市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第12講

第三節 預言と異言

預言と異言

異言と預言の比較

 1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。(一四・一〜五)

 諸々の御霊の賜物(カリスマ)の中の「最高の道」である愛を指し示した後、カリスマの中でもコリントの人たちがとくに重視し、それが豊かに与えられていることを誇っている二つの賜物、すなわち預言と異言について、その恵みの賜物を「エクレーシアを造り上げるために」適切に用いるようにパウロは勧告します。この句が一四章全体を貫く標語となります。
 預言と異言は、普通祈りにおいて(例外もあります)、聖霊に霊感されて直接語り出される言葉である点では共通していますが、それが祈る者の母語(または修得した外国語)である場合が預言であり、母語とか修得した外国語などでなく、その人が普段語ることができない言語である場合が異言です。異言は、実際に他の民族によって話されている言語である場合(日本語しか話せない人がフランス語や中国語で祈りだすような場合)と、そうでない場合(このような場合にコリントの人たちは「天使の言葉」と考えたのかもしれません)があります。また、祈る人にとっては異言であっても、それを聴く人には預言となる場合(たとえば日本語しか話せない人が英語を話す人たちがいるところで英語で祈り出したような場合――使徒言行録二章にはこの現象が多くの言語で起こったことが伝えられています)もあります。パウロの福音宣教によって形成された諸集会には、このような預言や異言のカリスマが与えられていましたが、コリントの集会はとくにこのカリスマが豊かで、それだけに混乱や危険も大きかったようです。
 使徒時代の集会はこのような御霊の現れは盛んであり、それはモンタノス運動にも見られるように二世紀後半にも続いていました。しかし、聖職制度が確立し、教義が厳密になって「正統教会」が形成されるに従って、御霊の現れは抑えられるようになります。この傾向はキリスト教会がコンスタンティヌス以来ローマ帝国と結びついてからは、ますます強くなり、御霊の現れ(カリスマ)は「異端」とされた運動の中で僅かに伏流として見られるにすぎなくなりました。しかし、今世紀初頭にアメリカで起こったペンテコステ運動以来、カリスマは再びカトリック教会をも含む世界の諸教会で復興し、危機的な時代の福音の進展に重要な地位を占めるようになりました。

最近のカリスマの復興については、キリスト新聞社刊行の手束正昭『キリスト教の第三の波ーカリスマ運動とは何かー』を参照してください。

 わたしは若いときにペンテコステ派に属するフィンランド宣教師の教会で福音に接し、そこで育ち、いやしや預言・異言のある集会を体験してきました。その後、この運動の体質に問題もあることを感じ、神学的な探求に励んできましたが、そうすればするほど、パウロが「御霊の事態を熱心に求めなさい」(一四・一)と言っていることの重要性を痛感します。それで、それぞれの御霊の賜物について、とくにここで重視されている預言の賜物についてさらに詳しく探求する必要がありますが、それは別の機会に譲り、ここでは「エクレーシアを形成するために」というここでの主題に関連する限度内で、簡単に触れるにとどめます。
 預言と異言は、ともに御霊が直接語らせる言葉として貴重ですが、異言がそれを語る本人だけにとって有益であるのに対して、預言は他の人に理解できる言葉で語るので、集会にとって有益であるという観点から、異言よりも「預言する者の方がまさっている」とされます。 この章でパウロは繰り返し《オイコドメオー》(建てる)という動詞(およびその名詞形)を用いています(三、四、五、一二、一七、二六節)。この「建てる」という言葉がこの章のキーワードとなります。この章の結論は「すべてのことを建てるためにしなさい」です(二六節)。
 この動詞はもともと「(家屋などの建造物を)建てる」という意味の動詞ですが、比喩的に交わりや共同体を「形成する」という意味にも、さらに広く「益する、強める、確立する」という意味にも用いられます。「愛は建てる」のです(コリントT八・一)。ただ、「建てる」という訳語(岩波版青野訳)は、「教会を建てる」という場合に、教会堂という建物を建てるという意味に誤解されかねません(文脈はそういう誤解を許しませんが、訳文が一人歩きをしたとき誤解を招きます)。おそらく協会訳はそのような誤解を避けるために、(文語訳の「徳を建つ」に従って)「教会の徳を高める」と訳したのでしょうが、この訳では、教会の道徳レベルの向上という狭い意味に限定されかねません。新共同訳は、おそらくこの両方の誤解を避けるために、目的語が教会の場合も個人の場合も、「造り上げる」と訳しています。しかし、「エクレーシアを建てる」であれば、上記の誤解の余地はありませんから、「建てる」という原意を生かす訳語を、集会にも個人にも使うことができると思います。
 先の段落(一〜五節)では、「エクレーシアを建てる」のに有益かどうかという観点から、異言と預言が比較されました。それに続いて、異言はこの点では有益でないことが説明されます。この説明は、パウロの手紙の本文自体が懇切な説明になっていますから、ここでは本文を掲げるだけにします。

 6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているのか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。(一四・六〜一一)

異言の性質

 では、異言をどう扱えばよいのかが、異言という現象の性質を説明しながら進められます。ここでも基本原則は「エクレーシアを建てるために」です。異言もその性質をよく理解して、「エクレシーアを建てるために」賢明に用いるように勧告されます。

 12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。(一四・一二〜一九)

 異言で祈る場合、霊は祈っているが理性は実を結ばないと言われます。異言で祈るとき、御霊がわたしたちの舌(言語器官)に直接働いて(「異言」の原語は「舌語り」という意味のギリシア語です)、わたしたちが理解できない言葉で祈らせるので、わたしたちの祈りは、いわば理性を素通りしていることになります。その祈りは、理解できる言葉によってわたしたちの考えや生き方を形成する力をもちません。
 異言がこのような性質のものであれば、どうしたらよいのでしょうか。パウロは、「霊で祈り、理性でも祈る」ように、「霊で賛美し、理性でも賛美する」ように勧めます。「霊で祈る」とは、ここでは異言の祈りであり、「理性で祈る」とは目覚めた意識をもって、自分が理解できる言葉で祈ることです。パウロはこれを同時にするように求めているわけではありません。異言で祈るだけでなく、理性で祈る時間も持つように勧めているのです。とくに集会では、他の人たちを「建てる」ことを考えて、異言で祈ることを控え、理性によって祈り、賛美し、語ることを勧めるのです。これは、異言のカリスマを与えられている人たちが、ともすれば自分の賜物を誇り、集会においても異言でばかり祈るのを戒めていると考えられます。
 異言を語る者は、その異言を「解釈する」賜物をも求めるように勧められています(五節、一三節)。「異言を解釈する」ことも御霊の賜物の一つであって(一二・一〇)、修得する外国語能力ではありません。異言を語らせる同じ御霊が、本人なり他の人にその意味を示して母語で語ることができるようにするとき、「異言を解釈する」と言われます。異言が解釈されると、それは預言と同じになります。なお、ここでパウロは「わたしはだれよりも多くの異言を語れる」と述べていますが、これは「第三の天にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」体験(コリントU一二・一〜四)に見られるように、「天使の言葉」をも含む多くの種類の異言で祈る賜物を与えられていたことを指しているのでしょう。

しるしとしての預言と異言

 20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇でわたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」 22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。(一四・二〇〜二五)

 異言の賜物を誇り、異言の性質をわきまえないで、子供が玩具を喜ぶように見せびらかすコリントの人々に対して、パウロは賜物の使用については大人の判断を持つように求めます。そのために律法(聖書)を引用して諭します。引用はイザヤ書二八章一一〜一二節で、本来の状況とか文脈とは無関係に、それが「異国の言葉を語る」ことを扱っているので、異言の性質を教える根拠として引用されます。イザヤの預言で、異国の言葉で語りかけられてもこの民は耳を傾けない(信じない)であろうと言われていたことを引用して、異言は信じていない者、信じようとしない者に向かって与えられたしるしであるとします。異言は人々を信仰に導くのに有効なしるしとはならない、かえってかたくなにするだけのしるし、不信仰へのしるしであると言っているのです。信じていない人が、異言だけで祈りが行われている集会に入ってきたら、気が変になった人たちの集会と思い、つまづくだけです。たしかに、全員が異言だけで祈る集会は、一種の狂騒状態に陥っていると見られても仕方がない場合があります。
 それに対して、預言は信じている者、信じようとしている者のために与えられているしるし、信仰へのしるしであるとされます。このような人たちは、預言が語られている場では、魂の奥底に働きかける言葉を聴き、信仰に導き入れられ、神の臨在にひれ伏すことになります。こうして、ここでは預言と異言が宣教の視点から、すなわち周囲の人たちを信仰に導くのに有益かどうかという視点から較べられているのです。ここでも、他の人たちの益になるかどうかという視点からする「大人の判断」が求められているのです。

集会の秩序

異言と預言の秩序

 26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。(一四・二六〜三三a)

 ここで締め括りとして、今までに述べられた御霊の賜物によって実際に集会を進めるにあたっての具体的な勧告がなされます。ここでまず注目すべきことは、集会に集う人たちがみな「それぞれ」発言して、集会を形成していることです。「一人一人が皆、預言できるように」なることが集会の本来の姿とされています。これは、現代の制度的な教会において、資格のある特定の聖職者だけが発言して、会衆は聴いているだけという「礼拝」とまったく違った姿です。
 二六節に列挙されている発言については、新共同訳は「詩編の歌をうたい」と訳していますが、必ずしも旧約の詩編を指すのではなく、「賛歌をうたい」と訳す方が適切でしょう。初期の集会では御霊による賛歌(霊歌)がよく出たようです(エフェソ五・一九)。「教えをなし、啓示を語り」というのは、御霊による預言をその内容から分けて列挙したものであり、二九節で両者は「預言する者の場合は」とまとめられていると見られます。
 このような各自の発言は「すべてはあなたがた《エクレーシア》を建てるために」するようにと、勧告の中心点が明示され、続いて、どうすればよいのか具体的に説明されます。異言の場合は「二人かせいぜい三人が順番に」語るように求められます。多くの人が同時に異言で祈ると、集会は一種の狂騒状態に陥る危険があるからです。忘我狂騒(エクスタシー)は《エクレーシア》の形成にとって害があっても益はないからです。さらに、異言は解釈されてはじめて預言と同じく「他の人を建てる」のですから、異言を解釈する賜物を与えられている者がいなければ、集会では語らないで、一人でいるときに神と自分だけの交わりの中で異言の祈りを用いるように勧告されます。
 預言の場合も、二人か三人にとどめ、他の者たちがその預言を吟味するように求められます。霊感された言葉だからといって手放しで受け入れるのでなく、その預言が伝えられた福音の伝承(たとえば一五章一〜五節など)や使徒の教えから逸脱しないかどうかを吟味するように求められます。預言する者は二人か三人にとどめ、「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」と勧められるのは、教えや啓示を語ることが特定の人に偏ることなく、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるように」なるためです。
 霊感による忘我恍惚(エクスタシー)の状態にある者は、霊に引き回されて自己をコントロールすることはできませんが、キリストの御霊による預言や異言の場合は、「預言者の霊は預言者に服する」ので、集会の状況を配慮して、預言や異言を語り始めたり中止したりすることができるのです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」、神の霊によって語る者は、忘我狂騒の中ではなく、秩序ある平和の中にカリスマを用いるのです。
 この段落に描かれている集会の様子は、最初期の集会が預言者集団のような性格をもっていたことを示唆しています。パウロがヘレニズム世界に形成した異邦人集会は、「主の晩餐」を中心にする祭儀集団として、当時の人々の密儀宗教に対する近親感に助けられて発展したとする見方がありますが、一種の預言者運動としての性格も見逃すことはできません。この性格は二世紀のモンタノス運動に典型的に現れることになります。

集会における婦人

 33 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。(一四・三三b〜三六)

 この段落は、女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めた一一章二〜一六節の段落と矛盾するのではないかという問題を提起します。この問題に対してさまざまな解決が提案されてきました。一つの解決は、この段落は本来の書簡にはなく、テモテへの手紙T二章一一〜一二節に従って後で挿入されたと見る説です。たしかに、この段落を集会での婦人の発言を全面的に禁止するものとするならば、一一章と矛盾し、女性の伝道活動をパウロが評価している事実とも反するので、このような説明に至らざるをえません。しかし、内容が理解困難であるからといって本文から取り除くことには慎重でなければなりません。
 本文を尊重して理解するのであれば、婦人に対する沈黙の命令は全面的なものではなく、特別の場合に対するものであると理解せざるをえません。それがどういう場合であるのか、この簡単な本文からは決めることはできません。おそらく、集会での議論のさいに質問ばかりして討論を妨げることを指しているのではないかと考えられます。沈黙が「集会では」と強調されていること、「家で自分の夫に聞きなさい」と言われていることなどから、おもに既婚婦人が公の議論の場でしきりに質問を発して、御霊による預言や討論の流れを妨げることを戒めていると理解してよいでしょう。
 ここで用いられている「婦人」という語は、一一章の「女」と同じ用語ですから、女性の中の特別な立場の人だけを指していると理解することはできません。この段落での「婦人」についての発言は、パウロよりも牧会書簡の思想に近いのは事実のようです。集会における女性の地位については、古代教会において大きな問題となりました。グノーシス主義諸教会では女性が教えたり礼典を執行することを認めていましたが、正統派では認めず、女性が教会を指導することを異端のしるしとして攻撃しました。この問題については、牧会書簡を扱うときに取り上げることにします。なお付言すれば、このような女性差別はフェミニスト神学からは攻撃の的になるのですが、コリント書簡のこの箇所については、現代のフェミニスト神学の代表的女性神学者であるE・S・フィオレンツァは、後代の挿入とはせず、ここにあげた理解とほぼ同じ線で注解し、既婚女性が公の場で発言することを嫌うローマ社会の傾向の現れとしています(ハーパー聖書注解)。

結びの勧告

 37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。(一四・三七〜四〇)

 一二章から一四章にかけてパウロが書いた御霊のカリスマとその取り扱いについての勧告は、自分たちこそ「霊の人」であると誇っているコリントの人たちに素直に受け入れられることは難しいと、パウロは予感していたのでしょう。パウロは主から直接遣わされた使徒としての立場で、自分の書いた勧告を「主の命令」として認めることを求めます。そして、最後にもう一度、勧告の要点をまとめて全体を締め括ります。預言は熱心に求めるように積極的に勧められていますが、異言は「禁じてはならない」という消極的な扱いをされています。そして最後に、何よりもパウロがコリントのカリスマ的な集会に求めている「すべてを適切に、秩序正しく」行うようにとの言葉で終わります。 

霊と理性

 御霊の現れ、とくに預言と異言というカリスマを扱った一四章で、パウロはしばしば「理性」という言葉を使っています。「わたしの霊が祈る」ことと、「理性で祈る」ことが対比されています(一四〜一五節)。また、預言を「吟味する」(二九節)のも、秩序正しくカリスマを用いるように「判断する」(二〇節)のも理性の仕事です。預言者の霊は預言者(の理性的判断)に服するのです(三二節)。この章は、信仰における霊《プニューマ》と理性《ヌース》の関係を考えさせます。
 人間存在における霊と理性は、単純に無意識の領域と意識の領域の対立と同一視することはできませんが、霊は無意識の領域を働きの場とし、理性は意識の領域で働くとは言えるでしょう。無意識の領域の科学的探求は現代心理学の大きな貢献ですが、人間は古来、意識の奥に理性では理解したりコントロールすることができない領域があることを知り、その領域での出来事やその現象を「霊」という言葉で表現してきました。それを言葉で物語るのが神話であり、その領域を人間の幸福のためにコントロールしようとする営みが宗教であるとも言えます。
 これまで繰り返し強調してきたことですが、キリストの福音は霊の次元の出来事です。キリストは霊であり、霊なるキリストが信じる者の中に働いて引き起こしてくださる霊の次元での変化が救いであり、新しいいのちであるのです。現代のキリスト教が無力であるのは、この霊の次元を理解することができず、理性の働きだけで理解しようとして、キリスト教を教理と道徳の問題にしてしまっているからだと考えられます。
 しかし他方、その霊の次元における出来事や変化は、意識の領域に実を結び、それを通して、身体を含む人間の全存在を変えていくのでなければ、具体的な人間全体を変えていくことはできません。霊の働きやその現れだけに終始して、それを意識の領域で理性をもって認識し、他の領域と正しく関連づけて保持しなければ、霊の力は軌道のない機関車かハンドルのない自動車のように、どこに向かってわたしたちを引っ張っていくのか、コントロールできない危険に陥ります。理性も人間を人間とするために神から与えられた能力であって、この理性によってわたしたちは霊の現実を人間存在の全領域に結びつけるのです。霊の現実は理性を通して人間の全体に実を結ぶのです。
 自分たちこそ「霊の人」であると誇るコリントの人たちに、パウロはこの一四章で理性に実を結ぶことの重要性を説きました。これによって、パウロはその後のキリスト教二千年の歴史に方向づけを与えたのです。キリストの霊の現実から発して、理性によって、それが人間の生活、道徳、思想、芸術、あるいは政治にいたるまで、文化の全領域に発現して形成される全体が「キリスト教」なのです。キリスト教二千年の歴史は、自分たちの中にあるキリストの霊の現実を理性によって文化と歴史の中に実現しようとしたキリスト教徒の苦闘の歴史なのです。