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第二節 聖霊の愛

愛がなければ

 御霊の賜物について詳しく論じた後、最後に使徒は御霊によって生きる「最高の道」を指し示します。

 31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。(一二・三一)

 こう言って、使徒パウロは愛の道を描きます。最初に、人の生を生きるに値するものにするのは愛であることが、美しい詩的な表現で謳われます。一二章であげられた御霊の賜物が列挙されて、それがどれほど豊かに与えられていようと、愛がなければすべては空しいと断定されます。愛こそ神の霊の本質であり、それがなければ、いかなる霊の現れも神とは関わりのないもの、すなわち空しく、それを持つ人に何の益ももたらさないのです。

 1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(一三・一〜三)

 最初に異言が取り上げられているのは、コリント集会の人たちがこの特異な御霊の現れをとくに誇っていたからでしょう。彼らが語る異言は、異国の人たちの言葉だけでなく、天使たちの言葉であるとされていたことがうかがわれます。たしかに、御霊が語らせる異言には、地上のいかなる言語でもなく、天上の響きを感じさせる霊歌が出る場合があります。
 続いて、預言と知識が取り上げられます。知識《グノーシス》についてはすでに愛に対立するものとして警告されていました(八・一)。コリントの集会には自分の霊知《グノーシス》を誇る人たちがいたので、パウロはとくにこの傾向を戒めなければなりませんでした。 また、御霊の力によって病気をいやし奇跡を行う人は、そのような力ある信仰を誇り、他の人たちの信仰を見下げる風潮が出てきます。そのような人たちに対して、山を移すほどの信仰(この表現にはイエス伝承の影響が見られます)も、愛がなければ何もないのと同じだと警告します。
 最後に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」とか「わが身を死に引き渡す」という最高の宗教的行為も、愛に生きる中で行われるのでなければ、人には誇ることができても、神の前では何の益にもならないとされます。施しとか喜捨は、たんなる道徳的行為とか慈善行為ではなく、自己否定の表現であり、高い宗教的境地に至るための道として、どの宗教でも高く評価されていました。また、信仰告白のために「わが身を死に引き渡す」ことは最高の敬虔の表現です。ユダヤ教もすでにこのことを知っていました(たとえばマカバイU)。原始キリスト教団も体験し、パウロ自身も福音のために「わが身を死に引き渡す」ような体験をしてきました。そのような最高の宗教的行為も、愛がなければ何の益もないとされます。
 こうして、愛だけがすべての霊的な能力と宗教的行為を意味あるものとする源泉であることが、「愛がなければ」という形を用いて詩的な表現で歌い上げられます。では、その愛とはどういうものでしょうか。愛はいのちですから、言葉で定義したり説明したりできません。愛が実際に働く姿を描くことで示されます。

愛の働き

 4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(一三・四〜七)

 ここで愛《アガペー》の働きが一四の動詞を用いて描かれます。愛は御霊という神のいのちの本質です。それが人の中に宿り、働き、現れるときの姿が、これ以上簡潔にできない形で見事に表現されます。
 初めの二つ、「忍耐強い」と「情け深い」は、愛の積極的な働きを描きます。「忍耐強い」という動詞の名詞形はガラテヤ書(五・二二)では「寛容」と訳されています。違いや対立、敵意までも耐えて、相手を寛い心で受け入れる姿です。「情け深い」という動詞は、父が「情け深い」と言われるときの形容詞(ルカ六・三五)を動詞にしたものです。父がそうされるように、受ける価値のない者にも無条件で与える姿勢です。この初めの二つの動詞の背後に、イエスが言われた「敵を愛しなさい」とか「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者になりなさい」(ルカ六・三六)というお言葉が響いています。
 次の「ねたまない」から「不義を喜ばない」まで、八つの否定形の動詞が続きます。否定されている動詞は、ねたむ、自慢する、高ぶる、非礼を行う、自分の利益を求める、いらだつ、恨む、不義を喜ぶ、の八つです。この八つの動詞は、人間の本性(パウロはそれを肉と呼んでいます)に巣くう生来の悪を見事に列挙しています。わたしたちはこれらの本性的な悪(パウロはそれを肉の働きと呼びます)を努力や修行で抑えきることはできないのです。これは自我心とか自己主張という人間本性に根ざしているからです。そのような本性的な悪を駆逐して、そのようなことを「しない」ようにさせるのは、御霊の愛の力だけです。御霊は肉と相反する質のいのちだからです(ガラテヤ五・一六〜一七)。
 ところで、ここに列挙されている行為をすべてしたから愛が実現するという性質のものではないことに留意しなければなりません。愛はそういう人間の倫理的・道徳的行為の総計とか結果ではないのです。愛はいのちの質であり、御霊の賜物、御霊の働き、その現れなのです。御霊がないところには《アガペー》の愛はありません。
 使徒は最後に、愛の働きを一文で要約して締めくくります。この最後の文は、わたしは次のように訳しています。

 「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」。

この訳については、先に福音講話集『キリスト信仰の諸相』の198頁で説明しています。繰り返しになりますが、引用しておきます。
 最初の動詞《ステゲイ》の意味については議論があります。新共同訳も口語訳も共に「忍ぶ」と訳していますが、それでは最後の「耐える」と同じ意味になってしまい、この簡潔な句の力を大いに損ないます。この動詞の原意は「覆う」という意味であって、そこから派生した語群には「覆い」とか「屋根」という語も多くあります。ここでは「覆う」(英語でcover)と理解して「包み込む」としたかったのですが、文のリズムの上から「包む」としました。キッテルの新約聖書神学辞典もこの訳を採っています。最後の動詞《ヒュポメネイ》は、普通「耐える」と訳されますが、これも原意の「下にとどまる」から「担う」と訳しました。英語ではbear に相当します。
 なお、この私訳について、そこで述べたことの中から一カ所だけを以下に引用しておきます。

 この句で用いられている「すべて」は、全部とか全体という意味ではありません。関わる個々の相手とか状況について、いかなる相手をも、いかなる状況においても、包み、信じ、望み、担うという意味です。相手の価値や立場がどのようなものであっても、敵であっても、また、状況がどのように不利で絶望的であっても、相手を包み込み、信じ抜き、共に喜ぶ将来を望み、苦難・苦悩を自分の側で担うのです。それは人間から出るものではなく、神の霊だけが可能にする愛です。そうすることによって、破れ果てた人間の愛を癒やし、壊れた関わりを建て上げてゆくのです。
 わたしは、パウロが「すべてを」と言っているところを、次のような比喩で表現して愛唱しています。
「愛は、海のように包み、太陽のように信じ、星空のように望み、大地のように担う」。
 海はどのようなものでも大きな懐に包み込んでいます。そのような形のものは包み込めないと拒否しません。太陽は、よい実が生じることを信じて万物に命の光を注いでいます。星は闇夜に輝いて、行くべき方向を指し示しています。大地は万物をその上に担い、どのようなものを載せても重くて嫌だと苦情は言いません。そのように、破れ果てた人間世界で、《アガペー》は包み、信じ、望み、担うのです。

愛は滅びない

 8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一三・八〜一三)

 愛《アガペー》は聖霊の賜物《カリスマ》の一つです。しかし、《アガペー》というカリスマは、預言や異言、知識《グノーシス》や力ある業などの他の賜物とは違いがあります。その違いがここで語られます。すなわち、預言や異言や知識などの賜物は「部分的なもの」、「一時的なもの」であるのに対して、愛《アガペー》は「完全なもの」、「永続するもの」である点が決定的な違いです。
 預言や異言や知識が「部分的」と言われるのは、その賜物がすべての人ではなく、特定の役割を担う一部の人だけに与えられる賜物であるという意味もありますが、ここでは、その内容が真理の全体ではなく、一部にしか参与していないという意味で「部分的」と言われています。それに対して愛は、御霊によって生きるすべての神の子に与えられる賜物であるだけでなく、それは人を真理の全体にあずからせるという意味で「完全なもの」と言われています。愛《アガペー》は神のいのちの質そのものであるからです。そして、「完全なもの(愛)が来たときには、部分的なものは廃れる」ことが、幼子と成人のたとえを用いて語られます。部分的な賜物で満足し誇っている者は幼子にたとえられ、愛という完全な賜物に生きる者が、人生の全体を理解している成人にたとえられます。大人となった今は、幼児の生き方は卒業したのです(このことを語る文の「なった」も「棄てた」も現在完了形)。
 次に鏡のたとえが来ます。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、今の鏡のようにはっきりと写して見ることができませんでした。鏡のたとえでは、「今は」と「その時には」が対照されています。今は鏡を通して「おぼろに」(原意は「謎において」)見ている(現在形)が、その時にはもはや鏡を通してではなく、顔と顔を合わせて見るようになる(未来形)というのです。そのことをパウロは一人称単数形を用いて、自分の確信として述べます。今わたしは部分的に知っている(現在形)だけであるが、その時には、神がわたしを知っておられるようにはっきりとわたしは神を知るようになる(未来形)というのです。ここで用いられている「はっきりと知る」という動詞の名詞形が《エピグノーシス》です。地上の《グノーシス》(知識)は部分的で不完全です。しかし、完全なものが来る「その時には」、《エピグノーシス》(完全な霊知)が実現するのです。先の幼子のたとえでは、愛の賜物が他の賜物を完成するという地上の体験が語られていましたが、この鏡のたとえでは、完全なものが来るのは終末のこととされ、現在体験されている預言や異言や知識などのカリスマは、部分的であり一時的なもの(過ぎ去っていくもの)に過ぎないことが強調されるのです。その上で、愛の賜物は「その時にも」存続する永続的な賜物であることが指し示されているのです。
 預言や異言や知識というようなカリスマ(御霊による能力)が、《エクレーシア》形成のために、必要に応じて、一部の人に一時的に与えられる性質のものであるのに対して、同じ御霊が生み出してくださるものでも、「信仰と希望と愛、この三つ」はすべて主に属する者たちに与えられ、完全なものが来る「その時には」廃れるものではなく、「いつまでも残る」もの、その時にも存続するものなのです。その中でも愛は、直接神のいのちの質を表現するものとして、「最も大いなるもの」と呼ばれます。

「信仰と希望と愛、この三つ」については、今までに何回も論じましたので(たとえば福音講話集『キリスト信仰の諸相』)、今回は触れないでおきます。また、聖霊の賜物として愛については、同書第三部「愛の諸相」の第二講「十字架の愛・聖霊の愛」を参照してください。 なお、カール・バルトが「第一コリント書一五章についての大学の講義」を著書として出した『死人の復活』(一九二四年)において、第一五章こそこの手紙の本来の主題が現れた箇所であり、この手紙のクライマックスであるとしたのに対して、ブルトマンが批判の論文を発表し(一九二六年)、この手紙全体のクライマックスは第一二章から第一四章の説明であるとし、実際のクライマックスはその中心にある第一三章であるとしました(新教出版社『ブルトマン著作集』第一一巻所収)。二〇世紀を代表する二人の神学者が、この手紙の峰を別の章に認めたことは、それぞれの神学的立場の表現として興味を惹きますが、一三章と一五章がこの手紙の二つの高峰をなしていることは間違いありません。そして、一五章が終末的であることはもちろんですが、一三章も、ブルトマン自身が言っているように「アガペーは道徳的理念ではなく、終末論的出来事である」のです。近代主義神学は福音の終末論的地平を見失っていましたが、二十世紀に入ってそれが回復されてきていることが、両者のコリント書簡理解にも見られます。