市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第22講

第二節 十字架・聖霊・復活の福音

はじめに ―― ローマ書と較べて

 ここまで、コリントの兄弟たちに宛てた使徒パウロの第一書簡を、この書簡が書かれた時の状況に即して理解するように努力してきました。終わりまで読み終えたので、最後にこの書簡が現在のわたしたちにとって何を意味するのかをまとめておきたいと思います。
 パウロ書簡を用いてパウロが宣べ伝えた「キリストの福音」の内容と質を追求しようとするとき、このコリント第一書簡はもっとも重要な資料です。パウロの福音の提示としてはローマ書がもっとも包括的で体系的ですから、「パウロによるキリストの福音」を提示するのに、ローマ書の講解という形をとることが多いようです。事実、わたしの著作集の「パウロによるキリストの福音」シリーズにおいても、最後に「パウロによる福音書 ― ローマ書講解」を置いて、パウロが宣べ伝えたキリストの福音の全体像をまとめる構想でいます。しかし、そのローマ書も特定の状況の下で、特定の目的のために書かれた書簡であるという制約を免れていません。もちろん、このコリント第一書簡も特定の状況の下で特定の目的のために書かれた書簡であるという点では同じです。しかし、両者を比較すると、その状況の違いから、コリント第一書簡の方が、包括的で体系的と言われるローマ書よりもかえってパウロの福音の全体像をより具体的に生き生きと伝えている面があります。たしかに、コリント第一書簡はローマ書のように体系的ではありません。コリントの集会に起こった様々な実際的な問題に対処するために書かれたものですから、雑多な内容が並んでいるだけという印象を受けます。しかし、問題が具体的であるだけに、そこに現れるキリストの姿も鮮明です。とくに、異邦諸民族への福音という視点から見ますと、このコリント第一書簡の方がローマ書よりも重要です。その理由を簡単に見ておきます。
 ローマ書がどのような状況でどのような目的をもって書かれた書簡であるか、詳しくはローマ書講解に譲らなければなりませんが、コリント第一書簡と比較するために一つだけその特色をあげておきます。ローマ書は異邦人信徒を多く含むローマの諸集会に宛てられていますが、その議論の対象としてはユダヤ人信徒が強く意識されています。エルサレムこそローマ書の隠された宛先であるという見方、すなわち、パウロは(これから訪問しようとしている)エルサレム教団のユダヤ人信徒たちに自分の福音を理解してもらいたいと願ってローマ書を書いたのだという見方もあるくらいです。そのためローマ書では、ユダヤ教の律法主義的体質を克服しようとして、「信仰による義」というような主題が中心的な位置を占め、ガラテヤ書と相通じる性格の書簡となっています。それに対して、コリント第一書簡は異邦人特有の諸問題に対処するために書かれているので、「信仰による義」というようなユダヤ教を意識した議論が中心的位置を占めることはなく、ユダヤ教律法と関係がない異邦人信徒がキリストにあって生きるとはどういう事態であるかが、詳しく展開されることになります。

「義」という名詞と「義とする」という動詞の用例を合わせた回数は、ローマ書で四三回、ガラテヤ書で一〇回であるのに対して、ローマ書とほぼ同じ長さのコリント第一書簡では僅か三回です。

 そのさい、コリントの集会が実に多岐多様な問題を抱えていたので、キリストとの関わりが実に多様な視点から取り上げられることとなります。その結果、キリストの提示(それが福音です)が、具体的であると同時に、多様で包括的になっています。コリントの人たちには苦悩である問題が多かったことが、この書簡におけるキリストの提示を包括的にし、現在のわたしたちに幸いな結果となっています。これは、テサロニケの集会での問題がキリストの来臨の問題に集中していたために、使徒のテサロニケ書簡が「キリストの来臨《パルーシア》」だけを語っているような印象を与えるのと対照的です。
 コリントにおける個々の問題と、それに対処するパウロの仕方、その中に現れるキリストの福音の質は、ここまでの講解で見てきました。最後に全体を振り返って、この書簡で使徒パウロが提示しているキリストの諸相をまとめておきたいと思います。実に多岐多様な問題を扱っているこの長大な書簡も、全体を通して振り返ると、多くの山が連なる中で、キリストの提示に関しては、三つの高い峰がそびえているように見えます。第一の峰は、一章から二章にかけての「十字架につけられたキリスト」の姿です。第二の峰は、一二章から一四章にかけて語られている、多様多彩な聖霊の働きの中に現れるキリストの姿です。第三の峰は、一五章に論じられている復活の初穂としてのキリストの相です。この三つのキリストの姿(相)を、この終章第二節で、それぞれ「十字架のキリスト」、「聖霊のキリスト」、「復活のキリスト」と題してまとめておきたいと願います。

十字架のキリスト

宣教の中心主題としての「十字架につけられたキリスト」

 パウロがコリントでキリストの福音を宣べ伝えたとき、宣教の中心は「十字架につけられたままのキリスト」であることは、第一章の第二節「十字架の言葉」で詳しく見ました。パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、ユダヤ人にはつまずきであり、ギリシア人には愚かなものである『十字架につけられたキリスト』を宣べ伝えます」(一・二二〜二三私訳)と言い、さらに「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも『十字架につけられたキリスト』以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(二・二)とさえ言っています。
 ところで、パウロが「十字架につけられたキリスト」を彼の宣教の中心主題としたとき、それはたんにキリストであるイエスがエルサレムで十字架につけられて死んだという歴史的事実を強調しているのでないことは、先に見たとおりです。もちろん、その歴史的事実も含みます。しかし、それが主題ではありません。そもそもここでパウロが言う「キリスト」とは、復活して霊として今現に働いていられる方、復活者キリストです。その復活者であり霊なるキリストが、「十字架につけられたままの姿で」《エスタウローメノス》現れて、わたしたちを救う方として宣べ伝えられているのです。この復活者キリストにつけられている《エスタウローメノス》という説明は、「十字架につける」という動詞の現在完了の受動態分詞形です。すなわち、復活者キリストの現在の状態を説明する語で、「現在十字架につけられたままの状態の」という意味です。パウロはガラテヤの人たちに、「目の前に、イエス・キリストが『十字架につけられた姿で』はっきり示されたではないか」(ガラテヤ三・一)と言って、自分がガラテヤで福音を宣べ伝えたときの宣教内容をまとめていますが、そこでもこの《エスタウローメノス》が用いられています。
 福音書と使徒言行録(それ以外では黙示録一一・八)では、この「十字架につける」という動詞はすべて、イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられて刑死された出来事を指すのに用いられています。それに対して、パウロはこの動詞をイエスの十字架刑について用いることはあまりありません(二・八とコリントU一三・四はこの意味です。一・一三はこの意味との類似で用いられています)。パウロが自分の宣教内容を語る重要な箇所でこの動詞を用いるのはおもに、自分が宣べ伝えている復活者キリストの現在の姿を描くのに用いる(一・二三、二・二、ガラテヤ三・一)か、キリストにある者の現在の姿を記述する場合です(ガラテヤ五・二四、六・一四)。「一緒に十字架につけられた」という形で用いられている箇所が二例(ガラテヤ二・一九、ローマ六・六)ありますが、これは両方の意味を含む重要な用例です。

パウロにおける「十字架につける」という動詞の用例は、以上の一〇例ですべてです。この機会に、パウロが「十字架」という名詞をどのように用いているのかを見ますと、コリント書Iで「キリストの十字架がむなしいものにならないために」(一・一七)と、「十字架の言葉は・・・神の力である」(一・一八)という用例があります。ガラテヤ書では「十字架のつまずき」(五・一一)、「キリストの十字架のゆえに迫害されたくない」(六・一二)、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものがあってはならない」(六・一四)の三例、フィリピ書で「十字架の死に至るまで」(二・八)と、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(三・一八)があります。以上の七例の中、フィリピ二・八以外は、地上のイエスの十字架刑を指すのではなく、パウロが福音宣教の中心主題とした『十字架につけられたキリスト』という霊的現実を指しています。このように動詞と名詞の用例を通して見ますと、パウロが「十字架」と言うときは、地上のイエスの十字架刑ではなく、おもに復活者キリストが現在わたしたちのための死を負っておられる姿(相)で現れ、宣べ伝えられ、体験されていることを指していることが分かります。

 復活者キリストがわたしたちのための死を負っておられる事実を指すとき、いつも「十字架」とか「十字架につけられた姿の」という語が用いられるわけではありません。端的に「キリストの死」とか「キリストが死なれた」という表現が用いられる場合が多くあります。その代表的な事例がこの書簡の一五章にあります。パウロは自分が宣べ伝えた福音を思い起こさせるために、こう言っています。
 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(一五・三〜五)。
 ここで「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」ことが、三日目の復活と並んで、福音の基本的な内容として上げられています。ここでキリストの死が「わたしたちの罪のため」の死であると、明確に意義づけられています。先にこの箇所を扱ったときに見たように、この「罪」は複数形であり、人間が神の意志に反して行った諸々の違反行為を指し、「わたしたちの罪のために」は、その諸々の罪過を贖うための「贖いの供え物」として死なれたことを意味していました。しかし、パウロがキリストの死をこのようなユダヤ教の贖罪祭儀の成就として語るところは、ここやローマ書三章二五節や四章二五節など、パウロが「受けて伝えた福音」、すなわちパウロが(ユダヤ人キリスト教団から)伝承として受け取った定型的な福音《ケリュグマ》を引用する僅かな場合に限られています。もっとも、キリストの死をこのように受け取った初期の教団は、またパウロ自身も、キリストがわたしたちの罪のために死なれた出来事を、罪人であるわたしたちに神の愛が示された出来事として神を賛美し(ローマ五・六〜八)、その出来事の中に罪人を義とする神の義の働きを見たのは事実です(コリントU五・二一)。

十字架体験と贖罪の教理

 しかし、パウロが自分のキリスト体験を告白的に語るところでは、「キリストの死」は、それに合わせられて自分が死ぬ出来事の根拠として語られています。キリストの死に合わせられて自分が死ぬ霊的体験――これは「十字架体験」と呼んでもよいでしょう――がキリスト信仰の核心として語られる代表的な箇所は、ガラテヤ書二章一九〜二一節とローマ書六章三〜一一節です。そこでは、「一緒に十字架につけられた」という表現を含みながら、「キリストの死に合わせられる」こと、あるいは「キリストと一緒に死ぬ」ことが、律法とか罪の支配からの解放、すなわち救済の出来事の不可欠の一面として語られます。

使徒パウロの十字架体験については、本書43頁の「パウロの十字架体験」を参照してください。

 ここで見た「十字架」という語の用例と合わせると、「キリストの死」とか「キリストの十字架」は、パウロにとって自分が死ぬことができるための根拠であり、その死に合わせられて自分が死ぬ場であり、そこで神との関わりに生きることができる唯一の場なのです。律法に死に、罪に死に、総じて自分に死ななければ、神に生きることはできないのです(ガラテヤ二・一九〜二一、ローマ六・八、一一)。その意味で「十字架につけられたキリスト」こそ、わたしたち人間が神に生きることができる唯一の場なのです。このように見ると、パウロが「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言う理由も理解できます。
 ところが、キリスト教の歴史において、キリストと一緒に十字架につけられるとか、キリストの死に合わせられるというような霊的・体験的な面が理解されなくなり、キリストの十字架の死の意義が教理的に受け取られるようになるに伴って、《ケリュグマ》の中の十字架についての(本来ユダヤ教から来ている)贖罪祭儀的言説が重視されるようになり、キリストの十字架は「わたしたちの罪過のための死」(コリントI一五・三)とか「その血による贖罪の座」(ローマ三・二五)という意味だけが前面に出てくるようになります。そのさい、キリストがわたしたちの罪過「のために」死なれたという告白が、民の罪を負って殺される犠牲の動物を用いる贖罪祭儀との類比から、キリストが、裁きを受けるべきわたしたちの「身代わりになって」裁かれ死なれたという理解となり、そのようなキリストの身代わりの死のゆえに、わたしたち人間は罪人であるままで無罪の判決を受け、義人として扱われるという教理が形成されることになります。
 この教理には重要な真理契機があります。ペトロなどイエスの直弟子たちをはじめ、最初にイエスを信じた人たちはみなユダヤ教徒でしたから、復活してキリストとされたイエスが十字架上に死なれたという不可解な出来事を、聖書の光によって理解しようとしたのは当然です。その結果、彼らはイエスの十字架の死は、聖書に預言されていたことの成就であり、イスラエルが聖書に基づいて長年繰り返してきた贖罪祭儀の完成であると理解し、そう宣べ伝えたのでした。「キリストがわたしたちの諸々の罪過のために死なれた」のは事実です。たしかに、神が「罪のない方をわたしたちのために罪として」、わたしたちを義としてくださったのです。
 しかし、この理解は、イエスをキリストと告白して、イエスに従った弟子たちに聖霊が与えられて、その聖霊によって復活者キリストと一つに結ばれて生きる弟子たちの体験の中で形成されたものであって、自分たちがキリストの死に合わせられて死んでいるのだという霊的事実の表現形式であったのです。聖書を神の啓示としているユダヤ教徒には、それ以外の表現形式は考えられませんでした。しかし、彼らはその霊的現実を十分自覚していませんでした。
 このユダヤ教贖罪祭儀的な表現の背後に、キリストの十字架の死に合わせられて自分が死ぬという霊的体験があり、キリストの死に合わせられる場こそが命の場であることを明確に自覚して、それを自分の言葉で語り出したのが使徒パウロでした。パウロは、ユダヤ人キリスト教が形成したケリュグマ伝承を受け入れ、それを自分の福音として宣べ伝えながら、その「キリストがわたしたちの罪のために死なれた」というケリュグマ伝承に含まれる霊的現実を見事に取り出して、わたしたちに見せてくれたのです。「キリストがわたしたちの罪のために死なれた」のは、わたしたちがキリストの死を自分のための死と受け止め、自分がそこで死んでいる事実を受け取ることができるように、神が与えてくださった出来事なのです。わたしはそこで(十字架につけられたままの姿のキリストという場において)死んでいるのです。「キリストはわたしのために死なれた」というのは、このような「わたしの死」を表現しているのです。そのようにわたしが死んでいる場においてはじめて、復活者キリストがわたしの内に生き、復活の命がわたしの内に生き始めることができるのです。
 このように、使徒パウロが明らかにした「キリストにあって」わたしが死ぬという主体的・霊的・体験的現実が希薄になり、時と共に制度的教会の教理として客体化されるに従って、キリストの十字架は、贖罪祭儀的な理解を強くしてゆき、わたしとは関係のない別のところで行われた「身代わりの死」という理解に行き着きます。現代のキリスト教神学において贖罪論は、聖霊による主体的体験のないまま、言葉だけの抽象性の中で行き詰まっているのではないでしょうか。
 たしかに、コリント第一書簡では「十字架につけられたキリスト」が使徒パウロの宣教の核心であることは強調されていますが、そのキリストの死に合わせられて自分が死ぬという消息は、ガラテヤ書やローマ書のように正面から取り上げられている箇所はありません。それは、コリントの人たちが「肉の人」であって、使徒は彼らに「固い食物」を与えることができなかったからでしょうか(三・一〜三)。しかし、使徒がキリストの死に合わせられて死んでいるという場から発言していることは、書簡全体から滲み出ています。わたしたちは、ガラテヤ書やローマ書を含むパウロ書簡全体から、パウロがこの書簡で言う「『十字架につけられたキリスト』以外、何も知るまいと心に決めていた」というときの、「十字架につけられたキリストを知る」とはどういうことか、その内容を理解し、自らの身に受けとめていかなければなりません。

聖霊のキリスト

共同体を形成する聖霊

 次に、このコリント第一書簡におけるキリストの提示で際だっているのは、一二章〜一四章の聖霊の多様なカリスマ的働きの中に現れるキリストの姿です。ここでその姿(相)を「聖霊のキリスト」と呼んでいますが、これはキリストが聖霊として働いておられることを指しているのではありません。「主は御霊である」(コリントU三・一八)ことは、すでに「キリスト」という呼び名の中に含まれています。「キリスト」とは復活者のことであり、御霊として現に働いておられる方のことです。ここで「聖霊のキリスト」というのは、そのキリストが信じる者たちに多彩な聖霊の賜物を与えて、その賜物の具体的な現れの中にご自身を示しておられる姿を指しています。したがって、この「聖霊のキリスト」は、わたしたちの様々な聖霊体験の中に現れるキリストの姿であって、言葉だけの観念的なキリスト、教理の中のキリストとは違い、わたしたちの具体的な生の体験の中に現れるキリストを指すことになります。
 個々のカリスマについては、一二〜一四章の講解で詳しく触れましたので、ここでは全体としての意義をまとめておきたいと思います。その箇所で使徒は、個々の聖霊の働き、現れ、務めを扱うさいに、多様な賜物はすべて《エクレーシア》と呼ばれる一つの共同体を形成するためのものであることを強調しています(一二章)。コリントの集会にとくに顕著であった預言と異言という賜物について詳しく論じるときも、それらの賜物を「《エクレーシア》を建てるために」という視点から取り上げています(一四章)。そして、この二つの章の間に、「最高の道」として「愛《アガペー》の章」(一三章)を置いたことは偶然ではありません。愛こそは共同体を形成する最高・究極の原理であるからです。この箇所(一二〜一四章)に現れるキリストは、多彩な聖霊の賜物の働きによって《エクレーシア》という共同体を形成するキリストです。
 キリストは古い世界のただ中に新しい共同体を形成するために来られました。人間は一人では生きることはできません。これまで世界は様々な原理で共同体を形成してきました。生の誕生と維持というもっとも基本的な営みを原理とする家族共同体、同じ言語や文化の共有を原理とする民族共同体、都市など同じ地域に生活する地域共同体、会社など生産や利益追求を原理とする経済共同体、権力による支配関係を原理とする国家など、様々な共同体を形成して生きてきました。その中に、キリストはまったく新しい原理で形成される共同体をもたらされたのです。それは神の霊の働きによって形成される共同体です。そして、その共同体を形成する神の霊の質が《アガペー》と呼ばれる終末的な愛なのです。

聖霊の愛

 神の霊は、共同体形成のために必要な様々な能力をその構成員に与えます。しかし、その多彩な能力や働きが、《エクレーシア》と呼ばれる一つの有機体「キリストのからだ」を形成するのは、そのような能力を与える霊の質が愛《アガペー》であるからです。愛《アガペー》が孤立した人間の集合を一つの生命的有機体とするのです。愛がなければ、どのように賜物としての能力が華やかに現れていても、それは個々の人間を誇らせるだけであって、共同体の形成という本来の目的にとっては何の役にも立たない騒がしい空騒ぎに過ぎません(一三・一〜三)。
 愛が共同体を形成する原動力であるのは、愛が人と人とを結びつける生命の力であるからです。愛は、人間の生まれながらの本性に深く巣くっている自己中心の性質を克服して、相手の価値や資格に絶して無条件に受け入れ、共に生きるようにする力です。そのことは、使徒が一三章四〜七節で《アガペー》の働きを、動詞を並べて列挙したところに見事に要約されていました(その箇所の講解を参照)。もし対人関係における人間の在り方を「倫理」と言うならば、愛こそキリストにある者の倫理の総体であり、愛を本質とする聖霊こそ倫理の唯一の原動力です。こうして、新しい共同体を形成する力としての聖霊は、同時に新しい倫理を成立させる力であり、新しい人間性を形成する原動力です。
 他の書簡では、パウロはまずキリストにおける救いの現実を示し、その後でキリストに属する者としての実際的な歩みについて勧告するという形を取っています。それに対して、このコリント第一書簡では、キリストに所属する者の実際的な問題に対処することを通して、キリストにあって生きるとはどういうことかを示し、そのような形でキリストの福音を提示しています。したがって、キリスト者の「倫理」も、このような形での福音の提示と一体となって、書簡の全体で示されることになります。そして、最後に聖霊の賜物が扱われるさいに、その「倫理」が出てくる源泉、すなわち聖霊の賜物としての愛《アガペー》が明らかにされます。その意味で一三章はこの書簡の頂点であると言えます。
 このように、キリストは御自身に属する民に賜物として聖霊を与え、その聖霊によって愛《アガペー》という新しい質の命を注ぎ、生まれながらの人間本性とは別の新しい人間性を生まれさせ、その愛によって今まで世界が知らなかった新しい(終末的な)共同体《エクレーシア》を形成されるのです。

復活のキリスト

初穂キリスト

 コリント第一書簡の最後の高い峰――そして新約聖書全体の中で最高峰の一つ――は、「死者の復活」を論じた一五章に現れている「復活のキリスト」です。ここに現れているキリストを「復活のキリスト」と呼びましたが、これはキリストが復活された方であることを言っているのではありません。キリストが復活された方であることは、「キリスト」という名にすでに含まれています。キリストとは復活者のことです。ここで「復活のキリスト」というのは、キリストが御自身に属する者に復活を与えてくださる方であることを指しています。わたしたちの復活の根拠としてのキリストという意味です。
 使徒はこの章のはじめの部分(一〜一一節)で、多くの証人をあげてキリストが復活されたことを告知する福音を確認していますが、これはキリストの復活を否定する人たちに改めてキリストの復活の事実を納得させるために書いているのではなく、終わりの日にキリストに属する者たちが死者の中から復活するという希望の根拠を確認するためでした。一五章の講解で詳しく見たように、この章全体はキリストがわたしたちキリストに属する者たちの「初穂」として復活されたことを示すために書かれたのです。キリストの復活とわたしたちの復活は、神の救済史の御計画の中では一体であって、両者を切り離すことはできません。復活者キリストを告白しながら、「死者の復活などはない」と言うことはできません。、復活者キリストは、わたしたちキリストに属する者に死者の中からの復活を与える方としてキリスト(救済者)なのです。この意味で、この章に現れているキリストを、わたしは「復活のキリスト」と呼んでいます。
 キリストをこのような意味で「復活のキリスト」として受け入れ、キリストをそのような方として体験することは、現代のキリスト者にとって緊急の課題ではないかと考えます。それは、キリストの福音が本来持っている希望の力を回復することを意味するからです。現代のキリスト教が力を失っているのは、使徒時代に燃えていたあの希望、すなわち「復活のキリスト」から発する復活の希望が見失われているからではないかと思います。ここで、福音における希望の構造をもう一度確認しておきましょう。

希望の構造

 「復活のキリスト」を体験することが重要であると言いましたが、ここで「体験する」ということについて誤解がないようにしなければなりません。死人の中からの復活自体は終末時に起こることで、この地上の歴史の中では、イエス以外の人間は誰も体験することはできません。しかし、キリスト復活の出来事は救済史全体の構造の中で「初穂」としてわたしたちの復活の保証であり(一五・二〇)、さらに、キリストを死者の中から復活させた方の御霊がわたしたちの内にあって将来の復活を確かなものと保証してくださっています(ローマ八・一一)。それで御霊も「初穂」と呼ばれます(ローマ八・二三)。この二つの「初穂」に保証されて、現在この死に定められた体の中にありながら、将来の復活にあずかることを現実として生きることが「復活のキリストを体験する」ことです。このような生き方は「希望」に他なりません。「復活のキリスト」を体験するとは、希望に生きることを意味します。
 コリントの集会に「死者の復活などはない」と主張する人たちがいたのは、そして現代の教会ではほとんどみなそう考えているのは、「復活はすでに起こった」と考えているからだと思われます。たしかに、キリストにある者は古い自分は死に、新しい命が内に始まったことを体験します。当時もある人たちが(そして現代ではほとんどの人が)、そのような内的・霊的体験を復活だと考えて、「復活はすでに起こった」と唱えたのでしょう。しかし、それはパウロがここで言う「死者の復活」ではありません。「死者の復活」はあくまで将来のことであり、終わりの時の出来事です。「血肉は神の国を継ぐことはできない」のです。わたしたちがこの血肉を具えた体をもって、時間の中に、歴史の中に歩んでいる限り、内面においてどのような霊的体験をしたとしても、それはまだ神の国、神の支配、神の救済史の完成ではありません。
 キリストにあって古い自分が死に、上から賜る御霊の命に生きるようになった体験を「新生体験」と呼ぶならば、その「新生」は復活ではありませんが、復活に向かう命の始まりであり、そこから始まる御霊の命は「キリストを死者の中から復活させた方の霊」として、復活の質をもった命です。その命に生きる者は、磁性を帯びた鉄片がいつも北を指すように、終末の「死者の復活」を目指して生きないではおれません。すなわち、この御霊の命は「希望」という形で自分を現すのです。
 希望とは将来に対するたんなる願望ではありません。将来よいことが起こるようにという願望は誰にもあります。しかし、福音が与える希望は、すでに起こったキリストの復活という出来事をもってなされた神の約束と、現在わたしたちの内に働く聖霊の保証とを根拠として、将来の死者の復活にあずかることを目指す現在の確かな生き方です。このような生き方は、キリストにある者にだけ可能になります。神はキリストの福音によってすべての人をこの希望へと招いておられます。

信仰と愛と希望

人間存在の三次元

 以上、コリント第一書簡に現れている「十字架のキリスト」、「聖霊のキリスト」、「復活のキリスト」という三相のキリストを見てきましたが、その際それぞれの相のキリストは、そのキリストに結ばれて生きるわたしたちの姿と切り離して語ることはできませんでした。もしキリストに結ばれて生きるわたしたちの生き方とか在り方を「体験」と言うならば、「十字架のキリスト」はわたしたちの十字架体験に、「聖霊のキリスト」はわたしたちの聖霊体験に、「復活のキリスト」はわたしたちの復活体験に、具体的に現れてくるキリストです。そして、このようにわたしたちの体験に具体的に現れるキリストの姿は、それぞれ「信仰と愛と希望」という形を取ります。
 わたしは、人間は三つの次元をもつ存在であると理解しています。あるいは、三つの軸が交差するところに成立する存在であると見ています。その三つの次元、あるいは三つの軸とは、神との関わりという垂直の次元(垂直軸)、隣人あるいは社会との関わりという水平の次元(水平軸)、そして時間の中にあるという時間の次元(時間軸)です。キリストにあって御霊という神の恩恵の賜物を受け、御霊の命に生きるとき、その命はわたしたちの中でこの三つの軸の方向に姿を現します。すなわち、垂直軸の方向には「信仰」、水平軸の方向には「愛」、そして時間軸では「希望」として現れるのです。
 この「信仰と愛と希望」という三相は、「十字架のキリスト」、「聖霊のキリスト」、「復活のキリスト」という三相のキリストが、そのキリストにあって生きる人間の中に現れるときの姿です。この三相は、キリストにある者の本質的な在り方であり、人はそのどれ一つを欠いても十全な意味でキリストに属する者とは言えないのです。最後に、パウロがしばしば書簡の中で並べてあげる「信仰と愛と希望」というキリスト者の三相(このコリント第一書簡では一三・一三)、新約聖書に輝く三つ星についてまとめて、本書の結びとします。

十字架の信仰

 先に「十字架のキリスト」の項で、「十字架につけられたキリスト」に合わせられて古い自分が死に、復活者キリストと共に新しく生きるようになる体験を「十字架体験」と呼び、その十字架体験がわたしたちの「信仰」であると言いましたが、この「信仰」という用語については解説が必要です。というのは、「信仰」という用語が実に様々なレベルで用いられるからです。ここでは使徒パウロが「信仰」(原語では《ピスティス》)という語をどのように用いているかを、ここでの理解に必要な限りで簡単に見ておきます。
 パウロの使信の基本は、「人は信仰によって義とされる(救われる)」です。そのさいの「信仰」とは、パウロ自身の表現によれば、「キリストの信仰(ピスティス)」です(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六など)。これは「キリストを信じる信仰、キリストへの信仰」というよりは、「キリストとの交わりを内容とする信仰」であって、わたしはこれを「キリスト信仰」と呼んでいます。これは、キリストを主として受け入れ、キリストに自分の全存在を投げ入れ、キリストに合わせられて生きる人間の在り方を指しています。パウロはしばしばこの「キリストの信仰(ピスティス)」をたんに「信仰(ピスティス)」と呼んでいます(ガラテヤ三・二三〜二六)。人はこの「信仰(ピスティス)」によって義とされ、救われるのです。この意味の「信仰(ピスティス)」は、もっとも包括的で基本的な用例です。
 その基本的な用例の他に、特殊な用例があります。たとえば、パウロが聖霊の賜物として「信仰(ピスティス)」をあげるとき(一二・九、一三・二)、その「信仰(ピスティス)」は人がそれによって義とされる「キリスト信仰」ではなく、特定の人だけに与えられる、病気の癒しや力ある業(奇蹟)を行う聖霊の能力を指しています。また、「信仰(ピスティス)」の強い者と弱いの者の融和を説く箇所では、《ピスティス》は「確信」と訳した方がよいと考えられます(ローマ一四・一、二二、二三)。そこでの「信仰(ピスティス)」は、キリストとの結びつきとか、そこから来る自由の確信を指しており、それが強いとか弱いと言われています。ここで「信仰と愛と希望」というように、愛と希望と並べられた信仰も、「キリスト信仰」の特殊な現れとしての信仰であって、キリストに属する者に現れる命の質の一つの側面です。
 「信仰と愛と希望」という形で、愛と希望と並べられた信仰とは、キリストにあって(キリスト信仰によって)賜った御霊の命が、神との関わりという垂直軸の方向に現れた姿に他なりません。御霊は、人を神の子とする霊であって、この御霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と祈り、父として神に全存在を委ねて生きることができるのです(ローマ八・一五)。このような父と子との信頼に満ちた結びつきが、ここで言う「信仰」です。人間は造られた存在ですから、創造者である神との本来の正しい関わりの中に生きるのでなければ、人間本来の姿を完成することはできません。御霊は人を神の子とすることによって、失われていた神と人との本来の結びつきを回復し、その結びつきである「信仰」を実現するのです。
 この「信仰」は、わたしたちが「十字架のキリスト」に結びつくところではじめて実現します。先に「十字架のキリスト」の項で見たように、「十字架につけられたキリスト」に合わせられて自分が死に、御霊のキリストがわたしたちの内に生きてくださるようになるときはじめて、わたしたちは「神に生きる」ことができるのです。この「神に生きる」こと、すなわち神の子として父との関わりに生きることが「信仰」なのですから、わたしたちの「信仰」は「十字架の信仰」です。すなわち、十字架につけられたキリストという場において成り立つ信仰、「十字架のキリストにあって」の信仰です。
 世界には様々な内容の「信仰」があります。人間が神と関わろうとするとき、ほとんどの場合、祭儀によって神との関わりを確保しようとします。それは「祭儀信仰」と呼んでもよいでしょう。それに対して、福音が与える信仰は、この「十字架信仰」です。わたしたちは、「十字架につけられたキリストにあって」神との関わりの中に生きるのです。

聖霊の愛

 キリストの命、正確にはキリストにあって賜る御霊の命が、隣人との関わりという人間存在の水平軸に現れた姿が「愛」です。先に「聖霊のキリスト」の項で見たように、キリストは御自身に属する者に神の愛の質をもつ御霊を与えて、その御霊により、世界が今まで知らなかった質の愛《アガペー》に生きるようにしてくださいます。その「愛(アガペー)」が、人と人とを結びつけ、新しい質の共同体を形成するのです。
 人間は一人では人間として生きることはできません。他の人と向かい合い、また共に生きるように定められています。このような人と人を結びつけるものが愛ですから、生まれながらの人間にも愛が備わっています。聖書も、このような生得的な愛を知っています。新約聖書では、そのような愛は《フィリア》と呼ばれ、その愛をもって愛することは《フィレイン》と呼ばれています。これは、夫と妻、親と子、友人など、身近な人との間に生じる自然の情愛です。しかし、わたしたちはこの自然の情愛がいかにもろく、嫉妬や自我心、冷酷さや暴力によって裏切られるものかも体験によって知っています。
 そのような人間の内に、先に「聖霊のキリスト」の項で見たように、キリストは聖霊によって生まれながらの情愛とは別の質の愛《アガペー》を宿らせてくださいます。この聖霊の愛である「愛(アガペー)」が、もろくて弱い人間の情愛を包み込み、根底で支えてくださり、また、自分に親しい身近な者という限度を超えて、自分と違う者、自分にとって価値のない者、さらには敵でさえも受け入れて愛する力となります。その「愛(アガペー)」によって、わたしたちは今まで知らなかった別種の共同体を形成するようになります。家族とか民族というような血縁・地縁による共同体でもなく、また会社や国家という利益・権力支配による共同体でもなく、お互いにただ神の子であるという事実だけによって結び合わされている共同体、同じ命に生きる生命的・有機的共同体《エクレーシア》を形成します。
 原理的にはそうですが、現実に《エクレーシア》を構成する人間の本性は自我心ですから、現実の《エクレーシア》には様々な問題が生じます。このコリント第一書簡は、コリントの集会に生じた問題を「愛(アガペー)」の原理で克服しようとする使徒パウロの切なる願いと努力が溢れています。その意味で、このコリント第一書簡は全編が愛の書簡です。わたしたちはこの書簡に、「聖霊のキリスト」が《エクレーシア》に注がれた聖霊によって愛の共同体を建てておられる姿を見るのです。

復活の希望

 人間は時間の中の存在です。人は時の流れの中に生きています。わたしたちには過ぎ去った時、過去があり、その過去によって現在の自分が規定されています。しかし同時に、わたしたちには将来、すなわち将(まさ)に来たるべき姿があります。わたしたちの「将来」の中でもっとも確実なものは死です。わたしたちは現在、死に規定された生を生きています。しかし、キリストにあるならば、死は最終的な将来ではありません。「復活のキリスト」の項で述べたように、わたしたちの初穂として復活されたキリストに結ばれて生きるとき、キリストの復活はわたしたちの復活の約束であり保証です。また、キリストが与えてくださる御霊は、わたしたちの内にある復活の保証です。この二つの保証に支えられて、わたしたちキリストに属する者は、死に定められたこの生の中で、終わりの日の復活に至らざるを得ない復活の命を生きています。このわたしたちの現在の生き方が「希望」です。希望は、キリストにあって賜る御霊が時間軸に沿って現れるときの姿です。「希望」の構造については、すでに詳しく述べましたので、ここでは「希望」とはわたしたち人間存在の時間軸に現れる御霊の命そのものであることを指摘するだけで十分でしょう。

いつまでも存続する信仰・愛・希望

 このコリント第一書簡に示されているキリストが「十字架のキリスト」、「聖霊のキリスト」、「復活のキリスト」という三相のキリストであることと対応して、キリストにあって生きる者の姿も「十字架の信仰」、「聖霊の愛」、「復活の希望」という三相の姿で現れていることを見ました。この信・愛・望の三相は、人間存在の三つの次元に対応して、キリストにあって賜る御霊の命が現れる三つの相です。それは、一つの命の三相での現れです。この三相は一体であり、別々のものではありません。
 人生には追求すべき価値が他にも多くあります。たとえば知識とか知恵は、人間を理解し、よりよく生きるために不可欠です。自然について知る知識は、技術を発達させ、わたしたちの生活を豊かにします。わたしたちは世界の歴史や文学を学ぶことを通して、人間に関して広い視野で知識を得ます。そして、それらの知識を統合して、人間を理解し世界を認識し、よりよく生きるための判断力、すなわち「知恵」を深めようとします。この「知恵」《ソフィア》の探求が《フィロソフィア》(哲学)です。知識と知恵は、人間にとって不可欠のものであり、慕い求めないではおれないものです。
 知識と知恵はわたしたちキリストにある者にとっても、切に追い求めるべき大切なものです。わたしたちは旧約聖書によってイスラエルの歴史の中に示された神の御業についての知識を、新約聖書によって使徒たちの伝えた福音についての知識を、そして教父たちや教会の歴史を通してキリスト教についての知識を得ます。それらの知識を統合して、神の事柄に関する認識と理解、神の民として生きるに必要な判断力、すなわち「知恵」を探求します。そのような「知恵」が「神学」を形成する原動力です。
 しかし、このような神の民の知識と知恵は、人間の努力や探求だけで獲得できるものではなく、神が恩恵の賜物として聖霊によって与えてくださるものであることが、この書簡でも語られていました(二・一二〜一三、一二・八)。ところが、そのように神の賜物であり、人間にとって貴重な知識と知恵も、「愛」に較べるとなお部分的で一時的なものに過ぎないと、使徒は語っています。パウロは、聖霊の賜物について語っている箇所の真ん中で、知識や預言や異言などの賜物が一時的で部分的であるのに対して、愛は「完全なもの」であり、永続的であることを強調しています(一三章)。
 パウロがそこで「知識」《グノーシス》と言っているのは、ここで「知識と知恵」と呼んだもの両方を含んでいると見てよいでしょう。聖霊の賜物である「知識(グノーシス)」も、それが真理の全体を認識しているのではなく一部分の認識に過ぎないことと、それが誰にでも与えられるものではなく一部の人だけに与えられるものであるという二つの意味で「部分的」です。それに対して「愛」は「完全なもの」と言われます。それは、愛は神の命そのものであり、神の本質であるからです。それは、神の子の誰にも与えられる不可欠の質です。
 さらに、知識や預言や異言は「一時的」と言われます。それは、エクレシアの形成という目的のために、状況に応じて必要なときに与えられるものであって、「完全なもの」が来るときには廃れます。そのように「廃れる」賜物に対して、使徒は「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」と言います(一三・一三)。ここでの議論の流れからすると、知識など部分的・一時的な賜物に対して愛が「完全なもの」と言われているのですから、「愛はいつまでも残る」という結論になるはずですが、使徒にとって「信仰と、希望と、愛、この三つ」は一体ですから、「いつまでも残る」ものの名をあげるとき、「信仰と、希望と、愛」と言わないではおれなかったのでしょう。そして、この三相を代表して「愛」をあげて、「その中で最も大いなるものは愛である」と付け加えます。
 このように、雑多な問題を扱っているように見えるこのコリント第一書簡も、「十字架のキリスト」、「聖霊のキリスト」、「復活のキリスト」という三相のキリストを示すことによって、信仰と愛と希望というキリスト信仰の三相を豊かに提示している証言であることを理解することができます。

この信仰と愛と希望という三相が「キリスト信仰」の全体を含んでいることについては、先に出しました福音講話集『キリスト信仰の諸相』に詳しく語りましたので、それを参照してください。