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第五章 聖霊の賜物

        ― コリントの信徒への手紙 T (5)―




第一節 エクレシアの形成

はじめに

 一一章(二節)から、パウロはコリントの信徒が集まるときの集会の在り方について心配して、勧告を始めました。最初に、伝え聞いていた女性のかぶり物の問題や主の晩餐の問題を取り上げましたが、一二章からはコリントの人たちが質問してきた問題に答えます。すなわち、「霊的な賜物について」回答します。パウロの回答から、コリントの人たちが主の晩餐と祈りを共にする集会の場には、実に豊かな御霊の賜物が注がれ、集会は御霊の多様な働きと現れに満たされ、霊の熱気に高揚していた様子がうかがわれます。この箇所(一二章〜一四章)は、ヘレニズム世界における最初期のキリストの民の集会がどのような様子であったのかをうかがい見る貴重な窓です。
 このような霊的熱狂には問題も伴いました。御霊の働きという未知の現実に直面して、コリントの人々には大きな喜びと共に戸惑いもあったのでしょう。彼らの質問に対して、パウロは御霊の働きを抑えつけることなく、彼らが受けている霊の賜物が「《エクレーシア》を建て上げる」ようになるために、細心の注意を払って勧告します。その勧告の中に、福音における聖霊の意義と働き、《エクレーシア》の本質とわたしたち個々の信徒との関わりというような福音の基本的内容が示されており、「パウロによるキリストの福音」の理解のためにきわめて重要な箇所となっています。

御霊の働き

聖霊による「キュリオス」告白

1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(一二・一〜三)

 霊の事態について語るにあたって、パウロはまず最初に、「霊の事態については、あなたがたに無知でいてもらいたくない」(一節直訳)と言って、神の霊と他の霊の区別という基本的な問題を取り上げます。

「霊的な賜物」と訳されているギリシア語は、《プニューマティコス》(霊的な)という形容詞の男性複数形または中性複数形で、「霊の人たち」、または「霊の事柄」を意味します。四節以下で「賜物」と訳されている《カリスマタ》(《カリスマ》という中性名詞の複数形)とは違う用語です。新共同訳をはじめ大多数の近代語訳は「霊の事柄」と理解していますが、「霊の人たち」という理解も可能です(NRSVは本文で「霊の賜物」と訳し、欄外の注で「霊の人たち」という訳をあげています)。一節が一二章から一四章までの全体の主題を提示しているとすると、「霊の事柄」とか「霊の賜物」という訳がふさわしいのですが、一節を一二・一〜三の段落だけの主題提示とすれば、「霊の人たち」とか「霊的な人たち」という訳も十分可能です。その場合は、霊の知識を持っていることを誇る「霊の人たち」について、その霊の質を見分けるように求めていることになります。

 集会の中で、おそらく霊に感じた高揚の中で、「イエスは《アナテマ》だ」と発言する者があって、コリント集会の人たちはこれをどう受け取ればよいのか分からず、戸惑っていたのでしょう。《アナテマ》とは、神から見捨てられたもの(新共同訳)、のろわれたもの(協会訳)を意味する激しい言葉です(一六・二二、ガラテヤ一・八〜九)。集会の中でこのような発言が出てくることは、現在のわたしたちには理解が困難で、様々な解釈が行われています。おそらくこの発言は、コリント集会の中のグノーシス的な傾向の人たちが、「霊のキリスト」だけを信仰の対象として、「肉のイエス」を拒否したものではないかと考えられます。
 霊魂と物質の二元論的な傾向の強いギリシア宗教思想の中で、この頃すでに地上の物質的な世界を絶対的な悪と見て、ただ霊の世界だけに価値を見いだす傾向が始まっていました(この傾向は後にグノーシス主義という体系的な宗教形態をとることになります)。パウロは福音を宣べ伝えるさい、霊なるキリストを強調し、イエス伝承に依存することが少なかったので、もともと霊的世界の知識や体験だけを重視する傾向のギリシア人信徒の中に、地上のイエスの出来事を軽視したり無視したりする傾向が生まれ、それが霊感された発言の中で肉のイエスを拒否する言葉になったのではないかと考えられます。
 このような発言が実際にあったという理解は、パウロがコリントの人たちに異教徒であったときの体験を思い起こさせている(二節)ことからも支持されるでしょう。「もの言わぬ偶像」を拝む異教にも霊感はあり、そこでも実に多様な言葉が霊感された言葉として通用していました。だから、ただ霊感された状況で語られた言葉だからという理由だけで、その言葉を無条件で信じてはならない、その内容からそれが神の霊によるものであるかどうかを吟味しなければならない、と警告しているのです。
 そこでパウロは、発言させる霊が神の霊であるか他の霊であるかを判断する基準を示します。「イエスは《アナテマ》だ」と語る霊は神の霊ではありえず、「イエスは《キュリオス》である」と告白する霊だけが「聖霊」、すなわち神の霊であるとします。この「イエスは《キュリオス》である」という告白こそ、福音信仰の基本中の基本になる信仰告白です。
 《キュリオス》とはどういう方であるのかについては、今までに繰り返し述べてきました。《キュリオス》とは、死者の中から復活し、神の右に上げられ、天上、地上、地下の万物がその前にひれ伏す方です(フィリピ二・六〜一一)。ここでは、あのナザレのイエス、十字架につけられて殺された現実の地上の人イエスこそが、その《キュリオス》であることが強調されています。このイエスこそが《キュリオス》であることを否定する霊は、いかに深い霊的知識を誇っていても、神からの霊ではありえないのです。
 十字架につけられて殺されたイエスが《キュリオス》であるという告白は、人間の目には不条理の極みであり、受け入れることができないものです。その告白を可能にするのが聖霊です。イエスが《キュリオス》であることを認識させ、それを告白しないではおれないようにする力が聖霊です。この告白こそ聖霊のもっとも基本的な働きです。

様々な賜物

4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ御霊です。5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。7 一人一人に御霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。8 ある人には御霊によって知恵の言葉、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられ、9 ある人にはその同じ御霊によって信仰、ある人にはこの唯一の御霊によって病気をいやす力、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。11 これらすべてのことは、同じ唯一の御霊の働きであって、御霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(一二・四〜一一)

 イエスを《キュリオス》と告白させる御霊の基本的な働きを明らかにしたパウロは、次に集会における御霊のさまざまな働きについて述べます。ここ(八〜一〇節)に上げられているさまざまな御霊の働きは、コリント集会の人たちにとっては日頃目にしている身近な体験でしたが、現代の教会にとっては理解しがたい不思議な現象も多いので、最初にそれぞれの内容について簡単に触れておきます。
 最初に「知恵《ソフィア》の言葉」と「知識《グノーシス》の言葉」が来ます。この二つを厳密に区別することは困難です。パウロはすでに二章(六〜一六節)において「この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもなく、隠されていた、奥義としての神の知恵」について語っています。この「神の知恵」は、世の霊ではなく、神からの霊によって与えられ、その御霊によって「神から恵みとして与えられているもの」を理解するのです。ここに語られている「知恵」は「隠されていた神の奥義《ミュステーリオン》」と「神から賜っている恩恵の事態」の両方を理解する能力です。前者はイスラエルの歴史の中に隠されていた「神の秘密の(救済)計画」の理解であり、具体的には聖書(旧約聖書)を解釈するという形で現れる知恵です。後者は、神がイエス・キリストの地上の働きと言葉によって、また十字架と復活という出来事によって最終的に与えてくださった恩恵による救済の事態を的確に理解する能力です。そして、このように御霊によって与えられた「知恵」の内容を語るには、「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、御霊に教えられた言葉によって」語らなければなりません。この言葉が「知恵の言葉」、「知識の言葉」であり、《エクレーシア》の信仰内容を指導する重要な賜物です。パウロは、優れた聖書知識だけでなく、第三の天にまで引き上げられるという霊的啓示体験も含めて、このような「知恵の言葉」に満たされた典型的な人物でした。
 次にあげられている「信仰」と「病気をいやす力」と「奇跡を行う力」の三つは、ほぼ同じ内容の《カリスマ》を指しています。ここで「信仰」と言われているのは、イエスを復活者キリストと信じ、主と告白するという意味の信仰、すなわち「信仰によって義とされる」というときの信仰とは違い、「山を移す信仰」(一三・二、マルコ一一・二三、ルカ一七・六)と呼ばれている力ある業を行う特別の霊的能力としての信仰です。それは「奇跡を行う力」とも呼ばれます。そして、その奇跡は大部分「病気をいやす力」として現れます。パウロ自身、このような「しるしや奇跡の力」に豊かに恵まれていました(ローマ一五・一九)。御霊に溢れた集会では、主イエス・キリストの名によって按手して祈りますと病気が奇跡的にいやされるという現象がしばしば見られます。コリントの集会はこのような性質の霊的賜物に豊かに恵まれていたようです。
 次のグループ「預言」と「異言」は、霊感された祈りの中で、祈る本人の意識を超えて御霊によって直接語り出される言葉であって、それが集会の者が理解できる日常の言語である場合が「預言」であり、それが本人の母語でない全然知らない言語である場合が「異言」です。その「預言」がどのような霊から出たものであるかを見分ける「霊を見分ける力」、また「異言」の意味内容を理解して母語で語り出す「異言を解釈する力」を含めて、パウロは「預言」と「異言」という特異な《カリスマ》については、一四章で詳しく扱っていますので、ここではそのような御霊の働きがあるという事実だけにとどめておきます。
 このような御霊の諸々の働きは、「賜物」(四節)、「務め」(五節)、「働き」(六節)、「現れ」(七節)などと、多様な言葉で表現されます。そして、それぞれの表現にふさわしい内容で、その多様な働きが同じ源泉から出ていることが繰り返されます。
 「賜物《カリスマ》はさまざまですが、同じ御霊です」(四節直訳)。ここにあげられている様々な霊的能力が《カリスマ》(賜物)と呼ばれています。それは受ける人の資格とか能力と無関係に、恩恵《カリス》によって与えられている能力であるからです。ここにあげられている霊的能力の一つを与えられている人が、その霊的能力を何か自分の身に備わった能力であると勘違いして誇るならば、それは大きな間違いです。《カリスマ》として賜っている能力は様々であっても、同じ御霊が賜る能力なのです。
 「務めはさまざまですが、同じ主です」(五節直訳)。ここに上げられているさまざまな霊的能力は、その人の利益のためではなく、人に仕える能力として与えられています。仕え方はさまざまですが、仕える主人は同じ方、すなわち主キリストに他なりません。
 「働きはさまざまですが、すべてのことにおいてすべてをなされる神は同じです」(六節直訳)。ここにあげられたさまざまな御霊の働きをなしておられるのは同じ神です。ここで神が、「すべてのことにおいてすべてをなされる神」と表現されています。神は「天地万物の創造者にして保持者」であるだけでなく、目の前の《エクレーシア》の中で働いておられるのです。こうして、《エクレーシア》は神、主キリスト、御霊が一体として具体的にその働きを現される場となっているのです。「三位一体」は理論の問題ではなく、《エクレーシア》の具体的な体験なのです。
 「一人一人に御霊の現れが与えられているのは益となるためです」(七節直訳)。誰の益かは述べられていませんが、一二章〜一四章全体の論旨からすれば、「《エクレーシア》形成の益になるために」と理解すべきでしょう。こう前置きして八節以下で、「知恵の言葉」から「異言」にいたる様々な《カリスマ》が「御霊の現れ」としてあげられます。主は御心の欲するままに、《エクレーシア》を構成する一人一人に「御霊の現れ」を与えて、《エクレーシア》の形成に奉仕させられるのです。御霊は目に見えません。風(《プニューマ》は風という意味もあります)のように、どこから来てどこへ行くのか誰も知りません。しかし、御霊が働かれるときには「御霊の現れ」があります。コリントの集会はこの「御霊の現れ」が豊かな集会でした。

キリストの体

一つの体へバプテスマされる

12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13 つまり、一つの御霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの御霊をのませてもらったのです。(一二・一二〜一三)

 その現れがどのように多様であっても、それは同じ御霊の《カリスマ》(賜物)であり、同じ主に仕える務めであり、同じ神の働きであることを、コリント集会の人たちにしっかりと理解させたいパウロは、さらに体とその部分との関係をたとえとして集会の一体性を強調します。一二節は「体は〜であるように、キリストの場合も同様である」と、比喩であることを明言していますが、一三節を見ますと、パウロは集会を実際にキリストの体と理解していることが分かります。それは二七節で「あなたがたはキリストの体である」という形で断言されていることからも確認されます。
 ここで一三節を少し詳しく見ておきましょう。新共同訳を初め各種の日本語訳には問題がありますので、直訳を掲げます。

「わたしたちはみな、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされ(浸し入れられ)、みな一つの御霊を飲んだのです」。

 日本語訳の問題点は、《バプティゾー》という動詞の受動態を「洗礼(バプテスマ)を受ける」と訳し、洗礼儀式を受けることと理解している点です。《バプティゾー》という動詞は本来(水などの中に)「沈める」とか「浸す」という意味の動詞です。たしかに新約聖書では「バプテスマを授ける」という意味にも用いられますが、ここではこの動詞は、「一つの体の中へ」という前置詞句と一緒に用いられていますので、「沈める」とか「浸す」という意味に理解しなければなりません。しかし、《バプティゾー》という動詞は、パウロ自身を含め初期の福音宣教においては、「バプテスマを授ける」という意味でも広く用いられていたのですから、この動詞を使うときには「バプテスマ」という水に浸される信仰告白行為が連想されるのは当然です。それでこの動詞は、二つの意味を兼ねて「バプテスマする」と訳すのがよいのではないかと考えます。「バプテスマを授ける(受ける)」では儀式的な意味に限定されてしまいます。
 この二つの意味の微妙な組み合わせは、ローマ書六章三節の重要なテキストに見られます。それを「バプテスマする」という訳語を用いて直訳しますとこうなります。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中へとバプテスマされた者は誰でも、キリストの死の中へとバプテスマされたのです」。(ローマ六・三)

 最初の「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた」という表現においては、水の中に沈められるという形でキリスト信仰が告白されるバプテスマ(洗礼)の出来事が語られていますが、後の「キリストの死の中へバプテスマされた」では、同じ動詞が「沈められる、浸される」という本来の意味合いで用いられ、霊的に「合わせられる」という意味になっています。
 コリント書簡のこの箇所でも二つの意味が重なっていますが、「御霊によって」という句が加わることで、「洗礼を受ける」という儀式的な意味は背後に退き、キリストの体という霊的現実に組み入れられるという霊的出来事が前面に出てきています。パウロはここで、ユダヤ人とギリシア人(異邦人)という宗教的な区別もなく、奴隷と自由人という社会的な身分の差別もなく、みな同じ一つの御霊によって、一つの「キリストの体」の中に組み入れられたことを語っているのです。この一つの体に所属するという事実が、賜物がいかに多様であっても、《エクレーシア》の統一を保証するのです。
 「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」という表現は、ガラテヤ書三章二七〜二八節のバプテスマのさいの告白定式を思い起こさせます。しかし、ここでは「男も女もない」という一組が欠けていることが注目されます。
 「御霊によってバプテスマされた」という表現は、パウロがすでに「水のバプテスマ」に対して「聖霊のバプテスマ」を標語としていたことを意味するものではありません。この二つのバプテスマの対比はマルコ福音書に至って初めて現れます。しかし、本書簡(コリントT一・一七以下)に見られるように、パウロは自分の使命を(水で)バプテスマを授けることではなく、十字架されたキリストの福音を告げ知らせることであるとし、その福音とは信じる者が聖霊を受けるようになる(ガラテヤ三・一〜一四)ことであるとしています(この点については本書74頁の「福音とバプテスマ」の項を参照)。このように見ますと、「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」の対比は、パウロに源流があると見ることができます。

「聖霊のバプテスマ」については、福音講話集『教会の外のキリスト』107頁「7聖霊のバプテスマ」を参照してください。

一つの体、多くの部分

 パウロは、多様な賜物をもつ多くの人たちが一つの体に属することを、人体をたとえとして語ります。この人体のたとえは分かりやすいので、説明なしでテキストを掲げるだけにしておきます。なお、新共同訳で「部分」と訳されている語は、人体の部分のことですから、「肢体」(協会訳)の方が適当かもしれません。英語では「メンバー」という語が用いられますが、この語は人体の部分(肢体)を指すと同時に、共同体の構成員をも意味しますので、この場合の訳語としては都合のよい用語です。以下のテキストの「部分」を「メンバー」と読み変えるとさらに分かりやすくなると思います。

14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。(一二・一四〜一九)

 多様な働きをする肢体が同じ一つの体に属するだけでなく、肢体もお互いに他の肢体を必要としていることが、さらに人体のたとえを続けることで説かれます。この箇所は、自分に賜っている霊的能力だけが本物であって、他の賜物を受けている人たちを見下している高慢な人たちを戒めるためでしょう。
 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(一二・二〇〜二六)
 肢体は互いに他の肢体を必要とするだけでなく、パウロは「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言って、賜物に恵まれている強いメンバーが弱いメンバーに愛の配慮をもって対し、集会に分裂が起こらないように求めます。指一本を怪我しても、体全体が痛みを感じるように、小さな肢体(メンバー)が苦しめば、同じ体に属する他のメンバーすべてが苦しむのです。指先が誉れを受ければ(たとえば指先を遣う珠算競技で一位になって)体全体が喜ぶように、一人のメンバーが誉れを受けると、共同体全体が喜ぶのです。このように、人体はその肢体の苦痛や喜びを全体として体験するという事実をたとえとして、パウロは《エクレーシア》という同じ生命が通っているキリスト者共同体の有機的一体性を説くのです。

《エクレーシア》の構成

 27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(一二・二七〜三一a)

 人体をたとえとして語ってきたパウロは、ここで「あなたがたはキリストの体である」と明言します。キリストを信じる者たち、キリストにあって生きている者たちが構成する共同体《エクレーシア》は「キリストの体」なのです。目に見えない霊なるキリストが地上で取りたもう体、歴史の中に歩まれるときの具体相なのです。
 パウロはここで、これまで(一二〜二六節)に人体のたとえを用いて述べてきたことを具体的に《エクレーシア》に適用します。神は《エクレーシア》にさまざまな賜物《カリスマ》を与えられた人物を起こして、《エクレーシア》形成に奉仕させられました。そのさまざまな奉仕の務めがここで順位をつけて上げられます。なお、ここでは《エクレーシア》が単数形であるのに対して「使徒」が複数形であることから、パウロはここで《エクレーシア》を個々の集会ではなく、包括的なキリストの民の共同体全体を念頭において語っていると見ることができます。
 最初に「使徒」、「預言者」、「教師」という三つの奉仕の務めがあげられています。この三つの務めは「神の言葉」に奉仕することで《エクレーシア》を指導するという点で共通しています。その中で「第一に使徒」がきます。「使徒」は、キリストを証言するために(すなわち、福音を告げ知らせるために)復活のキリストご自身から遣わされた使者として、《エクレーシア》の土台を形成するもっとも重要な奉仕の務めです(「使徒」の定義とか範囲についての議論、とくにパウロの使徒性をめぐる議論については別の機会に扱います)。
 「第二に預言者」が来ますが、ここで言う「預言者」は、(一四章で扱われるような)「預言」の賜物《カリスマ》によって散発的に預言するだけの者ではなく、霊感された言葉によって福音を伝え、信仰を教える指導者を指します。パレスチナやシリヤのユダヤ人キリスト教運動は、定住せず各地を巡回する預言者たちによって担われていたことが「語録資料Q」やマタイ福音書や『ディダケー』などからうかがえます。パウロが形成した異邦人諸集会では、(アポロのように)諸集会を巡回して教える預言者もいたでしょうし、(アキラとプリスキラ夫妻のように)定住して特定の集会で活動する預言者もいたようです。後に「預言者」は「使徒」と並んで《エクレーシア》の土台をなす指導者階級と見られるようになります(エフェソ二・二〇、三・五、使徒言行録一三・一など)。
 「第三に教師」が来ます。「教師」は、聖書や伝承の知識と忠実で熟達した信仰生活から来る知恵で、信仰を求める求道者や信徒の信仰生活を指導した人たちを指すと考えられます。このような働きも聖霊の賜物と理解されています。
 御言葉に仕える三つの奉仕の務めの次に、「奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者」が来ます。病気をいやすこと以外のどのような奇跡が行われたのか、パウロの書簡からは確認できませんが、人の力を超える不思議な業が御霊によってなされることで、復活の主が生きて働いておられることが証され、《エクレーシア》の信仰を励ましました。
 次に「援助する者、管理する者」という務めが来ます。貧しい人たちや困窮者を援助する愛の奉仕活動をする者、また集会の運営を管理する者が、御霊の賜物による務めと理解されていることが注目されます。集会の営みはすべて御霊の働きであって、すべて主に奉仕する業であるとされるのです。
 最後に「異言を語る者」が来ます。異言は一四章で詳しく扱われますが、その扱いから、コリントの集会では異言という不思議な現象が特別視されて、異常に重視されていたことがうかがわれます。そのような傾向に対して、パウロは異言を最後に置くことで、それが多く中の一つの賜物にすぎないことを認識させようとしたのかもしれません。
 ここにあげられた奉仕の務めは御霊の賜物《カリスマ》として扱われていますが、先に(八〜一〇節)であげられた「御霊の賜物」と正確に重なっているわけではありません。パウロは、《エクレーシア》の中に見られるさまざまな務めを御霊の賜物とすることで、さまざまに異なる務めを(先に御霊の賜物について述べた)「一つの体」の比喩の中に組み込むのです。「皆が・・・・であろうか」と問いかけて、一人一人が異なる賜物を与えられていること、従ってお互いに他を必要としていることを認めさせて、皆が一つの体に属していること(二七節)を自覚させようとするのです。

なお、この段落で《エクレーシア》における各種の奉仕の務めをあげるさい、「監督」と「奉仕者(執事)」(フィリピ一・一)という名称が用いられていないことが注目されます。この二つの務めは「管理する者」に含まれているのでしょう。「監督」とか「執事」は個別集会でやや制度化され固定した地位であるのに対し、パウロはここで《エクレーシア》全体を念頭に置いて、御霊が賜る奉仕の務めの性格づけとして「管理する者」という表現を用いていると考えられます。

 このような《エクレーシア》を構成する奉仕の務めは固定したものではありません。パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言って、集会の一人一人が、さらによく主に仕えることができるようになるために、「もっと大きな賜物」を受けるよう、祈りと奉仕に努めるように励まします。主は忠実な僕にさらに大きな「タレント」(能力)を与え、さらに多くのものを委ねられます(マタイ二五・一四〜三〇)。

キリストの体としての《エクレーシア》

 パウロはキリストを信じる者たちの共同体をいつも《エクレーシア》と呼んでいます。この呼び方はパウロから始まったものではなく、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒が用い始めたものと考えられます。この呼び方は、ヘブライ語聖書の《カーハール》(神の民、イスラエルの会衆)を七十人訳ギリシア語聖書が《エクレーシア》と訳していることから出ています(ギリシア語の《エクレーシア》はもともと召集された市民たちの集会を意味する語です)。《カーハール》の訳語として、《エクレーシア》は本来キリストにあって新しく召集された神の民全体を指す語ですが、新約聖書はこの語を特定の地域にある個々の集会にも、個人の家に集まる集会にも、広く用いています。このような様々な用法を一つの訳語で表現することは困難であり、伝統的に用いられている「教会」という訳語にも(あまりにも多くの違ったイメージが付着しているという)問題がありますので、ここでは《エクレーシア》という原語をそのまま用い、必要に応じて「民」とか「集会」とか「共同体」という説明的な訳語を用いることにします。
 新しい神の民《エクレーシア》は、キリストの福音によって召集され、主なるキリストと結ばれ、キリストの霊によって生きる者たちの共同体です。この共同体は、初めイスラエルという古い神の民の中で呱々の声を上げ、その中で成長しましたが、やがてユダヤ人以外の民も含むようになり、ついにイスラエルと呼ばれるユダヤ人共同体とは別の新しい民であると自覚されるようになりました。この分離を決定的にしたのがパウロです。パウロはあらゆる困難と戦って、キリストの民は割礼を受けてユダヤ教律法を守ることは必要でないと主張しました(ガラテヤ書)。このパウロの命がけの戦いによって《エクレーシア》はユダヤ教団とは別の共同体となったのです。いわばパウロは《エクレーシア》の生みの親なのです。
 パウロはこの新しい共同体《エクレーシア》の形成とその原理の確立のために、命をかけて最大限の努力をします。もはやユダヤ教律法は、新しい共同体形成の原理とはなりえません。では、何が《エクレーシア》を形成する原理となるのでしょうか。それは聖霊です。パウロはキリストの霊だけを、キリスト者個人の歩みについても(ガラテヤ五章参照)、キリスト共同体《エクレーシア》の形成についても、その原動力とし、原理とするのです。コリント書簡全体、とくにこの十二章から十四章のブロックが、聖霊こそ《エクレーシア》形成の原理であることを、何よりも雄弁に物語っています。
 《エクレーシア》はキリストの霊によって形成される共同体です。《エクレーシア》は御霊が働かれる場であり、神の霊の働きだけを結合原理とするまったく新しい種類の人間共同体です。これまで人間は、血縁や地縁を結合原理として、家族、部族、民族など、また共通の利益を結合原理として会社や組合など、さらに権力による支配を原理として国家や帝国など、さまざまな種類の共同体を形成してきました。その中にまったく別の原理で形成される人間共同体が出現したのです。《エクレーシア》においては、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」のであり、あらゆる人間的な違いは意味がなくなって、ただ御霊の働きによって同じ主キリストに帰属する一つの共同体が形成されるのです。
 こうして、ただ御霊によって形成された人間共同体《エクレーシア》は、霊なるキリストがご自身を地上に具体的に現される現実態となります。霊は体を取ることで現実態となります。このことをパウロは「あなたがたはキリストの体です」と言うのです。「あなたがた」、すなわち(今語りかけられているコリントの信徒たちに代表される)すべてキリストに属する者たちの集まりは、霊なるキリストが地上に体を具(そな)えてご自身を現される姿だというのです。《エクレーシア》は霊なるキリストの具体相なのです。
 キリスト者の共同体をどう理解するか、新約聖書の中にもさまざまな呼び名や表現が見られます。その中で、《エクレーシア》を「キリストの体」であると理解するのは、パウロ独自のものであり、さまざまな《エクレーシア》理解の中でもっとも深いものの一つです。その理解が、聖霊の働きを語るブロックの中に出てくるのは偶然ではありません。聖霊の働きを語るとき、必然的に聖霊の働きの具体相である「キリストの体」《エクレーシア》に触れざるをえないのです。パウロの聖霊論は《エクレーシア》論と一体です。
 パウロは、コリントの集会が豊かな御霊の賜物《カリスマ》に恵まれているために、各自が自分の霊的能力を誇り、集会の交わりが損なわれることを心配して、同じ一つの体に属することを強調しました。そのために人体とその肢体をたとえとして用いたのですが、多くの肢体からなる一つの人体の姿は、霊なるキリストの体としての《エクレーシア》に重なり、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその肢体です」という宣言に結果しました。この一文ほど、《エクレーシア》の本質を簡明にかつ深く喝破した文はありません。現在の複雑な教会問題を考えるときはいつも、キリストの体としてのキリスト共同体の形成は聖霊によるという、このパウロの原点に立ち帰って、そこから考えなければなりません。