市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第3講

第二章 神のエクレシア

        ― コリントの信徒への手紙 T (2) ―




第一節 神のエクレシア

コリント第一書簡の執筆事情

パウロのエフェソ滞在

 前章でコリントにおけるパウロの福音宣教活動とその宣教内容について書きました。一年半におよぶパウロと協力者たちの働きで、コリントには多くの異邦人とかなりの有力ユダヤ人を含む信じる者たちの集会が成立しました。ところが、パウロたちが宣べ伝えた新しい信仰をめぐるユダヤ人たちの間の騒乱で、コリントで働き続けることが困難になったパウロは、春の船便の再開をまってコリントを去り、一路エルサレムに向かいます。五二年の春のことでした。
 使徒言行録一八章一八節以下の記事によると、パウロ一行とプリスキラ・アキラ夫妻は、コリントの南の外港ケンクレアイから出航します。この港は東(小アジア方面)に開けたサロニコス湾に面し、東に向かう船便の出航地でした。

その記事の中でルカは、「誓願を立てていたので、ケンクレアイで頭を剃った」と書いています(使徒一八・一八)。「誓願」というのは「ナジル人の誓願」(民数記六・一〜二一)のことであろうと考えられます。この誓願は、大きな危険からの守護を求めて、一定期間酒類を断ち、頭髪を剃らないと誓うことです。「頭を剃った」というのは、この誓願の期間が満ちたことを意味することになります。また、この誓願の終わりにはエルサレムの神殿で捧げ物をする規定になっていたので(使徒二一・二三〜二四参照)、ルカはこの記事でパウロのエルサレム行きの動機の一つを示唆しようとしたかもしれません。もしそうであれば、パウロのエルサレム行きの意図(これについては後に触れます)を、目的が達せられなかったことを知っているルカが矮小化したことになります。なお、「頭を剃った」という分詞形の説明は、原文では直前のアキラにかけることも可能ですから、誓願の満了にともない頭を剃ったのはアキラだという説もあります。

 パウロたちの一行はひとまずエフェソに上陸します。エフェソで船を乗り換える必要があったのでしょう。次の船を待つ間に、パウロはユダヤ人の会堂に入って、ユダヤ人と論じ合います。エフェソの人たちはパウロにもうしばらく滞在して活動するように願いますが、パウロはそれを断り、予定通りに出航します。エフェソはパウロが以前から目標にしていた伝道地であること(使徒一六・六)、また後にエフェソを最重要拠点として活動したことを考えますと、この時パウロがいかにエルサレム行きを重視して急いでいたかがうかがわれます。ルカは今回の旅行の目的地を「シリア州」としていますが(使徒一八・一八)、パウロの目的地はアンティオキアではなくエルサレムであることは明らかです。パウロ一行はアンティオキアの外港であるセレウキアではなく、エルサレムに近いカイサリア行きの船を選んでいるのです。
 エフェソでの短い滞在を報告するルカの文を、新共同訳は「パウロは二人をそこに残し、自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った」(使徒一八・一九)と訳しています。これは訳としては正しいのですが、意味がよく分かりません。「二人をそこに残し、自分だけが」という主語を、それに続く「エフェソから船出した」までの全部を指すと読めば、意味が通ります。すなわち、パウロはアキラとプリスキラ夫妻をエフェソに残して、自分だけがエフェソを出発したのです。この夫妻をエフェソに残したことは、パウロが再びエフェソに戻ってきて働きの根拠地にしようと、この時すでに考えていたことを示唆します。また、エフェソ出航にあたってパウロが「神の御心ならば、また戻ってきます」と言ったと、ルカがわざわざ伝えている(使徒一八・二一)のも、この時すでにパウロがエフェソを目的地としていたことを裏付けます。
 今回パウロが何のためにエルサレムに上ったのかについて、ルカは「教会に挨拶をするため」とだけしか書いていません(使徒一八・二二)。当時の旅行の困難さを考えますと、パウロがただ「教会に挨拶をするために」エルサレムへ急いだとは考えられません。ローマを目指して西へ西へと働きを進めていたパウロが突然東に向かって急ぐという行動には、何か差し迫った重大な目的がなければなりません。パウロのこのエルサレム訪問は、パウロの宣教活動の意味を理解する上できわめて重要ですが、それは別の機会に扱うことにして、今はコリント書簡の執筆地としてのエフェソに急ぎたいと思います。

このエルサレム訪問について、 J. Murphy-O'Connor, PAUL, a critical life 1996 は興味深い説を唱えています。彼によると、パウロがガラテヤ書二章で書いているエルサレム会議は、このエルサレム訪問の時になされたというのです。すなわち、コリントで活動しているとき、エルサレム教会の権威を誇る「ユダヤ主義者」がパウロの導いた異邦人信徒に割礼を求める動きを始めていることを知って、放置すれば自分の「割礼なしの福音」が無に帰するのではないかという危機感をもったパウロが、急遽エルサレムに上ってエルサレム教団の柱と目される人たちと談判したというのです。この説はパウロの突然のエルサレム訪問の動機を説明し、ガラテヤ書二章の文言を説明するのに多くの有利な点をもっていますが、同時に、すでにバルナバと別に行動しているのに、この会議にはバルナバが同行しているなどの困難があります。また、「その後十四年たってから」という記述と整合させることが困難です。しかし当否は別にして、この説は、この時のエルサレム訪問がパウロにとって自分のこれまでの働きが空しくなるかどうかという重大な問題に関わっていたことを示す点で意義深いものです。さらに、これまでの伝道活動(いわゆる第二次伝道旅行)ではエルサレム教会への援助は取り上げられていなかったのに、このエルサレム訪問以後の伝道活動(いわゆる第三次伝道旅行)がエルサレムの聖徒たちへの募金行脚の様相を示していることも、ガラテヤ書二章一〇節との関連で注目されます。この説によると、この時のエルサレム会議で異邦人への割礼なしの福音が承認されたという決定を、パウロ自身がガラテヤ地方を訪れて(使徒一八・二三)伝えたにもかかわらず、エフェソに到着したパウロが、「こんなにも早く」ガラテヤの人たちが割礼を受けるようになったことを聞いて驚愕し、ガラテヤ書を書いたということになります。

 パウロはアンティオキアでしばらく過ごします。越冬のためであったのでしょう。雪が溶けて「キリキア門」が通れるようになったとき、パウロは再び旅に出ます。今回も山道を踏破して、ガラテヤやフリギアの地方を巡回し、以前の伝道で設立した信徒の群を励まします。先に「ガラテヤ書」のところで触れましたように、これは「ガラテヤ州」南部の諸都市ではなく、小アジア中央部の「ガラテヤ地方」と隣接する「フリギア地方」のことです。後にパウロが「ガラテヤ人たちよ」(ガラテヤ三・一)と呼びかけ、「ガラテヤの諸教会」(コリントT一六・一)について語るのは、この地方の人々のことです。
 この地方を巡回した後、パウロは「内陸の地方を通ってエフェソに下って」来ます(使徒一九・一)。五三年の夏か秋の頃でしょう。前回の伝道旅行では、アジア州で(ということは首都のエフェソで)御言を語ることを計画しながら、何らかの事情に妨げられて果たせず、北のフリギア・ガラテヤ地方に向かわざるをえませんでした(使徒一六・六)。ここでついに、パウロは念願のエフェソに到着したのです。パウロがエフェソを今回の(一般に「第三次伝道旅行」と呼ばれている)伝道旅行の目的地としていたことは、先にも触れましたように、今回のエルサレムへの航海の途上でアキラ・プリスキラ夫妻をエフェソに残して、エフェソ伝道の布石を置いていたことからもうかがわれます。
 事実、パウロはエフェソに二年あまり(使徒一九・八と一〇、ただし使徒二〇・三一では三年)も腰を据えて活動します。エフェソでのパウロとその一行の宣教活動と、パウロの宣教活動の拠点としての重要性については、別の機会に扱うことにしますが、ここではエフェソの地理的な位置がもつ意義についてだけ触れておきます。
 どの聖書にもついているパウロの伝道地図を見ますと、エフェソはパウロの活動圏を示す円の中心に位置していることが分かります。エフェソは、ピシディアのアンティオキア、ガラテヤ、テサロニケ、フィリピ、コリントなど、パウロの設立した諸集会を結ぶ円周の中心の位置にあり、それぞれに三〇〇キロから五〇〇キロの範囲内におさまります。とくに、フィリピやテサロニケやコリントはエーゲ海を挟んで、海運の便もよく、短期間で往復することもできました(片道約二週間)。事実、パウロはエフェソ滞在中にこれらの諸集会と書簡をやりとりしたり、使者を受けたり、協力者を派遣したり、ときには自身で訪問したりして、緊密な連絡を取りながら、諸集会の信仰の確立につとめます。現在残されているパウロの手紙はほとんどエフェソで書かれたか、エフェソとの関わりで書かれたものと言えます。その中でも、エフェソで書かれたことがもっとも確かな代表的な書簡がコリントの集会にあてられた第一書簡です。

パウロの手紙のほとんどがエフェソで書かれたか、エフェソとの関わりで書かれた結果、パウロ書簡の収集である「パウロ書簡集」はエフェソで成立したと考えられます。この問題は、後でフィレモン書を扱うときに詳しく触れることになります。

コリントの集会における諸問題

 パウロがコリントに残してきた集会は活力に溢れた群でした。そのことは、コリントの集会にあてられたパウロの手紙、とくに第一の手紙の一二章から一四章の御霊の賜物について論じている箇所などを見るとよく分かります。この集会は御霊の力に溢れていただけに、行き過ぎや混乱も生じていたようです。それに、「コリント風に暮らす」ことに慣れていた多くの異邦人信徒が加わっている集会として、実際生活の上でも多くの問題があったようです。その上、パウロが去ってから、様々な傾向の伝道者が、このアカイア州の州都であり繁栄した交易都市であるコリントを訪れてきて活動したこともあって、コリントの集会は信仰内容の上でも、実際の信仰生活の上でも、多くの問題を抱えるようになりました。
 そこで、コリントの集会で指導的な立場にある三名の者が、諸問題についての質問を書いた手紙を携えて(七・一参照。この節の「書いてよこしたこと」は複数形)、エフェソにいるパウロを訪ねて指導を乞います。その三名の名がこの手紙の末尾に出ています(一六・一五〜一八)。まずステファナが「アカイア州の初穂」として、また、コリント集会の信徒たちを「労を惜しまず世話をした」人物として、名をあげられています。ステファナは、コリントでのパウロの伝道で最初に信仰に入り、パウロからバプテスマを受けた数少ない信徒の一人であり(一・一六)、パウロが去ってからはコリントの集会を世話し指導する労苦を引き受けてきた人物です。そのステファナと一緒にフォルトナトとアカイコという人が来ていますが、この二人もステファナと同じく、コリント集会で指導的な立場にいた人たちであると考えられます。
 コリント集会の三名の使者がエフェソのパウロを訪れたのは、パウロがエフェソに到着した次の年(五四年)の春であったと考えられます。この手紙を書いたとき、パウロはエフェソを出発してマケドニアに向かうことを計画しており(マケドニア州にはパウロの伝道で成立したフィリピ、テサロニケ、ベレアなどの集会があります)、マケドニアからコリントに回ってしばらく滞在する予定であること、場合によってはコリントで冬を過ごすつもりであることを予告しています(一六・五〜八)。しかし同時に、(初夏の頃にある)五旬祭(ペンテコステ)まではエフェソに滞在する予定であることも付け加えています。ところが、予期せぬ出来事のため、パウロは予定通りに出発することはできなくなり、エフェソ滞在はさらに延びることになります。

前著『パウロによるキリストの福音T』の10頁「使徒パウロの生涯」と題する年表において、「エフェソで約二年活動」という項を「52年〜55年」としているところを、「53年〜55年」と訂正します。
 なお、パウロの生涯を綿密に批判検討した最近の著作 J. Murphy-O'Connor, PAUL, a critical life 1996 は、パウロのコリント出発を五一年、エフェソ到着を五二年とし、コリント第一書簡の執筆をエフェソ出発の年である五四年春としています。著作年は同じになりますが、状況はすこし違ってきます。

 パウロの出発を延期させた予期せぬ出来事とは、おそらくパウロの一行が何らかの騒乱(それは使徒言行録一九章が報告しているアルテミス神殿での騒乱である可能性があります)に巻き込まれ、その結果しばらく投獄されたことであると考えられます。使徒言行録はエフェソでの投獄には触れていませんし、パウロも明確にエフェソで投獄されたとは言っていません。しかし、フィリピ書やフィレモン書はエフェソの獄中から出された書簡として読むとき、もっとも自然に理解できます(エフェソでの投獄については、フィリピ書との関連で後で詳しく触れることになります)。
 パウロはエフェソ滞在中、すでにコリント集会に問題があることを伝え聞いて知っており(たとえば一・一一)、心を痛めて、手紙も書き送っていたようです(五・九)。それで、コリントからの正式の使者が来て報告する以前に(あるいは使者が来てからかもしれませんが、少なくともこの手紙を送るよりは前に)、テモテをコリントに派遣しています(四・一七)。パウロは今書いている手紙(第一書簡)を使者たちに持たせて帰すにあたって、その手紙の中で、コリントの人たちがテモテを重んじて耳を傾けるように求め、テモテがよい成果を携えてエフェソのパウロのもとに帰ってくるようにという期待を表明して、コリントでのテモテの働きをバックアップしています(一六・一〇〜一一)。
 この手紙はコリント集会の具体的な問題に対処しようとして書かれているので、最初期の信徒の群がどのような問題に直面したのか、集会の現状がよく分かります。しかし、それ以上に重要なことは、そのような具体的な問題に対処するパウロの仕方から、パウロが生きている「キリストの福音」の質が、具体的な信仰生活の場で明らかになることです。この点に焦点を合わせて、パウロのコリントの集会にあてられた第一書簡を見ていきましょう。

神のエクレシア

挨拶と感謝

 1 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(一・一〜九)

 手紙の書き出しとしての挨拶と感謝の部分からすでに、福音の重要事項が目白押しに出てきます。まず、パウロは当時の手紙の通例に従って、発信人(一節)と宛先人(二節)、および平安の挨拶(三節)を書いています。発信人は「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」であり、宛先人は「コリントにある神のエクレシア」すなわち「キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々」です。そして、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」が祈られます。この手紙が成り立つ場、呼吸している世界が「主イエス・キリスト」という場であることが、すでに冒頭の三節に溢れています。この手紙は「キリストの使徒」から「キリストに属する民」に向かって書かれたものであり、キリストにあって歩む民の現実を描く、最初期の貴重な文書になります。
 共同発信人として「兄弟ソステネ」の名があげられています。ソステネはコリントの人で、コリントの人たちによく知られた人物でした(ソステネについては前章を見てください)。この手紙の執筆時にソステネがパウロと一緒にいたので、この手紙の内容の保証人として、コリントの人たちによく知られたソステネの名を連ねたのかもしれませんが、手紙の内容はあくまでパウロ一人のものです。
 この第一書簡では、パウロが使徒であることは問題にされていません(第二書簡では事情が変わり、パウロが使徒であること自体が激しく論争されることになります)。むしろ、神の民としてのコリントの人たちの在り方が問題とされています。それで、ここでは発信人のパウロより、宛先の「コリントにある神のエクレシア」に焦点を合わせて見ていきましょう。

《エクレーシア》という語

 パウロはこの手紙の受取人を「コリントにある神の《エクレーシア》」と呼んでいます。パウロが《エクレーシア》という語を使うとき、どのような意味内容をこめて使っているのかを、まず見ておきたいと思います。
 《エクレーシア》というギリシア語は、もともと《エク》(〜から)と《カレイン》(呼ぶ)から成り、「呼び出された(人たち)」という意味の語で、ヘレニズム世界では投票権をもつ自由な市民の集会を指す語として用いられていました。この語は、旧約聖書をギリシア語に翻訳するにあたって、神の民イスラエルの会衆を指す《カーハール》というヘブライ語の訳語として用いられました。たしかに、《エクレーシア》というギリシア語は、その語義からして、キリストの福音によって(この世から)「呼び出されて集められた民」を指すのにふさわしい語であると言えます。
 パウロは、主イエス・キリストを信じ告白する人々の群を《エクレーシア》と呼びましたが、その内容は一様ではありません。まず第一に、パウロは個々の集まりを《エクレーシア》と呼んでいます。パウロの時代には、信徒の群は個人の家に集まって、食卓の交わりをもち、礼拝を捧げ、祈りを共にしていました。それで、パウロの書簡には、「誰それの家にある《エクレーシア》」という表現が出てきます(一六・一九、ローマ一六・五、フィレモン二)。また、パウロは「誰それの家にある」という説明なしで、個々の信徒の群を指して《エクレーシア》と呼んでいます。その場合、ある地方とか州という一定地域にある複数の群を指しており、《エクレーシア》が複数形で使われています(一六・一、一六・一九、コリントU八・一)。また、「主の晩餐」に関して「あなたがたが《エクレーシア》に集まるとき」(一一・一八)とか、御霊の賜物に関して「《エクレーシア》では」と言うとき(一四章)、パウロは実際の集会の営みを指しています。
 以上のような場合の《エクレーシア》は、「集まり」とか「集会」と訳してよい場合です。このような用法の《エクレーシア》には、集団の性格を規定する語句は伴いません。それに対して、信徒の群という集団の特質を念頭において群全体に呼びかけるときは、パウロはその集団の性格を規定する語句を付けています。たとえば、テサロニケの人たちには「父である神と主イエス・キリストにある《エクレーシア》へ」(テサロニケT一・一)とか、コリントの人たちには「神の《エクレーシア》へ」(一・二、コリントU一・一)と言っています。フィリピ書とローマ書では《エクレーシア》の代わりに、規定語を伴った「聖なる者たち」という言葉で呼びかけています。コリント書簡では《エクレーシア》と「聖なる者たち」が並んで出てきます(一・二、コリントU一・一)。このような場合の《エクレーシア》は「会衆」とか「民」と訳してよいでしょう。

ガラテヤ書の呼びかけで、何もつけないで「ガラテヤ地方の《エクレーシアイ》(複数形)」とだけ言っている(ガラテヤ一・二)のは、福音から離反するガラテヤの人たちに対する失望が表現されているとする見方もあります。

神の《エクレーシア》

 ところで、パウロが主イエス・キリストを信じる者たちの集団の本質を念頭において語るときには、「神の《エクレーシア》」という表現を多く用いています(一・二、一〇・三二、一一・一六、一一・二二、一五・九、コリントU一・一、ガラテヤ一・一三、テサロニケT二・一四)。この「神の《エクレーシア》」という表現はパウロから始まるのではなく、パウロが迫害したエルサレムの最初期のユダヤ人キリスト教徒の群が自称として用いていたと見られます。パウロも「わたしは徹底的に神の《エクレーシア》を迫害し」と言っています(ガラテヤ一・一三)。

先に見ましたように、旧約聖書のギリシア語訳である「七十人訳聖書」は、イスラエルの会衆を指す《カーハール》というヘブライ語を《エクレーシア》というギリシア語で訳しています。「七十人訳聖書」を用いていた初期のキリスト教徒の群が、自分たちの集団を《エクレーシア》と称したことは自然なことでした。しかし、《エクレーシア》を単純に《カーハール》の訳語として、旧約のヤハウェの民を継承する新約の民の呼称とすることはできません。七十人訳ギリシア語旧約聖書は、「ヤハウェの《カーハール》」を、主の《エクレーシア》または主の《シュナゴゲー》と二通りに訳しています。ところが、新約聖書の著者たち、とくにパウロは、この二つの表現を用いず、もっぱら「神の《エクレーシア》」という表現を用いています。これは、当時のユダヤ教黙示文学で、一般のイスラエルの民ではなく、とくにその中から選ばれて終末時の神の民とされた者たちを指す《カハル・エール》(神の会衆)という術語(たとえば死海文書の「会衆規定」二・四など)から来た可能性があります。最初期のユダヤ人キリスト教徒たちは、自分たちを一般のイスラエルの民とは別の終末時の神の会衆と自覚し、身近なエッセネ派集団にならい、黙示思想的な呼称で自分たちを呼んだと見られます。パウロが自分を「神の《エクレーシア》の迫害者」というとき(一五・九)、自分が迫害した原始エルサレム教団の呼称を用いていると見ることができます。

 イエスの直弟子たちと信仰に入ったユダヤ人から成るエルサレムの最初期の教団は、自分たちを一般のイスラエルとは別の、終末時に特別に選び出された「神の《エクレーシア》」として、エルサレムへの主キリストの来臨《パルーシア》を待ち望んでいました。パウロは律法に熱心なイスラエル人として、彼らの中の(「ヘレニスト」と呼ばれる)モーセ律法からの自由を主張するグループを迫害しましたが、ダマスコ体験により、まさに迫害していた人たちの信仰へと回心するのです。その結果、パウロはモーセ律法とは関係なく、異邦人が異邦人のまま終末的な神の民とされることを宣べ伝える「異邦人の使徒」となりましたが、パウロは決してエルサレム教団とは別に「神の《エクレーシア》」が存在しうるとは考えませんでした。あくまでエルサレム教団が「神の《エクレーシア》」の根であって、異邦人の諸々の《エクレーシア》はその根に連なる枝として「神の《エクレーシア》」でありうるのです。パウロがそう考えたことは、パウロの活動と書簡の全体から、とくにパウロが命がけでエルサレム教団への献金活動をした事実からうかがうことができます(この点については後に詳しく触れます)。
 このように、《エクレーシア》という語が個々の集会にも、神の民全体にも用いられるとすれば、新約聖書を日本語に翻訳するとき、どのような日本語を当てればよいのでしょうか。ギリシア語原文が同じ語を用いている以上、日本語でも一つの語で訳すのが適当と考えられます。普通、日本語新約聖書は(文語訳も口語訳も新共同訳も)《エクレーシア》を「教会」と訳しています。しかし、《エクレーシア》を「教会」という用語で訳すことにはためらいを感じます。それは、「教会」という日本語は現在では特定の教義や祭儀や聖職組織をもつ制度的宗教団体を指す語になっており、この用語を用いることで新約聖書の《エクレーシア》にはない別のイメージを持ち込むことになるからです。
 では、どのような日本語が適当かというと、なかなか難しい問題です。「集会」は、個々の集まりを指すのには適当ですが、キリストの民全体を指すには難があります。たとえば、藤井武は「召団」という語を提唱しましたが、普及しませんでした。わたしは個人的には、福音の世界独自の用語として、「バプテスマ」の場合のように、そろそろ「エクレシア」というカタカナ用語を用いてもよいのではないかと考えます。「教会」という確立し普及した伝統的用語を用いるとすれば、新約聖書の《エクレーシア》との違いを十分説明して用いるべきでしょう。どうしても漢字を使うのであれば、「集会」の方が適当ではないでしょうか。黙示文学の《カハル・エール》の訳語として「神の集会」も十分通用すると思います。
 無理に一つの訳語を用いないでもよいのであれば、個々の具体的な集まりには「集会」を用い、キリストの民全体を指す場合は、「民」とか「御民」という訳語を用いる方が、かえって《エクレーシア》という語の本来の意味を忠実に伝えることができるのではないかと考えます。

「聖なる者たち」

 ところで、パウロはこの手紙の宛先として、「コリントにある神の《エクレーシア》へ」と並べて、「キリスト・イエスにあって聖とされた、召された聖なる者たちへ」と言っています。すなわち、神の《エクレーシア》と「聖なる者たち」は同格で、同じ人々を指しているわけです。この「聖なる者たち」とか「聖徒たち」という表現も、もともとはエルサレム原始教団の人々の呼称でした。たとえば、パウロが「聖なる者たちのための募金について」語るとき(一六・一)、その「聖なる者たち」というのはエルサレム教団の人たちのことでした。彼らは一般のイスラエルとは別に、終末の時に臨んで特別に召し出された「神に所属する者たち」という意味で、「聖なる者たち」と呼んだのです。

エッセネ派、とくにクムランの人たちが自分たちを「聖なる者たち」と呼んだことについては、『宗規要覧』『戦いの書』など死海文書に用例が多数あります。

 「神の《エクレーシア》」の場合と同じように、「聖なる者たち」であるエルサレム教団とつながることによって、異邦人の信徒たちの群も共に「聖なる者たち」となるのです。こうして、本来の「神の《エクレーシア》」であり「聖なる者たち」であるエルサレム教団につらなる形で、テサロニケ、フィリピ、コリント、エフェソ、ローマなど異邦諸都市にある「神の《エクレーシア》」が形成され、「聖なる者たち」が誕生するのです。このような形で異邦人の中に「神の《エクレーシア》」すなわち「聖なる者たち」を形成することが、「異邦人への使徒」パウロの使命であるわけです。

キリストとの交わり

主イエス・キリスト

 この手紙の書き出しの挨拶と感謝(一・一〜九)の僅か九節の間に、キリストの名が十一回も出てきます。「キリスト」が単独に用いられている二回を除いて、「キリスト・イエス」が三回、「わたしたちの主イエス・キリスト」が六回用いられています。「イエス・キリスト」という言い方は出てきません(新共同訳三節の最後は、原文では「わたしたちの主イエス・キリスト」と続いています)。パウロは手紙の中で「イエス・キリスト」という名も用いており、すでにパウロの時代にこの名が固有名詞のようになっていたことをうかがわせますが、ここでは用いられず、「キリスト・イエス」という言い方がされています。この言い方は、「キリストであるイエス」という意味を含み、「キリスト」が復活者・救済者としての称号であることを保持しています。それで「主《キュリオス》」という称号を添えないで用いられます。ところが、「イエス・キリスト」という言い方は(異邦人社会では当時すでに)固有名詞のように受け取られていたので、身分を示す称号として「主《キュリオス》」を付けて用いられました。《エクレーシア》の信仰告白の形としては、「わたしたちの主イエス・キリスト」という荘重な形が用いられていたことが、この箇所からも分かります。
 「神の《エクレーシア》」とか「聖なる者たち」というのは、この「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人たち」(二節)に他なりません。「名を呼び求める」というのは、その名が指し示している人格に自分の全存在を委ねる姿勢のことです。「主イエス・キリストの名を呼び求める」とは、十字架につけられたイエスを復活者キリストであり主《キュリオス》であると信じて言い表し、そのイエスに自分の全存在を委ねて生きることです(ローマ一〇・九〜一三参照)。これが「イエス・キリストを信じる」ことであり、パウロが「キリストの信仰《ピスティス・クリストゥ》」と呼んでいる人間の姿です。わたしはパウロが言う「キリストの信仰《ピスティス・クリストゥ》」を「キリスト信仰」と表現しています。

「キリスト信仰」という表現については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の155頁「キリスト信仰」の項を参照してくさい。

キリストとの交わり

 「キリスト信仰」の内容を実によく規定する表現が、この挨拶の部分の最後(九節)に出てきます。「キリスト信仰」とは「わたしたちの主イエス・キリストとの交わり」のことです。信じて仰ぐだけでなく、信じて交わる事態です。「信仰」よりも「信交」です。わたしたちは自分の信念とか努力で復活者キリストとの交わりに入ることはできません。神の恩恵によって賜った現実です。恵みの御霊の働きの実です。それは「神によって招き入れられた」結果です。このキリストとの交わりにある場を、パウロは「キリストにある《エン・クリストー》」と言うのです。
 わたしたちは「キリストにあって」聖なる者たち(神に属する者たち)とされ(二節)、「キリストにあって」神の恵みを受け(四節)、「キリストにあって」恩恵の賜物として霊の言葉や知識を賜り(五節)、「キリストの証」、すなわちキリストがわたしたちの中に生きていてくださるという現実が確立されていくのです(六節)。
 「キリストとの交わり」に生きる者たちの姿について、パウロはここでもう一つ重要なことを言っています。それは、「キリストとの交わり」に生きる「神の《エクレーシア》」は、「わたしたちの主イエス・キリストの現れ《アポカリュプシス》を待ち望んでいる」ということです(七節)。キリストが現れる終末の出来事は「わたしたちの主イエス・キリストの日」と呼ばれていました(八節)。「神の《エクレーシア》」とは、まさにこの「キリストの日」、「キリストの《アポカリュプシス》」を待ち望んで歴史の中を歩む民のことです。このような終末待望は最初期の「神の《エクレーシア》」の重要な標識でした。
 このような終末的な迫りの中に生きることは、思想や主義の問題ではなく、生ける交わりの中にいます「主ご自身が最後までしっかり支えてくださる」のでなければ実現できないことです(八節)。その日にわたしたちが「非のうちどころのない者」とされるかどうかは、わたしたちの信念とか努力ではなく、召してくださった「神の信実」だけに依存することになります(九節)。
 ここでパウロは「キリストの日」に起こる事態を「キリストの《アポカリュプシス》」と呼んでいます。このような呼び方はここ一箇所だけで、他の箇所では普通「キリストの来臨《パルーシア》」と呼ばれています(パウロではテサロニケT二・一九、三・一三、四・一五、五・二三の四回とコリントT一五・二三で計五回。なお福音書ではマタイ二四章に「人の子の《パルーシア》」という形で三回)。《パルーシア》という語は、本来ある人物のある土地への「到着」を意味する語で、パウロも自分やテモテなどのある都市への「到着」を語るときに、この語を何回も用いています。最初期の教団は、復活して天に昇られたキリストが再び地上に来られることを待ち望み、その出来事を「キリストの《パルーシア》」と呼んだのです(パレスチナのユダヤ人キリスト教徒はユダヤ教黙示思想の用語を用いて「人の子の《パルーシア》」と呼びました)。パウロもこの用語を受け継いでいますが、同時にパウロ独自の理解も出てきます。それがこの「キリストの《アポカリュプシス》」という表現に出ています。すなわち、パウロは「キリストの日」を、キリストが天から突然地上に到着されるというよりは、すでに隠された形でわたしたちの内にいます御霊のキリストが「現れる」出来事と理解していたのです。
 もともと《アポカリュプシス》という語は、隠されていたものが現れるという意味の語で、黙示思想家は隠されていた天界の秘密とか神の計画が啓示されたことを描く文書を呼ぶのにこの語を用いました。そのような場合の《アポカリュプシス》は「黙示」とか「黙示録」と訳されています。パウロにおいては、《アポカリュプシス》はいわゆる「黙示文学」の特殊な思想形態の枠を超えて、内住される御霊のキリストの顕現という、現在の霊的現実に重点を移した理解になっています。パウロが終末をそのように理解していたことは、ローマ書八章(一八〜二五節)で終末のことを語るさいに「神の子たちの《アポカリュプシス》」を中心にしていること、また、パウロの信仰を継承した人物が(用語は違いますが)この思想を明確な言葉で語っていること(コロサイ三・三〜四)からも確認できます。