市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第2講

第二節 十字架の言葉

十字架につけられたキリストの宣教

福音の核心 

 このように、しるしを求めるユダヤ人がつまずき、知恵を求めるギリシア人が愚かなものして拒もうとも、パウロはユダヤ人にもギリシア人にも、ただ「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えます。パウロはそうせざるをえないのです。パウロはこう言っています。

 兄弟たち、わたしもまた、そちらに行ったとき、神の奥義を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(二・一〜二 一部私訳)

ここで「奥義」と訳した原語は《ミュステーリオン》です。この箇所は《マルテュリオーン》(証し)と読む有力な写本があり、どちらを採るかは釈義に委ねられています。口語訳は「あかし」を採っていますが、新共同訳は《ミュステーリオン》を採って、この語の通例の訳語を用いて「秘められた計画」としています。わたしは、ここは《ミュステーリオン》の方が適切だと考えますが、訳語としては「奥義」の方がよいと思います。黙示文学に出てくる場合は、「秘められた計画」は分かり易い訳語ですが、ここでは意味を狭く限定しすぎるようなので、二章七節での用例(そこでは新共同訳は「神秘」と訳しています)とも合わせて、「奥義」が適当ではないかと考えます。

 パウロはすでにガラテヤでの伝道において「十字架につけられたキリスト」を福音の中心に置いていました(ガラテヤ三・一)。それに続くフィリピやテサロニケでの伝道においても、その前のガラテヤでの場合と、その後のコリントでの働きと同じく、パウロの福音宣教の内容は変わらず、一貫していたと見るべきでしょう。テサロニケ書簡にキリストの十字架のことがほとんど触れられていないので、パウロは初期にはキリストの来臨パルーシアを中心とした宣教をし、コリント伝道以後の後期に「十字架につけられたキリスト」の宣教に変わったとする見方はとることができません。テサロニケ書簡に十字架が出てこないのは、テサロニケの集会がキリストのパルーシアの問題で動揺していたから、それに対応するために書かれた書簡であるという事情によります。

テサロニケでの十字架の宣教については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の300頁「テサロニケにおける十字架の言葉」を参照してください。

 この段落でパウロが「わたしがそちらに行ったとき」とか、「あなたがたの間では」と言っていることをとらえて、「十字架につけられたキリスト」の宣教が急にコリントから始まったとか、コリントでの特殊な強調であるという見方は、採ることができません。ガラテヤ書がそれに反証を与えています。だいたい、パウロの三十代四十代の二十年近くにわたる伝道者教師としての活動の後に始められた五十代の独立伝道において、二年とか三年で福音の内容とか中心点が変わることは想像できません。アンティオキア集会から離れて独立の宣教活動を始めるまでに、パウロの福音は確立しており、この独立伝道の時期のパウロの宣教は一貫して「十字架につけられたキリスト」の福音の宣教であったと見るべきです。
 パウロにとってキリストの十字架こそ福音の核心であり本質です。十字架は、それがなければ福音が福音でなくなるのです。もちろん、それは「キリストの」十字架、すなわち復活された方の十字架です。復活者キリストの十字架の出来事こそ、神の永遠の救いの業であり、十字架につけられた復活者キリストこそ、すべての人間の救済者なのです。それがパウロの福音です。
 最初期のキリスト宣教、すなわち、イエスをキリストとして宣べ伝える宣教には、様々な流れがありました。その中には、ヤコブに代表される原始エルサレム教会のように厳格にユダヤ教律法の枠内にとどまるものや、「語録資料Q」とか「トマス福音書」などのように受難物語抜きでイエスの教えを強調するもの、また、当時のユダヤ教黙示思想を受け継いでひたすら終わりの日の切迫を強調するものなどがありました。その中で、パウロが「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」福音を宣べ伝えたことは、当時としては決して当たり前のことではなく、かなり特異な行き方でした。そして、このパウロの決意が、激しい批判や反対運動にもかかわらず、後の時代の「キリスト教」の流れを決定する力となるのです。現在わたしたちがキリスト教を「十字架教」(内村鑑三)として理解しているのは、パウロの影響です。 

御霊の力

 では、なぜパウロはコリントの集会に宛ててことさらに、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と書かなければならなかったのでしょうか。その理由は、先行する「わたしもそちらに行ったとき、神の奥義を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」という句が示唆しています。パウロはこの書簡を書いたとき、自分の宣教が「優れた言葉や知恵」を用いたものでなかったことを強調しなければならなかったのです。パウロは続けてこう言っています。

 わたしもまた、そちらに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、御霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によるものではなく、神の力によるものになるためでした。(二・三〜五 一部私訳)

 パウロはテサロニケでユダヤ人から迫害され、辛うじて脱出してアカイア州に入りました。アテネでは市民から嘲笑されて、失意の中にコリントに入りました。その間、迫害にさらされているテサロニケの集会のことが心配でなりませんでした。このような心身ともに労苦に満ちた旅をしてコリントに入ったとき、パウロは衰弱し、恐れとひどい不安の状態だったというのです。それでもパウロは福音を語らざるをえませんでした。パウロは内から衝き動かす力に逆らうことはできないのです。そのような状況での宣教は、説得するために知恵に適った言葉を選び抜いて語ることはできず、ひたすら御霊の力に頼って、人の知恵には愚かさそのものである「十字架につけられたキリスト」の《ケリュグマ》だけを語ったのです。
 パウロはその時の自分の宣教を「御霊と力の証明によるもの」としています。宣教の場における「力」とは御霊の働きのことですから、「御霊と力」というのは「御霊の力」とか「御霊の働き」という意味と理解してよいでしょう。では、御霊の力による「証明」というのは、御霊の働きによって奇跡が行われたことでしょうか。パウロは自分が行った奇跡は手紙の中で触れたり自慢したりしていませんが、パウロの宣教活動に奇跡が伴っていたことは、パウロ自身が認めていますし(ローマ一五・一八〜一九)、使徒言行録もそれを報告しています(使徒一九・一一〜一二)。この「証明」の中に病気の癒やしなどの奇跡が含まれていることは排除できません。しかし、パウロがこの語を用いた状況からすると、ここでの「御霊と力の証明」というのは、パウロが語る言葉の説得力が、人の知恵の論理によるものではなく、御霊が聴衆の心に直接働きかける結果であるという意味に理解するのが適当だと考えられます。「御霊の迫り」とでも言ってよいと思います。イエス・キリストの名が告白され、福音の言葉がひれ伏しの中で語られ聴かれるとき、御霊が働かれる場が形成されます。その御霊が聴く者の心に働きかけて、福音のリアリティー、霊なるキリストの現実を悟らせてくださるのです。それは御霊による直接の「照明」であり、「証明」です。

「証明」と訳されている原語《アポデイキシス》は、新約聖書ではここだけに用いられている名詞です(動詞形は四回出てきます)。この語は広く一般的な意味では「証明」と訳してよいのですが、当時の修辞学上の用語として、「説得性」とか「説得力」に近い意味を持っていました。ここでは後者の意味で理解して、それが御霊の働きの結果ですから、スピーチの構造の論理性などから生じる説得力ではなく、聴衆の心に直接働きかけることで生じる論理を超えた説得力と考えます。

 パウロがここで福音を語ったときの自分の弱さに言及したのは、自分の宣教が人間的な知恵に頼ったものでなく、御霊の力によるものであることを強調するためでした。ここにも、人間の弱さの中に神の力が現れるという、パウロが体験し、そこに生きている逆説が貫かれています。パウロが「わたしもまた」(一節と三節)と言うのは、直接には直前の段落(一章二六〜三一節)で神は世の無力な者を選ばれたと言ったことを受けて、「あなたがたと同じく、わたしもまた」という意味でしょうが、その奥には、十字架という弱さの極限において神の救いの力を現されたキリストと同じように、わたしもまた自分の弱さの中に神の力を現すのであるという気持ちが響いています。
 そのように弱さの中で福音を語ったのは、パウロの言葉を聴いて信じた者の信仰が、「人の知恵によるのではなく、神の力による」ものとなるためだと、パウロは言います。「神の力」とは、ここでは先に出てきた心に直接働きかける「御霊の力」とか「御霊の働き」を指しています。パウロはここで、「人の知恵による信仰」と「御霊の働きによる信仰」を対立させて、自分の宣教の言葉を聴いて信仰に入ったコリントの人たちの信仰は「御霊の働きによる信仰」であることを思い起こさせているのです。
 「人の知恵」については次項以降で改めて扱うことにして、ここでは、福音がそれを聴く者にもたらす信仰とは「御霊の働きによる信仰」であることを強調しておきたいと思います。普通「信仰」というと、何らかの意味で人間の側の決意とか行動、あるいは理解とか態度を指しています。しかし、福音においては、それを含むとしても、それだけでは信仰は成り立ちません。たしかに、信仰は福音の言葉を聴く場において成立します。教会で説教を聴くとき、信仰者と対話するとき(著作を含めて)、ひとり聖書を読むとき、わたしたちはイエス・キリストに対しているのです。この方のことを思いめぐらし、敬愛し、その教えに従うことを決意し、教会に通う生活をするとしても、それはまだ「信仰」ではありません。
 新約聖書が言う「信仰」とは、「主イエス・キリストとの交わり」のことです(コリントT一・九、ヨハネT一・三)。御霊の働きによって、霊なるキリストと結ばれ、霊なるキリストとの交わりに生きることです。それは、福音の言葉が響く場で、自我が打ち砕かれて、自分が無になったとき、突如として始まります。そのような御霊の働きが、いつ、どこから来るのか、誰も知りません。誰も風がどこから来て、どこへ行くかを知らないのと同じです(ヨハネ三・八)。しかし、その時、わたしたちは自分の魂の奥底に変化が起こったことを知ります。磁性を帯びた鉄が北極をいつも指すように、御霊の働きによってキリストと結ばれた魂は、自分の現実がいかに惨めなものであっても、生涯キリストを慕い、キリストを目指して生きないではおれないようになるのです。「信仰」はもはや自分の決断とか努力ではなく、内なる御霊の力の発現となるのです。このように御霊の働きによって霊なるキリストと結ばれるようになることを、「聖霊のバプテスマ」と呼んでよいでしょう。

人の知恵と神の力

福音の逆説

 先に見たようなパウロがキリストにあって体験し生きている逆説、すなわち、人間の弱さの極限においてこそ神の力が現れるという逆説は、パウロ個人の特別の体験ではなく、福音そのものがもつ逆説です。パウロは、十字架の福音における逆説を次のように展開しています。

 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」。(一・一七〜一九)

 ここでパウロはまず、キリストから遣わされた者としての自分の使命を「洗礼(バプテスマ)を授けるため」ではなく、「福音を告げ知らせるため」であると対比しています。これは、コリントの集会に起こった分派が、おそらくそれぞれ自分たちにバプテスマを授けた伝道者の名を自派の旗印としたので、パウロはコリントでは僅かの人たちにしかバプテスマを授けなかった事実を思い起こさせて分派を戒めた(コリントT一・一〇〜一六)という文脈に出てくるものです。「バプテスマを授けるためではなく福音を告げ知らせるため」というパウロの言葉は、福音宣教におけるバプテスマの位置について重要な問題を提起していますが、この問題については後に改めて詳しく取り上げることにします。
 パウロはさらに、「福音を告げ知らせる」使命を、「言葉の知恵によらないで」福音を告げ知らせることと規定します。同じく「福音を告げ知らせる」といっても、「言葉の知恵によって」福音が告げ知らされるならば、「キリストの十字架がむなしいものになってしまう」というのです。では、「言葉の知恵によって」福音を告げ知らせるとは、どういうことでしょうか。
 パウロはここで自分の「十字架につけられたキリスト」の宣教を「十字架の言葉」と呼び、それを「言葉の知恵」による宣教と対比しています。「言葉の知恵」という表現がどのようなタイプの宣教を指しているのか特定することは困難ですが、それが何を指すにせよ、パウロはここで自分の「十字架の言葉」が「愚かなもの」であるのに対して、「知恵にあふれた言葉」とか「人の知恵」(二・四〜五)と同じ意味で用いていることは明らかです。もし福音を、たとえそれがイエスの言葉であっても、言葉の霊的理解とか実践的知恵として告げ知らせたり、自分が語る言葉の論理性とか倫理性に訴えて相手を説得した場合、「キリストの十字架がむなしいものになる」、すなわち、キリストの十字架は人を変える力を持たない無内容なもの、なくてもよいものになるというのです。
 パウロがコリントを去ってから、アポロをはじめ様々なタイプの伝道者がコリントにやってきて活動したようです。その中に、イエスの言葉を集めた「語録」を拠り所とし、イエスの「言葉」の霊的解釈や、その「言葉」に従う新しい生活を信仰だとする一派の人々がいたので、そのようなタイプの宣教をパウロがここで「言葉の知恵」による宣教と呼んでいるのだとする学説があります。たしかに、最近の研究が明らかにしたところによると、パウロが活動した時代にはすでに、ガリラヤやシリアを中心に、イエスの語録を奉じる信仰運動が展開しており、その中から後に「語録資料Q」や「トマス福音書」が生み出されてきます。この両者には受難物語がないのが特色です。そのような流れのグループから来た伝道者がコリントで活動したとすれば、彼らの福音はパウロの「十字架につけられたキリスト」の福音《ケリュグマ》と対立するのは当然ですし、パウロがそのようなタイプの宣教を「言葉の知恵」と呼ぶこともうなずけます。このような推定は可能ですが、ここでは「言葉の知恵」をそのような狭い意味に限定する必要はないと思われます。以下の議論の展開からしても、パウロはここで、愚かさの極みである「十字架の言葉」が神の力であることを、広く人間の知恵と対比していると理解してよいでしょう。
 パウロにとって「福音」とは「十字架の言葉」、すなわち、十字架につけられたキリストを告知する言葉です。「わたしたちのために」死なれた復活者キリストを告げ知らせる言葉です。「復活」も「わたしたちのための死」も、人間の知恵にとってはまったく愚かなことであり、自分の知恵に固執して「愚かさ」の中に提供されている神の救いを受け取ろうとしない者、すなわち「滅んでいく者」には、愚かさの極みです。人間にとって愚かさの極みである「十字架の言葉」が、まさに人を救いに至らせる神の力なのです。その言葉を受け入れて救いに与る者には、まさにその愚かな「十字架の言葉」が救いに至らせる神の現実的な力となるのです。このように、福音は十字架の言葉として、人間には「愚かなもの」であると同時に「救いに至らせる神の力」であるという逆説の形で現れるのです。
 先に「滅んでいく者」と「救われる者」の二種類の人間がいて、その二種類の人間に「十字架の言葉」がそれぞれ「愚かなもの」と「神の力」として現れるというのではありません。世に告げ知らされた「十字架の言葉」が人間を二つに分けるのです。それを愚かなものとして拒む者が「滅んでいく者」であり、それに身を委ねて「神の力」として体験する者が「救われる者」なのです。一つの言葉が同時に「愚かさ」であり「神の力」であるというところに、「十字架の言葉」の逆説があるのです。
 パウロはここで「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という預言者イザヤの言葉(イザヤ二九・一四のギリシア語訳)を引用して、この逆説が神からのものであることを論証し、以下の展開の根拠とします。

「福音」の愚かさによって

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(一・二〇〜二一)

 ギリシア哲学諸派の知者にも、ユダヤ教各派の律法学者にも、また、総じてこの世の精神世界の指導者をもって任じている論客にも、パウロは「十字架の言葉」を突きつけて挑戦します。彼らは「十字架の言葉」を愚かなものとすることによって、神が彼らの知恵を愚かなものとされたことを示しているのです。「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」という断定を、パウロは続く一文(二一節)で説明します(二一節は理由づけの小辞ガルで前の文に結ばれています)。
 二一節は、新共同訳では三つの文に分けて訳されていますが、原文では一つの文章です。直訳しますと、「というのは、神の知恵において、世は知恵によって神を知ることがなかったので、神は、《ケリュグマ》の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされた(決心された)からである」となります(RSVなど大部分の英訳はこのように直訳しています)。
 「神の知恵において」という句の解釈は分かれています。協会訳や新共同訳は、「世は知恵によって神を知ることがなかった」ことが神の知恵の中での出来事であると理解して、「神の知恵にかなっている」と訳したのでしょう。そう理解すると、「人間は知恵によっては神を知ることができない」という認識が「神の知恵」であることになり、「知恵」のトータルな否定ともなります。しかし、パウロはキリストを「神の知恵」とし(一・二四)、さらに詳しく「神の知恵」を語ります(二・七)。パウロは「知恵」をトータルに否定するのではなく、その意義を認めています。それで、協会訳と新共同訳は原文にはない「自分の」という句をつけて、「世は自分の知恵によって神を知ることができなかった」として、この矛盾を避けたのでしょう。しかし、パウロの知恵の評価を考慮に入れるならば、「神の知恵において」という句は、むしろ「神の知恵の中にありながら」とか「神の知恵に囲まれていながら(または、包まれていながら)」と理解するべきでしょう。たとえば、NTD(ヴェントラント訳)は「じっさい、神の知恵(が啓示されている)にもかかわらず、この世はこの知恵によって神を認めなかったので」としています。この場合、コスモス(世)は神の知恵によって存在し、その知恵の中にいるにもかかわらず、コスモスはその知恵によって神を認識するにいたらなかった、という意味になります。いずれにせよ、コスモスは知恵によって神を知ることはできなかったのです。
 そこで、神は「《ケリュグマ》の愚かさによって、信じる者を救う」と決意されたのです。《ケリュグマ》は《ケリュッセイン》(告げ知らせる)という動詞の名詞形で、告げ知らせる行為そのものと告げ知らされた告知内容の両方を指します。ここでは両方の意味を含んでいるのでしょう。たしかに、ある出来事を告知するという行為は、知恵をもって教え導く働きと比べると、「愚かなもの」です。新共同訳はここを「宣教という愚かな手段で」と訳しています。しかし、ここでは「信じる」の対象になっていることからして、告知行為よりもむしろ告知内容が考えられていると見られます。ところで、パウロがキリストから遣わされた使徒として告げ知らせた救いの告知の内容は「福音」と呼ばれています(ローマ一・一〜四、コリントT一五・一〜五)。それで、「宣教」という語は告知行為の意味合いが強いので、この箇所の日本語訳としては、「宣教の愚かさによって」よりも、あえて「福音の愚かさによって」とする方が、かえって正確ではないかと考えます。
 「福音」とはパウロにとって、とくにここの文脈においては、十字架につけられたキリストを告げ知らせる言葉、「十字架の言葉」に他なりません。人間の知恵からすれば全く愚かさの極みである「十字架の言葉」が神の力だというのです。それは、この「十字架の言葉」が信じる者に御霊をもたらすからです。なぜそうなるのか説明はできません。「神は信じる者を救うことをよしとされた」と言うほかありません。神はこの「十字架の言葉」を信じる者に御霊を与えて、救いに至らせるのです。福音が信じる者にもたらす御霊こそ「救いに至らせる神の力」なのです。

神の愚かさと弱さ

 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(一・二二〜二五)

 先に見たように、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」。しかしパウロは、それが「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であることを十分承知の上で、ただひたすら「十字架につけられたキリスト」だけを宣べ伝えます。「つまずかせるもの」も「愚かなもの」も共に、人が認めることができない「不条理なもの」という意味で、広い意味の「愚かなもの」に含めることができるでしょう。人間の判断には不条理で愚かな「十字架につけられたキリスト」こそ、人を救う神の力であるとして、基本的にはパウロは「人の知恵」と「神の力」の対比を強調しています(一・一八、二・五)。しかしここでは、キリストを「神の力」であるだけでなく、「神の知恵」として「人の知恵」と対比しています。
 パウロの福音においては「十字架につけられたキリスト」は、神の力であるだけでなく、神の知恵でもあるのです。「神の知恵」は人の知恵とか世の知恵とは対立する別の知恵ですが、知恵であることには変わりありません。パウロは知恵そのものを否定しているのではなく、神の知恵に反抗する世の知恵とか人の知恵を否定しているのです。
 知恵というのは神と世界の現実に対する人間の認識とか洞察のことですから、「神の知恵」というのは「神からの知恵」のことです。それは人間自身とかこの世から出てくる知恵とは別のところから来る知恵です。キリストが「神の知恵」であるというのは、キリストに結ばれて生きる者には、この世が与えるものとは別の知恵を御霊が与えてくださるからです。この御霊が与える「神の知恵」についてパウロは少し後(二章六節以下)で詳しく論じていますが、ここでは自分が宣べ伝えるキリストが「神の知恵」であることを示唆するだけにとどめています。
 そして最後に「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」という強烈な印象を与える言葉で、この「人の知恵」と「神の力」の逆説を説く一段を締め括ります。「神の愚かさ」というのは、神がなされる業が人間の目にはまったく愚かに見えることを指しています。人間にはまったく愚かに見える「十字架につけられたキリスト」の出来事は、いかなる人間の知恵よりも深い根元的な知恵の源泉なのです。また、「神の弱さ」というのは、神が遣わされた方が、敵対する者を力づくで抑えて勝利するのではなく、地上では追われ、放浪し、最後に十字架で処刑されるという、人の目には弱さの極限と見える出来事を指しています。ところが、その出来事こそが、いかなる人の力も及ばないことを成し遂げる強い力なのです。

神の選び

 「十字架の言葉」は愚かなものであるが、まさにその愚かなものが神の力であるという逆説は、この言葉の宣教の結果にも現れていることを、パウロは続く段落(一・二六〜三一)で語ります。パウロがコリントで初めてこの福音を宣べ伝えたとき、この福音によってキリストの交わりへと「召された」者はどのような種類の人たちであったかを思い起こさせます。「人間的に見て知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者」は決して多くありませんでした(一・二六)。はじめパウロの伝道によってコリントの集会を形成したのは、比較的下層の人たちが多かったようです。それは、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」結果だというのです(一・二七)。「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」結果なのです(一・二八)。
 ここで、福音を聴いて信じた者がキリストの交わりに召されたのは、「神が選ばれた」結果であると理解していることが重要です。わたしたちが今キリストの交わりにあるのは、決してわたしたち自身の立派さとか熱意の結果ではないのです。自分の側には何の根拠もないのです。神が選ばれたからとしか言いようがないのです。「選び」の信仰は、自分の側に何の根拠もないことを告白する一つの表現です。そのことを、パウロは次のように表現します。

 それは、いかなる肉も神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神からの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(一・二九〜三〇 一部私訳)

 「肉」というのは生まれながらの人間のことであり、ここで人間の側の価値を根拠とする「誇り」が徹底的に否定されているのです。わたしたちが今「キリスト・イエスにある」(キリストとの交わりにある、キリストに結ばれている)のは、ただ「神から」出た事態なのです。それは、わたしたち自身の価値とか努力によるのではなく、神の恩恵と選びによるのです。そして、今わたしたちが結ばれているキリストこそ、わたしたちにとって「神から」与えられた知恵となり、義と聖と贖いとなってくださっているのです。わたしたちに知恵とか義とか聖とか贖いはないのです。
 他の箇所では「神の知恵」と言っていることが、ここでは「神からの知恵」(原文で前置詞《アポ》が用いられている)と表現されていることが注目されます。先に「神の知恵」というのは「神からの知恵」と理解すべきであるとしたことの、一つの根拠となります。また、義などより先にまず、キリストが神からの「知恵」であると強調していることが注目されます。パウロは、コリントの集会で自分の知恵とか知識を誇るグループに対して、キリストを知恵とすることで対抗しようとしているからでしょう。なお、「義と聖と贖い」という名詞の組み合わせは、パウロには他に例がなく、パウロ以前の定型句を使用しているという可能性が議論されています。そうであるとしても、自分ではなくキリストを神からの「義と聖と贖い」とすることは、パウロの福音を凝縮した表現として貴重な一文でしょう。
 最後にパウロは、「誇る者は主を誇れ」という預言者エレミヤ(九・二三)の言葉で、この段落を締め括ります。わたしたちの場合、「主」はキリストを指します。わたしたちはキリストだけを「誇る」、すなわちキリストだけを自分の救いとか栄光の根拠にするべきなのです。キリスト以外の何ものも誇ってはならないのです。自分の側の知恵も知識も、義も聖も根拠としてはならないのです。キリストがすべてなのです。

パウロの十字架体験

 パウロがここで「十字架の言葉」というとき、それは「十字架につけられたキリスト」を告げ知らせる言葉、すなわち福音の言葉を指していますが、その背後にはキリストを「十字架の言葉」として体験する霊的な体験があると考えられます。
 パウロは自分の霊的な体験をほとんど語りません。パウロの生涯を決定的に変えたあのダマスコ体験についてさえ、ガラテヤ書簡の一節(ガラテヤ一・一六)で、しかも副文の中でごく短く触れるだけです。パウロは聖霊の力により病人を癒やし悪霊を追い出すなどの奇跡を行いましたが、それらの奇跡について自ら語ることは、ローマ書の一箇所(ローマ一五・一九)以外ほとんどありません。また、パウロは預言や異言など霊の賜物に豊かに恵まれていましたが、自分の賜物について語るのはコリント書簡の一節(コリントT一四・一八)で控えめに触れる以外ありません。パウロは、御霊によって「第三の天にまで引き上げられ」、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(コリントU一二・一〜四)。これはパウロ自身の体験であることは明らかですが、パウロはそれを第三者のことのように書いています。
 このように、パウロは自らはほとんど語りませんが、ダマスコ体験以来長年にわたって様々な形の御霊の働きと啓示に与ってきました。その中でもっとも決定的で深い体験は「十字架体験」と呼んでよい体験であったとわたしは考えます。
 そう考える根拠の第一はパウロ自身の告白です。すでにガラテヤ書で見ましたように、パウロは福音の提示にさいし、その核心的な位置で自分の体験を一人称単数形で次のように告白しています。

 わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ二・一九〜二〇)

 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(ガラテヤ六・一四)

  次の告白の「わたしたち」にもパウロの個人的な体験が響いていると見られます。

 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(コリントU五・一四〜一五)

 このような告白だけでなく、パウロの書簡の隅々まで十字架の逆説がしみ通っていることを見ますと、その背後には「十字架体験」が中心的な位置を占めていると推定せざるをえません。
 第二の根拠はわたしの体験です。わたしのような小さな者の体験から大使徒パウロの体験を推測するのは愚かなことですが、愚かさを承知であえて自分の体験を語り、わたしがこのような推定をする根拠を説明しておきたいと思います。
 わたしは若いときに福音を聴いて信仰に入りましたが、信仰とは自分の決心とか忠誠とか努力では不可能であることを思い知らされて、聖霊を切に祈り求めました。主はその祈りに応えて、わたしのような小さい者にも約束の聖霊を注いで、様々な霊的な体験を与えてくださいました。御霊に溢れて主を賛美するとき、祈りの言葉はおのずから異言となってほとばしりました。預言や霊歌が溢れる集会で主の臨在を身近に実感しました。また、手を置いて祈ることで病人が癒やされるという事実も僅かながら体験しました。そのような霊的体験は貴重なものでしたが、その中でわたしにとって最も決定的な体験は「十字架の言葉」に出会った体験です。
 その頃、わたしは御霊に導かれて祈っているとき、「わたしはあなたのために死んだ」という言葉を聴きました。わたしは自分の前に十字の形をして輝く光を見ました。その光の中に人格の臨在を感じ(というより、その光自体が人格であったと言うべきかもしれません)、その方から「わたしはあなたのために死んだ」という言葉を聴いたのです。その言葉は日本語でもなく英語でもなく、言葉そのもの、意味そのものとしか言いようのない言葉でした。その十字の形をして輝く光そのものが人格であり、わたしに語りかける言葉であるのです。そのような根源的な言葉を「言(コトバ)」と書いて、わたしたちが口で語る言語としての「言葉」から区別しますと、わたしはそのとき「十字架の言(コトバ)」を聴いたと言うことができます。
 この体験はわたしの生涯を決定しました。わたしはこの世に対して死に、この世に求めるものはなくなり、キリストにおいて生きることだけを求めるようになりました。キリストにあって、聖書に証言されている「神の国」の真理だけを追い求めるようになりました。わたしの実際の生涯は弱さと愚かさとに満ちて破れ果てたものですが、根底にはいつもこの「十字架の言(コトバ)」がわたしを支え、わたしをキリストの道一筋に生きざるをえないようにしているのです。
 このようなわたしの体験からしますと、パウロが「十字架の《ロゴス》」という時、その《ロゴス》は「十字架につけられたキリスト」を告げ知らせる言葉(福音の言葉、《ケリュグマ》)という意味だけではなく、「十字架につけられたキリスト」自身がわたしたちに語りかける神の根源的な「言(コトバ)」であるという意味に理解せざるをえないのです。「十字架につけられたキリスト」という「言《ロゴス》」、神の根源的な語りかけそのものなのです。「わたしはあなたのために死んだ」という復活者キリストの現実がわたしへの神の言(コトバ)なのです。
 その言(コトバ)は人間には愚かなもの、理解できないもの、不条理なものですが、実にわたしを砕き、新しい存在に作り変え、命を与える神の力なのです。「十字架の言(コトバ)」こそ、わたしを死なせると同時に生かし、砕くと同時に建てる力なのです。その愚かさは「人よりも賢い」のです。「十字架の言(コトバ)」は「隠されていた奥義としての神の知恵」(二・七)なのです(この知恵についてはパウロは二章六節以下で詳しく語っていますが、本書では別の章で扱うことになります)。