市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第14講

第二節 死者の復活がなければ

 12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

(一五・一二〜一九)

キリストの復活と死者の復活

救済史の論理

 このように「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(一二節)と、パウロは驚きをもって問いかけます。先に見ましたように、「死者たちの復活などない」と言っていたコリント集会の一部の人たちは、「キリストの復活などない」と言っていたのではありません。もしそう言っていたとパウロが聞いたのであれば、これは福音《ケリュグマ》そのものの否定であって、パウロはそのような者がキリストの集会に所属することを拒否したにちがいありません。
 キリストの復活を信じながら、信じる者がいったん死んだ後、終わりの日に再び身体を与えられて復活するという「死者の復活」を否定したのは、どういう動機からであるのか、また、彼らのキリスト信仰の内容はどのようなものであったのか、確定することは困難です。コリントの集会は、キリストの復活という共通の土台の上に立ちながら、「死者の復活」を信じる人たちとそれを否定する人たちの間で対立し、動揺していたのではないかと思われます。「死者の復活」を否定する人たちも、それがキリストの復活を否定し、福音そのものを否定することになるとは考えず、「死者の復活」がなくてもキリスト信仰は立派に成立すると主張していたのです。しかしパウロにとっては、「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定し、ひいては福音そのものを否定することになるのです。「死者の復活」の否定がコリント集会に広がれば、コリント集会はキリストの福音から脱落してしまうのです。この問題は、パウロにとって自分の福音宣教の働きが立つか倒れるかの瀬戸際なのです。
 このようにキリストの復活を信じながら「死者の復活」を否定する人たちに対して、パウロは両者が一つであることを示そうとします。パウロはこう断言します。

 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」。(一三節と一六節)

 この一文はふつうこう理解されています。すなわち、人間は一度死ねば復活するということはありえないのであるから、死んだキリストが復活することもありえない、というのです。人類の体験から広く認められている一般的な法則から、個々の具体的な出来事を判断する論理です。現代の福音拒否は、この論理に基づいて、キリストの復活を否定することで成り立っています。
 しかし、パウロがここで用いている論理はこのようなものではありません。もしこのような論理を用いているのであれば、いくらキリストの復活を確認しても(一〜一一節)、それを死者の復活の根拠とすることはできないはずです。キリストは神の子として特別扱いで復活したのであって、キリストが復活したからといって一般の人間が復活するという保証とか根拠にはなりません。パウロがここで用いている論理は、現代人には分かりにくいので、説明が必要だと思われます。
 パウロが「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」というとき、それは「神が死者の復活という形で人間を救済されるのでないならば、救済者であるキリストが復活されることもなかったはずだ」という意味です。このように、ここでパウロが用いている論理は、科学的な一般法則によって個々の場合を判断する論理ではなく、「救済史の論理」なのです。
 「救済史」というのは聖書(旧約聖書)の基本的な枠組みです。聖書によれば、神はまず約束の言葉を与えそれを成就するという形で、恩恵による救済の働きを歴史の中に進めておられます。天地創造から新天新地の完成に至るまで、このような約束と成就という形で進められる神の一連の働きが「救済史」と呼ばれるのです。福音は「聖書に書いてあるとおり」という表現で、キリストの十字架・復活の出来事が聖書の成就である、すなわち、救済史の証言としての旧約聖書全体を成就する出来事であると宣言しているのです。

救済史については、拙著『パウロによるキリストの福音 T』の第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」、とくに376頁の「福音成立の場としての救済史」を参照してください。

 ところで、当時のユダヤ教では、神の救済は「死者の復活」をもって完成されると理解されていました。神は最終的に御自身に属する民を死者の中から復活させて、救済の働きを完成されるという理解です。モーセ五書だけを権威とするサドカイ派は、モーセ五書に書いてないという理由で「死者の復活」を否定していました。しかし、当時主流のファリサイ派や厳格派のエッセネ派は「死者の復活」を信じており、敬虔な民衆は「終わりの日の復活の時に復活すること」を信じていました(ヨハネ一一・二四)。イエスご自身もこの「死者の復活」の信仰を前提にして、それがモーセの書に書かれている旧約聖書自身の信仰であると語っておられます(マルコ一二・一八〜二七)。とくにパウロは熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒として、「死者の復活」が旧約聖書の信仰内容であることを当然のこととしているわけです。
 それで、福音がキリストの復活を聖書の成就であるとするとき、それは聖書が終末に実現するとしていた「死者の復活」がイエスの身に起こったと宣言しているのです(使徒四・二)。キリストの復活は、終末的事態である「死者の復活」が歴史の中で起こった最初の出来事であるのです。キリストの復活は「死者の復活」と切り離すことができない出来事であり、両者は一体です。一方を否定することは他方を否定することになるのです。また、キリストの復活は、終わりの日の「死者の復活」を保証する出来事となるのです。パウロはすぐ後でこの意義を「初穂」という比喩で語ることになります。
 このように「死者の復活」がキリストの復活と一体であるならば、「死者の復活」を否定することはキリストの復活を否定することになります。キリストの復活を否定することは福音全体を否定することです。復活しなかったはずのキリストを復活したと宣べ伝える使徒は偽証人となります。キリストが復活していないのであれば、キリスト信仰は過去の人物の遺訓に従うだけのものになり、信仰とは復活したキリストとの交わりに生きるいのちの現実であるという福音的信仰の立場から見れば、まったく空虚なものになってしまいます。そのような空疎な信仰は、わたしたちを現実の罪の支配から解放することはできず、また、現実に死に打ち勝つ希望の力にもなりません。キリストを信じる者は、空しい希望に欺かれて、この世で苦しむだけの惨めな者になります。

旧約聖書をめぐる対立

 このようにパウロが聖書(旧約聖書)の信仰を前提にして用いている「救済史の論理」が、「死者の復活」を否定しているコリントの人たちをどれだけ説得したか、その結果は分かりません。だいたい「死者の復活」を否定した人々がどのようなタイプの人たちであったのか、様々な見方があり、議論は決着していません。基本的には、先に見たように、強大なギリシア宗教的環境にあり異邦人信徒の多いコリント集会で、霊と身体の二元論的なギリシアの宗教思想に強く影響されて、救済を霊魂が卑しい身体から解放されることと理解していた人たちがいたことは推察できます。それで「身体の復活」を説くユダヤ教に対する体質的な嫌悪から、「死者の復活」を否定したのでしょう。彼らが、霊知《グノーシス》による霊魂の物質世界からの救済を説くグノーシス主義者であるという説はただちに賛成することはできませんが(グノーシス主義が成立するのはもっと後の時代のことになります)、グノーシス主義に向かう傾向とかその萌芽はコリント集会にあったのではないかと推察されます。
 「死者の復活」を否定する人たちをパウロが「救済史の論理」をもって説得しようとした事実は、この時すでにヘレニズム世界に成立した集会において旧約聖書に対する態度に対立があったことをうかがわせます。初期の指導者はほとんどユダヤ人でしたから、「律法と無関係の義」を説いたパウロ自身を含め、彼らは当然のこととして旧約聖書を神の啓示の書として受け入れて、議論の前提にしています。それに対して、(おもに異邦人ですがユダヤ人も含め)ギリシア宗教思想の影響を強く受けている人たちは旧約聖書に対して批判的であり、彼らがグノーシス主義に進むにしたがって、ますます旧約聖書への否定を強くしていきます。旧約聖書の創造神は物質世界を創造した下位の神《デーミウールゴス》に過ぎず、イエスが啓示した父なる霊神だけが至高の神とされます。創世記の創造物語における蛇は、人間を物質世界の牢獄から解放するために知恵を与える救済者とされるなど、解釈を逆転することで旧約聖書を根本から否定するようになります。二世紀半ばには当時のキリスト教世界を二分する勢力になっていたマルキオン派は、旧約聖書を拒否して、ルカ福音書とパウロ十書簡だけを正典として信仰の拠り所とします(マルキオンがグノーシス主義に分類されるかどうかは議論がありますが、旧約聖書の否定では典型的なグノーシス主義陣営に属します)。
 グノーシス主義者たちは、使徒たちをユダヤ教の残滓を受け継ぐ者として軽視し、自分たちの知恵《グノーシス》の方が勝るとしましたが、使徒たちの権威の継承を自認する派は旧約聖書を受け入れ、グノーシス主義に対抗しました。古代教会における二つの大きな流れは、旧約聖書を否定する派と受け入れる派との対立という形で戦ったと見ることもできます。そして、最後には旧約聖書受容派が否定派に打ち勝って正統派となり、(ローマ帝国の権力と結びついて)否定派を異端として撲滅するにいたります。旧約聖書受容派の代表であるエイレナイオスの神学が典型的な「救済史の神学」になるのは当然です。もし旧約聖書否定派が勝利していたら、キリスト教は現在のキリスト教とはまったく別の宗教になっていたでしょう。キリスト教が旧約聖書を正典として受け入れていることは、自明のことではなく、激しい戦いの結果です。その戦いの最初の戦場が、「死者の復活」をめぐるパウロと反対者の論争です。使徒信条の「我は身体のよみがえりを信ず」という条項は、旧約聖書受容派の勝利のモニュメントであるのです(この信条の問題点については別にとりあげます)。

死者の復活を否定すると

福音の宣教は空しい

 「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もむなしいのです」。(一四節 私訳)

 死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであるとした上で、使徒パウロは死者の復活を否定することの重大な結果を語ります(一四〜一九節)。
 死者の復活がなければキリストも復活しなかったはずですし、キリストが復活しなかったのであれば、使徒たちが宣べ伝えている福音(ここの「宣教」の原語は《ケリュグマ》)は内容のない空虚なものになり、それを信じている者の信仰も何の実質もない空虚なものになってしまいます。キリストが復活しておられるからこそ、生けるキリストの働きにより信じる者は約束の聖霊を受け、その聖霊により信仰は生けるキリストとの交わりという実質を持つことができるのです。それがなければ、信仰といってもうわべの言葉だけのものになってしまいます。
 ここでパウロは繰り返し「むなしい」《ケノス》という語を用いています。一七節の「むなしい」《マタイオス》は原語は異なりますがほぼ同じ意味です。これは中身がなくて空っぽの状態を意味します。新共同訳の「無駄」というのは、効果がないとか努力したが徒労であったということでしょうが、これはすこし意味が違うようです。死者の復活を否定することはキリストの復活を否定することであり、使徒たちの「ケリュグマ」(三〜五節の福音)そのものを内容のない空虚なものとすることになります。中身のない空っぽの使信が人を救うことができるはずはなく、そのような使信を信じている者の信仰も空虚なものにすぎません。

 「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。(一五節)

 このように、死者の復活を否定すれば、使徒の宣教活動もそれを聴いて信じた信徒の信仰も中身のない空虚なものになるだけではなく、キリスト復活の福音を宣べ伝える者は「神の偽証人」となります。「なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。この理由づけは明快で説明するまでもないでしょう。このように、死者の復活を否定することは、使徒の証言を神に反する偽証であると決めつけることになるのです。新約聖書とは使徒の証言の記録ですから、死者の復活を否定することは新約聖書を虚偽の書とすることになるのです。死者の復活を否定することは、福音そのものを否定することであり、使徒の証言を偽証とし、新約聖書という自分が立っている土台そのものを覆すことなのです。

なお罪の中に

 「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」。(一六節)

 死者の復活を否定することが、このように福音宣教を空しくするだけでなく偽りとする重大な結果を引き起こす(一四〜一五節)のは、死者の復活とキリストの復活が切り離すことのできない一体であるからです。ここでパウロはさきに述べた(一三節)死者の復活とキリストの復活との救済史的一体関係をもう一度繰り返して、今度は死者の復活を否定することの重大な結果のもう一つの面を明らかにします。すなわち、それはわたしたちの信仰そのものを空しいものにするのです(一七〜一九節)。

 「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。(一七節)

 死者の復活がなければキリストの復活もないのですから、死者の復活を否定すれば、わたしたちの信仰は復活しなかったキリスト、すなわち死んでしまって、もはや働くことのない、想起の中の人物にすぎないキリストへの信仰になります。そのような信仰は、聖霊により霊なる主キリストとの交わりに生きるという次元の信仰から見るならば、中身のない「むなしい」信仰にすぎません。福音的な信仰の次元では、信仰と呼ぶこともできないものです。
 だいたいパウロが「信仰」という時、それは過去の人物に対する崇拝やその教えに従う生活を指しているのではありません。パウロは、「信仰によって救われる」ことを福音の根本テーゼとしましたが、そのさいパウロが言う、人がそれによって義とされ救われる「イエス・キリストの信仰」(ローマ三・二二など)とは、けっして過去の人物に対する信仰ではなく、現在生きておられる霊なるキリストの働きによって成立し、その方との交わりに生きることです。ですから、キリストが復活しておられないのであれば、このような「信仰」は成り立たないわけです。信仰といっても、中身のない空しいものになってしまうのです。
 そのような信仰では、人間がキリストと共に死んで罪の支配から解放されるということが現実に起こることはありません。いくら立派な過去の人物に対してであれ、その教えに従おうという次元での信仰では、人は罪の支配力から解放されることはなく、罪の支配の下にある現実は変わりません。
 だいたい、イエスの十字架上の死が神による罪のあがないの業であるといっても、それはイエスが復活してキリストとして立てられたからこそ、罪人を義とする力を有するのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ四・二五)。イエスは復活によって罪人を義とする救済者キリストとなられたのです。ですから、復活していないイエスは罪人の救済者キリストではありません。イエスの十字架上の死はわたしたちと関わりのない出来事です。そのような復活していないキリストを信じる信仰では、人は罪の支配から解放されることはなく、罪の力の支配の下に留まり、「罪の中にいる」ことになるのです。

眠りについた人々は

 「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」。(一八節)

 「そうだとすると」、すなわち、一部の人が言っているように、死者の復活がないのであれば、キリストを信じた者も死んでしまえば、それで終りであって、それ以上のことは何も起こらないわけです。キリストを信じたことで、内面にどのような変化が起こり、人生がどのように変わったとしても、それだけのことで、死ねば一切は終り、信じなかった他の人たちと同じく、その存在は滅びに帰すことになります。
 ここで死ぬことが「眠りにつく」と表現されていることが注目されます。初代の信徒たちが死ぬことを「眠りにつく」と表現していたことは、本章におけるパウロの用法(六、一八、二〇、五一節)だけでなく、新約聖書の他の箇所にも見られます(テサロニケT四・一三〜一五、マタイ二七・五二、使徒七・六〇、一三・三六など)。この表現は死者の復活を前提とした表現です。眠っている者には意識は無いが必ず目覚める時がくるように、キリストに結ばれて死んだ者は、肉体は朽ち果ててしばらくの間意識もなく過ごすが、神が定めた終りの時、死者の復活にあずかり、新しい体を与えられた人格として神と共に生きるようになるのです。このような信仰を前提として死が眠りと表現されるのです。ですから、死者の復活がなければ、死者は「眠りについた」のではなく、「滅んでしまった」ことになります。
 死を眠りと見る見方は、実はイエスご自身から来ています。イエスは会堂長ヤイロの娘が死んだとき、嘆き悲しむ人々に向かって、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました(マルコ五・三九)。そして事実、イエスは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という一言で、眠っている子を起こすようにその少女を生き返らせます。この驚くべき出来事を目撃した弟子たちを通して、彼らに強烈な印象を刻み込んだこの「死んだのではない。眠っているのだ」という言葉が教団に伝えられました。福音によって死者の復活の信仰に生きた初代の信徒たちは、自分たちの死もこのイエスの言葉にならって「眠りにつく」と表現したわけです。
 たしかに死を眠りと表現することは、イエスよりも以前から行われていました。ギリシャ文学や他の民族の宗教文書にもありますし、ユダヤ教においても黙示文学になりますと終りの時の死者の復活が信じられていましたから、死は復活のときの目覚めまでの一時の眠りであると表現することも(僅かながら)ありました。たとえば、ダニエル書(一二・二)には、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。またエズラ記(ラテン語)(七・三二)には、「大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す」とあります。パリサイ派もそのような表現を用いていたようです。
 しかしイエスの場合はこのような場合と違います。イエスの場合は、漠然と将来の存在や復活を予感して死を眠りと表現するのではなく、やがてイエスを死者の中から復活させる方の霊(ローマ八・一一)によって現実に生きておられるのですから、イエスの目には死という冷厳な事実も復活の目覚めまでの眠りであることがはっきりと見えているのです。このことを周囲の人々にも見えるようにするために、イエスは死んだ少女を「起きなさい」の一言で生き返らせるという「しるし」を行われるのです。少女が生き返ったことはまだ「死者の復活」ではありません。それは死が眠りであることを指し示す「しるし」なのです。
 イエスが死んだ者を生き返らせることがこのような意味の「しるし」であることを、ヨハネ福音書は十一章で劇的な構成をもって描いています。イエスは死んで四日もたったラザロを生き返らせますが、その出来事の前にその意味をこう語っておられます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(一一節)。この時弟子たちはイエスの言葉が理解できませんでした(一二〜一三節)。けれども、復活されたイエスに出会い、自分たちも「イエスを死者の中から復活させた方の霊」によって生きるようになったとき、イエスが死んだラザロを「眠っている」と語られたことを理解し、自分たちも同じように仲間の死を「眠りについた」と語ることができたのです。
 このように、死者の復活がなければ「眠りにつく」ということも中身がなくなるのですから、「キリストにあって眠りについた者たち」といっても、実は滅んでしまったことになるわけです。

最も惨めな者

 「もしキリストにかけているわたしたちの望みがこの世の生活に限られるのであれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。(一九節 私訳)。

 たしかにキリスト信仰は人に希望を与えます。キリストに結ばれて生きることは希望に生きることです。信仰によって救われるのは、わたしたちが希望に生きるようになるためです(ローマ書八・二四前半はこの意味に理解すべきであると思います)。それは聖書的な信仰の基本的な性格です。聖書の神はいつも、やがて成し遂げようとしておられることをあらかじめ言葉で語ることによって、信じる者たちに希望を与えられるのです。
 ところが、もしわたしたちがキリストに結ばれて(原文は「キリストにあって」)与えられている希望が、この世の生活、地上の人生の範囲に限られるのであればどうなるでしょうか。たしかに、キリストを信じ、キリストに結ばれて生きることによって、わたしたちはさまざまな人生の苦悩から救われる希望があります。今は苦しみの中にあっても、キリストにあって賜る神の恵みと御力によって、その苦しみから救われる希望があります。病気や事業の失敗、人間関係のもつれなど、さまざまな人生の苦難と、そこからくる内面の不安や苦悩、そのような苦しみから救われるでしょう。けれども、どのように奇跡的な神の力を体験しても、わたしたちの救いの希望がこのような地上の人生の範囲内のことに限られ、死者の中から復活するというような次元の希望がないとすれば、どうなるでしょうか。
 そうであれば、わたしたちキリスト信仰に生きる者は「すべての人の中で最も惨めな者」だと、パウロは言っています。これはパウロの人生の実感から出た言葉であろうと思います。キリスト信仰とはキリストに合わせられて生きることですが、それはキリストの苦難に合わせられることでもあります。十字架につけられたキリストに合わせられて生きることです。パウロの使徒としての人生は苦難に満ちたものでした。パウロはこう言っています。

 「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」。(コリントU一一・二三〜二七)

このような実際上の苦難だけでなく、社会的な地位や名誉、家族をもつ可能性、人間として望ましいすべてのものを犠牲にしたのです。パウロは「キリストのゆえにすべてを失った」と言っています(フィリピ三・八)。もし死者の復活はないのであれば、したがって「何とかして死者の中からの復活に達したい」という希望はありえないのであれば、「キリストの苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ」というパウロの苦難に満ちた人生は何の意味もないものになります(フィリピ三・一〇〜一一)。たしかにこれでは「すべての人の中で最も惨めな者」です。
 初代の信徒にとって、キリストを告白することは何らかの形で苦難を引き受けることを意味したので、このパウロの実感から出た一九節の言葉は身にしみたと思います。しかし現代のキリスト教社会では、熱心なキリスト信仰は苦難ではなく名誉と成功をもたらすものですから、このパウロの言葉は実感が伴いません。その分、死者の復活の信仰の重要性が実感されなくなっていると言えます。キリスト信仰はこの世の人生で十分報われますから、死者の復活を信じなくても、自分を「すべての人の中で最も惨めな者」と感じることはありません。
 しかし、先に見たように(一六〜一七節)、死者が復活しないのならキリストも復活しなかったはずですし、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの信仰はむなしく、わたしたちは今もなお罪の中にあることになります。そうすると、わたしたちは実際は罪のゆえに滅びるべき者でありながら、義とされたとか救われたと称して、虚偽の中に生きていることになります。わたしたちの信仰というのは、まったく実体のない虚偽にすぎません。わたしたちは自分を欺いて生きていることになります。これは「惨めな」ことではないでしょうか。
 このように、死者の復活を否定することは福音(ケリュグマ)も信仰も空しいものにするのです。キリストの福音は死者を復活させる神を宣べ伝えるのです。死者の復活を否定するのであれば、キリスト教を捨てたほうがよいです。この世での成功や繁栄を約束する宗教は他にも多くあります。内面の悟りや知恵、あるいは高度の世界観や思想を与える宗教も他にあります。なにもキリスト教に改宗することはありません。しかし、福音がわたしを死者の中から復活させるという究極の神の約束を語る言葉であるゆえに、わたしはこのキリストの福音にしがみつくのです。これ以外に死からわたしを救う力はありません。