市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第4講

第二節 神の知恵

知恵の誇り

分派の問題 

 10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして 、固く結び合いなさい。11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(一・一〇〜一三)

 コリント集会から来た使者の質問に答えるに先立って、最初にパウロは集会の中の分派の問題を取り上げます。この問題は使者の質問書にはなく、パウロがすでに「クロエの人たち」から聞いて、心を痛めていた問題だったと思われます。
 「クロエ」は女性名詞で、「クロエの人たち」というのはクロエに繋がりのある人たちという意味です(原文には家という語はありません)。クロエはおそらく多くの人たちを雇用する富裕な女性事業家または事業家の妻(多分海運とか交易事業)であったと考えられます。クロエはコリントの人であるとする説(ミークス、タイセン)もありますが、パウロがコリント集会にその一員を情報源として名指すという非礼をしているとは考えにくいので、むしろエフェソの業者であると考える方が自然です(マーフィー・オコナー)。パウロは後に残してきたコリントの集会の状況を心配して、商用でコリントと往復するクロエ社の社員(?)に様子を見てくるように頼んでいたのでしょう。彼らの報告はパウロを驚かせます。近親相姦や訴訟問題、主の晩餐や霊の賜物について集会の無秩序など、放置できない問題が報告されたのです。しかし、その中でもパウロにとって最も深刻だったのは分派問題ではないかと思われます。クロエの社員たちの報告は、信仰問題に詳しくない人たちの表面的な観察ですから誇張や不正確さがあるかもしれません。それでパウロは信頼できる熟練した働き人テモテをコリントに派遣します(四・一七)。テモテの報告やコリントから来た正式の使者たちの証言で状況を確認できたパウロは、それに対する書簡を書くことになるのです。
 ここにコリントの集会に生じていた四つの分派の名が上げられています。「パウロ派」、「アポロ派」、「ケファ派」、そして「キリスト派」です。各派はそれぞれ自分たちが指導者と仰ぐ人物の名を旗印にしていました。アポロは、パウロが去ってからコリントに来て伝道したアレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書に精通した学者でした。その熱烈な信仰と広範な学識を尊敬して、彼の雄弁に耳を傾ける人たちが多くいたようです(アポロについては後に詳しく触れることになります)。アポロ派が形成されるに及んで、それに対抗して、もともと福音を伝えたパウロの教えに留まることを強調する「パウロ派」ができたようです。
 ケファ、すなわちペトロがコリントに来て働いたかどうかは確認できませんが、最後にはローマまで来たとされるペトロが、コリントに立ち寄り教えた可能性はあります。ペトロに属することを誇った人々はおそらく、彼を「ケファ」というアラム語名で呼ぶパレスチナ出身のユダヤ人信徒ではなかったかと推定されます(ここでペトロをケファと呼んでいるのはパウロである可能性もあります)。何と言ってもペトロはイエスの弟子の筆頭です。パウロよりも一段と高い最終的な権威はペトロにあるとし、ペトロ自身によるにせよペトロが代表するエルサレム教団からの使者によるにせよ、ペトロの教えを受けていることを誇る人たちの一派があったようです。
 「キリスト派」というのはどういう派であったのか確定することは困難です。生前のイエスに繋がることを誇るユダヤ人信徒であるとする説や、パウロ、ペトロ、アポロというような人間を師とするのではなく、キリストから直接啓示を受けたことを誇る「霊の人」を指すとする説などがありますが、決定的な根拠はありません。内容はどうであれ、パウロはここで「キリスト派」を分派の一つとして名をあげています。
 コリントの集会が分裂して、これらの各派が別の集会を形成するまでには至っていなかったでしょうが、各派は自分の意見を主張し、お互いの交わりが損なわれていたようです。それで、パウロは心を痛め、まず何よりも先に、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして 、固く結び合いなさい」と、切に求めざるをえませんでした。このように各派が対立する状況がいかに福音の真理から逸脱しているかを自覚させるために、パウロは三つの質問を立て続けに発します。
 まず、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と迫ります。この質問の背後には、後(一二章)で詳しく展開されることになる「エクレシアはキリストの体である」という理解があります。人の体は一体であって、部分に分けることができないものです。そのように、エクレシアも分けることはできません。もし集会が分裂するならば、それはキリストを切り分けることになるというのです。
 次に、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と迫ります。もちろん、そうではありません。パウロは自分の名を掲げる派の場合を例としてあげていますが、当然この問いはアポロにもケファにもあてはまります。人は自分のために死なれたキリストだけを誇るべきであって、それを伝えた使者を誇るべきではありません。
 さらに、「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか」と問いかけます。ここで「によって」と訳されている前置詞は本来「の中へ」(英語の into)という意味の語で、ここで「パウロの名へとバプテスマされる」というのは、パウロに属する者になることを意味しています。もちろん、コリントの人たちは「主イエス・キリストの名へとバプテスマされた」、すなわち、主イエス・キリストに属する者となることを告白したのです。決して、パウロとかアポロとかケファに属する者になったのでなかったはずです。それだのに、「わたしはパウロに属する者だ」とか「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」などと言っているのはどうしたことか、というのです。
 各派のスローガンを列挙する文は、《エゴー》(わたし)という強調の代名詞が繰り返されていて、分派問題は自己主張から出る争いであることを印象づけます。パウロはこのような分派を「肉の働き」として(ガラテヤ五・二〇の「争い」は、ここで「分派」として扱っている語と同じです)、御霊に従うことによって克服すべきことを求めています(ガラテヤ五・二二〜二六)。
 現在のキリスト教界では、多くの教会・教団・教派の存在が常識のようになっています。その事実には二千年に及ぶ歴史の重みがかかっています。しかし今は、「わたしはルターに」、「わたしはカルビンに」、「わたしは法王に」というような分派心は、御霊によって克服し、「勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして」、主イエス・キリストだけを告白し、讃美し、宣べ伝えなければならない時です。制度や教義を一致させることはきわめて困難です。しかし、草の根における御霊の交わりと一致は、やがて大きく流れを変えていくでしょう。わたしたちは、ここでパウロが言っていることを深く心にとめて、御霊の一致を祈り求めていかなければなりません。

福音とバプテスマ

 14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにもバプテスマを授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15 だから、わたしの名によってバプテスマを受けたなどと、だれも言えないはずです。16 もっとも、ステファナの家の人たちにもバプテスマを授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
(一・一四〜一七)

 パウロは分派を戒めるために、「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか」と問いかけました。もちろん、答えは否です。みな「主イエス・キリストの名へとバプテスマされた」のです。ところが、コリントでは信徒が、自分に福音を語り教え、バプテスマを授けた指導者を誇り、その指導者に属することを誇りとするような傾向があったようです(この傾向は現在もあります)。「わたしは誰それからバプテスマを受けた」という誇りが、「わたしは誰それに属する」という分派心を生み出す契機となったのです。それはバプテスマの意義を誤解した結果です。それでパウロは、二三の例外を別にして「あなたがたのだれにもバプテスマを授けなかった」事実を神に感謝します。「パウロの名によってバプテスマを受けたなどと、だれも言えない」からです。そして、福音に生きることとバプテスマを授けたり受けたりすることとは別であると語ります。
 ここでパウロがバプテスマを授けた少数の例外として、クリスポとガイオ、ステファナの家の人々の名があげられています(クリスポとガイオについては本章の第一節を参照してください)。ステファナはパウロのコリント伝道で最初に信仰に入った人物であり、集会の世話と指導を引き受け、今回エフェソのパウロを訪ねてきた三名の使節団の筆頭者です(一六・一五〜一八)。パウロはコリントで宣教を開始したばかりのごく初期に、二三の中核的な人物に自分でバプテスマを施しましたが、以後はバプテスマを授けることは協力者たちに委ねたようです。
 ここでパウロは、「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言っています。これはどういう意味でしょうか。もちろん、パウロはバプテスマを否定しているのではありません。たしかにパウロは、主を信じる者がすべてバプテスマを受けているものとして言及し、バプテスマという体験を用いてキリストに結ばれて生きることの意義を語っています。しかし、明確にバプテスマという儀礼に言及するのは、この箇所を除くと(ローマ書までの七書簡では)意外に少なく、ガラテヤ書三章二七節とローマ書六章三〜四節の二箇所くらいです。この事実と、この箇所でバプテスマについて語っている内容を思い合わせると、パウロ自身は初期のキリスト教会で広く行われていたバプテスマという儀礼に、あまり積極的な意義を見ていなかったのも事実のようです(コロサイ書とエフェソ書ではバプテスマが重要な位置を占めるようになります)。
 パウロはここで「バプテスマを授ける」ことと「福音を告げ知らせる」ことを別のこととして対照しています。そして、キリストによって遣わされた使徒としての使命は、「バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と言明しています。では、「バプテスマを授ける」ことと対照される「福音を告げ知らせる」という使命は、どのような内容の仕事でしょうか。それはたんにイエス・キリストの十字架と復活の出来事を語り伝える(報告する)のではなく、御霊により福音を神の言葉として語ることで、その言葉を聴く者が神の霊を受けるようになることです(テサロニケT一・五〜六、ガラテヤ三・一〜二、コリントT二・四〜五)。御霊によってキリストと共に新しい命に生きるようになることです。パウロが福音をこのように御霊の事態として理解していたことは書簡全体から十分うかがうことができます。
 こう理解すると、ここで対照されているのは、水によるイニシエィション(入信儀礼)としてのバプテスマと、御霊による《エン・クリストー》(キリストとの交わり)の場への導入との対照であることが分かります。パウロはまだ「聖霊のバプテスマ」という表現は用いていませんが、この対照はやがて(マルコ福音書から始まって、それ以降の諸福音書によって、とくにルカとヨハネによって)「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」という対照で表現されることになります。パウロはここで実質的に(マルコ以後の表現を遡ってパウロに使用すれば)、「キリストがわたしを遣わされたのは、水でバプテスマを授けるためではなく、聖霊によってバプテスマを授けるためである」と言っているのです。使徒言行録一九章一〜七節は、このようなパウロの働きを描いていると理解できます。

「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」の対照については、拙著『教会の外のキリスト』第T部7「聖霊のバプテスマ」、および『マルコ福音書講解T』の2「ヨハネの宣教」を参照してください。

福音と知恵

 「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためだからです」と言って、自分がバプテスマを授けなかった理由を述べたパウロは、すぐに「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と言って、自分の使命である福音宣教の目標と性格を描きます。そして、「キリストの十字架がむなしいものにならない」とはどういうことか、また、「言葉の知恵によらないで告げ知らせる」とはどういうことかを、続く箇所(一・一八〜二・五)で詳しく展開します。

この段落については、すでに前章の「十字架の言葉」で取り上げ、パウロの福音宣教の内容と性格を解明していますので、ここでは分派を戒める文脈に関連する範囲内で、簡単に触れるに留めます。

 この箇所(一・一八〜二・五)は、使徒パウロの福音宣教の内容と質をパウロ自身が証言している箇所として重要です。しかし、この箇所の文脈は本来、分派を戒めるために語られたものですから、全体はその文脈で理解されなければなりません。パウロは分派の原因が「言葉の知恵」(一・一七)、「世の知恵」(一・二〇)の誇り(実際的にはその知恵を教える指導者への誇り)であることを見抜き、そのような「人間の知恵」(二・五)に立つのではなく、パウロが宣べ伝えた福音、人の知恵からすれば愚かでしかない福音、すなわち「十字架の言」という原点に立ち帰らせることによって、知恵の誇り、人間の誇りを打ち砕き(一・二九)、分派を根本から克服しようとするのです。

御霊による知恵

神のミュステーリオン

 6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。(二・六〜七)

 先行する箇所で、福音と知恵の衝突を激しい言葉で語ったパウロは、ここで一転して、「しかし、わたしたちは知恵を語る」と宣言します。一見、この変化は唐突に感じられます。しかし、先行する箇所はよく見ると、知恵を全面的に否定しているのではなく、キリストを「神の知恵」とし(一・二四、一・三〇)、救いにおける知恵の重要性を認めています。キリストは神の力であると同時に神の知恵なのです(一・二四)。「十字架につけられたキリスト」という福音は、人には愚かさの極み、弱さの果てに見えますが、そのキリストこそ神の知恵、神の力なのです。そのことが、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言われるのです(一・二五)。
 パウロがここで語る「知恵」は「この世の知恵」ではありません。神は十字架の言葉の宣教(福音)によって「世の知恵」を愚かなものにされました(一・二〇〜二一)。パウロが語る知恵は「この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」。ここで「この世」と訳されている語は、「この《アイオーン》」という表現が用いられています(一章二〇節の「世の知恵」は「《コスモス》の知恵」です)。「この《アイオーン》」という表現は、「来るべき《アイオーン》」と対立する黙示思想の用語です。また、「この《アイオーン》の支配者たち《アルコーン》」もきわめて特徴的な黙示思想の用語です。
 黙示思想では、神は二つの《アイオーン》(世、時代)を創造したとされます。現在の《アイオーン》は神に敵対する霊的な諸力に支配されているが、終わりの時に、今の《アイオーン》を支配する霊的地上的諸存在《アルコーン》が滅ぼされて、神が支配される《アイオーン》が到来する。その時、義人は救われて神の栄光にあずかるのです。創造から終末の完成に至る神の救済計画は《ミュステーリオン》(奥義、神秘)と呼ばれ、その計画は諸々の《アイオーン》に先だって定められているが、人間の目には隠されており、時の終わりに臨んで(天使たちによって)特定の義人に啓示《アポカリュプトー》され、書き記されます。それが「黙示文書」《アポカリュプシス》です。
 このような黙示思想の世界を背景として、ここでパウロが語っていることを考察するとき、用語においても内容においても、パウロが黙示思想の枠組みの中で思考し語っていることが見えてきます。黙示思想の用語を用いて、パウロは「神の知恵」を、「わたしたちの栄光のために、神が諸々の《アイオーン》に先だって定められた知恵」(直訳)と規定しています。これは、創造から終末の完成に至る神の救済計画を指しています。キリストが神の知恵であるというのは、キリストこそ神の救済計画を実現される方であり、今まで人類に隠されていた奥義《ミュステーリオン》である神の救済計画を啓示する方であるということです(このようなキリストは、ヨハネ黙示録五章で、封印された神の巻物を開く子羊として描かれています)。
 パウロの手紙には《ソフィア》(知恵)という語が一九回用いられていますが、その中の一六回が「コリントの信徒への手紙T」の最初の三章に出てきます。とくに一章一七節から二章一六節の箇所に集中して出てきます。この箇所はパウロの知恵に関する思想を知る上で中心的な箇所になります。

その中で二章六〜一六節の段落は、パウロの書簡の中で用語でも思想でも特異な特徴を示しているので、その思想史的・宗教史的由来が問題とされ、さまざまな説が提示されてきました。この箇所のパウロの知恵思想の背景として、ヘレニズム世界の密儀宗教、グノーシス宗教、ヘレニズム時代のユダヤ教などが次々に提案されました。最近はもっと広く、パウロはここでヘレニズム世界とユダヤ教に共通する、古代世界で神的知恵を探求する人間の営みを語る一般的な用語を用いているという研究もあります。ここで見たように、この箇所(二・六〜七)のパウロの用語と思想的枠組みは黙示思想のものですが、これは回心前のパウロのユダヤ教体験からすれば十分理解できることです(回心前のパウロの黙示思想との接触については前著『パウロによるキリストの福音T』第一章第一節「ユダヤ教時代のパウロ」を参照してください)。しかし、黙示思想そのものが第二神殿時代のユダヤ教内の知恵運動の一つの形態として成立した(フォン・ラート)という一面もありますので、パウロが知恵を黙示思想的な枠組みで語ることも納得できます。そうすると、私市元宏『知恵の系譜(十二)』(コイノニア一四号)が、二章六節以下の箇所を綿密に分析して、「パウロのこの部分の『知恵』は、『知恵の書』の流れを汲むユダヤ教知恵伝承をその前提にしている」としている結論も、ここで見た黙示思想的理解と両立するものとなります。さらに、グノーシスも知恵探求の一つの形態として、しかも体制側から抑圧された集団の産物として、黙示思想と通底するものがありますので(シュミットハルス『黙示文学入門』教文館、第五章「黙示文学とグノーシス」参照)、熱烈なユダヤ教徒であったパウロの知恵思想が、黙示思想的表現をとると同時に、一面でグノーシス的な色彩を見せるのも諒解できます。事実、パウロがこの箇所で用いている《ソフィア》(知恵)、《アイオーン》(世)、《アルコーン》(支配者)、《ミュステーリオン》(奥義)、《テレイオス》(成熟した者)、《プニューマティコス》(霊の人)、《プシュキコス》(自然の人)、《ビュトス》(深み)などの用語は、グノーシス文書によく出てくる用語です。

 このようなユダヤ教の知恵の流れにあるパウロが、知恵について語るとき、時代思潮の枠組みの中で語ること、すなわち黙示思想やグノーシス宗教(厳密にはパウロの時代ではまだグノーシス宗教的傾向とかその萌芽と言うべきかもしれません)の用語や表現を用いることは避けられませんが(ときには知恵を誇る論敵と対決するため意図的に)、内容においては、パウロは御霊のキリストの現実を生きることによって、グノーシスと対決し、黙示思想を克服していることを見落としてはなりません。パウロがいかにそれをなしているかは、この書簡の講解全体で見ていくことになります。
 「わたしたちは知恵を語る」というときの「わたしたち」とは誰を指しているかについては議論があります。しかしここでは、一章一七節以下で、福音宣教に際しては知恵の言葉によらずに十字架の言葉だけを語るという「愚かさ」に徹してきたパウロが、自分の立場を一般化して「わたしたち」という語で表現し、「成熟した人たち」には知恵を語るのだと言っていると理解してよいでしょう。
 「信仰に成熟した人たち」と訳されている語は、《テレイオイ》(完全な者たち)という語で、これはヘレニズム世界の密儀宗教でよく用いられた語です。イニシエィションを受けるまでの準備教育期間中の者に対して、秘義を受けて宗教の奥義に参入した者を指します。パウロは、このヘレニズム世界の宗教的常識となっている語を用いて、十字架の言葉を受けて自己が砕かれ、御霊のキリストと共に生きるようになった者たちを指していると見ることができます。そのような者たちには、パウロは神の知恵としてのキリストを語る、すなわち、神の全救済史を成就し啓示するキリストを語るのです。
 パウロが語る「神の知恵」は、書簡という類型の性質上、体系的なものではなく断片的なものにとどまらざるをえません。もっとも体系的である「ローマの信徒への手紙」でも、特別の状況の中で特別の意図をもって書かれた文書として、それだけでパウロの救済史理解の全体像を描くには不十分です。わたしたちは、パウロの手紙を手がかりにして、御霊に導かれて、パウロと共に「神の知恵」、すなわち全聖書が証言する救済史のミュステーリオンを探求しなければならないことになります。

 8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9 しかし、書かれているように、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」のです。(二・八〜九 一部私訳)

 「この世の支配者たち」《アルコーン》というのは、天上の霊的諸権威も地上の諸権力も含みます。彼らにも支配者としての彼らの知恵があります。それは「この世の知恵」です。しかし、彼らの中のだれ一人、この「神の知恵」を理解しませんでした。もし彼らがこの「神の知恵」を理解していたら、「栄光の主」であるキリストを十字架につけるということはしなかったはずです。彼らが「栄光の主」を十字架につけたという事実が、彼らが「神の知恵」を理解していなかったことの必然的な結果であり証拠なのです。
 パウロはここでキリストに「栄光の主」という尊称を帰しています。この尊称は本来ユダヤ教では神にのみ帰すべきものですが、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」(コリントU四・六)を与えられたパウロは、この「神の栄光」の体現者であるイエス・キリストを「栄光の主」と呼ぶのです(この点でもパウロはユダヤ教の枠を踏み越えています)。この世の支配者たちは、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」ことができなかったので、この方を自分たちの支配に反逆する者として十字架につけて殺したのです。
 続く九節の引用聖句は、「しかし」という語で八節の内容と強く対照されています(新共同訳の「このことは」という句は原文にはありません)。この世の支配者たちは神の知恵を理解しなかったために「栄光の主」を十字架につけてしまったが、「しかし」神はその出来事をも、人の思いをはるかに超える仕方で、神の民の救いに用いられたというのです。そこに、「この世の知恵」に対する「神の知恵」の勝利があります。

八節について、「もしこの世の支配者たちが神の救いの計画を知っていたら、キリストを十字架につけることをせず、かえって全力を尽くしてこれを妨げたであろう。なぜならキリストの十字架の死は、神が彼らを滅ぼし、世を彼らの支配から贖い出す神の道であったからである」という解釈があります(NTD)。この解釈は、神のもとからこの世に下る救済者は、この世の支配者たち《アルコーン》に妨げられないために、自分の本質(栄光)を隠すという、グノーシス神話に捕らわれすぎているように思われます。

 九節の聖句は、旧約聖書にはこれと正確に対応する箇所はなく、おそらくイザヤ六四・三、六五・一六、七十人訳聖書詩編三〇・二〇の混合引用か、旧約外典からの引用であろうとされています。トマス福音書の語録一七にこれとほぼ同じ言葉がありますので、「イエスの言葉に依拠して『言葉の知恵』を誇る論敵に対抗して持ち出し、いわば彼らの『お株を奪って』自分自身の素養を垣間見せたのである」という見方(荒井献)もあります。

御霊による啓示

 10 わたしたちには、神が御霊によってそのことを啓示してくださいました。御霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の御霊以外に神のことを知る者はいません。12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの御霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(二・一〇〜一二 一部私訳)

 「わたしたちには」という語が文頭に置かれ、前節と対比され強調されています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」、すなわち、この世の知恵が理解しなかった救済史の《ミュステーリオン》(その中心は十字架の奥義です)を、「わたしたちには」神が御霊によって啓示してくださったというのです。ここでもパウロは「神が啓示された」という黙示思想的な用語を使っています。パウロがここで用いている《アポカリュプトー》(啓示する)という動詞の名詞形が《アポカリュプシス》(黙示、黙示録)なのです。
 ここでいう「啓示」とは、人が知りえない秘密(神の御心の奥義)を、神が直接人に神秘的な仕方で知らされる出来事です。多くの黙示文学では天使によって啓示が与えられていますが、パウロは「神の御霊」によって啓示が与えられたとしています。ユダヤ教黙示文学では、預言の霊統を継承しつつも、知恵の人である著者が自分の時代の意義を探求し解釈した結果を、エノクやモーセやエリヤなどの偉大な人物に天使が啓示したという体裁で書かれています。それに対して、新約の場合は、「わたしたち」、すなわちパウロを含めてキリストに結ばれて生きる者の共同体全体が、神の御霊を受けて、御霊が啓示する「神の知恵」に与っているとされるのです。この段落の「わたしたち」は、神の御霊によって存立する終末的な共同体としての新約のエクレシアの自覚を表現していると見られます。
 「わたしたち」キリストにある者は、世の霊を受けたのではなく、「神からの御霊」を受けたのです。人の心の奥底を知る者は人の内にある霊以外にはないように、神の深みにある隠された秘密は、神の御霊以外に知る者はありません。この神の御霊を受けているキリストの民は、終わりの時にあって神の知恵、神の《ミュステーリオン》を知る共同体として、歴史に責任を負っていることになります。
 「わたしたち」に神の御霊が与えられたのは、「わたしたち」が神の恩恵の現実を理解するようになるためです。神の恩恵は、あまりにも人の思いを超えているので(九節)、神の御霊がわたしたちの心に注がれるのでなければ、とうてい理解することはできないからです。

御霊による理解と伝達

 13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人に教えられた知恵の言葉によるのではなく、御霊に教えられた知恵の言葉によって、霊の人々に霊のことを説明するのです。14 自然の人は神の御霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。それは霊的に判断されるべきものだからです。15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。 16 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを持っています。(二・一三〜一六 一部私訳)

 神の御霊によって存立するキリストの民は、全体として御霊による神の《ミュステーリオン》の啓示に与っている民です。しかし、理念的にそうであっても、実際には、御霊の賜物として「知恵の言葉」、「知識の言葉」を与えられているのは、一部の人たちであって全部ではありません(一二・八)。それで、そのような賜物を与えられている人から、他の人たちへ「神の知恵」を教え伝える営みが、キリストの民の内部で必要となってきます。パウロがエクレシアに神の恩恵の現実について、また救済の《ミュステーリオン》について語り教えるのは、この典型的な実例です。
 パウロはここでも自分がしていることを一般化して、「わたしたちは」と語ります。知恵を伝える言葉が「知恵の言葉」ですが、パウロが教える知恵は、人が教える知恵の言葉(人間の思考の中で形成される概念や論理)で伝えることはできません。それができれば、御霊をもたない「自然の人」も神の知恵を理解できることになります。それはできませんから、パウロは御霊が教える知恵の言葉によって、御霊をもっている人々に御霊の事態を説明するのです。御霊の場の外で、生まれながらの人間(自然の人)の思考の枠内で聴いても、この神の御霊に属する事柄、すなわち御霊が示す復活者キリストの現実や十字架の奥義、御霊によって新たに始まる信仰と愛と希望の諸相は理解することができず、愚かなことにしか見えません。それらの事柄は、御霊の働きの中で聴いて始めて心に収まることができるのです。このことをパウロは「霊的に判断されるべきもの」と言っているのです。
 「霊の人」というのは、わたしたちの周囲でよく見かける霊能者のことではありません。彼らの霊能も「自然の人」の能力の現れです。パウロが言う「霊の人」とは、この段落が語っているように、神の御霊を受けて、御霊によって神の恩恵の事態を理解し、御霊の知恵によって生きている人、すなわち「御霊の人」のことです。このような「御霊の人」は、神の御霊に属する事柄について、その意義や根拠や関連を理解し、一切を御霊の観点から総合的に判断するのです。パウロは「御霊の人」として、このような全体的な判断で、コリントの集会の問題に対処しています。パウロが「霊の人は一切を判断します」と言ったとき、ここでも自分のしていることを一般化して語っていると見てよいでしょう。そして、パウロの場合もそうでしたが、御霊の人は周囲の人からは理解されないものです(この箇所で三回用いられている「判断する」という動詞は、一四節の用法から見て、「理解する」に置き換えてもよいでしょう)。

一三節後半を、新共同訳は「霊的なものによって」霊的なことを説明する、と訳しています(協会訳もほぼ同じ)。しかし、この語は「霊的な人々に」と訳すことも可能です。すぐに続く「自然の人」との対照から、ここは「霊的な人々に」と理解する方がよいと考えられます。RSVも「御霊をもっている人々に」と訳しています。

 なお、パウロが単独で用いる定冠詞つき単数形の《プニューマ》という名詞は原則として神の霊を指しているので、明確に他の霊を指す場合は別にして、ここでは「御霊」と訳しています(新共同訳の ”霊 ”は日本語表記として不自然です。英訳聖書では定冠詞つき大文字の名詞を用いて「神の霊」であることを示しています)。形容詞《プニューマティコス》(霊的な)は《プシュキコス》(自然の)と対照されており、その名詞的用法は、それぞれ「霊の人」、「自然の人」と訳しています。もともとはヘレニズム密儀宗教の用語ですが、ここで見たように、パウロは「御霊の人」と「御霊を持たない生まれながらの人」の対比として用いています。 
 最後にパウロは、預言者イザヤ(四〇・一三)の言葉を引用して、この一段の結びとします。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」という言葉は、人間には神の御霊の事態は理解できず、神の御霊だけが啓示することができるのだということを語る聖句として引用されています(ギリシア語聖書で「思い」となっている箇所は、ヘブライ語聖書では「霊」となっています)。自然の人には「主の思い」、すなわち神の御旨の奥に秘められた計画は理解できませんが、それと対照して、御霊によって生きる「わたしたちは」(原文では強調されています)「キリストの思い」、すなわちキリストにあって与えられている神の恩恵の事態についての理解を持っていることが強調されます。ここの「思い」《ヌース》は、引用文が示唆するように、神の御旨の奥に秘められた計画、すなわち《ミュステーリオン》を指すと理解してよいでしょう。
 こうしてこの一段(二・六〜一六)は、人には愚かさの極みに見える十字架の言葉に生きる「わたしたち」が、実は御霊によって神の知恵に生きる者でもあることを描くことになります。