市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第18講

第二節 御霊による歩み

自由と愛

 パウロは前の段落で、この手紙で言おうとしていることを要約して、こう書いていました。

 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(五・一)

 パウロが「自由」と言うとき、それは何よりもまず律法からの自由です。ガラテヤの異邦人信徒が割礼を受けることにパウロが激しく反対するのは、割礼がキリストの与えてくださった自由を放棄して、モーセ律法という「奴隷の軛」につながれることを意味するからです。
 律法というのは、わたしたちの行為と生活を外から規制する規則です。ユダヤ人にとってはモーセ律法が神から与えられた神聖な規則であるのです。いかに神聖な規則でも、その順守を救いの条件として、外からわたしたちの行為を規制するものであるかぎり、それは人間を拘束する「奴隷の軛」なのです。キリストはその十字架のあがないと復活によって、わたしたちが信仰によって聖霊を受ける道を開き(三・一以下)、そのことによってわたしたちを律法の軛から解放し、自由にしてくださったのです。第一に、信仰によって聖霊を受ける以上、律法の順守はもはや救いの条件ではありません。第二に、キリストにあって恩恵として賜る聖霊が、わたしたちの内にあって神との命の交わりに生きる力となるので、律法が外からわたしたちを拘束することはありません。この二つの面で、キリストはわたしたちを自由にしてくださったのです。
 ところが、このように自由が聖霊によって内側から発する現実であることを理解していないと、自分たちはもはや律法に拘束されていないのであるから、欲するままに何をしてもよいのだと放縦に走ったり、また、生活と行為の規範がないのであれば、何を基準にして生きたらよいのかが分からないと不安を感じたりすることがあります。それで、パウロは「キリストにある自由」を生きるとはどういうことかを具体的に教えます。それがガラテヤ書の第四部(五・一三〜六・一〇)を形成します。まず冒頭(五章一三節)で、自由と愛の関係が取り上げられ、主題が提示されます。

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉への機会とせずに、愛によって互いに奴隷となりなさい。(五・一三 一部私訳)

 まず、キリストにあって自由を得ているという事実を再確認した上、ただちにその自由が愛に生きるためのものであることが示されます。愛は自由の場の外では成立しないからです。「自由の場に生きる」ことについて語るには、何よりも自由の中身である愛について語らなければならないのですが、その前に、「自由」が被っているもっとも一般的な誤解を避けるようにしなければなりません。その誤解というのは、自由なのであるから自分が欲することは何をしてもよいのだ、という誤解です。
 もし聖霊によってキリストにある自由をしっかりと受け止めているのであれば、このような誤解が出てくる余地はないのですが、パウロは、福音の自由の主張を放縦主義と批判する人たちの存在を意識して、「この自由を肉への機会としないで」(直訳)と念を入れたのかもしれません。パウロはこの言葉で、自由であることを、自己追求の人間本性(肉)を何の拘束もなく行使する機会とか口実にすることは福音に反することだと宣言します(「肉」の問題は一六節以下で改めて論じられます)。その上で、自由の中身である愛について語ります。
 新共同訳が「愛によって互いに仕えなさい」と訳している「仕える」という動詞は、「奴隷」という名詞の動詞形であって、「奴隷として仕える」という意味です。RSV(改正標準訳)はこの動詞を「奴隷となる」と訳しています。ここで単純な「仕える」という動詞でなく、自由と対照してあえてこの動詞が用いられていると考えられますので、「奴隷となりなさい」と訳しました。
 「あなたがたは自由なのである。だから奴隷となりなさい」というのは、一見矛盾しています。この逆説はただちにルターの有名な「キリスト者の自由」の命題を思い起こさせます。ルターはその著作の冒頭に二つの命題を掲げます。
 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(奴隷)であって、何人にも従属する」。
 そして、この著作は、パウロの「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(コリントT九・一九)という一句の解説であると断っています。パウロは、聖霊による自由がすべての人の奴隷となって仕える生き方と一体であることを身をもって体験していたので、このような逆説を自然に語ることができたのです。
 パウロが言う「自由」とは聖霊がもたらす律法の軛からの解放であることを理解しておれば、「自由なのだから奴隷となれ」は矛盾ではなく、聖霊の愛を仲介項として論理的に一貫した命題であることが理解できます。キリストにある者が聖霊によって自由にされるのは、聖霊の命の質である愛に生きることができるようになるためです。水の中でなければ魚は生きられないように、自由がなければ愛は生きられません。外から拘束された行為をいくら積み重ねても愛にはならないのです。愛は内なる命の発現です。聖霊の命の質である愛に生きるためには、外からの拘束である律法の軛から解放されていなければならないのです。そして、その愛がすべての人を無条件に受け入れ、仕えるように求めるのです。こうしてこの逆説的な命題は、「あなたがたは聖霊によって自由を与えられているのです。その聖霊がもたらす愛によってすべての人の奴隷となりなさい」と、一貫した命題となります。
 こうして愛によって互いに奴隷となるとき、律法が求めていたことがすべて成就するのです。そのことを、律法学者たちが、そしてイエスご自身が、律法の全体を要約する根本律とされた聖書の言葉を引用して確認します。

 律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。
(五・一四)

 律法の軛から解放されて愛に生きるとき、律法が求めるところを全うすることになるのです。律法が外から行為を規制する必要はなくなるのです。
 その後に、「互いに奴隷となる」ことの反対のことをしていると、互いに滅ぼし合う結果になるぞと言う警告が加えられます。これはガラテヤの集会の実状に思いを馳せて加えた一句でしょう。

 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
(五・一五)

 ガラテヤの集会には、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」(五・二六)ことが実際にあることを、パウロは伝え聞いていたのかもしれません。そのような人間本性から出る対立と混乱を御霊によって克服するように説き進みます。

御霊と肉の対立

 パウロはキリストにある者の実際の歩みについて勧めを始めるにあたり、自由を土台とし、その上に愛によって仕える生き方を築くように求めました(一三節)。そこでは、自由と愛を成立させる原動力としての聖霊は背後に隠されたままでした。一三節に掲げた主題に続いて、一六節以下でパウロは、聖霊が自由と愛の源泉であるという消息を明らかにします。

 わたしが言いたいのは、こういうことです。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、御霊に反し、御霊の望むところは、肉に反するからです。肉と御霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 (五・一六〜一七 一部私訳)

 実際の歩みについてのパウロの勧めは、「律法を順守せよ」ではなく、「御霊によって歩め」という一句に尽きます。そして、「御霊によって歩む」ことが、肉と霊の対立という枠組みの中で語られます。
 パウロが言う肉《サルクス》と霊《プニューマ》の対立は、身体《ソーマ》と霊魂《プシュケー》(あるいは肉体と精神、外面性と内面性など)の対立と混同してはなりません。ギリシア人は人間を肉体《ソーマ》とその内にある生命の原理である霊魂《プシュケー》とから成り立っていると観て、死によって肉体は朽ち果てても、霊魂は死後も生き続けるという意味の「霊魂不滅」を信じていました。そして、肉体はその欲望によって霊魂を滅ぶべき物質界に閉じこめる牢獄であると感じていたのです。
 それに対してパウロにおいては、身体《ソーマ》と霊魂《プシュケー》を含む生まれながらの人間全体が「肉」《サルクス》と呼ばれるのです。パウロにおいては、「霊」《プニューマ》は生まれながらの人間に属するものではなく(人間に生まれながら備わっている一部ではなく)、神に属するもの、神から来るものなのです。神から来る「霊」がわたしたち人間の内に宿るとき、わたしたち人間存在にも霊の次元が生まれます。その霊の次元が、生まれながらの人間本性である「肉」と対立するのです。
 「霊」が神に属するものであることを表現するために、「神の霊」とか「聖なる霊、聖霊」(「聖なる」という形容詞は本来「神に属する」という意味です)という表現がよく用いられます。しかし、霊が神に属することを当然のこととして、ほとんどの場合「神の」とか「聖なる」を付けないで、たんに「霊」とだけ呼ばれます。そういう場合の「霊」が神に属する霊であることを示すのに、原文の「子」を「御子」と訳すように、「御霊」と訳してよいでしょう。パウロは、「御霊の導きに従いなさい」と言っているのです。
 わたしたちの内に始まった「霊の次元」のことを「わたしたちの霊」と呼んで、「御霊」そのものと区別している例が一つだけあります(ロマ八・一六)。また「わたしの霊」という表現で自分の内面を指している場合も僅かあります(ギリシア語原文コリントU二・一三)。しかし、パウロが「霊」《プニューマ》という語を用いるとき、そのほとんどは神の霊を指す術語であって、「御霊」と訳してよいと見られます。本節以下の箇所も、明らかに他の意味で用いられている場合以外は、とくに断りなく「御霊」と訳します。新共同訳は原則として「霊」と訳し、特に神の霊であることを示唆する必要がある場合には、英文の引用符のような記号をつけて表記しているようですが、どこで区別しているのか、原則は明確ではありません。
 パウロは神の霊を受けてはじめて、自分の人間本性がいかに深く神に反するものであるかを認識したのです。ファリサイ派の時代のパウロは、神の意志である律法を誠実に守っていることに自信を持っていました(フィリピ三・六)。自分の存在自体が神に敵対しているなどとは夢にも思いませんでした。ところが、聖霊を受けて神の愛が注がれたとき、律法を欠けるところなく行おうとしている自分の存在そのものが神に離反し敵対していることに気付くのです。こうして御霊によって照らし出される人間本性を、パウロは「肉」《サルクス》と呼びます。「肉」は「御霊」の相関概念です。御霊がなければ、人は「肉」の中に埋没していて、自分の本性を「肉」と自覚することはありません。
 パウロはガラテヤの信徒に、あなたがたは信仰によって御霊を受けたのだから(三・一〜五)、御霊によって歩みなさいと勧めます。御霊に従って歩むことによってはじめて、すぐ後(一九〜二一節)に描かれるような肉の欲を満たす生き方を克服できるのです。御霊がなければ、人は肉の欲望を克服することはできません。いくら外から法律や宗教道徳の戒めで縛り付けても、人間の本性的な自己追求から出てくる「肉の働き」を抑えることはできないのです。肉と対立する御霊が与えられ、人が御霊に従って生きるときにはじめて、人間本性がしたいと欲するところができなくなるのです。「罪を犯すことができない」という原理は御霊に属することです。パウロがこの節で御霊と肉の欲するところが反対であることを描いた後、その対立の結果「あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言うとき、御霊こそが人間本性が欲するところを「できない」ようにする力であることを示しているのだと理解できます。
 肉と御霊という対立する二つの場を描いた後、パウロは、わたしたちが生まれながらの本性(肉)の場に安住しているのではなく、御霊に導かれて生きているのであれば、律法の規制の下にはいないこと、すなわち自由であることを思い起こさせます。

 ところで、あなたがたは御霊に導かれているなら、律法の下にはいません。
(五・一八 一部私訳)

 ここで改めて、自由であることは御霊によって与えられている現実であることが語られています。御霊によって歩むときは、律法が求めるところ、すなわち愛を生きる力が内にあるので、外から規則で縛る必要はなくなるのです。御霊こそ自由の源泉です。

肉の働き

 このように御霊と肉の対立という人間存在の状況を原理的に述べた上、パウロは肉と御霊の現れを具体的に描きます。

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。(五・一九〜二一)

 ここに出てくる「肉の業」あるいは「肉の働き」のリストを見ますと、まず最初に「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術」と、ユダヤ人が異教社会の代表的な悪徳として嫌悪する性的な退廃と宗教的な暗黒が上げられています。パウロもユダヤ教の律法教師として働いていた時から、こうした異教徒の悪徳を攻撃して、唯一の神に立ち帰るように説いていたことでしょう。いま福音の宣教者として、生まれながらの人間本性が何の規制も受けないで現れたときの悪徳を攻撃するさい、律法を持たない異教徒の代表的悪徳をまず槍玉に上げます。
 最初に「姦淫、わいせつ、好色」と来ますので、パウロの言う「肉の業」を肉体的欲求の発現と誤解し、その結果、教会の歴史において、性的禁欲こそ霊的生活の条件であるとする傾向が生まれました。しかし、性は神の創造の秩序に属するものですし、性的欲求を満たすこと自体は罪ではありません。ただその欲求を満たす形が、自己追求の本性によって相手の立場や尊厳を無視することになりますと(カント風に言えば、相手を自己の欲望充足のためのたんなる手段として扱うと)「姦淫、わいせつ、好色」となるのです。その上、旧約聖書ではヤハウェとイスラエルの契約関係が夫婦のちぎりを比喩として語られていましたので、性的貞潔はとくに重視されていました。このようなイスラエルの伝統からすると、性的な放縦はとくに嫌悪されたわけです。
 「偶像礼拝、魔術」も自己中心の人間本性が現れたものとされます。人間が偶像を作るのは、人間を超える神々の力を自分の利益のために利用したいからです。「魔術」(霊能力による奇跡や占いなど)も霊的な能力を自分の都合のよいようにコントロールして利用したいからです。そういう偶像礼拝や魔術という宗教的行為が、「肉の働き」として退けられます。
 ところで、「姦淫してはならない」という戒めは十戒の中の一つです。偶像禁止はモーセの十戒の中の第二戒であり、ヤハウェ宗教のもっとも基本的な戒律です。「魔術」とは霊能者による奇跡や託宣(占い)で、イスラエルではヤハウェへの背信としてモーセ律法によって厳しく禁じられていました(出エジプト記二二・一七、申命記一八・二〇)。このように律法で禁止されている行為を、それが律法によって禁止されているからという理由からではなく、肉の働きとして、すなわち人間本性に巣くう悪として、御霊に従う歩みによって克服するように、パウロは異邦人にも求めるのです。こうして福音においては、モーセ律法というイスラエルの特殊な戒律は、御霊に従う歩みによって実現されるべき普遍的な価値となります。
 性的放縦と宗教的退廃の後に、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」という、きわめて一般的で内面的な心の在り方が取り上げられます。利己心とかねたみというような心の在り方は、生まれながらの人間の心には自然に備わっている姿であって、それが行動となって外に現れて具体的なトラブルを起こさない限り、道徳的に非難されたり、法律によって罰せられたりはしません。しかし、御霊に照らし出されると、そのような心の姿は神の命の質に反する卑しいもの、内に抱いていることが辛くて嫌なものであることが見えてきます。御霊に従って歩むことによって克服し、心の中から駆逐すべき性質のものとなります。このように、御霊によって克服すべき肉の働きの中に内面的な心の在り方が含まれることによって、パウロの「御霊によって歩みなさい」という勧めは、(マタイ福音書五章などにある)律法を内面から満たすことを求めるイエスのお言葉と同質のものとなっていることが分かります。
 さらに、肉の働きとして「泥酔、酒宴」が上げられます。これもアルコール類を口にすること自体が禁じられているのではなく、飲食の欲望に身を委ねる放縦が非難されていると理解すべきでしょう。その他自己中心を本性とする「肉」の現れはいちいち数え上げることはできませんので、パウロは「その他このたぐいのもの」と一括して、肉の働きのリストを締めくくります。
 こうして「肉の働き」を数え上げた上で、「こうしたことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません」と警告します。これは、ここに上げられた種類の個々の行為の責任を問われて裁かれ、「神の国」に入れなくなるというような法廷的な意味ではなく、このような肉の働きに身を委ねるような生活あるいは生涯を続ける者は、とうてい御霊の命を全うすることができないのであるから、その完成としての「神の国」の栄光を受け継ぐこともない、という生命的な関連で理解すべきです。
 パウロが書簡の中で「神の国」という表現を用いることは比較的少ないのですが、「神の国」の性質について語る二カ所(コリントT四・二〇、ロマ一四・一七)以外は、この箇所のように「神の国を受け継ぐ」という形で、終末的な希望との関連で用いられています(コリントT六・九〜一〇、一五・二〇)。この表現に見られるように、パウロの福音は聖霊による現在の救済を核心としながらも、将来の完成も視野に入れていることを見逃してはなりません。

御霊の実

 これに対し御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(五・二二〜二三)

 肉(生まれながらの人間本性)と御霊は対立します。「肉の働き」を上げた後、パウロは続いて肉と対立する「御霊の実」を数え上げます。りんごの木にりんごの実がなるように、御霊によって歩む人には「御霊の実」がなるのです。「木は実によって知られる」のです。では「御霊の実」とはどのようなものか、キリストにあって賜った御霊がその御霊に従って歩む者の生活と性格(品性)にもたらす結果がどのようなものかがここで語られます。
 ここに「御霊の実」として、愛以下、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と計九つの項目が上げられています。しかし、よく見ると、その九つは何か具体的な善行ではなく、人柄とか心の姿であることに気付きます。御霊は人の根底の在り方を変えることによって、性格や生活、生涯を変えていくのです。そして、ここに数え上げられている九つの徳目は、個々ばらばらの九つではなく、一つの「実」の様々な面を数え上げたものです。肉の「働き」が複数形であるのに対して、御霊の「実」は単数形です。実に御霊の命の質は一つ、「愛」《アガペー》なのです。喜び以下の八つの徳目は、一つの光が虹の中に七つの色彩をみせるように、愛が異なる状況や関係の中で発する様々な光彩なのです。
 そのことは、同じパウロが御霊の働きとして上げているコリントの信徒への手紙十三章と比較すると分かります。この章は、聖霊の働きを語る部分(十二章〜十四章)の中にあって、聖霊の働きの「最高の道」として、愛《アガペー》が詩的とも言える言葉で謳い上げられる章であって、「愛の賛歌」と呼ばれています。愛の不可欠性(一〜三節)と永続性(八〜一三節)が謳われる中間に、愛の働きがきわめて簡潔に表現されています(四〜七節)。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。(コリントT一三・四〜七)

 ガラテヤ書の「御霊の実」がすべて名詞で羅列されているのに対して、コリント書では愛の働きがすべて愛《アガペー》を主語とする十四の動詞で語られています。愛の働きを述べるのにふさわしい形だと言えます。
 ガラテヤ書の「寛容」はコリント書では「愛は忍耐強い」となっています。「寛容」の原語は「忍耐強い」と訳されている動詞の名詞形です。「親切」は「情け深い」となっています。「親切」の原語は「情け深い」と訳されている動詞の名詞形です。「善意」は「親切」と一緒に「情け深い」に含ませてよいでしょう。「誠実」は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」という表現で語られています。「誠実」《ピスティス》は「すべてを信じる」というときの「信じる」の名詞形です。「柔和」は「自慢せず、高ぶらない」となり、「節制」は、正確に対応する語がコリント書にはありませんが、限度を超えないという意味で「礼を失せず」に相当すると見ることができるでしょう。なお、ガラテヤ書で「肉の働き」として上げられていた「利己心」と「ねたみ」(これは人間本性のもっとも深いものです)が、コリント書では愛の働きとして「自分のものを求めない」とか「ねたまない」という形で否定されていることが注目されます。「肉」に対立するものは「愛」なのです。
 ガラテヤ書で「御霊の実」とされている「喜び」と「平和」はコリント書にはありません。しかし、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛の勝利の結果として、いかなる状況においても平安と喜びに生きることができるという意味で、喜びと平和は愛の姉妹であると言えるでしょう。ガラテヤ書とコリント書が正確に対応しているとは言えませんが、内容からすると、ガラテヤ書で「御霊の実」として愛と併記されている人間の在り方は、コリント書では愛の働きとして記述されているものと同じであると見ることができます。実に、「御霊の実」とは愛《アガペー》のことなのです。
 こうして「御霊の実」を数え上げた後、パウロは「これらを禁じる掟はありません」と付け加えています。モーセ律法には多くの掟があり、その中の多くのものが「〜してはならない」という禁止律法です。律法の下にある者は、その禁止律法に違反しないように細心の注意を払って生活しなければなりません。しかし、このような御霊の実として上げられている生き方を禁じる掟はないのですから、御霊によって歩んでいる者は、律法に違反していないかどうかを気にする必要はないのです。これは、御霊によって歩むことが律法を満たすことであるという主張を裏側から見たものになります。

御霊による歩み

 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、御霊によって生きているなら、御霊によってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(五・二四〜二六 一部私訳)

 肉の働きと御霊の実を具体的な形で比べた後、改めてパウロは、肉に従って歩むのではなく御霊によって歩むように勧めて、この肉と御霊という対立する原理についての一段を締め括ります。
 「キリストのものとなった人たち」とはキリストに属する者たち、パウロがいつも「エン・クリストー」という句で表現しているように、キリストに合わせられた者のことです。キリストを信仰の対象として外に観ている者ではなく、キリストに合わせられ、キリストと一つに結ばれている者のことです。そういう人はキリストの十字架に合わせられて、キリストと共に死んだとされます(ガラテヤ二・一九〜二〇、ロマ六・三〜四)。そのさい「死んだ」のは、生まれながらの人間本性に生きるわたし、すなわち肉なるわたしです(ロマ六・六)。そう告白する者は、生まれながらの人間本性に含まれる「欲情や欲望」をも十字架につけてしまったのです。そうである以上、キリストに属する者はもはや、先に挙げたような「肉の働き」を、自然なもの、人間本性に属するものだからと言って、その欲情や欲望のままに生きることはできないはずです。
 肉なるわたしが死んだところに生きているのは、わたしの内にいます霊なるキリストです。御霊なるキリストがわたしの新しい生となってくださっているのです。こうしてキリストに属する者は御霊によって生きているのですから、実際の生活も「御霊によって」進めるのが当然となります。パウロはここで「わたしたちが、もし御霊によって生きるのであれば」と言っていますが、この「もし」は、学生に向かって「もし君が学生ならば」と言って学生生活について勧めをするように、「わたしたちが御霊によって生きている以上は」という意味に理解すべきです。
 この箇所に見られるように、パウロが「十字架」という表現を用いるときは、たんなる歴史上の出来事ではなく、また、ユダヤ教の犠牲祭儀の成就という贖罪論的な象徴としてだけでもなく、キリストに属する者の実存的な変革、自己の存在の根底的な転換を語っていることが分かります。そして、十字架による実存の転換は、御霊による新しい生と一体です。御霊による生なくしては、十字架による自己存在の転換は観念的で空疎な思想に止まります。
 このように、肉によってではなく御霊によって歩むようにという勧めを終えるにあたって、パウロは伝え聞いているガラテヤの教会の現状に思いを馳せたのでしょうか、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」という具体的な勧告を付け加えます。そして、次の段落(六・一〜一〇)で、御霊による歩みを主にある兄弟たちとの交わりの中で生かすように具体的な勧めに入っていきます。

交わりにおける御霊

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊的な人であるあなたがたは、そういう人を柔和な霊で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(六・一〜二 一部私訳)

 パウロはこの手紙で何度も、ガラテヤの集会に紛争があることを心配する気持ちを覗かせています(五・一五、二六)。紛争は、自分を立派な者として他者を蔑む肉の心から出るものです。「霊的な人間」であることを自称しながら肉の働きに陥っている未熟なガラテヤの人たちを、パウロは叱責するのではなく、本来「霊的な人間」が取るべき態度を指し示すことによって、事態をよい方向にもっていこうとします。お互いに「柔和の霊」をもって他者の過ちや問題や重荷を担うことで、御霊の実である愛を実践することになります。そうすることが、「キリストにあって」歩む道を全うすることになるのです。福音においては律法に代わってキリストが生活と行いの基準となります。このことがここで、「キリストの律法」と呼ばれます。

 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の荷を担うべきです。(六・三〜五 一部私訳)

 自分の生活や行いを吟味すると、悔いるような点が多いことに気づきます。立派な点があるとしても、それは自分に与えられた責任とか使命を全うし、神の前で自分の良心に恥じることがないというだけで、他人に誇れる性質のことではありません。そういう意味で、人は各人が自分の責任を果たすことを考えるべきであって、他人と比べて、誇ったり軽蔑したりしてはならないのです(五節の「荷」は二節の「重荷」とは違う単語です)。

 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(六・六〜九 一部私訳)

 ガラテヤの信徒の中には、自分の生活のことだけを考えて、御言葉を中心とする集会のためには冷淡な人がいたのでしょう。当時は新約聖書はまだありませんし、旧約聖書も個人が持てるような状況ではありません。集会で御言葉を教えることを仕事とする特別の人たちを必要としたのです。そのような人たちを物質的に支えることが、御言葉を大切にし、御霊の場に生きるために必要だったのです。その責任を軽視して、自分のことだけを考えて生活する人は、その生涯は人間から出てくるものしか獲得できませんので、結局は滅びです。それに対して、御言葉を大切にし、御霊の場を追い求める者は、御霊の命の質である永遠の命を身に受けることになるというのです。これは神の原理であって、必ずそういう結果になるのだと、パウロは厳しく警告し、切に勧めるのです。

 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(六・一〇)

 最終的な結果を刈り取るまでの期間、今与えられている地上の生活で、すべての人に対し(これは数ではなく、敵を含むどのような関わりの人でもという質的な「すべて」)善を行うように勧めて、この箇所を締めくくります。ここでキリストにある仲間が「家族」と呼ばれていることが注目されます。
 第二節で取り上げた箇所(五・一三〜六・一〇)は、キリストにある者が実際の生活でどのように歩むべきかを勧めているところです。その勧めが、以上に見てきたように、ただ「御霊によって歩め」という一句に尽きていることは、パウロの「倫理」のもっとも重要な特色です。パウロの倫理は、御霊がもたらす自由の場で、御霊のいのちの質である愛に生きること、これに尽きます。こういう勧めが成り立つのは、御霊の働きが現実に体験されている場だけです。御霊の働きがないところでは、キリスト者の倫理も、何らかの形で外からの律法による規制にならざるをえません。御霊によって生かされ、御霊によって歩むこと、これが信仰生活の生命線です。