市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第19講

第七節 死は勝利にのみ込まれた 

 50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

(一五・五〇〜五八)

奥 義

 「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。(五〇節)

 ここで使徒は、これまで進めてきた議論を締めくくり、その要点を提示します。自然界との類比を用いたり、救済史という神学的な枠組みを用いて議論をしてきましたが、言いたいことは要するに、人間は自然の命に生きている現状の中では完成されないのであって、神の最終的な完成の御業を待たなければならない、ということです。これは、特別の霊の知識を受けている自分たちはこの地上ですでに完全な者になっており、将来の「死者の復活」などは必要としない、もともと「死者の復活」などは神の救いの計画の中にない、と主張する一部の人々に対して、「死者の復活」こそキリストの福音の本質的な内容であることを結論として改めて示すためです。
 ここで、わたしたちが今生きている生まれながらの自然の命《プシュケー》の在り方が「肉と血」と呼ばれています。現在のこの体と一体である自然の命を、体の構成要素である「肉と血」とで象徴しているわけです。「肉と血」、すなわちこの自然の命の体をもって生きている限りの人間は、「神の国を受け継ぐ」ことはできないと言われます。
 「神の国を受け継ぐ」とは、昔イスラエルの各部族がエジプトから導き出された後、約束の地の割り当てられた部分を自分たちの土地として「受け継いだ」という歴史から来ている表現で、神がご自分の民のために備えてくださった栄光の「資産を相続する」という意味です。同じことが「神の栄光にあずかる」とも表現されます。「肉と血」、すなわち現在のこの朽ちる体をもって生きている人間は、そのままでは「朽ちないもの」である永遠の神の栄光にあずかることはできないのです。パウロが「神の栄光にあずかる」(ローマ五・二)というとき、それは「死者の復活にあずかる」という具体的な内容を持っていることを忘れてはなりません。
 ここでパウロが、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」という原理を、改めて強調していることは重要です。初期の教団の信徒はユダヤ人が中心で、とくに指導的立場の人々はほとんどがユダヤ人でした。それで、初期の教団の信仰はあくまでユダヤ教の枠の中で、とくに主流のファリサイ派の教義の枠内で、イエスを復活されたキリストと信じる信仰運動の性格をもっていたわけです。ファリサイ派は終わりの時の死者の復活を信じていましたし、当時のユダヤ教の強い黙示思想的傾向からも影響されて、初期の教団には救いを未来の出来事として待望する傾向が強くありました。その中でパウロは、霊なるキリストの現実を深く体験して、救いとか命が現在のものであるという面を明確にした代表的な使徒でありました。ところが、そのパウロの福音が異邦人の間で受け入れられるようになると、ヘレニズム世界の宗教思想に影響されて、救いを現在の内面の出来事に限定して理解する傾向が出てきたようです。一部の人々は体の現実を無視して、この体のままで内なる人間は完成されていると主張したわけです。そのような傾向に対して、パウロは改めて、神の救いは体を含む人間の全存在にかかわるものであり、それは現在の朽ちる体ではなく、やがて与えられる朽ちない体において初めて実現するものであることを強調しなければならなかったのです。この強調に、パウロの福音が聖書の救済史的枠組みにしっかりと根ざしていることがよく示されています。

 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。
(五一〜五二節)

 ここでパウロは改まった口調で「神秘を告げる」と宣言します。ここでパウロが「神秘」といっている内容は、原文では一つの文で語られています。強いて訳すと「わたしたちは皆が眠りにつくわけではなく、わたしたちは皆、最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、今とは異なる状態に変えられるのです」となります。パウロが語ろうとする「神秘」、すなわち神の秘められたご計画とは、すぐ後にくる「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」という部分ではなく、この五二節までの文の全体、とくにその核心部分である「わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます」がその内容です。

「神秘」と訳されている語は、原語のギリシャ語では《ミュステーリオン》です。《ミュステーリオン》というのは、当時のヘレニズム世界の宗教用語としては、「密儀」、すなわちそれにあずかる人に救済を与える秘密の儀式、またはそのような密儀を中心とする宗教を指す用語でした。ここでパウロが《ミュステーリオン》をそのような密儀という意味で用いているのでないことは明らかです。パウロがこの語を用いる背景にはユダヤ教黙示思想があります。旧約聖書に含まれるユダヤ教黙示思想の代表的な文書であるダニエル書のギリシャ語訳には、この《ミュステーリオン》という語がしばしば出てきます(二・一八〜一九、二・二七〜三〇、四・六)。そこでは、王の夢をダニエルが解釈するという形で、これから世界に起こる出来事が啓示されます。このように、人間には隠されていて、ただ神の啓示によってだけ知られるようになる神の世界支配ないし世界救済の計画が《ミュステーリオン》と呼ばれているのです。
 パウロが《ミュステーリオン》という語を用いるとき、このような神の御旨の中に秘められている救済の計画という意味の黙示思想的な背景があるわけで、新共同訳は多くの箇所でこれを「秘められた計画」と訳しています(コリントT二・一、四・一、ローマ一一・二五、コロサイ一・二六、二・二、四・三、エペソ一・九、三・三)。この訳は黙示思想との関連が明らかで意味も分かりやすいのですが、パウロが《ミュステーリオン》という時、もっと広い意味で使っている感じがします。パウロにとってキリストの出来事こそ神の《ミュステーリオン》に他ならないのです(コリントT二・一、なおパウロの用法を引き継いだコロサイ一・二七、二・二も参照)。このような場合には訳語を考え直さなければならなくなります。新共同訳はときどき、この箇所のように「神秘」と訳していますが(コリントT一三・二、一四・二、エフェソ五・三二、六・一九)、この訳し分けの原則ははっきりしません。協会訳(口語訳)のように、訳し分けしないで一貫して「奥義」と訳すのも見識だと思われます。日本語で「神秘」というと、言葉では表現できない神秘的体験を指すような感じがしますが、ここでは神の隠されていた救済の計画が言葉で語り出されているのですから、「奥義」という語を用いたほうがよいのかもしれません。

 パウロはまず、「わたしたち」キリストに属する者たちの将来について、「すべての者が眠りにつく(死ぬ)のではなく、すべての者は変えられる」のだという対比を強調します。普通、「すべての者は死ぬ」という現実は動かし難いものです。ところが、キリストにあっては「すべての者が死ぬわけではない」と言えるのです。死ぬ者もいるが、死なない者もいる、ということです。聖霊によってキリストの来臨《パルーシア》が切迫していることを実感して生きるとき、その時に自分が地上に生きているか、すでに死んでいるかは、どちらの可能性もあり、どちらでもよいことになるのです。「すべての者は変えられる」ことの絶対的な確かさの前に、死生は相対化されてしまいます。
 それに対して、「今と異なる状態に変えられる」ことは、すべての者の身に起こることです。その時すでに死んでいる者は、死者の中から「復活して」朽ちない者とされ、そのとき地上に生きている者は、その場で朽ちない体に「変えられる」というのです。いずれにしても、現在の朽ちるべき存在が、朽ちることのない存在に変えられるのです。
 ここでパウロは「わたしたちは変えられます」と言って、自分をその時地上にいる者たちのグループに入れています。キリストに属する者はどの世代の者であっても、地上にいる限り、パウロのように地上に生きている間に最終的な局面に出会う心備えをして生きていなければならない、ということです。
 この「変えられる」ことは、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」起こります。パウロは「変えられる」という動詞の直後に、「たちまち(瞬間に)」と「目のまばたきの間に」という二つの表現を並べて、それが一瞬の出来事であることを強調しています。しかしこの表現は、「今と異なる状態に変えられる」のに必要な時間が短いことを言っているのではなく、時間の流れの中にある存在が、時間を超えた永遠の存在に移るさいの、二つの世界の質的断絶を表現していると理解すべきでしょう。時間が長いとか短いは、時間の中にいる限り問題となるのであって、時間を超えた存在に変えられるのに、もはや時間の長短は問題になりません。その時、おそらくわたしたちは自分の身に何が起こったのか分からないのでしょう。あっと気がつくと別の世界にいるということになっているのでしょう。死ぬという体験もこのような性質のものではないでしょうか。

そのことは「最後のラッパが鳴る」ときに起こります。「最後のラッパが鳴るとき」というのは、きわめて黙示思想的色彩の強い表現です。パウロがこのような表現を用いるさいの背景をすこし見ておきましょう。
 ここで「ラッパ」と訳されているギリシャ語《サルピンクス》は、旧約聖書のギリシャ語訳では、雄羊の角で作った「角笛」と、銀などの金属で作った細長い直線状の「トランペット」の両方を指すのに用いられています。「角笛」は羊飼いなどが日常の生活に用いる道具でしたが、「トランペット」の方はもともと祭司だけが祭儀や戦争のときに用いるものでした。それで、新共同訳では祭司が用いる細長い金管を「ラッパ」と訳し、雄羊の角で作った「角笛」とは区別して訳しています。しかし、両方とも楽器としてよりは、合図を伝えるために吹き鳴らす道具であったので、ギリシャ語訳聖書ではあまり厳密に区別しないで、両方とも《サルピンクス》という語で訳しているようです。
 この「角笛」や「ラッパ」はイスラエルの歴史と生活において馴染み深いものでした。祭や献げ物にさいして民を集めるために「ラッパ」が吹き鳴らされました。王の即位の祝祭には歓呼の声と共に「角笛」が吹き鳴らされました。外敵の侵攻にさいして警告の「角笛」が吹き鳴らされ、「角笛」の合図によって民の若者が兵士として集められ、行進し、戦いました。
 預言者は神の審判が迫っていることを警告するさい、しばしばこの「角笛」の象徴を用いました(アモス三・六、ホセア八・一、エレミヤ四・五、エゼキエル三三・一〜六など)。「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ」(ホセア五・八)というように、角笛とラッパは同じ意味で用いられますが、預言者はおもに「角笛」の方を用いています。もともと「角笛」はシナイ山における主の顕現を告げるものでしたが(出エジプト記一九章)、預言者は角笛を主の日の到来の合図(ヨエル二・一)とし、主が終わりの時に御自身を現される行為を象徴するものとして用いています。こうして、主御自身が角笛を吹かれると言われるようになります(ゼカリヤ九・一四)。
 「角笛」は審判の合図だけでなく、解放の時の到来を告知する合図でもありました。奴隷が解放され、負債が免除されるヨベルの年の贖罪日には、角笛が吹き鳴らされて、全住民に解放が宣言されました(レビ二五・八〜一〇)。預言書においても、終わりの時に主の民が解放されて主の山に集められることの合図とされます(イザヤ二七・一三)。
 旧約聖書のこのような用法を受け継いで、ユダヤ教黙示文書では「角笛」または「ラッパ」(ギリシャ語文書では共に《サルピンクス》)が終わりの日の到来を告知する合図としてよく用いられるようになります。黙示文書では天使がラッパを吹き鳴らすという形が多いようです。この伝統はヨハネ黙示録に受け継がれ、七人の天使が次々に七つのラッパを吹き鳴らすたびに、地上に終末的な審判が行われてゆくという光景が展開します。また、共観福音書の黙示録といわれる箇所にも、ラッパの音を合図に天使たちが選民を呼び集めるという表現が用いられています(マタイ二四・三一)。
 パウロもこのような旧約とユダヤ教の伝統を受け継ぎ、わずか二回だけですが(この箇所とテサロニケT四・一六)、「ラッパ」という象徴を用いています。しかしパウロの場合、「ラッパ」によって象徴される終末の到来は死者の復活だけに結びついており、黙示思想的諸文書に見られるような、ラッパの合図とともに地上に次々に起こる審判の出来事や宇宙の破局というような、いわゆる黙示録的な図式はいっさい出てきません。ですから、「最後のラッパ」というのは、次々に起こる終末的な出来事を告知する一連のラッパの最後のものという意味ではなく、時間の中を流れてゆく世界に、それとは質的に異なる、時間を超えた永遠の世界の到来を告知する象徴と理解すべきでしょう。パウロがこのような黙示思想的用語を用いているからといって、パウロを黙示思想家とするのはあまりにも短絡的です。パウロの終末的希望は死者の復活にあずかることに集中しています。その復活の希望は現在の聖霊の命から溢れる止むに止まれぬ表現であって、黙示思想の現在に対するペシミズムとは相容れない質のものです。
 パウロと黙示思想との関係については、拙著『パウロによるキリストの福音T』第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

神の必然

 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになるからです」。(五三節)

 死者が復活し、地上に生きている者が変えられて、共に朽ちない者にされるのは、それが必ず起こらざるをえない神の必然であるからです。この神の必然が、文頭に置かれた《デイ》という一語で強調されているのです。《デイ》という語は、英語の must に相当する語で、後ろに動詞を伴い、そうしなければならない、そうならざるをえない、という義務や強制または必然の意味を表します。
 ギリシア人がこの《デイ》という語を用いるとき、それは中性的な運命の支配を意味していました。それは、ある出来事が起こらざるをえない定めであった、運命であったということを意味していました。ところが、御自身の意志で世界を創造し、支配し、完成される神を信じるイスラエルが、ギリシア語でこの神のことを語るようになったとき(七十人訳ギリシア語聖書)、神の意志によって定められた事柄を、この《デイ》で表現するようになりました。とくに、ダニエル書に代表される黙示文書において、将来の出来事が神の定めによって起こらざるをえないことを表現するのに、この《デイ》が用いられたのです。新約聖書における《デイ》は大部分、このような神の定めによる終末的な必然を意味しています。
 死者の復活がこのような神の終末的必然であるというパウロの確信は、たんに死者の復活が神の救済の秘められた計画の中にあるという知識だけに基づくものではありません。終わりの時に神が死者を復活させてくださることは、パリサイ派のユダヤ教徒も確信していました。パウロの場合、この《デイ》は、復活されたキリストと出会い、復活者キリストと結ばれて生きているという、聖霊による現実の体験に裏打ちされています。神が終わりの時に御自身の民を死者の中から復活させて救済の業を完成される出来事は、キリストが復活されたとき始まっているのです。キリストは初穂として復活されたのです。聖霊によって復活者キリストとの交わりの現実に生きるとき、復活は自分の内にある《デイ》、命の現実としての《デイ》となるのです。
 このように、わたしたちが、もはや死ぬか生きるかは問題としないで、死なないものを上に着ることだけを確かな現実として生きることができるのは、神がその保証として御霊を与えてくださっているからです(コリントU五・五)。「死ぬべきものが命に飲み込まれてしまう」という現実に生きることができるのは、御霊によります。御霊こそ復活の希望の源泉であり、保証です。

命の勝利

 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。(五四節)

 使徒パウロの終末の希望は、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」に集中しています。これは、死んだ者が復活することと、地上に生きている者が変えられることの両方を含んでいます。ところで、今まで「死者の復活」という表現を用いてきましたが、この「死者」を実際に死んでしまった者だけに限ると、両方を含むことができなくなります。それで、「死者」を実際に死んだ者だけでなく、この死に定められた体をもって生きている者も含むというように広い意味に理解すれば、「死者の復活」という表現は両方を含むことができます(ローマ書八章一一節はこの意味であると理解できます)。このような意味で用いるならば、パウロの終末の希望は「死者の復活」に集中していると言えます。
 パウロが将来を語るとき、地上に次々に起こる患難の時代とか不思議なしるしとか宇宙の破局というような黙示録的な事柄はいっさい語りません。パウロが将来を望み見るときは、この意味での「死者の復活」に直結しています。来るべき《アイオーン》(終末)は聖霊によってキリストに結ばれている者の内にすでに来ています。それが「死者の復活」という形で完全に現れるときを待つだけです。それが「キリストのパルーシア」です。キリストが来臨することであり、顕現することです。その時こそ、ユダヤ人パウロが生涯かけて、神の約束であり預言であると受け取ってきた聖書(旧約聖書)が完全に実現成就する時なのです。
 その聖書の約束の中で、人間にとって最後の敵である死が滅ぼされることが語られています。パウロがここに引用している言葉は、イザヤ書二五章八節にあります(パウロの引用は七十人訳のギリシャ語とすこし違っています。おそらく記憶による自由な引用なのでしょう)。この箇所が引用されているのは偶然ではありません。この言葉が出てくるイザヤ書二五章六節から一〇節の一段は、普通「イザヤ黙示録」と呼ばれているイザヤ書二五章から二七章の中でも、終末の救済をとくに美しく歌い上げる顕著な部分です。そして、この「イザヤ黙示録」は、イザヤ書の中に含まれてはいますが、旧約聖書の歴史の中でももっとも後期に属する文書であって、イスラエルの信仰が抱いてきた希望の極点を示しています。イスラエルは地上での救済と栄光を望み見て苦難の歴史を歩んできましたが、ここにきてついに、人類最後の敵である死そのものが滅ぼされるという希望に到達したのです。これは、イスラエルという一民族の希望ではなく、死の支配の下に捕らわれている人類に、創造者なる神がその選民を通して与えてくださった究極の約束です。
 この約束は将来の「死者の復活」のときに成就します。逆に言えば、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」が来るまでは、「死は勝利にのみ込まれた」という言葉は成就しないのです。これは、五〇節で「肉と血は神の国を受け継ぐことはできない」と言ったのと同じことです。この節でパウロが再びこのことを強調するのは、復活はすでに起こったとし、自分たちは完成されていると誇って、「死者の復活」を否定する者たちに、神が実現してくださる救済は人間の内面のことに限られるのではなく、体を含む全存在に関わるものであることを示し、キリストの復活が何を意味するのかを改めて確認するのです。

死のとげ

 「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。(五五節)

 新共同訳を含め、たいていの翻訳では、この節はホセア書一三章一四節からの引用とされて、五四節のイザヤ書からの引用と一緒に一つのカギ括弧でまとめられ、かの時に成就する聖句とされています。もちろん、この二つの句をさきのイザヤ書の聖句と同じ意味の並行表現と理解する限り、このような翻訳は十分成り立ちます。しかしわたしは、五五節は引用符のカギ括弧の外に出した方がよいと考えます。原文には句読点や引用符などはないのですから、どこまでを引用と見るかは解釈の問題です。わたしは、この五五節は、「とげ」という語を鍵にしてすぐ後に続く五六節と五七節との関連で理解しなければならないので、将来成就されるべき預言の言葉ではなく、現在信仰者に湧き溢れてくる勝利の凱歌であると思います。
 パウロはここまで「死者の復活」を否定する者たちに対して、キリストの復活を根拠にして「死者の復活」を論証し、最後に「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」、「死は勝利にのみ込まれた」という言葉が成就する時に思い至って、聖霊による歓喜に溢れたと思います。その喜びがおのずから溢れて、この節の叫びになったのです。そのさい、パウロが日頃から親しんでいた預言書の詩句が、その意味内容はそのまま、用語や語順は溢れるまま自由に口をついて出たと見ることができます。この節のパウロの言葉は、聖書の引用と見るには、七十人訳ギリシャ語聖書と比べてあまりにも用語や語順が違います。
 使徒は聖霊に溢れて叫びます、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」。人間はずっと死の支配に屈服してきました。誰も死に打ち勝つことはできませんでした。死は勝ち誇ってきました。しかし今や、キリストは死に打ち勝ち、死者の中から復活されました。いまキリストに合わせられて生きる者は、キリストと共に死に打ち勝ち、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と凱歌を上げることができます。たしかに、「死は勝利にのみ込まれた」という言葉はまだ成就していません。「死者の復活」にあずかり、この言葉を完了形で告白できるのは、まだ将来のことです。しかし、キリストを死者の中から復活させた方の御霊を内に宿して生きるとき、もはや死には支配されていないことを知ります。御霊は復活の保証です。死の事実は残ります。しかし、死はもはやわたしには支配権をもっていません。
 わたしたちは今聖霊によって勝ち誇ることができます、「死よ、お前のとげはどこにあるのか」と。死には「とげ」がありました。人が生きている限り、死はまだ来ていません。ところが、死はすでに生の中に影を落とし、死への恐れとか得体の知れぬ不安という形で、生を蝕んでいました。人は死に定められているという現実は、生のただ中にあって、生の喜びに痛みを与える「とげ」であり続けてきました。しかし今や、キリストにあって、死の「とげ」は抜き去られました。死は必ず来ます。しかし、キリストにあって生きている者には、その事実は恐れとか不安とか痛みとなって生を脅かすものではありません。死は、復活にいたるために通過する一つの段階にすぎません。死は、「体を離れて、主のもとに住む」ようになるための望ましい一歩となります(コリントU五・六〜八)。
 パウロは、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言っています(コリントU五・九)。また、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても(すなわち、生きていても死んでいても)、主と共に生きるようになるためです」と言っています(テサロニケT五・一〇)。このように、主キリストを知り、キリストと共に生きることが現実となり絶対的な価値となるとき、地上に生きているか死んでいるかはどちらでもよいことになります。死と生は相対化されます。それまでは、生と死は絶対的に対立するものでした。生を肯定するだけであれば、死は生を否定し脅かすだけのものになります。しかし、死生が相対化されたいまは、死は生を脅かす「とげ」ではなくなってしまいます。

 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。(五六〜五七節)

 ここでパウロは、「死のとげ」について彼独自の深い洞察を示します。「死のとげは罪である」というのです。「とげ」というのは、死が自分の支配を貫くために人を打ち叩き、脅かし、苦しめる道具としての「突き棒」とか「とげの付いた棒」を意味しています。死は罪を道具として用い、人間を脅かし、苦しめているというのです。そして、一息に「罪の力は律法です」と続けます。死の支配の道具として人を脅かす罪は、神の戒めである律法を梃子にして人間を支配する、というのです。この場合、「罪の力」というのは、「死のとげ」のイメージの延長上で理解できますので、罪が人間を押さえつけるさいの力の拠り所、支点というような意味となるでしょう。

「とげ」と訳されている《ケントロン》というギリシャ語は、ギリシャ語聖書では蜂の「刺」という意味にも用いられていますが(マカベアW一四・一九)、牧者が使う「突き棒」とか「杖」を指すのにも用いられています(箴言二六・三)。ギリシャ語訳聖書のホセア書五章一二節では、主ご自身が《ケントロン》のようにユダの家を打ち懲らしめられると語られています。ダマスコ途上でパウロは復活の主の顕現を体験しましたが、そのさい聞いたヘブライ語の主の言葉はギリシャ語《ケントロン》を用いて表現され、新共同訳では「とげの付いた棒」と訳されています(使徒言行録二六・一四)。

 死は罪を道具として人間存在の根底を脅かし、罪は律法を梃子にして死の支配力を実際に人の上に振るうのです。このような死と罪と律法の関係は、後にローマ書(とくに七章)で詳しく展開されることになりますが、ここでは短い一文で示唆されるだけです。ここで重要なことは、死がたんに肉体の機能が停止して朽ち果てるという生物学的な現象としてではなく、人間を支配する人格的な力として現れていることです。死は、律法を梃子として働く罪を武器として、人間を脅かし支配する力なのです。
 そのような死の支配力からの解放と勝利が復活です。神は、わたしたちの罪のために死に、三日目に復活されたキリストにおいて、死の支配に対する勝利を与えてくださっているのです(原文の「勝利を賜る」は現在分詞形です)。このキリストの十字架と復活がなければ、わたしたちは死の支配に打ち勝つことはできなかったでしょう。いまキリストにあって、聖霊の溢れる力によって、このような復活の希望に生き、死の支配から解放され、最後の敵である死に対して勝利を与えられていることを思うとき、キリストによってこの勝利を与えてくださった神に感謝せざるをえません。死者の復活を論じるパウロの筆は、おのずからキリストによって勝利を与えてくださった神への感謝に至り、締めくくられます。

結び

 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。(五八節)

 こうして復活の希望を確立した後、パウロはそれを根拠にして、実際の信仰生活についての励ましを与えます。このように、死者の復活が確かな将来であり、復活にあずかる確かな希望が与えられているのだから、死者の復活はないと言う者たちに惑わされて動揺することなく、このような復活の主イエス・キリストを告白し(証言し)、福音の真理を追い求め、主に喜ばれる愛の業に励む生涯を貫くように、ということです。「主の業」というのは、こういう内容の生涯全体を意味していると思います。
 そのような生涯は、この世では報われること少なく、むしろ迫害される場合もあるくらいです。労苦を重ねるだけで実りはなく、生涯を無駄にしてしまっているのではないかという思いが、ときに内心にきざします。しかし、主に結ばれて生きる生涯に「無駄」ということはありません。地上で報われない労苦は、来るべき世で報われます。その確信は、正義と公平を本質とする神が、この世と来るべき世を貫いて支配しておられるという、主にある者の信仰から出てきます。
 死者の復活を論じた長い章の最後で、パウロはごく短く、復活の希望を根拠にして実際の信仰生活上の勧めをしていますが、この関係は重要です。復活の信仰は決して頭の中の問題、考え方や思想の問題ではありません。人生のあり方を決定する実践的な力です。パウロ自身、死者の中からの復活にあずかることを目標にして、その苦難の多い生涯を貫いたのでした(フィリピ三・一〇〜一四)。このような自分の生涯を実例として示して、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と呼びかけています(フィリピ三・一七)。復活に達することを目指して生きること、これがキリストに属する者の生涯の決定的な質となるのです。