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第四節 主の日を前にした歩み

主の日

 パウロにおいては「主と共にいる」または「主と共に生きる」ことが救いの内容であることは、次に続く段落(五・一〜一一)のパウロの言葉によく示されています。パウロはまず、主の日がいつ来るのか分からないのだから常に目を覚まし、身を慎んでいるように勧めます。

 1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。(五・一〜三)

 主が来られる日のことが信徒たちの最大の関心事であり、彼らの心を占めていたので、そのことがいつ起こるのか、またどのような状況で起こるのか、すなわち主の来臨の「時と時期」について多くのことが語られ、また議論され、テサロニケの信徒の間に混乱もあったのではないかと考えられます。おそらくテモテから集会の様子を伝え聞いたパウロは、「その時と時期について」、テサロニケにいるときに教えておいた「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」というもっとも大切なことを思い起こさせます(一〜二節)。
 初期の福音宣教において、主が来臨される時は「主の日」と呼ばれて、熱烈に待ち望まれていました。「主の日」という表現は、旧約聖書に長い歴史があり、イスラエルの民には親しい表現でした。イスラエルの民は古くから苦難の歴史の中で、自分たちの神ヤハウェがその栄光を現すために決定的な働きを成し遂げてくださる日を、「ヤハウェの日」と呼んで待ち望んでいました。民にとってはその日は戦勝などで栄光を受ける日でしたが、イスラエルの罪(ヤハウェに対する離反)を糾弾した預言者たちは、「ヤハウェの日」はイスラエルにとって厳しい裁きの日、神の怒りの日となると警告しました。その裁きが実現したバビロン捕囚を転機として、預言者たちの「主の日」の告知は、イスラエルの歴史の枠を超えて終末的・宇宙論的になり、神が全世界に対して決定的な審判と救済の働きを成し遂げられる時を指すようになります。そして、預言者の希望を継承して、それを苦難の中で(象徴を駆使して)表現した黙示思想において、預言者たちが語った「主の日」は、悪が支配する現在のアイオーンを終わらせ、神が支配される新しいアイオーンを導入するために、神が直接介入するか、あるいは審判者であり救済者である人物(その人物はメシアとか人の子とか様々な名で呼ばれます)を世に送って、決定的な審判・救済の業を成し遂げられる時に対する待望となって継承され、「メシアの日」、「人の子の日」などと呼ばれるようになります。
 キリストの民はその「主の日」を、復活されたイエス・キリストが栄光の中に再び世界に来臨されて、世界を裁き、御自分の民を栄光に入れてくださる日、「キリストの日」として待ち望むようになります。パウロはその書簡で、主の「来臨」《パルーシア》をよく用い、この「主の日」という表現は三回(五・二、五・四、コリントT五・五)しか用いていませんが、この表現はパウロ以前から広くキリストの民の間で、主の来臨の時を指す表現として用いられていたと考えられます。パウロもその伝承を用いて、テサロニケでの福音宣教にさいして、詳しく語ったはずです。パウロは、その表現と、その日がどのようにして来るのかについて、テサロニケの信徒たちが十分に教えられて承知しているものとして語っています。彼らが十分承知しているように、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」のです。
 このように、主が思いがけない時に来られることは、同じように盗人のたとえを用いて、共観福音書にもイエスの語録として伝えられています。このことを語る共観福音書の二箇所(マタイ二四・四三〜四四とルカ一二・三九〜四〇)は、「語録資料Q」から来ており、イエスご自身のたとえを伝えていると見られます。パウロは、イエス伝承からこのたとえを継承し、異邦人に主の来臨を語ったときにこの盗人のたとえを用いて、その時がいつ来るのか分からないのであるから、いつも目を覚ましているように教えたと思われます。この盗人のたとえは、パウロだけではなく、新約聖書の様々な著者によって用いられ、広く分布しています(ペトロU三・一〇、黙示録三・三、一六・一五参照)。
 「主の日」が思いがけない時に、突然来ることが、「人々が無事だ、安全だと言っているそのやさきに」と表現され、しかも「無事だ、安全だ」と言っている人々にとって、その日は「破滅が襲う」日となると警告されます。そして、その日が来ることは、「ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで」、避けることができない必然であり、「決してそれから逃れられません」と強調されます(三節)。
 この三節は、ルカの終末預言の中の警告(ルカ二一・三四〜三六)との相似が顕著ですが、ここにおいても、パウロは初期の教団に伝えられていた伝承を活用していることがうかがわれます。「人々が無事だ、安全だと言っているそのやさきに、突然破滅が襲う」というのは、ノアやロトの時代に、世の人々が日常の生活に埋没して、神の裁きの警告を無視していたとき、突然襲った洪水や天からの火で破滅したことを語る「語録資料Q」(ルカ一七・二六〜三〇、マタイ二四・三七〜三九)の伝承が背景にあります。また、「妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じように」という比喩も、黙示思想で用いられた妊婦の比喩(たとえばラテン語エズラ記四・三八〜四二)を引き継いで、終末の完成の前に世界に臨む苦難が出産の前の陣痛にたとえられて、初期の教団に流布していた「産みの苦しみ」という表現(マルコ一三・八)が背景にあります。

光の子・昼の子

 4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(五・四〜八)

 この世の生活に埋没して「無事だ、安全だ」と言って暮らしている人々、終わりの日に神が世界を裁かれることを知らず、神の前に責任があるという自覚のない人々は、神と世界(自分)の関わりについて無知な人たちであって、「暗闇の中にいる」のです。そのような人たちにとっては、キリストが来臨される「主の日」は神の怒りが襲う日、神の裁きが行われる日、破滅の日です。しかし、キリストに結ばれて生きている「あなたがた」は、聖霊という終末の光を受けて、光に属する者、「光の子」となっているのだから、「主の日」が突然身の破滅として襲うことはありません。パウロは、テサロニケの兄弟たちに「光の子、昼の子」としての自覚を促し、目を覚ましているように呼びかけます。
 ここで、「あなたがた」(キリストに属する者たち)と「ほかの人々」(キリストの外にある者たち)が、「光の子、昼の子」と「夜と暗闇に属する者」と呼ばれて対比されています。光と暗闇、昼と夜の対比は、霊的な世界を語るさいにいつも用いられる重要な象徴であり比喩です。そして、キリストにあって御霊の啓示により自分が終末の場にいることを自覚していることが「目覚めている」という象徴で語られ、そのような自覚をもって歩むことが「身を慎む」と語られます。それに対して、神と自分の関わりを自覚しないで世の流れに埋没している状態が「眠っている」という比喩で語られ、そのような生き方が「酔っている」と表現されます。

「眠っている」の反対は「覚めている」あるいは「目を覚ましている」です。眠り込むことなく、目を覚ましているようにという警告は、門番のたとえや夜の婚宴の比喩の形で、共観福音書にもよく用いられています(マルコ一三・三三〜三七、マタイ二四・四二〜四三、二五・一三、ルカ一二・三七〜三八、二一・三六)。「酔っている」の反対は「醒めている」ですが、「覚めている」と同じ発音になって紛らわしいからでしょうか、新共同訳は「身を慎んでいる」と訳しています。協会訳は「慎んでいる」としています。原語は「(酒の酔いから)醒めている」という意味で、そこからあらゆる種類の放縦や過剰から免れている状態とか自制や節制のある状態を指す象徴的な表現として用いられるようになっています。この語は、ここ以外ではペトロTの三カ所(一・一三、四・七、五・八)とテモテU四・五に出てくるだけです。しかし、この「醒めている」という語は、後の時代のグノーシス主義文書において、真の知識《グノーシス》のない者が「酔っている」状態にいるのに対して、自己にかかわる真の《グノーシス》を得た者を指すのによく用いられるようになります。

 「眠る者は夜に眠り、酒に酔う者は夜に酔う」のですから、キリストにあって御霊の啓示の光を受け、光の子となり、昼に属する者となったあなたがたは、「眠ったり、酔ったり」しないで、「目を覚まし、身を慎んでいましょう」と呼びかけられます。そして、その「目を覚まし、身を慎んでいる」ことが、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と、武具を身につけて戦いに備える戦士の姿で比喩的に語られます(武具の比喩は後にエフェソ書六・一〇〜一七でいっそう詳しい形を取ります)。ここにも、信仰と愛と希望が一組になって並んで出てくるのが注目されます。

主と共に生きる

 このように、その日に備えて「目覚めて醒めている」ように勧めた上で、その日に起こることについてパウロはこう言っています。

 9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
(五・九〜一〇)

 神がわたしたちをキリストによって招かれたのは、「怒りに定める」、すなわち終わりの日の裁きに服させるためではなく、「来るべき怒りから救い出して」(一・一〇)、「わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ためであると述べた後、「救いにあずかる」とはどういうことかを語ります。主イエスが十字架につけられて死なれたのは「わたしたちのため」であり、それは、「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」だと言うのです。ここで、「目覚めていても眠っていても」とありますが、ここでは亡くなった者を「眠りについた」と表現しており、「地上に生きていても、亡くなってしまった後も」という意味です。

初期のキリスト信徒が、亡くなることを「眠りにつく」と表現したことについては、拙著『マルコ福音書講解T』233頁を参照してください。

 ここで「主はわたしたちのために死なれました」とあるのは、他の箇所(たとえばコリントI一五・三など)で語られているような、主がわたしたちの罪のために死なれた贖罪の意義を指しているのではなく、その意味を当然含みながら、死んだ者たちと一緒にいることができるように、主がひとたび死者たちの領域に入られたことを指しています。「主はわたしたちのために死なれた」という言葉は、イエスの十字架の死の意義を語る言葉として、イエスの復活の事実と一組になって福音の基本的告知でした。「主は復活された」という告白と共に、この言葉は信仰告白の基本でした。本来、この言葉は贖罪の出来事を告知する言葉ですが、パウロはここでその周知の信仰告白の文を、亡くなった者が復活する根拠として用います。すなわち、キリストがひとたび死んで死者の領域に入られた目的は、召されてキリストに属すようになった者がたとえ眠りについていても(死んでいても)、その領域で主が彼らと一緒にいることができるようになるため、そしてその結果、彼ら亡くなった者が死者の領域で「主と共に生きる」ようになることです。わたしたち復活者キリストに属する者は、死んでも主と共に生きるのです。後にヨハネ福音書はそのことを、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と表現するようになります。それが「救い」の内容です。
 死んだ後人間はどうなるのか、わたしたちは知りません。しかし、ただ一つわたしたちには確かなことがあります。それは、地上で共に生きていた同じ主が、死後の世界においても一緒にいてくださること、彼方においても「主と共に生きる」ことができるということです。この確かさは、現在聖霊によって「主と共に生きる」現実の確かさから来るものです。
 ここでは、「主と共に生きる」という現実の前に、生と死が相対化されています。死も「主と共に生きる」ことを妨げることはできません。そして、最終的に、死者の復活にあずかることによって、復活された主イエスと共に生きることが完成するのです。復活の希望も、「主と共に生きる」という救いの現実の一つの相なのです。

 11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(五・一一)

 「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(四・一三)という言葉で始まったこの一段は、ここに来て、キリストにあって「眠りについた人たち」について、彼らも地上のわたしたちと同じく、「主と共に生きる」のだということが分かりました。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、これからも励まし合い、お互いに信仰と愛と希望において向上するように心がけなさい」という激励の言葉で結ばれます。

喜びと感謝に満ちて

 そして最後に、主の来臨を待ち望みつつ「主と共に生きる」者としての、実際の歩み方について勧めをして、この手紙を結びます。

 12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(五・一二〜一五)

 その中で「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」(五・一五)と言っていることが注目されます。この点は、当時の宗教や道徳の一般的な水準を超えており、イエスのお言葉と生き方から受け継いだ、キリスト者独自の生き方であったと言えます。使徒は主と共に生きることについて、さらに勧めを続けます。

 16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19 御霊の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。(五・一六〜二三)

 使徒は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(五・一六〜一八)と勧めます。人生は苦難や苦悩が多いものです。その中で喜び、祈り、感謝しなさいと言われても、そうさせる力が自分の内になければ、これは空虚な勧めです。しかし、神はキリスト・イエスにおいて、そうする力を聖霊によって与え、御自身に属する民がそのように生きることができるようにしてくださっているのです。聖霊こそ「主と共に生きる」力の源泉です。ですから、「御霊の火を消してはいけません」(五・一九)と言われます。そして、最後にもう一度、主イエス・キリストの来臨にさいして、テサロニケの信徒たちが、全く聖なる者、非のうちどころのない者とされるようにとの祈りをもって、パウロはこの手紙を終わります(五・二三)。先にも述べましたように、この祈りは三章一三節の同じ祈りで四章と五章を囲い込んでおり、この両章の主要な関心がどこにあるのかを示しています。

 24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(五・二四〜二八)

 必ずそのようになるとの確信をもって祈れるのは、わたしたちをキリストに招かれた神が「信実である」からです。こうして、この手紙の中で語られたすべての希望は、「神の信実」という土台の上に置かれるのです(五・二四)。

新共同訳は「真実で」と訳していますが、原語は《ピストス》という形容詞で、コリントT一・九でも同じような文脈で用いられています。わたしはこの語を「信実」という語で訳しています。わたしたちの救いと希望のいっさいが「神の信実」に基づいていることについては、拙著『神の信に生きる』の中の福音講話「神の信」、および『マルコ福音書講解U』の63「いちじくの木が枯れる」を見てください。