市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第3講

第二章 新しい契約

        ― コリントの信徒への手紙 Uから(上) ―


        (本章で書名のない引用箇所はすべてコリント第二書簡の章節を指しています)

はじめに――最初の弁明書簡

 パウロはエフェソに滞在中、コリントの集会に何回も書簡を書き送っています。現存する書簡の中で最初のものはコリント第一書簡ですが、その前にも勧告の手紙を送っています(コリントT五・九)。第一書簡を書き送ったとき(おそらく五三年末か五四年の初期)、その年のペンテコステまではエフェソに滞在し、それからマケドニア州を通ってコリントへ向かうことを予告していました(コリントT一六・五〜九)。その旅の目的は、エルサレムの聖徒たちへの献金を集めることでした。そのことは、マケドニア州を通ってコリントへ行くという予告が、募金の指示(コリントT一六・一〜四)のすぐ後に続いていることからも分かります。陸路マケドニア州を通って行くのは、マケドニア州のフィリピとかテサロニケの集会での募金をまとめて、集会の代表者と共にコリントに行き、(そこで冬を過ごし海路の再開を待って)コリントの代表者と一緒にエルサレムに向かうためでした。
 ところがその後、コリント集会の状況は急激に変わったようです。第一書簡執筆の前後に派遣したテモテが、エフェソに戻ってきてパウロに報告したコリントの状況はパウロを驚かせました。最近巡回してきた伝道者たちがパウロの使徒としての資格を問題にして、公然とパウロを批判し非難しているというのです。その非難の中には、パウロが熱心に進めているエルサレム教団への募金も実はパウロの私腹を肥やすためであるという中傷も含まれていたようです。第一書簡で取り上げていたお互いの間の争い(コリントT一・一一〜一二)とは違い、コリントの集会全体が公然とパウロ批判に傾き、パウロから離れる危険があるというのです。このような状況では、募金のためにコリントを訪れることは不可能です。
 この危険に対処するために、とりあえずパウロは手紙を書きます。それが、先に見たように、コリント第二書簡を構成する数通の書簡の中で最初のものと見られる手紙A「最初の弁明」です。この手紙は元のままの形では残されていませんが、第二書簡の中に組み込まれて伝えられています。すなわち、第二書簡の二章一四節から七章四節の部分です(ただし後述するように六章一四節から七章一節までの段落は後の挿入として除きます)。もともと独立の手紙として初めの挨拶や結びがあったのでしょうが、他の手紙に組み込まれるにさいして省略され、本体の部分だけが残っていると見られます。この手紙は、第一書簡のしばらく後、おそらく五四年中にエフェソで書かれたものでしょう。
 この手紙で、パウロはコリント集会との信頼関係を回復するために、コリントの兄弟たちに自分が伝えた福音の質と基本的な内容を改めて思い起こさせ、自分がその福音に仕える使徒であることを強調し、自分の働きの質を理解するように訴えています。この手紙には、次に書かれた手紙B(一〇〜一三章)に見られるような、パウロを批判する「働き人たち」への激烈な非難や攻撃はなく、切々と福音の真理を説く使徒の姿が見られます。コリント第二書簡に見られるパウロの批判者たち(いわゆる「パウロの論敵」)がどのような人たちであったのか、新約学で熱い議論が続いている問題ですが、それに触れることは必要最小限にして、この講解ではここでパウロが改めて説いている福音の質と基本的内容に絞って見ていくことにします。



第一節 新しい契約

新しい契約に仕える資格

キリストの香り

 14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。 17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。(二・一四〜一七)

 パウロはこの手紙ではいつも「わたしたち」について語っています。この「わたしたち」は基本的にパウロ自身と彼の同志の伝道者たちを指しています。パウロは自分の使徒としての立場を弁証するにさいしても、「わたし」という単数形を使わないで、「わたしたち」という複数形で語っています。この「わたしたち」は、パウロを非難する働き人たちと対照されるパウロ側の伝道者たちを指す「わたしたち」、「彼ら」に対する「わたしたち」です。もっとも、パウロがキリストの僕としての自分たちを語るとき、その姿がキリストに属するすべての者たちの姿と重なるときは多くあり、それが現在のわたしたちにとって重要な意味をもつことは確かです。この講解もそこに焦点を合わせて進めることになります。しかし、この手紙が書かれたときには、「彼ら」に対する「わたしたち」の姿を告白することで、コリントの集会に対して「彼ら」ではなく「わたしたち」の側につくように呼びかけているのです。「わたしたち」につくことによって真にキリストにつく者となるのだという主張が、この「わたしたち」の告白の背後に響いています。
 まずパウロは「わたしたち」の使命を「香り」の比喩で表現します。神は「キリストの知識の香り」を、キリストの勝利の行進に連なる「わたしたち」、すなわちキリストに結ばれることによって死に打ち勝ち復活のいのちに生きる「わたしたち」を通して、世に注いでおられるのです(一四節)。その意味で「わたしたちは神に献げられるキリストの香りです」(一五節直訳)。わたしたちは「キリストの香り」を発散させているのです。この「香り」は救われる者たちと滅びる者たちの両者にとって、それぞれいのちの道と死の道を歩む歩みをますます加速する刺激となるのです(一六節)。
 「勝利の行進に連ならせる」と訳されている動詞は、ローマ世界では普通、勝利を祝う軍事パレードで征服して捕虜にした敵の王を鎖につないで引き回すという意味で使われます。コロサイ書の著者はこの意味で使っています(コロサイ二・一五)。ここも同じ意味に理解する見方、すなわちパウロは自分をキリストの勝利の凱旋に捕虜として引き回されている者としているという見方もあります(ファーニッシュ)。たしかにパウロはこの書簡で、自分を最後に引き出される死刑囚にたとえたり(T四・九)、イエスの命が現れるためにたえずイエスの死にさらされているという、死生の逆説を語っています(U四・七〜一二)。しかしここでは、前後の文脈から、(大多数の現代語訳と同様)この動詞のもう一つの意味を採り、神が自分をキリストの勝利にあずからせてくださっているという意味に理解します。
 「香り」の比喩は、キリストにある者の使命は義務とか努力目標とかではなく、内から自然に発する生き方であることを思い起こさせます。キリストにある者は、この世にあること自体がある独特の香りを発しているのです。その香りは、それに接する人たちに「キリストを知る」とはどういうことかを直感させるのです。それは多くの議論で説得するよりも説得力があるものです。
 このように「キリストの知識の香り」を放つことを務めとする者として、おのずから内から発する言葉を語らざるをえない、それが「神の前で誠実に語る」ことだとし、そのような「わたしたち」が「神の言葉を売り物にする」ようなことはどうしてできようかと言っています(一七節)。これは、エルサレム教団への募金活動をパウロは自分のためにしているのだという中傷があることをすでに聞き知っていて、偽りのない動機を改めて宣言していると見ることができます。

推薦状

 1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。 2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(三・一〜三)

 ユダヤ教において、ある地域の共同体に外から入ってくる人は「推薦状」を携えてくる習慣があったようです。初期のキリスト教集会でも、外から入ってくる信徒、とくに伝道者は「推薦状」を携えてきました。エフェソの集会はアポロをアカイア(コリント)に送り出すとき推薦状を書いています(使徒一八・二七)。パウロもこの習慣を知らないわけではありません(たとえばローマ一六・一〜二)。フィレモンあてにも一種の推薦状を書いています。
 「ある人々」、すなわちコリントの集会に最近やってきて活動を始めた伝道者たちは、エルサレム教団のような有力な集会からの推薦状を携えてきたのでしょう。彼らは、パウロにはそのような推薦状がないことを取り上げ、パウロの使徒としての資格を問題にした可能性があります。それに対して、パウロはコリントの集会の存在自体がパウロへの推薦状であると反論します。福音を携えてコリントに来て、初めてコリントにキリストを信じる者たちの共同体を建設したのはパウロなのです。この事実が何よりもパウロがキリストの使徒であることを証明する「推薦状」だというのです。
 パウロは「あなたがた自身がキリストの手紙である」と言います。コリントの集会自体が「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙」であり、キリスト御自身がパウロを公に推薦するために書かれた手紙であるというのです。ここではパウロを推薦する推薦状が問題になっていますが、キリストにある者は世界に向かって神の霊によって書き送られた「キリストの手紙」であるという事実は、現在のわたしたちにキリスト者としての使命を思い起こさせます。世の人々は聖書ではなくキリスト者を読んでいるのです。

二節の「(その推薦状は)わたしたちの心に書かれており」の句は、少数の写本で「あなたがたの心に書かれており」となっています。より困難な読みの方が元の形であるという写本の傾向からすると、「わたしたちの心に」と読むのが有力で、大多数の現代語訳はこう読んでいますが、「あなたがの心に」の方が文脈に適合しており、RSVがこの読みに従っています。

御霊による契約

 4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく御霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、御霊は生かします。(三・四〜六 一部私訳)

 パウロは、「キリストの知識の香り」を注ぐというような務めを行う資格が自分にあるのではなく、神の恵みによって賜ったものであることを十分自覚しています(コリントT一五・一〇)。神から恩恵により賜った資格によって、パウロは「新しい契約に仕え」、「文字ではなく御霊に仕える」のです。ここで「新しい契約に仕える」ことが「御霊に仕える」ことと等置されていることが重要です。「旧い契約」は文字による契約でしたが、「新しい契約」は御霊による契約なのです。
 「文字」《グラマ》というのは本来「書かれたもの」という意味の語で、「モーセ五書」という形で書き記された「律法」《トーラー》全体を指します。しかしここでは、新しい状況に適用するためにその律法を解釈した律法学者たちの口伝伝承も含めて、神から与えられたとされる行為規範の全体を指しています。「旧い契約」が文字による契約であるというのは、契約すなわち神と民との関わりが、人間がこの「文字」(律法)を行うことに基づいて成立する契約であることを意味します。当時のユダヤ教はこのような性格の契約に生きていました。それに対して、キリストによって立てられる「新しい契約」が御霊による契約であるというのは、それがキリストを信じる者に無条件で与えられる御霊によって形成される神と人との関わりであることを意味します。ここでは、人間が律法を行うかどうかは契約関係成立の条件とはなっていません。
 新共同訳は《ト・プニューマ》を「霊」と訳していますが、パウロが用いる《ト・プニューマ》は、僅かの例外を除いて、普通は「御霊」すなわち神の霊を指しています。身体に対立する内面的・精神的な次元は、意識されえたものであれ意識下のものであれ、人間に所属するものであるかぎり、「いのちを与える」《ゾーオポイエン》ことも、神とのつながりを形成することもできません。それができるのは神からの霊、すなわち御霊だけです。パウロにおいては《プニューマ》は人間ではなく神に属しています。そのことを示すために、《ト・プニューマ》を「御霊」と訳します。
 「新しい契約」という表現は、パウロ書簡ではここと「主の晩餐」の言葉(コリントT一一・二五)との二カ所で用いられています。「主の晩餐」を「新しい契約」としている用例からも、キリストの十字架の血を「新しい契約」の血と理解する伝承は、福音宣教のごく初期から確立していたと見られます。しかし、このキリストの血によって立てられる「新しい契約」が、モーセ契約と質的に違うものであることを、最初にもっとも鋭く自覚したのはパウロではなかったかと思います。すでにガラテヤ書でこの違いを鋭く提示しています。ここではパウロは両者の違いを、「文字による契約」と「御霊による契約」の違いだとし、「文字は殺すが、御霊は生かす」という標語でその本質を喝破するのです。

「新しい契約」については、拙著『教会の外のキリスト』第T部の5「キリストの血による恵みの契約」と6「キリストの霊による自由の契約」を参照してください。とくに「文字による契約」と「御霊による契約」との対比については、後者を参照してください。なお、同書77頁に述べていますように、すでにエッセネ派も自分たちこそ「新しい契約の民」であるとしていましたが、彼らの「新しい契約」はなおモーセ契約と同じ律法の原理に立っており、パウロがここで言うように、キリストの血によって与えられた新しい契約が御霊の原理(御霊によって神と人との関係が形成されるという原理)に立っているのと、根本的に違います。ただ、キリストの民が「新しい契約」という表現を用いたことについては、初期のユダヤ人信徒の群れに入ってきたエッセネ派の人々からの影響がなかったとは言い切れません。

 イスラエルの歴史において、すでにバビロン捕囚の時代に預言者エレミヤは、モーセによって与えられたシナイ契約が民を救い完成するのに不十分・不適格であり、そのためには別の「新しい契約」が与えられるようになることを預言していました(エレミヤ三一・三一〜三四)。イスラエルの歴史において、神と民との関わりは「契約」という表象で語られていました。イスラエルの民が自分たちが拠って立つ基盤としているシナイ契約(その契約条項がモーセ律法です)が破綻していることは、バビロン捕囚という事実が明らかにしています。預言者エレミヤはこの破綻を見抜いていますので、神の救済の業が完成する終わりの日にはまったく別の「新しい契約」が与えられるのを待ち望まざるをえませんでした。
 キリストの民は、復活者キリストが十字架の上で流された血こそ「新しい契約」の血であると理解し、この十字架・復活の主キリストを信じることによって与えられる御霊こそ、神と人との関わりを形成する力、すなわち「新しい契約」の中身であることを体験します。こうして、モーセ律法に基づくシナイ契約は「文字による契約」とされ、キリストにあって与えられた「新しい契約」は「御霊による契約」である、と対比されることになります。そして、この「新しい契約」に仕えるように召されたパウロは、以下の段落(三・七〜一八)で二つの契約の栄光を較べます。

御霊による変容

新しい契約の栄光

 7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、8 御霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。(三・七〜一一 一部私訳)

 パウロは、自分が恵みによって賜っている務め、すなわち「新しい契約に仕え、御霊に仕える」務めがどれほど優れた務めであるかを、「旧い契約に仕え、文字に仕える」務めと較べ、その違いを「栄光」の違いとして語ります。「旧い契約」を仲介したモーセは、契約の文字を刻んだ石の板を携えて山から下ってきたとき、その顔が栄光に輝いていたので、イスラエルの民は彼の顔を見つめることができませんでした(出エジプト記三四章二九〜三五節)。それは神から授かった契約の言葉であったので、それに仕えるモーセは神的な栄光に輝いていたのです。イスラエルにとってモーセが果たした務めほど栄光に輝く尊いものはありません。
 ところが、パウロはそのモーセの務め、すなわち律法の文字に仕える務めを「死に仕える務め」、「人を罪に定める務め」と呼びます。パウロはここでモーセの権威をもって教えるユダヤ教の律法学者たちと自分を較べているのでしょうが、彼らの務めが「人を罪に定める務め」であり、その結果人を死に定める務めであることはモーセ以来同じだというのです。これはユダヤ教に対するたいへんな挑戦です。しかし、そもそもモーセが栄光に輝く顔をもって山を下り、契約の文字を刻んだ石の板を与えた(出エジプト記三四章)のは、すでに金の子牛を拝んで背神の罪を犯した民(出エジプト記三二章)に対してなのです。ですから、このときモーセが与えた契約の言葉は、民の罪を断罪する裁きの言葉にならざるをえないのです。実際モーセは罪を犯した民を殺すことを、自分の側につくレビ人に命じています(出エジプト記三二・二五〜二九)。彼の務めは文字通り「死に仕える務め」にならざるをえなかったのです。彼の後の預言者たちも、律法の言葉に基づいてイスラエルの罪を弾劾し、神の審判を宣言することがおもな使命になりました。そのような罪にもかかわらずイスラエルが存続しえたのは、モーセが自分の命をかけて主にとりなした(出エジプト記三二・三〇〜三五)からであり、それに応えてくださる主の憐れみがあったからです。
 そのように「罪に定める務め」、「死に仕える務め」でさえ栄光に輝いたのであれば、「御霊に仕える務め」、「人を義とする務め」ははるかに勝る栄光に輝くはずではないか、とパウロは論じます。キリストの福音は信じる者に聖霊の賜物を約束し、実際信じる者は聖霊を受けて、新しいいのちに生きるようになります(ガラテヤ三・一〜一四など)。そして、御霊によって罪と死の支配から解放され、義とされて神との平和の中に生きるようになるのです。福音に仕える者は、御霊に仕える務め、人を義とする務めを果たしているのです。それは地上でもっとも光栄ある務めです。
 そして、人に罪を示す律法は、福音が到来し信仰が現れるまでの一時的なものである(ガラテヤ三章)にもかかわらず、その務めが栄光に輝いていたとすれば、神の最終的で永続的な啓示である福音に仕える務めは、さらに勝る栄光に輝くことになります。

主と同じ姿への変容

 12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 17 ここでいう主とは、御霊のことですが、主の御霊のおられるところに自由があります。 18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の御霊の働きによることです。(三・一二〜一八 一部私訳)

 契約の言葉を刻んだ石の板を携えて山から下ってきたモーセの顔が輝いていたので、イスラエルの民は恐れて近づくことができませんでした。それで、モーセは民に語るときには顔に覆いをかけました(出エジプト記三四章二九〜三五節)。この記事の「覆い」を比喩として用いて、パウロはイエスをキリストと認めないイスラエルの霊的無理解と、主の御霊によって「覆いを除かれて」主の栄光を映し出して生きるキリストの民を対比します。
 モーセが顔に覆いをかけたことを、パウロは「消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られないように」するためであったとし、旧い契約が過ぎゆく性質のものであることの現れとします。それに対して、自分が仕えている新しい契約は過ぎゆくことのない永続的なものであるから、覆いをかけるようなことはせず、大胆に確信をもってあらわに語るのだと言います。あらわに語っているにもかかわらず、イスラエルが福音を受け入れないのは、彼らの心に覆いがかかっているからだというのです。
 イスラエルの律法学者は熱心に律法を研究し、民は安息日ごとにモーセの書の朗読とその解説を聴いています。しかし、律法とは契約そのものではなく、罪を明らかにするために付け加えられた過渡的な性質のものである(ガラテヤ三・一九)ことを理解していないために、キリストがアブラハム以来の契約を成就するかたであることが見えないのです。これが彼らの心にかかっている覆いです。
 モーセは主の御前に出るときは覆いをはずしていました。このことを比喩にして、パウロはイスラエルの民も「主の方に向き直れば、覆いは取り去られる」と言います。ただ、「ここでいう主とは御霊のこと」であって、恵みの賜物として御霊を受けるときはじめて、覆いが取り除かれて、律法の本質を理解し、新しい契約の栄光をはっきりと見ることができるようになるのです。
 そのようになるのは、「主の御霊のおられるところに自由がある」からです。ここの「自由」《エレウセリア》は「解放」の意味です。主の御霊が働かれるところでは、心にかかっている覆いから解放されるのです。キリストにあって御霊の賜物を受けている「わたしたちは皆、覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」。鏡に覆いがかかっていると光を反映することはできず、覆いが取り除かれてはじめて光を反映します。そのように、御霊によって霊性にかかっている覆いが取り除かれた者は、「神の似姿であるキリストの栄光」を内に宿し、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」を反映するようになるのです(四・四、六)。しかも、この「栄光」は働きかける人格的主体としてわたしたちの内に留まります。ここで、物理的な光をただ反射するだけの鏡の比喩は乗り越えられます。わたしたちは、「主の栄光」としてわたしたちの内に留まる御霊によって、「栄光から栄光へと、主と同じ姿(主の似姿、主の《エイコーン》)に造りかえられていきます」。

「造りかえられる」ことは御霊の働きによるものであることは、パウロがこの段落の最後で「これは主の御霊の働きによることです」(新共同訳)と明言しています。ただ、この文は文法的には「御霊の主(御霊なる主)の働きによる」とも訳すことができます。どちらの訳も働きの主体が御霊であることを示す点では同じですが、「御霊なる主」の方がパウロのキリスト理解をより鮮明に表現していると思われます(ルター訳、RSV、NRSV、協会訳など多くの現代語訳は「御霊なる主」と訳しています)。なお、キリストを御霊の現実として理解するパウロのキリスト論については、拙著『キリスト信仰の諸相』の第一部第二講「霊なるキリストーパウロのキリスト告白」を参照してください。

 「造り変える」《メタモルフォー》という動詞は、パウロ書簡ではこことローマ書一二章二節だけですが、救いが無罪の判決というような法廷的な意味とか、将来の出来事を待望するというだけのことではなく、現在わたしたちの内に始まっている神の働きであるというパウロの福音理解を示す重要な鍵語(キーワード)です。救いは現在の過程です。

この点については、拙著『聖書百話』89「変容」を参照してください。なお、この動詞は福音書においては山上でのイエスの変容について用いられています(マルコ九・二とマタイ一七・二)。そこでの用法については、拙著『マルコ福音書講解T』 46「イエスの姿が変わる」を参照してください。

 この「造り変える」という動詞は、新約聖書に出てくる上記四カ所ですべて受動態で用いられています。パウロのもう一つの用例(ローマ一二・二)では、受動態の現在形命令法です。すなわち、「造り変えられ続けよ」とか「造り変えられることに身を委ね続けよ」というような意味合いをもっています。造り変えられることは一回的な出来事ではなく、キリスト者の生涯にわたる継続的な体験です。そしてこのことが、パウロがローマ書一二章以下で説き勧めるキリスト者の生き方の根底をなすのです。
 救いが御霊の働きによる現実であり、現在の過程であるとするのは、パウロの救済論の重要な特徴です。たとえば、パウロはこうも言っています。

 「・・・・従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。(フィリピ二・一二〜一三)

 わたしたちの内に働かれる神とは御霊に他なりません。わたしたちキリストに属する者は、生涯御霊の働きに身を委ねることによって、主と同じ形に造り変えられていくことを目標として賜っているのです。