市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第24講

第二節 聖なる者となるように

聖なる生活

 パウロはこの手紙の後半(四〜五章)で、信徒たちに実際の生活について勧めをしていますが、その勧告が「主イエスの《パルーシア》にさいして」彼らが完全な者になるようにとの祈りで囲み込まれている(三・一三と五・二三)ことから、パウロがその宣教の働きにおいて、いかに強くキリストの来臨を待ち望む姿勢に徹していたかがうかがわれます。
 パウロが何よりもまず祈るのは、主イエスの《パルーシア》にさいして信徒が「聖なる、非のうちどころのない」者となることです。三章一二〜一三節でパウロはこう祈っています。

 「どうか、主があなたがたを、わたしたちがあなたがたを愛したように、お互いの愛とすべての人への愛に満たし溢れさせてくださり、(そうすることによって)あなたがたの心を強めて、わたしたちの主イエスが御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、わたしたちの父である神の御前で、あなたがたが聖なることにおいて非のうちどころのない者としてくださるように」。(三・一二〜一三 私訳)

 ここでパウロが主の《パルーシア》について「すべての聖なる者たちと共に来られるとき」と言っているのは、信徒たちが「聖なる者」となるように祈る動機の一つとしてあげられていると見られます。主の《パルーシア》は、主に属するすべての「聖なる者たち」の共同体の顕現のときですから、その交わりで恥じるところのない者となるために、信徒たちは「聖なることにおいて非のうちどころのない者」にならなければならないのです。

「御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」という表現は、本来はキリストが天使たちの群れと一緒に来臨されるという初期の《パルーシア》待望の定型的な表現であったと見られます。このような表現は、ゼカリヤ書の黙示録的部分にある「わが神なる主は、聖なる御使いたちと共にあなたのもとに来られる」以来、ダニエル書(七・一八〜)など黙示文書によく出てきます。そして、この表現はマルコ八・三八やマタイ二五・三一などのイエスの語録伝承にも現れ、「人の子が雲に乗って来る」(マルコ一三・二六)と言うときの「雲」も天使の群れを指すと理解されることにもなります。

 さらに、この祈りで注目されるのは、その「聖なることにおいて非のうちどころのない」ことが、愛の充満と同じに見られていることです。愛に満たされることが「聖なること」であり、「非のうちどころのない」ことなのです。キリストにあって生きるパウロにとって、「聖なることにおいて非のうちどころのない」とは、もはや生活や祭儀に関する律法の細則を厳格に行うことではなくて、愛に徹することなのです。ここに、ユダヤ教とキリストの福音における「聖なる者」の理解が根本的に違う点があります。

性関係における清さ

 パウロがテサロニケの信徒に「聖なる者」となるように求めるとき、まず第一に来るのが性関係における清さです。

 1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。(四・一〜八)

 この点については、ユダヤ教の伝統の中に育ったパウロの姿がよく出ています。ユダヤ人が「神を知らない異教徒」の生活の仕方について感じた嫌悪感の中で、「みだらな行い」《ポルネイア》に対する嫌悪感は深いものでした。神を知らない異教徒は、神への畏れがないので自分の欲望をコントロールする術をもたず、限度のない情欲におぼれ(四・五)、基本的な人間関係である夫婦関係や隣人関係を破壊してやまないと、ユダヤ教徒は見ていました(ローマ一・二四〜二八参照)。パウロは、異教から信仰に入った信徒たちに、それまでの環境では当然のことのようにされていた乱れた性関係におぼれることのないように求めます。キリストにおいて救いに招かれた神は、「汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるため」に招かれたのです(四・七)。
 ここで誤解してはならないことは、ここで性関係そのものが「汚れた」ものだとか、「聖なる生活」とは性関係から遠ざかることだというようなことが言われているのではありません。聖書の神は、人を男と女に造り、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言って、その性関係を祝福されたと言われています。性は、男と女とに造られた人間の生の不可分の一部であり、神の祝福の下にあるものです。性は人間にとって生きる喜びです。その喜びが生そのものに根ざした深いものであるだけに、その快楽だけを追求することが、人間の尊厳を損なう「汚れた」ものになりやすいのです。パウロが「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と言うとき、それは性を否定しているのではなく、性が神に喜ばれる正しい人間関係の中におかれることを求めているのです。そのことはパウロが、「みだらな行いをさけ、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように」と言っている言葉にも示されています。「汚れのない心と尊敬の念をもって」、すなわち相手の尊厳と自己の責任という基本的な人格関係においてなされるとき、性は聖なるものとなり、快楽の追求だけが目的となるとき、性は隣人を「踏みつけたり、欺いたり」、さらに人間の尊厳を損なう「汚れた」ものになるのです。

新共同訳が「妻と生活するように」(四節)と訳しているところは、その解釈が古来議論されており、その意味を決定することが困難な箇所です。四節は直訳すると、「あなたたち各自が自分の器を聖化と誉れの中に保持する(獲得する、所有する)ことをわきまえるように」となり、三節の「あなたがたが聖なる者となること」の内容を示す不定詞句として、三節後半の「みだらな行い《ポルネイア》を避け」という不定詞句と並んでいます。この「器」が比喩的表現であることは明らかですが、それが「体」を指すのか「女性」を指すのかが、古代教父時代から争われているわけです。「器」という語が「からだ」という意味で用いられることは、コリントU四・七でパウロが「土の器」という形で用いていることからも例証されます。協会訳はここを、「各自、自分のからだを清く尊く保ち」と訳しています。しかし、ユダヤ教語法では、女性が「弱い方の器」(ペトロT三・七直訳)と表現され、「器を用いる、自分の器にする」という表現が性的交わりの婉曲表現であったことなどを考慮すると、「女性」と理解することも可能です。全体の文脈からすると、「女性」を指すと理解して、パウロはここで「《ポルネイア》を避けて、自分の器、すなわち妻と暮らすように」というコリントT七・二以下の勧めと同じことを言っているとしてよいでしょう。

 この箇所でもう一つ注目されることは、「聖なる生活」の源泉が聖霊に求められていることです。パウロはこう言っています。

 「ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです」。(四・八)

 この言葉から、キリストに属する者が神に喜ばれる歩みをしようとするとき、その原動力は神が信じる者の内に与えてくださる聖霊であることが分かります。もはや、外から人間の行為を律する細かい規則ではありません。この点が福音とユダヤ教の大きな違いです。この点は、先にガラテヤ書五章の講解で詳しく論じました。そして、内なる聖霊は、愛と聖なる生活の源泉であるだけでなく、子としての父なる神への信頼と交わり、来るべき栄光に与る希望の源泉でもあるのです。聖霊は総じてキリストに属する者の在り方を形成する原動力そのものです。ですから、パウロは実際的な勧めをまとめるにさいして、「御霊の火を消してはいけません」(五・一九)と言うのです。聖霊の力強い働きなしには、キリストに属する者の歩みも、初期のキリスト教団の形成と拡大も考えられません。

兄弟愛の勧め

 「聖なる者」となるようにという勧めにさいして、まず性関係の清さを求めたパウロは、それに続けて、「聖なること」の中身である愛について筆を進めますが、それは僅か一節で済まされます。

 「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」。(四・九)

 ここで「兄弟愛」と訳されている語は《フィラデルフィア》です。たしかにこの語は《アデルフォス》(兄弟)に対する愛ですから、「兄弟愛」と訳してよいわけです。しかし、この語は、パウロが他の箇所(一・三、三・六、三・一二など)で用いている《アガペー》(愛)とあまり厳密に区別する必要はないでしょう。それは「お互いの愛とすべての人への愛」(三・一二)を含みます。お互いの愛(兄弟愛)であり、すべての人への愛(博愛)です。主にある者たちの間のお互いの愛は、あらゆる人間的な条件や垣根を超えた愛として、すべての人への愛に展開する質をもっているからです。それが、本来「兄弟愛」を意味する《フィラデルフィア》が「博愛」という意味で用いられるようになる原動力です。パウロは同じ愛を、異なる名で呼び、様々な表現で語ることによって、その豊かさを示しています。
 この愛は、肉親の愛のように人間が生まれながらにもっている愛ではなく、またしつけや教育で獲得される愛でもなく、ただ「神から教えられる」ことによって身につける愛です。もうすこし具体的に言うと、神から賜る聖霊がわたしたちの生活や人格の中に形成する愛、すなわち「聖霊の実」としての愛です。他の手紙では、このことをやや詳しく語っていますが(たとえばガラテヤ五・二二、コリントT一三章)、テサロニケの信徒たちは実際の姿でその愛を身につけていることを示していますので、改めて「書く必要はない」と言っているのです。この節は、文は短いものですが、内容は重要です。

 10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。
(四・一〇〜一二)

 パウロは、テサロニケの信徒たちがマケドニア州全土の兄弟たちに行っている支援やもてなしの交わりに「神から教えられている兄弟愛」が現に示されていると賞賛し、さらにそれを進めるように励まします(一〇節)。そして、他の兄弟の愛に甘えて頼ったりして負担にならないように、むしろ、重荷を負った兄弟を助けることができるように、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように」命じます(一一〜一二節)。このような勧告は、主の来臨が近いことを口実に、仕事を放棄し、怠惰な生活をする傾向が一部に出てきていたからかも知れません。