市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第7講

第二節 結婚生活についての勧告

結婚と独身

性的禁欲について

 1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。(七・一〜四)

 ここまでは伝え聞いていたコリント集会の現状を心配して書いていたパウロは、ここから「そちらから書いてよこしたことについて」答えます。集会に起こった様々な問題について、コリントの集会はステファナたち代表を送って書簡を届け、パウロの助言を求めたのでした。
 「男は女に触れない方がよい」という文章は、パウロ自身の助言の言葉か、または、コリント集会の一部の人が主張していた言葉をパウロが引用しているのかが争われています。最新の英訳聖書(NRSV)はこの文に引用符をつけて、これがコリントの一部の人々の主張であると解釈しています。いずれにしてもパウロの回答全体(とくに七〜八節)から見ると、これがコリントの人々の主張であるとしても、パウロも原則として「男は女に触れない方がよい」と考えていることが分かります。しかし、実際には「みだらな行い《ポルネイア》を避けるために」、それぞれ妻または夫をもって通常の性生活を営むように勧めます。
 ここでパウロは、夫も妻も自分の体を意のままにする権利をもたず、それを持つのは相手の方であると言っています(パウロが両性を対等に扱っていることが注目されます。夫が一方的に妻の体を自由にする権利をもっているのではありません)。したがって夫婦は性生活において「互いに相手を拒んではならない」のです。結婚に身を委ねた以上、相手の求めに応じる義務があるというのです。これは、信仰上の理由で「男は女に触れない方がよい」として、結婚していても性行為を拒む人々をたしなめているのです。
 このような助言をパウロがするのは、やはりコリント集会の一部に、信仰上の理由で「男は女に触れない方がよい」と主張して、性行為を避けるか禁止する傾向があったので、この問題についてパウロの助言を求めてきたと見ることができます。この傾向は、コリントの異教的習慣の延長で遊女との関係《ポルネイア》を罪悪視しないことに対する反動として、信仰者の聖潔を強調するあまり、一切の性行為を汚れとして避けるようになったという動機も考えられます。しかし、さらに可能性が高いのは、時代の宗教的傾向であるグノーシス主義の思想なり傾向が萌芽としてコリントの集会にも入ってきていたという理由です。グノーシス主義は世界《コスモス》を至高の霊なる神に敵対する卑しい存在として敵視します。自分たちは霊知《グノーシス》を与えられてこの世界から脱出して霊の救済にあずかっているから、この世界に属する体が何をしようと霊の救済に関係しない(「すべてのことが許されている」という主張)として、遊女との関係も認める傾向が出てきます。それと同時に、結婚はこの卑しい世界の存続を図る《デーミウールゴス》(創造神)の計略であるから、子孫を作る性行為はその低い神の策略に陥ることになり避けるべきであるという禁欲主義が出てきます。同じ根からまったく反対の傾向が出てくるのです(後の発達したグノーシス主義では禁欲主義の傾向が強くなり、結婚を禁止するグノーシス主義諸派が多くなります)。パウロはまったく別の理由(二五〜三五節)で独身生活を評価しますが、このようなグノーシス主義的な傾向に対しては、《ポルネイア》を避けるというきわめて実際的な視点から反対していることが分かります。

 5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(七・五〜七)

 「互いに相手を拒んではいけません」という勧告に但し書きがつきます。性関係を避けることが、祈りに専心するために合意の上でしばらく別れるだけであるならばよいというのです。そうでないと(すなわち相手を拒んだ状態が長く続くと)、自制心がないのに乗じてサタンが誘惑し、《ポルネイア》に陥る危険があるからです。パウロが結婚生活を勧め、お互いに相手を拒まないように勧告する(二〜五節)のは、ここでは《ポルネイア》を避けるためという消極的な動機が前面に出ていますが、そこには人間性に対するパウロの深くて現実的な理解が見られます。パウロは決して信仰生活を原則論だけで規制することはしていません。
 パウロはめいめい妻または夫をもつように勧めましたが(二節)、それは「神のエクレシア」において結婚生活は信仰に差し支えるものではないと言っているだけで、結婚するように命じているのではないと、真意を説明します(六節)。
 ユダヤ教では結婚は成人したユダヤ人の義務でした。ユダヤ教の存続はユダヤ人人口の維持にかかっていたからです。キリストの民はもはやその存続を自然の子孫の増加に依存していないので、結婚を子孫維持の観点から見る必要はありません。パウロはここで結婚を性関係の純潔という観点から見て勧告しています。
 パウロは独身で福音の宣教活動に従事していました。パウロは、他の信徒も自分のように独身で主に仕えることに専心してほしい(三三〜三四節)のですが、それを規則として集会に押しつけることはしません。独身で主に仕えるか、結婚して信仰の歩みをするかは、それぞれ神からの賜物であって、各人はそれぞれが受けている賜物に従って違った生き方をするのが自然であるとします(七節)。イエスの語録にも、独身を神の恵みによって限られた者に与えられた生き方であるとする言葉があります(マタイ一九・一一〜一二)。
 ここでは独身のことについて言われているのですが、人の生き方全般について、神の賜物によって異なるのが当然であるという見方は重要です。共同体はともすれば成員に画一的な生き方を求めがちですが、自分と違う生き方を批判したり排斥するのではなく、違った生き方を認めて受け入れ合うことが、成熟した人間共同体の条件であると思います。
 ペトロや他の使徒たちが妻を連れて活動していたのに対して、パウロは独身で活動をしていたことについては問題ありません(九・五)。しかし、パウロが初めから独身であった(大部分の教父)のか、結婚していたが死別または別れていた(ルターなど)かは争われています。独身の律法学者はきわめて稀な例外でしたので、パウロが結婚していた可能性は大きいと考えられます。しかし、どちらの主張にも確証も反証もありませんし、また、ここでの議論に直接関係がありませんので、この問題には立ち入りません。

結婚の維持について

 8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
(七・八〜九)

 コリント集会に見られる性的禁欲を求める傾向に対して勧告した後、パウロは「神のエクレシア」における結婚生活について、個々のケースごとに具体的に命令と勧告を与えます。まず、「未婚者とやもめ」について勧告します。
 ここの「未婚者」は男性形で、「やもめ」は女性形です。しかし、一〇節以下の既婚者への勧告との対比で、ここは男女の性別にかかわらず、結婚していない独身者と、すでに配偶者をなくした人たちへの勧告と見ることができます。パウロは、その人たちが自分のように独身に留まることを勧めますが、ここでも先に述べた(二、五節)のと同じ動機で、性的欲求を自分で抑制できず、つねに誘惑にさらされて苦しむくらいなら、結婚して平静な信仰生活を送るように勧めます。独身に留まることを勧めるのは、結婚を神聖な義務と見るユダヤ教からすれば、根本的な変革です。これは神の民が存立する基盤が変わったことを示しています。当時のユダヤ教内でもエッセネ派は独身を実行する人々がいたと伝えられていますが(ヨセフス)、これはユダヤ教では非正統派セクトにおける例外でした。

 10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。11 ―― 既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。―― また、夫は妻を離縁してはいけない。(七・一〇〜一一)

 次に「既婚者」に命じます。夫婦は離婚してはならないという命令です。他の場合ではパウロの勧告ですが、それと区別して、これは主の命令として命じられています。ここは、パウロがイエスの言葉伝承(マルコ一〇・五〜一二とその並行記事)を知っていたことを示す実例の一つです。

パウロがイエス伝承をどのくらい知っていたのかについては、『パウロによるキリストの福音T』第5章「御霊による自由」の最後にある「パウロとイエス」の項を参照してください。

 パウロは最初に妻に向かって「夫と別れてはいけない」と命じ、その後で夫に向かって「妻を離縁してはいけない」と命じています。これは、ローマ法では夫にも妻にも離婚を請求する権利が認められていたことの反映です。現代日本の世相と似て、当時のローマ社会でも、妻の側からの離婚の方が多かった(あるいは目立った)のでしょうか、パウロは妻の側からの離婚を先にあげています。信仰に入る前に離婚してしまっている女性については、再婚せずにいるか、夫と和解して帰るように命じます(男性の場合も原則は同じでしょう)。

 12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。(七・一二〜一四)

 新しい土地に福音が宣べ伝えられ、キリストを信じる民が形成される時期には、新しく信仰に入った人の配偶者が信者でないという場合が出てきます。そのような場合、信者の夫または妻は、信者でない配偶者と生活を共にすることが、信仰生活と両立するのかが心配になります。バプテスマを受けて信仰共同体に入った者は、以前の人間関係をきっぱり断ち切ったはずです。信者でない配偶者との生活はどうしたらよいのかが問題になります。
 その問題については、パウロは主の命令としてではなく、パウロの勧告として意見を述べます。どうすべきか具体的に語っているので、解説は必要でないと思われますが、要するに、結婚生活を続けるか解消するかは、信者でない配偶者の意志に委ねられているというのです。
 まず、信者でない配偶者が信者である相手と一緒に生活することを望んでいる場合は、信者は信者でない配偶者を離縁しないように勧告されます。その理由は、夫婦関係というものは性的関係までも含む二人の全存在的な結びつきですから、信者でない配偶者は(神に所属する)信者への全面的な信頼によって一体となり、神に所属する者(聖なる者)となっているからです。このように信頼に基づく全存在的な人間の結びつ
きは、一方が神に属する時には、他方をも神に所属する者にする(聖化する)力があると、パウロは信じているわけです。
 このような場合、二人の間に生まれた子は、「聖なる者」(神の民に属する者)と認められているのだから、信者でない配偶者も信者と一緒に神に属する者とされているではないかと、パウロは論じます。このような議論は、片方の親がユダヤ人である子はユダヤ人と認められるというラビの原則をキリストの民にも適用しているのでしょう。

 15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。(七・一五〜一六)

 それに対して、信者でない配偶者が離れていく場合は、去るにまかせるように勧めます。このような場合には、離婚を禁じた主の言葉にもかかわらず、信者は結婚の誓いに縛られていないというのです。こういうところにも、パウロは主の言葉伝承を「文字によらず、霊によって」理解していることが分かります。
 もし結婚の誓いに縛られて、もはや信頼も愛情もなくなって去ろうとする配偶者を無理に引き止めて一緒に暮らせば、夫婦間の争いは避けられません。互いに批判し罵り合いながら顔を合わせて暮らすのは、人格の損傷と摩耗以外のなにものでもありません。神はわたしたちを《エイレネー》(平和、平安、和、幸福)の中に生きるように召されたのですから、このような生き方は神の召しに反することです。
 もし去ろうとする配偶者に人間的な未練から引き止めようとして、相手を信仰に導くことを口実にしようとする者に対して、パウロは相手を信仰に導いて救うことができるかどうか分からないではないかと、その人間的な思い上がりをたしなめます。相手が去っていくということは、信者の配偶者の中に生き始めたキリストを拒否していることを意味するのですから、そういう相手を信仰に導くことは至難のことです。
 ここでパウロが結婚の解消を認めているのは、信者でない配偶者との離婚の場合です。しかし、ここでパウロが離婚禁止の「主の言葉」をきわめて現実的に柔軟に扱っていることが注目されます。たとえキリスト信者同士の間でも、夫婦間の愛情が冷め、信頼が失われた状態で、互いに傷つけ合うような共同生活が、「文字によって」解釈された聖書の言葉と結婚の誓約のゆえに強制されるようでは、祝福であるべき結婚が二人を不幸に縛り付ける結果になります。もし二人が真にキリスト者として無条件に受け入れ合う愛に生きているのであれば、このような事態にならないはずです。離婚しないで結婚を全うできるのは恩恵の賜物です。このような事態は、どちらかが(または両方が)もはや恩恵に生きる「信者」ではないのですから、ここのパウロの言葉が適用されるのではないかと、「教会」は真剣に考えてみるべきではないでしょうか。

結婚が恩恵の出来事であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』170頁以下の第四節「心の中での姦淫」を参照してください。

召された場で

割礼と無割礼

 17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。(七・一七〜一九)

 結婚と独身の問題について命じたり勧告したりしたパウロは、ここでその勧告が出てくる原則を明らかにし、その原則によって、割礼と奴隷の身分について勧告します。ここで男と女、割礼と無割礼、自由人と奴隷という三つの主題が取り上げられるのは、当時の福音宣教にさいして用いられていた「バプテスマ定式」(バプテスマを受けるときに唱えられた信仰告白の定式文)から来ていると見られます。
 研究者はガラテヤ書三章二六〜二八節で、パウロは当時の「バプテスマ定式」を引用していると見ています。そして、「バプテスマ定式」はほぼ次のような文であったとしています。

 「あなたがたはみな神の子である。キリストの中へとバプテスマされた人はみなキリストを着たからである。ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみなひとつだからである」。

 これまで着ていた古い衣服を脱いで、白い衣を着て水の中に浸され、水から上がってこの告白文を唱えるとき(または唱えられるのを聞くとき)、受洗者は自分が今までとまったく違う世界に生まれ出たことを実感したことでしょう。受洗者は実は御霊によりキリストの中に浸され、そこからキリストという義の衣を着て出てきたのです。キリストを着ることで、中の人間の区別はなくなり、みな神の子とされているのです。そこにはもはや割礼を受けているユダヤ人であるか無割礼の異邦人であるかの宗教上の区別はなく、自由人か奴隷かという社会的身分の差もなく、男か女かという父権制社会での重い性差別もなく、みな一人のように差別なく結び合わされ、一つの共同体を形成しているのです。実際、ヘレニズム世界の小さい「家のエクレシア」では、割礼のない異邦人はもちろん、奴隷の身分の者でも、女性でも集会で積極的に活躍し、指導的な立場につく者もあったことが知られています。
 このような共同体に対してパウロは、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩む」ことを原則として命じます。「ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない」と言っても、それは神の子としての交わりにおいて差別はないということであって、社会的な身分とか立場がなくなったのではないことを思い起こさせます。そして、職業とか身分は各人に「主から分け与えられた分」であり、その分にふさわしく歩むこと、あるいは、「神から召されたときの身分のままで歩む」ことが命じられます。
 パウロは本章において、質問に答えて社会における男と女の生き方、すなわち結婚とか独身について勧告しました。その勧告はこの原則に基づいてなされたのです。召されたとき妻である女性は妻として、召されたとき夫である男性は夫として生きることが原則です。その原則に、《ポルネイア》に陥らないためにとか、配偶者が信者でない場合とか、未婚の場合とか、すでに離婚している場合とか、特別の理由とか状況が加味されて、ここでの勧告となったのです。
 パウロはこの原則を他の二つの宗教的社会的身分、すなわち割礼と奴隷の身分について適用して勧告します。まず割礼について、召されたとき割礼を受けているユダヤ人は、ヘレニズム世界で差別と軽蔑のしるしとなっている割礼の痕を手術で取り去って、ユダヤ人であることを止めようとしてはいけないし、召されたとき異邦人である者は、割礼を受けてユダヤ人の宗教的特権を得ようとしてもいけないと言います。割礼を受けているか受けていないかは、神の子としての歩みにとって問題ではないからです。大切なのは「神の掟を守ること」です。これはユダヤ教の諸規定を順守することではなく、神がキリストにあって人間に求めておられること、すなわち愛の戒めを守ることです。

奴隷の身分について

 20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。(七・二〇〜二四)

 もう一度「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」という原則を述べた後、その原則を奴隷の身分について適用して語ります。召されたとき奴隷であった者は、奴隷であることを悩んだり嘆いたりすることなく、奴隷という身分の中でキリストに属する者として忠実に歩みなさいと、パウロは勧めます。

ただ、二一節後半を新共同訳は「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と訳していますが(NRSVもほぼ同じ)、この訳には問題があります。ここの文は「もし自由の身になることができるのであれば、その機会を利用しなさい」(RSV、協会訳もほぼ同じ)とも訳せます。現代語訳は二つに分かれています。「機会を利用しなさい(生かしなさい)」という動詞を、前者(新共同訳)は「むしろ奴隷という立場を生かして、僕として歩まれた主イエスの謙りくだりを学びなさい」という意味に理解しているのでしょう(この場合も解放を拒否するように命じているのではありません)。後者(協会訳)は「その機会を生かして自由の身になり、もはや主人の意向に拘束されずに主に仕えることができる身になりなさい」と理解していることになります。この段落の最初と最後に置かれて枠を形成している「召された時の身分に留まっていなさい」という原則からすると、前者が適切であるように見えます。しかし、(結婚の場合もそうでしたが)特別の場合について具体的な勧めをしていると理解すれば後者も十分成り立ちます。むしろ、二三節で「人の奴隷となってはいけません」と言っていることからすると、この方がいっそう適切かもしれません。いずれにしても、理由を示す次の二二節の文は、奴隷の身分のままに留まることを悩んだり、奴隷制という制度を嘆いたりしないように勧める二一節前半の根拠を示していると見られます。

 パウロは社会制度としての奴隷制を正面から否定したり変革しようとはしていません。奴隷制という社会の枠の中で、「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者(主の解放奴隷)であり、同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストを主人とする奴隷である。あなたがたはみな身代金を払って買い取られたキリストの奴隷である」、すなわち「奴隷も自由人もない、同じ立場である」(ガラテヤ三・二八)という、まったく新しい共同体形成の場を提供します。「主によって召された」場には、あらゆる人間的な区別を超えて、人と人を結びつける力があります。この力がやがて奴隷制という人間の尊厳に反する社会制度を変革していくのです。

ローマの奴隷制と福音の関わりについては、次に刊行する予定の『パウロによるキリストの福音V』で、フィレモン書の講解の際に詳しく取り扱います。

終末の切迫と結婚

未婚の人たちへの勧告

 25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。(七・二五〜二八)

 パウロはすでに「未婚者とやもめ」について勧告を与えています(八節)。そこでは「未婚者」《アガモス》は「寡婦」《ケーラ》と一組に並べられて、結婚生活をしていない男女を広く指していました(離婚したままの男女も含まれます)。ここでは違う用語《パルテノス》の複数形が用いられています。この語は「処女マリア」を指すときにも用いられる語ですが、ここでは何らかの理由で初めから性関係をもたないで歩んでいる独身の男女を指していると考えられます。婚約中の男女が典型的な実例となるでしょう。
 このような独身男女に対して、パウロは「現状にとどまる」ように勧めます。それは「今は危機が迫っている状態にある」からです。「危機が迫っている」というのは、すぐ後で「定められた時《カイロス》が迫っている」と言い換えられています(二九節)。パウロも、パウロの宣教によって形成されたエクレシアも、主の来臨《パルーシア》が迫っていることを信じ、来臨の直前には世界に大きな患難の時代が到来することを予想していました。主の来臨の待望はテサロニケの集会もコリントの集会も同じであったはずです。
 そのような独身男女が結婚するとしても罪を犯すわけではないが、このような危機が迫っている状況で結婚生活に入るのは苦労を背負い込むことになるからという理由で、独身に留まるように勧めます。結婚生活は、ただでも苦労の多いものであるのに(とくに女性にとって)、終末の危機の時代にはいっそう苦労の多いものになると、パウロは感じていたのでしょう。このような危機の時代には、キリストの来臨を待ち望む者は、過ぎ去り行く「この世」とは関わりのない者のように生きることを勧めます。

 29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(七・二九〜三一)

 32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。(七・三二〜三五)

 終末的な待望に生きる状況のゆえに独身にとどまるように勧める勧告の中に、結婚すれば相手を喜ばすことが先になって主に仕えることに専心できなくなるからという理由(これは人間的な現実をパウロがよく見ていると言えます)が入ってくるのは、やや不自然な印象を与えます。とくにパウロはアキラとプリスキラ夫妻というような優れた伝道者の働きを身近に知っているのですから、やや意外の感じが否めません。しかし、パウロ自身がここで言っていますように、この勧告は束縛するものではなく、結婚してもしないでいても、要するに「品位のある生活をし、ひたすら主に仕える」ことができればよいわけです。「ひたすら主に仕える」ことを願う者に、独身を要求する言葉ではありません。そのために独身を選び取るかどうかは、それぞれにいただいている賜物の問題であること(七節)を思い起こす必要があります。

純潔を誓ったカップルへの勧告

 36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。(七・三六〜三八)

 ここで「娘」と訳されている語は、二五節と同じ《パルテノス》の単数形です。未婚女性というよりは、何らかの理由で性関係をもたない男または女を指す語です。さらに「自分の相手」とか「(誓いに)ふさわしくない」(「誓い」は原文にはありません)という語が用いられているところから、ここでパウロは純潔を誓ったカップルについて、たとえば「宣教パートナー」の関係にある男女のことを扱っていると見ると分かり易くなります(婚約関係の男女のことは二五〜三五節ですでに扱っていますから)。「宣教パートナー」というのは、御霊に燃えた初期の宣教活動において、性関係をもつことなしに福音宣教に従事した男女のカップルを指します。このようなカップルの間で、情熱を自制できなければ結婚しなさいと勧告していると理解することが、いちばん無理がないと思われます。

「宣教パートナー」については、E・S・フィオレンツァ『彼女を記念して』(山口里子訳)252頁以下を参照。

妻への勧告

 39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。(七・三九〜四〇)

 最後に妻の再婚について勧告して、結婚と独身に関する勧告を終わります。この勧告全体を通じて、パウロは主に召されたときの現状にとどまることを原則としていますが、パウロは人間の現実をよく見て、この原則や「主の言葉」をかなり柔軟に適用していることが目立ちます。
 全般に、パウロは結婚生活よりも自分のように独身で生きることを勧める傾向があります。独身の勧めは、先に触れたようにユダヤ教と大きな違いであるだけでなく、ローマ社会の常識とも衝突し、(とくに女性にとって)困難な生き方でした。アウグストゥス帝はローマ社会の健全な発展を願って、結婚に関する法令をいくつも出して、離婚や独身を防ぎ、結婚や再婚を勧めて、子供を多く産むように法令や税制を改めていました。そういう社会で独身を貫くこと、とくに父権の強い社会で女性が独身を貫くことは、たいへん困難なことでした。それにもかかわらず、パウロが独身を勧めるのは、キリストの民は主の来臨を目前にして、この世とはまったく異なる原理の上に生きているという強い終末意識があったからです。そのことは、結婚のことを語るのに、子供を産んで子孫を増やすという視点がなく、もっぱら性的関係の健全さと、主に仕えるという視点からだけ見られていることからもわかります。

アウグストゥス帝の「婚姻法」については、塩野七生『ローマ人の物語Y』(新潮社)一四一頁以下を参照。