(体を具えた人間)であるというのは、ユダヤ教の確固とした伝統です。それに対してギリシアの宗教思想では、人間を霊魂と肉体に二分して、霊魂は永遠であるが肉体は朽ち果て滅びるもの、霊魂には神的原理が宿るが、肉体は物質界の卑しい原理で存在するものとしていました。それで、救いとは、肉体の中にいることで物質界の卑しい原理に捕らわれている霊魂が、その牢獄である肉体から解放されて、光である神的世界に到達することであるとする傾向がありました。ギリシアの宗教思想では、人間は身体のない裸の霊魂として救いに達するのです。
 コリントの集会でパウロに対立した人たちがどのような種類の人たちであったかは、確定困難な問題ですが、その中にグノーシス主義の萌芽的な傾向もあったことは認められます。グノーシス主義というのは、ギリシア思想の霊肉二元論の極端な形で、肉体とそれが所属する物質界を絶対的な悪と見て、霊魂が物質界という最下層から脱出し、幾層もの霊界を通過して最上層の神的光明に帰還することを説く宗教思想です。このような宗教思想の影響を受けている人たちは、裸でいることを救いの当然の姿とし、「死者の復活」という体を具えた救済を嘲笑したことでしょう。彼らにとって体は救いに含まれることなどありえないのです。それに対してパウロは、「裸でいることはない」という言葉で、体を具えた救済、すなわち死者の復活にあずかることへ切望を、裏側から表現するのです。

御霊の保証

 5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として御霊を与えてくださったのです。6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(五・五〜一〇)

 「このようになる」というのは、天からの住まいを上に着せられること、すなわち死者の復活にあずかることです。復活にあずかるのに「ふさわしい者」となるのは、わたしたちの努力や精進でできることではありません。神が福音によってわたしたちを招き、キリストにあってわたしたちを造り変えて「ふさわしい者」にしてくださったのです。そして、わたしたちがかの日に復活にあずかることの保証として、御霊を与えてくださっているのです。
 「保証」《アラボーン》という語は、商業取引関係で用いられる法律用語で、将来の全額の支払いを保証する手付け金を指します(他にもう一カ所、一・二二でも同じ意味で用いられています)。キリストにあって賜る神の御霊は、将来わたしたちがあずかる復活の栄光を、現在地上で前味として味わせる質の命です。あるいは、将来復活に至る質の生命と言ってもよいでしょう。同じことをパウロは、少し後のローマ書(八・二三)では「初穂」《アパルケー》という農作物の比喩を用いて語っています。「初穂」とか「最初の実」は将来の全収穫を代表しているのです。
 聖霊は将来の栄光を現在信じる者の内に現実とする力であるという理解は、パウロの終末論の基本的な構造をなしています。パウロは聖霊の現実に生きることによって、終末を現在化し、それをもっとも明確に語った使徒です。「現在化された終末論」の源流です。共観福音書に見られるように、なおユダヤ教黙示思想の終末論の色彩を色濃く残すパレスチナの福音宣教を、内在化し現在化して、ヨハネ福音書のような現在終末論に変えたのは、パウロのこの終末論であったと考えられます。
 このように御霊の保証を内に宿して歩んでいるので、目に見える状況がどのように惨憺たる姿であろうと、「わたしたちはいつも心強いのです」。六節は「わたしたちは体を住みかとしているかぎり、主から離れていることを知っていますが、それでもいつも心強いのです」(NRSV)と読むべきでしょう。そして、いつも心強い理由が、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と続きます。信仰は、神の言葉とか約束という見えないものを現実とする全存在をかけた姿勢です。
 この六節から始まる九節までの一段には、「内にいる」と「離れている」という二つの対称形の動詞が交差的に繰り返されています(前段の「脱ぐ」と「着る」のように)。「体の内にいるかぎり、主から離れている」という表現には、ギリシア思想またはグノーシス思想の傾向が感じられますので、この点では「たしかにそういう一面はあるが」と論敵の主張を一応認めて、その上で「見えるものによらないで、信仰によって歩んでいるので心強いのだ」と、この身体に内在する原理を克服する生き方を主張していると解釈する可能性もあります。しかし、パウロ自身、主がすでに「体から離れた」次元におられるので、自分も「体から離れた」次元に入る方が、よりいっそう主に近くあることができると信じていると見る方が自然でしょう(フィリピ一・二三)。
 いずれにせよ、パウロ自身が「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいる」のですが、これは(グノーシス主義者のように)肉体を霊魂の牢獄と蔑視して身体から離れることを願っているのではなく、迫っている死も「主の傍にいる」ようになるための入り口としてむしろ歓迎している心情を告白しているのです。普通は絶対的な矛盾として互いに相容れない生と死が、パウロにおいては相対化されていることを示しています。すなわち、キリストに生きるという、さらに本質的で絶対的な価値の前に、生と死がどちらでもよいものになっている、むしろいっそう主に近くいることができるので死の方が望ましいものになっているのです。そのことは、この時期にエフェソの獄中で書かれたと見られるフィリピ書(一・二一〜二四)にさらに明確に告白されています。
 パウロにとって、そしてキリストにあって生きるわたしたちにとって、「体の内にいても体を離れているにしても」、すなわち、この地上に生きているときも世を去ってかの世界に移っても、主と共に生きる者であることが唯一の価値であり、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」が唯一の願いになるのです。この主と共に生きること、主に喜ばれる生き方をすることが、人間にとって唯一の価値であることを、パウロは「すべての人はキリストの裁きの座の前に立つ」ことになるという終末論的表象で表現して、この一段を締め括ります。
 「キリストの裁きの座」と訳されている句は、原文では「キリストの座」です。「座」《ベーマ》は、王や裁判官が主権者として公に行為するときに着座する場所です。復活して高く上げられ《キュリオス》とされたキリストは、終わりの日に主権者としての座に着座してその支配を現されることになります。黙示文書における「最後の審判」は、キリストの支配という形で実現するのです。そのことを新約聖書は、「父は裁きを行う権能を子にお与えになった」(ヨハネ五・二七)とか、「神は(復活させた)この方によって、この世を正しく裁く日をお決めになった」(使徒一七・三一)と表現するのです。
 この時受ける報いは、どれだけ主キリストの御旨に従って生きたかによります。そして、この世でもかの世でも同じキリストが主として共にいてくださるという確信は、この地上で体を住みかとしていたときの生きざまがかの日に主から受ける報いを決めるという理解を含んでいます。グノーシス主義のように、この体ですることは霊の世界に何の関わりもないとはなりません。復活信仰は、今の体とは別種の「霊の体」が着せられることを待ち望んでいますが、着せられるわたしは同じです。この体を住まいとしていたときのわたしが報いを受けるのです(コリントT六・一四とその前後を参照)。

結び

 本節「復活信仰の具体相」で取り上げた箇所(四・一〜五・一〇)は、「絶えず死にさらされている」と実感しているパウロが、死を超えて自分を支えている力である復活信仰を告白している重要な箇所です。死に直面している個人という具体的な状況において、復活信仰がその姿を現しているのです。それで「復活信仰の具体相」という標題をつけたわけです。これは、反対者に対して「死者の復活」を弁証した第一書簡の一五章と並んで、キリストにあって生きる者の復活信仰の質を示す重要な箇所です。
 ここでも建物と衣服の比喩を用いて、第一書簡の一五章で語られていた「霊の体」が終わりの日に与えられることが待ち望まれています。しかしそれと同時に、すでに現在この地上で御霊によって霊なる主キリストと合わせられて生きている事実が、死の彼方であれ、終わりの日であれ、将来の希望の根拠となっていることが重要です。パウロは、現在一緒にいてくださる同じ主キリストが、死後の世界でも共にいてくださるのだという確信に生きているのです。その確信が、終わりの日に新しい体が与えられて栄光にあずかる希望を支えています。
 パウロの希望は二本の柱からなっています。すなわち、終わりの日に新しい栄光の体を与えるという神の約束と、現在御霊によって共にいてくださる同じキリストが死後も一緒にいてくださるという確信です。この二本の柱は、パウロの書簡全体を貫いています。
 コリント書では今見た通りですが、すでに最初の書簡であるテサロニケ書Tでも、主の来臨《パルーシア》にさいして起こる死者の復活が前面に出ていますが(四・一三〜一八)、同時に「目覚めていても眠っていても(地上でも死後においても)、主と共に生きる」ことが強調されます(五・一〇)。フィリピ書では、「この世を去ってキリストと共にいる」ことが熱望されますが(一・二一〜二三)、同時に主の来臨にさいして「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」ことが真剣に待ち望まれています(三・二〇〜二一)。最後の書簡と見られるローマ書でも、クライマックスをなす八章で、キリストに属する者は「初穂」として内に宿す御霊によって、「体の贖われること」、すなわち新しい栄光の体に変えられる日を呻き待ち望むと同時に、死も自分を主から引き離すことはできないと、死生を超えて主と共に生きる勝利が叫ばれています。ただガラテヤ書だけは、割礼問題に集中していて、将来の希望について触れることがほとんどありません。
 このように、パウロが自分の復活信仰を「わたしたち」の告白として語っているのは、キリストにあるすべての者を代表して語っているのです。この復活信仰はパウロだけのものではなく、何らかの程度でキリストに結ばれて生きる「わたしたち」すべての者の体験であり、また目標です。もしわたしたちの信仰の現実がこれ以下であれば、「わたしに倣う者であれ」というパウロの言葉を真剣に聴かなければなりません。わたしたちもパウロと共に、死の彼方に復活を望み見て、「見えないものに目を注ぐ」姿勢でこの地上の生を歩み抜きたいものです。