市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第20講

第六章 諸国民への福音

        ― テサロニケの信徒への手紙 T(1) ―


        (本章で書名のない引用箇所はすべてテサロニケ書Tの章節を指しています)

はじめに

 ここまでに見たように、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇したパウロは、それまで敵視していたイエスを主(キュリオス)でありキリストであると告白するようになり、以後この方の奴隷として献身的に仕え、この「主イエス・キリスト」を宣べ伝え始めます。初めはダマスコ教団やアンティオキア教団の宣教活動の一環として働きますが、四八年のエルサレム使徒会議の後、アンティオキア教団から離れ独立の伝道活動を組織して、キリストの福音を宣べ伝えるようになります(使徒言行録一五・三六以下)。大雑把に言えば、ダマスコ体験以後の三十年代と四十年代は教団活動の一環としての活動の時期、五十年代は独立の宣教活動の時期ということになります。このような年代から見ても、五十年代のパウロの宣教活動が、二十年近い教団活動を経たものであり、初代の教団の伝承をしっかりと受け止めた上で、パウロ独自の霊的体験と専門家の深い聖書理解に基づく、成熟した段階のものであることが分かります(パウロの年表を参照)。
 ここまでの五章でガラテヤ書の講解という形で、ユダヤ教時代のパウロと、ダマスコでの回心の後、キリストの僕としてダマスコやアンティオキアの教団で活動した時代、およびそれ以後の時代のパウロの活動を見ました。そこでは、キリストの福音はユダヤ教という固い殻を突き破る生命であることが主題となっていました。この第六章以下では、パウロがアンティオキア教団から離れ、「異邦人の使徒」として独立の伝道活動を展開した時代の最初の時期の様子を、、「テサロニケの信徒への手紙T」で見ていくことになります。この手紙は、現存するパウロ書簡の中で最初に書かれたものとして、独立伝道者パウロが異邦諸国民に福音を宣べ伝え始めた頃の、福音の内容とその質を知る上で、貴重な資料となります。



第一節 マケドニアでのパウロの働きとテサロニケ書の執筆

フィリピ伝道

 パウロは、アンティオキア教団で共同の食卓の交わり問題でペトロやバルナバと対立して、アンティオキア教団から離れます。その後、シラスやテモテとティームを組んで独立の伝道活動を始めます。いわゆる第二次伝道旅行の開始です。この伝道旅行初期の小アジアにおける行程については先に触れました。パウロの一行は、第一次伝道旅行で設立したルカオニア地方の諸都市(デルベやリストラなど)の集会を訪れた後、北に道をとりガラテヤ地方を通ります。おそらくパウロの健康上の理由でしばらくガラテヤ地方に滞在しますが、その間に一行の働きによって信じる者の集会が形成されます。ガラテヤ地方を出発した一行は西に向かい、小アジア西端の港町トロアスに到着します(使徒一五・四〇〜一六・一〇)。
 一行はトロアスから海路をとり、サモトラケ島を経由して、トラキア湾(エーゲ海北端部の湾)対岸のネアポリスに上陸します。ここでパウロは初めてヨーロッパの地に足を踏み入れることになります。ネアポリスはエグネティア街道沿いにある港町で、パウロの一行はこの街道を西に急ぎ、最初の都市フィリピに到着し、そこにしばらく滞在することになります。

フィリピについて使徒言行録一六章一二節を、口語訳が「マケドニアのこの地方第一の町」と訳しているのは不正確で、新共同訳のように「マケドニア州第一区の都市」とすべきです。当時マケドニアはローマの統治政策から四つの地区に分けられていて、フィリピはその第一区の都市であったのです。フィリピは「この地方第一の町」と呼ばれるような大都市ではなく、比較的小さい都市ですが、ローマの植民都市としてイタリヤの土地と同等に扱われる特権などをもつ、ローマの飛び地のような都市であったのです。パウロがこの小都市に足を止めたのは、ローマを目指す上で何らかの繋がりがあったのかもしれません。

 フィリピでの伝道は、他の都市のように安息日にユダヤ人の会堂に入って、まずユダヤ人にイエスがメシアであることを論証するというのではなく、安息日に祈りの場所を求めて町の門を出て川岸に行き、そこに集まった婦人たちに語りかけるという形で始まります(使徒一六・一一〜一五)。フィリピのような小都市では会堂を形成するのに必要な成人男性のユダヤ人十人がいなかったので、会堂がなかったのでしょう。他都市出身の紫布商人のリディアという女性が、パウロの話を聴いて信仰を持ち、家族と共にバプテスマを受けました。この女性は「神をあがめる者」、すなわち異邦人でユダヤ教の教えを聴き、唯一神を礼拝するようになった人(しかし割礼を受けてユダヤ教に改宗するまでには至っていない人――もっとも女性には割礼はありませんでしたが)でした。パウロの伝道は、このような「神をあがめる」異邦人を多く惹きつけたのです。
 リディアはパウロの一行を自宅に迎え泊まらせます。リディアの家はフィリピにおけるパウロの活動の拠点、広くギリシアと呼ばれる地域の初穂、ヨーロッパの最初の集会となります。この家を核として成長したフィリピの集会は、後にパウロのよき協力者となって、献金を送るなどしてパウロの宣教活動を支えます。パウロもこの集会に心のこもった手紙を書き送ります。その手紙からも、フィリピの集会は女性の働きが顕著であったことがうかがえます(フィリピ四・二)。
 使徒言行録(一六・一六〜四〇)によりますと、パウロは占いの霊につかれている女奴隷から占いの霊を追い出したので、彼女の占いで利益を得ている主人に恨まれ、ローマ市民には許されない風習を宣伝する者と訴えられます。広場に集まった群集が騒乱を起こしそうになったので、高官たちは群集の圧力に押されて正規の裁判もなしに、下役(警吏)たちに命じてパウロとシラスを広場で裸にし、鞭打ち、投獄します。高官たちは翌朝ひそかにパウロたちを釈放しようとしますが、パウロはローマ市民権を持つ者としての処遇を要求します。すなわち、投獄の不当を認めて謝罪し、高官自身がパウロたちを獄から連れ出すように求めます。こうして名誉を回復した後、高官たちの要請によってフィリピを去ることになります。
 パウロとシラスが引き渡された「高官たち」というのは、植民都市フィリピの司法・行政を執行する二人の「都市政務官」のことです。パウロたちが群集の騒乱に巻き込まれて投獄されるに至った背景には、直前(四九年)にクラディウス帝がローマからユダヤ人を追放したこともあって、ローマに直結する植民都市フィリピでも反ユダヤ感情が高まっていたことが考えられます。パウロたちは、ユダヤ人であること、騒乱を持ち込む者、またローマ帝国の市民に許されない宗教風習を宣伝する者として訴えられています(使徒言行録一六章二〇〜二一節)。
 このように、フィリピでのパウロの受難は、使徒言行録ではルカによってかなり脚色されていますが、パウロ自身の証言によって事実であることが確証されます。すなわち、パウロはフィリピのすぐ後に伝道したテサロニケの信徒に、こう書き送っています。「知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」(テサロニケT二・二)。「辱められた」というのは、広場で裸にされて鞭打たれたことを指すのでしょう。パウロは他の箇所で「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度」(コリントU一一・二四〜二五)と言っていますが、後の三度はユダヤ人以外、すなわち異邦人からの鞭打ちを指しますので、この三度の中にパウロはフィリピで受けた鞭打ちを数えているのでしょう。
 夜中にパウロとシラスが賛美を歌っていたとき、大地震があって獄の戸が開き、鎖も外れたので、囚人が逃げたと思って自殺を図った看守に、パウロが福音を語り、看守とその家族が回心したという物語(使徒言行録一六章二五〜三四節)は、話の本筋にややぎこちなく挿入された挿話であると見られます。三四節ではパウロたちは看守の家にいますが、三五節以下ではまだ牢にいます。三五節以下は二四節(または二三節)に自然に接続します。この挿話は、ペトロとパウロを対等に描こうとするルカの意図から、ペトロの脱獄物語(使徒言行録一二・一〜一九)に相応するパウロの奇跡的脱獄として、ここに置かれたのでしょう。ルカはパウロの奇跡的脱獄を語り伝える伝承に看守の劇的な回心物語を加えて、この挿話を形成しています。

パウロがローマ市民権をもっていることについては、書簡の中でパウロ自身は言及していませんが、ルカがここ(使徒言行録一六・三七)や使徒言行録二二・二二〜二九で報告しています。パウロがローマ市民権を持っていたことについては、これを否定する説もあります(ケスターなど)。ローマ市民は鞭打ち刑を受けないことになっているのに、パウロはそれを受けていること(コリントU一一・二四〜二五)が一つの根拠になっています。しかし、フィリピの場合のように、騒乱が切迫して正規の裁判も行われないような状況では、ローマ市民権を主張する機会もないことが考えられます。また、パウロが初めは意図的に沈黙して苦難を受けたという推定も可能です。対照的に、初めからローマ市民権を主張して鞭打ちを避けている場合もあります(使徒言行録二二・二二〜二九)。最後にエルサレムで逮捕されたとき、パウロはエルサレムで総督フェストゥスの裁判を受けるよりも皇帝に上訴します。当時帝国の自由民はすべて皇帝への上訴権をもっていたのでパウロのローマ市民権の証明にはならないという主張(ケスター)もありますが、しかし、皇帝への上訴はパウロのローマ市民権を補強する材料になっても否定する根拠にはなりません。使徒言行録二五章(一〜一二節)の皇帝への上訴の記事には矛盾点もありますが、全体として「パウロはここでローマ市民権保持者としての特権を主張している」(岩波版新約聖書荒井献訳の注)と見られます。一世紀の前半(まさにパウロが生きた時代)、ローマは多くの地域を属州に加えましたが、クラウディウス帝(在位41〜54)はその属州民にローマ市民権を与えることにより、帝国のローマ化を推進しています。この時期にタルソの有力なユダヤ人であったパウロの父親がローマ市民権を得たことは十分可能性があります。ローマ市民権をもつ者の子は「生まれながらのローマ市民」でした(使徒言行録二二・二八)。奴隷も解放されれば(一定の条件はありますが)ローマ市民権を与えられました。このような時代の情勢からしても、「パウロがローマ市民権を持っていたとするルカの報告を疑う理由はない」(ヘンゲル)という判断に従ってよいと思われます。

テサロニケでの働き

 フィリピを発ったパウロの一行は、マケドニア州の州都であるテサロニケを目指します。途中にアムピポリスやアポロニアなどの都市がありますが、通過するだけ(あるいは宿泊するだけ)で、一行は西へ急ぎ、テサロニケに到着します。
 州都テサロニケは大都会であって、多くのユダヤ人が居住しており、ユダヤ人の会堂がありました。パウロはユダヤ人の会堂に入り、メシアは苦しみを受け、死者の中から復活するように定められていること、十字架につけられたイエスこそこのメシアであることを宣べ伝えます。その結果、信じた少数の例外もありましたが、大多数のユダヤ人は反発します。その中で、会堂に集まっていた神をあがめるギリシア人や上流の婦人たちがかなり多く信仰に入ります。こうして、おもに異邦人から成る信徒の群がテサロニケに成立します。
 パウロのテサロニケ伝道についてのルカの報告(使徒言行録一七・一〜九)は、パウロ自身の証言(すぐ後に書かれたテサロニケ書簡T)と基本的には矛盾していません。ただ、ルカの記事は、三回の安息日にわたって福音を宣べ伝えた後すぐにユダヤ人の暴動が起こって、パウロの一行は比較的短期間でテサロニケを去らざるをえなくなったという印象を与えますが、実際にはパウロはかなり長くテサロニケで活動したのではないかと考えられます。パウロが一行の生活と活動の必要資金を自分で満たすために天幕造りの仕事をしたこと(テサロニケT二・九)は、一行の滞在がかなりの期間にわたっていたことを示しています。また、すぐ後に書いた手紙で、パウロがテサロニケの群れの信仰がマケドニア州とアカイア州に響きわたっていると言っている(テサロニケT一・七〜八)ことも、かなりの期間の活動を示唆します。テサロニケでのパウロの福音宣教が実際にどのようなものであったのかは、パウロがテサロニケを去って間もなくコリントから書いたこの「テサロニケの信徒への手紙T」に生き生きと証言されています。
 パウロの福音は、多くの異邦人の信徒を得ましたが、ユダヤ人は激しく反発します。ルカはユダヤ人の反発をパウロの成功に対する妬みによるものとしていますが(使徒一七・五)、実際はパウロの律法に対する態度への反発であったと見られます。そして、イエスの場合と同じく、実際は聖なるモーセ律法を汚す者として抹殺したいのですが、異邦人の権力者に訴えるときは皇帝の支配に反抗する政治的な反逆者として告訴するのです(ルカ二三・二と使徒一七・七を参照。このような書き方に、キリスト教徒が皇帝支配に反抗する者であるという非難はユダヤ人の中傷によるものだとするルカの護教的な意図が見られます)。ガラテヤ書の講解で見ましたように、パウロはこの時期、十字架につけられたキリストを信じることが唯一の救いであると宣べ伝え、それをモーセ律法の順守と二者択一の関係に置き、異邦人を割礼のないまま神の民として受け入れていました。律法に熱心なユダヤ教徒にとって、このようにモーセ律法を無効にするように見えるパウロの宣教はとうてい黙過することはできなかったのです。
 テサロニケ書簡Tによると、テサロニケの信徒を迫害したのは「同国人」、すなわち異邦人であるとされています(テサロニケT二・一四)。パウロが去ってからのテサロニケ集会への迫害は、ユダヤ人やローマ人からではなく、「同国人」、すなわちギリシア人であるテサロニケ市民と指導階級からであったと見られます。しかし、テサロニケでのパウロの宣教活動を妨げたのはユダヤ人であって、パウロはそのことを激しい言葉で非難しています(テサロニケT二・一五〜一六)。
 ユダヤ人たちはパウロとシラスが泊まっていたヤソンというユダヤ人の家を襲い、パウロとシラスを捕らえようとしますが、見つけることができなかったので、反逆者をかくまったとしてヤソンと数名の仲間を町の当局者に突き出します。当局者は騒乱を恐れますが、ヤソンたちを逮捕する根拠がないので、保証金を取って釈放します。
 危険を察知した兄弟たちは、パウロとシラスを夜陰に紛れて逃し、さらに南の都市ベレアに送り出します。ベレアでもパウロはユダヤ人の会堂で福音を宣べ伝えます。ここではユダヤ人もかなり信仰に入ったと伝えられています。ところが、そのことを伝え聞いたテサロニケのユダヤ人たちは、ベレアまで押しかけて来て騒ぎを引き起こし、パウロとシラスの活動を妨害します。ベレアの兄弟たちは直ちにパウロを送り出し、海岸地方に行かせ、そこから(おそらく海路で)パウロをアテネに連れて行きます(使徒言行録一七・一〇〜一五)。
 ルカはユダヤ人が「群集を扇動し騒がせた」と書いていますが、これはおそらく、ユダヤ人が会堂でパウロの律法に対する態度を異端的だとして騒ぎ、パウロが語ることを妨害し、処罰を要求したのではないかと考えられます。パウロは「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」(コリントU一一・二四)と言っていますが、「四十に一つ足りない鞭」とはユダヤ人会堂での処罰としての鞭打ちを指しています。パウロが反律法的な言説以外の理由で鞭打ちを受けるとは考えられませんので、パウロが数える「五度」の中にテサロニケやベレアでの「騒ぎ」が含まれている可能性も否定できません。
 パウロはここまでエグネティア街道を一路西へ進んできました。その行き先にローマを望んでいたのでしょう。しかし、ここからエグネティア街道を離れて進路を南にとり、ベレア、アテネ、コリントへと向かいます。この進路変更はパウロの計画にあったものか、またはユダヤ人の騒乱によってやむなくされたものかは分かりません。テサロニケやベレアでの脱出の様子を見ますと、パウロの希望通りではなく、やむなくそういう進路を取らざるをえなかったという印象を受けます。パウロはローマの信徒に向かって、「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(ロマ一・一三)と言っていますが、その「何回も」の中にこの場合を含めてもよいのではないかと考えられます。

テサロニケ集会への手紙の執筆

 パウロはアテネにいる時に、後に残してきたテサロニケの集会のことを心配して、テモテをテサロニケに派遣します(三・一〜二)。パウロは先にコリントまで来ますが、テサロニケ集会のことが心配でなりません。パウロがコリントにいる時に、テモテが戻ってきて(使徒言行録一八・五)、テサロニケ集会の様子を知らせます。テモテの報告は、大いにパウロを喜ばせ、力づけます(三・六)。パウロは、テサロニケの集会が迫害の中にあっても動揺することなく、しっかりと信仰に立って歩んでいる様子を知って喜びますが、同時にキリストの「来臨」について信徒の間に動揺があることも知ります。そこでパウロは、テサロニケの人たちがパウロから受け取ったキリストの福音が何を意味するのかを再確認すると同時に、「来臨」の問題についての疑問に答え、信徒たちを励ますために手紙を書きます。それが、このテサロニケ書Tです。
 パウロのコリント滞在は五〇年から五二年にかけての一年半ほどであったと見られるので、このテサロニケ書簡はその初期、すなわち五〇年か五一年に書かれたと見てよいでしょう(パウロのコリント滞在の年代については、次巻でパウロのコリント伝道を扱うときに詳しく触れます)。そうすると、この手紙はパウロ書簡の中で最初に書かれた書簡であるだけでなく、現在新約聖書に収められているすべての文書の中でもっとも古いものとなり、最初期の福音宣教とキリストの民の実情を証言する最古の資料となります。

ガラテヤ書の成立をこのテサロニケ書よりも早い四〇年代とする研究もありますが、やはり五二年から約二年間エフェソに滞在した時期に書かれたと見るのが順当であると考えられます。成立の順序からすれば、ガラテヤ書はテサロニケ書の後ですが、パウロの自伝的側面の資料とする必要から、先に取り上げました。

 この手紙は、パウロがテサロニケを去ってからごく僅かの期間の後に、おそらく数ヶ月後には書かれています。それで、テサロニケにおけるパウロの宣教活動の実際の様子を生々しく伝えているという面があり、パウロの異邦人への福音宣教活動がどのようなものであったのか、その福音の内容と活動の様子を知るための貴重な資料となっています。