市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第16講

第四節 復活を目指して

 29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

(一五・二九〜三四)

復活信仰の実践的諸相

死者のためのバプテスマ

 「そうでなければ、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のためにバプテスマなど受けるのですか」。(二九節)

 前段(二〇〜二八節)で死者の復活によって全救済史が完成するという壮大な希望を語った後、使徒は再びコリントの集会の中にいる死者の復活を否定する人たちに向かいます。「そうでなければ」というのは、前段で述べたように、キリストを初穂としてキリストに属する者たちが死者の中から復活するということが起こらないのであれば、という意味です。これは、すぐ後の文で「死者が決して復活しないのなら」と言っているのと同じことです。ここでパウロは死者の復活を否定することの不条理を、コリントの集会の中で行われている「死者のためにバプテスマを受ける」という習慣を引き合いに出して思い起こさせます。
 「死者のためにバプテスマを受ける」という行為は、ここ以外の新約聖書のどこにも触れられていないので、それがどのような意味合いのものかは推定するほかありません。さまざまな説明が提案されていますが、ここでの文脈からすれば、バプテスマを受けないで死んだ身内の者の救いのために信徒が受ける代理のバプテスマと理解するのがもっとも自然でしょう。このような死者のための「代理洗礼」の習慣は、二世紀のグノーシス主義のマルキオン派教会において行われていたことが、教父たちの著作から知られているので、当時のコリントの集会の中で、死者の復活を否定するグノーシス的傾向の人たち自身がこのような代理洗礼を行っていた可能性が考えられます。
 ここでパウロは、死者の復活を否定しながら死者のために代理の洗礼を受けることの矛盾をついて、死者の復活を否定する者たちを攻撃しているだけで、彼らの「代理洗礼」の習慣を認めているわけではありません。彼らには彼らのグノーシス主義的論理があるのでしょうが、永遠の命とか救済は死者の復活という形でしかありえないとする福音の立場からすれば、それは無意味な矛盾にすぎません。この死者のための代理洗礼は三九七年のカルタゴ教会会議で禁止されます。

危険を冒す生涯

 「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。(三〇節)

 さらにパウロは、「死者が復活することはない」とする立場の矛盾を気づかせようとして、キリストを信じる者たちの生涯の体験に言及します。パウロもコリントの信徒たちも、キリストを信じる生涯に入って以来、信仰の故に多くの苦難を体験してきました。パウロの場合は、生命の危険を感じる場面も多くありました(コリントU一一・二三〜二七参照)。パウロは自分の体験をキリストを信じる者の体験として一般化し、「危険を冒す」と表現しています。もし死者が復活しないとすれば、キリストを信じるゆえに生命の危険を冒すことは何の意味があるのでしょうか。死者からの復活にあずかる希望があればこそ、この地上の生命を失う危険を冒しても、キリストを信じ告白しぬこうとするのです。

 「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。(三一節〜三二節前半)

 前節で「わたしたち」という形でキリスト者一般について語られていたことが、ここでパウロの個人的体験として、「わたし」を主語にして具体的に語られます。パウロは「危険を冒す」からさらに一歩進めて、自分の生涯を「わたしは日々死んでいます」と表現します。そして、それが文字どおりの体験であることを示すために、その実例の一つとしてエフェソでの体験に言及します。「エフェソで野獣と闘った」というのは、野獣のような勢力と闘い死ぬような体験をしたことを指すと考えられます。ローマ帝国では、犯罪者を競技場で野獣と闘わせるという処刑の方法がありましたが、これはローマ市民権を持つ者には適用されなかったものです。また、パウロは自分が体験した苦難のリスト(コリントU一一・二三〜二七)にも野獣との闘いはあげていないので、これは比喩的な表現と理解すべきでしょう。
 パウロはこのコリントの信徒への手紙をエフェソで書いています。そのエフェソでは、ユダヤ人や異教徒からの激しい反対と闘いながら宣教したことが、使徒言行録一九章からもうかがえます。しかし、それが実際にはどのような事件であったかという問題よりも、パウロがそれを「日々死んでいる」ことと自覚し、それを死者の復活にあずかる道として意義づけていることが重要です(コリントU四・一〇〜一一、フィリピ三・一〇〜一一参照)。もし、「野獣と闘って」生命を失うような危険を冒しても、それが「単に人間的な動機から」のものであれば、すなわち死者の復活にあずかるという終末的な意義をもたない、ただ人間的な正義心とか人からの名誉を求めるだけのものであれば、何の益にもならないことだというのです。死者の復活がなければ、「わたしは日々死んでいます」ということは何の意味もないことになるのです。
 パウロは自分のこのような生き方、すなわち復活にいたる道として「日々死んでいる」という在り方を、コリントの信徒たちに対してキリストにあって持っている「誇り」として言及します。その「誇り」とは、そのような自分の在り方を立派なものとして自慢するのではなく、コリントの信徒たちの範例として体験しているということです。パウロは自分の福音宣教活動によってコリントの群れを形成したのですから、彼らに対して使徒としての誇りを持つことができる立場です。いまその「誇り」にかけて、「日々死んでいる」という自分の在り方をコリントの信徒に示すのです。それは、自分の生涯の事実をもって、死者の復活の真理を提示するためです。

死者からの復活に達するために

醒めて正気に

 「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』」。(三二節後半)

 使徒はさらに、死者の復活を否定することが実際生活に及ぼす致命的な影響を取り上げます。死者の復活がなければ、どのような生き方をしても、この身体はやがては滅んで無くなるだけです。そうであれば、生きている間に飲み食いして大いに楽しむ他には、人生に意味が無くなります。そのような一種の道徳的ニヒリズムの生き方を、パウロは預言者イザヤ(二二・一三)の言葉を引用して描きます。
 それとは反対に、自分が死者からの復活にあずかることを目標にして生きるときは、たとえ復活の体は「霊の体」であって現在の体とは異なる次元のものであるとしても、その「霊の体」を与える聖霊がいまこの体の中に宿る以上、この体もすでにキリストの体の一部であり、この体をもって生きる生き方に責任を感じざるをえません。パウロは同じ手紙の中でこう言っています。

 「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。・・・・・・自分の体で神の栄光を現しなさい」。(コリントT六・一四〜二〇)。

復活の信仰こそ、キリストに属する者にこの体をもって生きる地上の生き方について真剣にならせる原動力です。

 「思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする』のです」。(三三節)

 パウロはコリントの信徒たちに、死者の復活を否定する危険に陥らないように、諺を引用して警告します。この諺は、アテネの劇作家メナンドロスの「タイス」からの引用と言われますが、出典を知らないまま広く世間で用いられていたものでしょう。
 ここで「悪いつきあい」とは、キリストも復活も知らない信徒でない人々のことではなく、信徒の集会に所属していながら死者の復活を否定している人々との交わりを指していると考えられます。そのような人々に引きずられて死者の復活を否定するようになると、先に見たように道徳的ニヒリズムに陥って、せっかくキリストに結ばれて賜っている良い生き方が台なしになってしまう、という警告です。

 「醒めて正気になり、的外れな生き方をしないようにしなさい。神について無知な人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」。(三四節 私訳)

 死者の復活を否定して、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という生き方をしている人たちを、パウロは酒に酔って、足元がふらつき、正しい目的地に向かって歩いて行けない人にたとえて、こう呼びかけます。酔いから醒めて正気になり、キリストにあって賜っている本来の目的地(死者からの復活にあずかること)に向かって、しっかりと歩むように呼びかけるのです。

的外れ

 「醒めて正気になり」という動詞の後に、それと重ねて用いられている《ハマルタネイン》という動詞は、新約聖書では普通「罪を犯す」という意味で用いられている動詞です。ですから、ここを「罪を犯さないようにしなさい」と訳すのは正しいことですし、事実ほとんどすべての近代語訳はそう訳しています。しかし、ここでは三二節後半以下の文脈からすれば、神の戒めに違反する個々の行為ではなく、生き方全体がキリストにおいて示された神のみ旨から外れることを問題にしていると見られますので、《ハマルタネイン》という動詞の原意(この動詞の元の意味は「的を外す」です)に遡って、「的外れの生き方をしないように」と訳してみました。
 この場合の「的」、すなわち、わたしたちの歩みが向かうべき目的地は「死者の復活」です。わたしたちが死者の復活にあずかること、あるいは死者の復活に達することです(フィリピ三・一一)。旧新約聖書の全体が証言する救済史の頂点は死者の復活です。世界を創造された神は、ご自身の民を死者の中から復活させることによって、救済の業を完成しようとされているのです。神はこの目的地に達するように福音によってわたしたちを召しておられるのです。
 神の目的はそれ以下ではありません。神は死よりも弱い方ではありません。ところが、コリントの集会の中に、神に関する真の知識《グノーシス》を持っていると主張しながら、死者の復活を否定する人たちが出てきたのです。彼らの神は死者を復活させることがない神、死よりも弱い神です。死を滅ぼすことのできない神は神ではありません。彼らは真の神を知らないのです。《グノーシス》を誇る彼らは、神について無知なのです。パウロはこのような人々を「恥じ入らせるために」、あえて彼らを「無知」と呼んで、彼らに反省を迫り、「醒めて正気になる」ように呼びかけるのです。

復活を目指す生の根拠 

この段落(二九節〜三四節)は、もし死者が復活しないとしたら信仰はいかに無意味なものになってしまうかを、信徒の生き方という実際面から語っています。使徒はすでに先の段落(一二節〜一九節)で、死者の復活がなければ使徒たちの宣教は空しく、それを信じる信仰も内容のないものになってしまうことを明らかにしていました。そこでは宣教と信仰という原理的な問題が取り上げられていましたが、ここでは死者の復活を否定することの矛盾が、信仰生活の実際面から取り上げられています。
福音は本来約束という面をもっています。福音が宣べ伝える中心的事実であるキリストの復活も、けっしてキリストだけの単独の出来事ではなく、キリストに属する者たちの復活を代表する初穂としての復活です。したがってキリストの復活の出来事は、信じる者たちへの復活の約束となります。キリストの復活を自分たちの復活の約束として受け取らなければ、福音は福音でなくなるのです。パウロはこのことを本章全体で力をこめて語っているのです。
ですから、福音を信じ、キリストに結ばれて生きる生涯は、必然的に死者の復活にあずかるという終末的な目標に集中する生き方となるはずです。ところが、この目標はあまりにも遠く、あまりにも高すぎて、この目標に向かって生涯を貫くということは、日常生活に追われるわれわれ凡人にとってはきわめて難しいというのが実感です。福音とは死者の復活の約束であると、頭では分かっていても、実際の生活では目の前の必要や人間的欲求に引きずられ、地上の事柄を目標として生きるという「的外れ」をやっています。どうすれば「醒めて正気になり」、この目標に向かって一筋に生きることができるのでしょうか。そのために大切な点を三つあげておきます。

 1 それには、まず第一に神の約束を明確に聴くことです。繰り返し述べたように、福音とはキリストの十字架と復活の出来事を告げ知らせる言葉ですが、それがわたしたちを死者の中から復活させるという神の究極の約束の言葉でもあるわけです。そのことを使徒パウロは本章で明らかにしているのですから、ここで語られている使徒の言葉を明確に理解し、その理解の中で福音を受け止めることです。そのことをパウロは本章の初めでこう言っていました。

 「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、その言葉をしっかり保持していれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。(一五・二)

 それだけではありません。旧新約聖書全体が証言している「救済史の構造」を明確に理解すれば、聖書全体が死者を復活させるという神の約束を告げていることが聞こえてきます。聖書は、初めに天地万物を創造された神が、終りに新しい創造の業として初穂キリストを復活させ、キリストにあってご自身の民を復活させて万物を新しくし、救済のみ業を完成されるという宇宙的救済史を啓示しています。わたしたちが懸命に聖書を学ぶのは、この救済史の構造を理解して、聖書の全体から神の究極の約束を明確に聴き取るためです。
 神の約束の言葉の背後には神の信実があります。神は偽ることのできない方です。神はご自分の言葉を必ず行われます。それが神の約束である以上、必ず実現します。この神の信実に立てば、神の約束の内容がいかに人間の理解を超えたものであっても、その実現を安心して待つことができます。このように、神の信実だけを根拠にして、将来の約束の実現を告白することが、神の約束を受け取る信仰の行為なのです。自分の理解や確信はどうでもよいのです。ただ神は信実であるという理由だけで、死者の復活を大胆に告白すればよいのです。それが「信じる」という行為なのです。

 2 的を外さない歩みのためには、祈りによる聖霊の交わりが必要です。キリストの復活も死者の復活も、もともと人間には信じ難いことです。それを信じさせるのは聖霊の働きです。聖霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(ローマ八・一一)であり、その聖霊が働く場で福音を聴くとき、キリストの復活は圧倒的な現実となります。「十字架につけられた復活者キリスト」の福音は、もともと人間的な理論や雄弁で説得できるものではありません。その福音は、御霊の働きという神の力によって、否定できない現実となって聴く者に迫るのです(コリントT二・一〜五)。このように聖霊によって始められた信仰は、聖霊によって仕上げられなければなりません。死者の復活はまだ見ることができない将来です。その将来の約束を現在わたしたちの内に生きる力とするのは聖霊です。「イエスを死者の中から復活させた方の霊」がわたしたちの内に宿るとき、死者の復活というまだ見ることのできない将来が、現在わたしたちの中に宿る現実となるのです。神に約束された将来が、聖霊によって現在生きる力になっているという現実が、わたしたちの希望の構造です。その意味で、聖霊がわたしたちの内に宿る復活の「初穂」と言われるのです(ローマ八・二三)。

 3 このように、死者の復活の信仰は、聖書と福音に啓示された神の約束の言葉と、信じる者に賜る聖霊とによって根拠づけられます。しかし、その信仰が深く身に刻み込まれて、自分の存在の一部のようになるのは、キリストの苦難との交わりの中においてです。ここで使徒パウロは「わたしは日々死んでいます」と言っていますが、そのようなキリストの苦難にあずかって「日々死んでいる」といえるような生涯において、死者の中からの復活にあずかるという希望は確かなものになっていくのです。
 先に触れたように、パウロはキリストの福音に仕えるために、イエスが受けられた十字架の苦難に等しい苦しみを味わい、死の危険の中で働いてきました。そのことをパウロはこう言っています。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。そのようなイエスの苦難にあずかる生涯の中で、死者の中からの復活にあずかる希望は、パウロの生の一部になっていたのです。だからパウロは続けてこう言うことができたのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(コリントU四・一一〜一四)。このような生涯においては、死者の中からの復活に達することが唯一の目標になります。パウロの生涯はまさにそのような生涯でした。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかり、その死の姿に合わせられて、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ三・一〇〜一一)。
 イエスは言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ五・一一〜一二)。わたしたちも信仰のゆえに苦しみを受けるとき、それはキリストの苦難にあずかっているのであり、その時には栄光の霊、すなわち神の霊がわたしたちの上にとどまり(ペトロT四・一三〜一四)、死者の復活にあずかる希望を一段と確かなものにしてくださるのです。日々十字架を負って生きる道において、復活の命はますます現実のものとなり、死者の中からの復活にあずかるという目標がますます明確になってくるのです。