市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第17講

第五章 御霊による自由

        ―― ガラテヤ書から(5) ――


        (本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)




第一節 神の子の自由

ガラテヤ書の主要区分

 ガラテヤでの事態は深刻になっていました。異邦人信徒に割礼を受けることを求める「ユダヤ主義者」たちは、ガラテヤにかなりの期間留まって活動したようです。エルサレム教団の「使徒」の権威を背景に、聖書に熟達したユダヤ人伝道者の説得に、初心の異邦人信徒は抵抗することができず、多くの信徒が割礼を受け、または受けようとして、ユダヤ教の習慣に従って「いろいろな日、月、時節、年などを守る」ようになったのです。それは、パウロから見れば、「世を支配する諸霊」の奴隷の状態に逆戻りすることに他なりません。ガラテヤでの状況の報告を受けたパウロは、ガラテヤでの福音宣教の活動が無駄になってしまったのではないかと、本気で心配しなければなりませんでした(四・八〜一一)。
 ユダヤ主義者たちがパウロの「割礼なしの福音」を論駁するにさいして用いた論拠は、まとめますと次の二つになります。一つは、パウロはイエスの直弟子であった「使徒」の一人ではなく、パウロの使徒職はエルサレムの「使徒」たちに依存し従属しているのに、パウロは「使徒」たちとは異なった福音を宣べ伝えている、という非難です。この批判に対して、パウロはガラテヤ書の第一部とも言える一章と二章で激しく反論しています。すなわち、自分の福音はエルサレム教団から教えられたものでもなく、自分の使徒職はエルサレム教団から派遣されたものでもない、イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたのであり、その福音は復活されたキリストから直接与えられた啓示によるのである、エルサレムの使徒たちもパウロの「割礼なしの福音」を承認している、と主張します。
 もう一つは、聖書に基づく議論です。おそらく、ユダヤ主義者たちはアブラハムの記事を引用したことでしょう。アブラハムは偶像を拝む異教から唯一の神を拝むようになった最初の改宗者であり、そのアブラハムに神との契約のしるしとして割礼が命じられたのである、だから異教からの改宗者であるあなたがたもアブラハムに従い割礼を受け、アブラハムの子孫であるイスラエルに与えられたモーセ律法を守り、現在ではイスラエルを代表するエルサレムの権威に従うべきである。このようなユダヤ主義者の主張に、聖書を知らない異邦人信徒は抗弁する術をもたなかったでしょう。
 このような聖書を論拠とするユダヤ主義者の主張に対して、パウロはガラテヤ書の第二部と言うべき部分(三章一節〜四章七節)で詳しく反論します。十字架につけられたキリストを信じることによって聖霊を受けたというガラテヤの信徒たちの体験を根拠に、アブラハムの記事をまったく違った視点から解釈し、モーセ律法の順守ではなくキリスト信仰によって義とされるという福音を弁証し、キリストの到来によってモーセ律法の役割は終わったことを示します(この箇所はパウロの福音と律法観を理解するうえで極めて重要ですので、やや詳しく講解しました)。
 そして今や、パウロはこの書簡でガラテヤの信徒たちに訴えたい主題、すなわち割礼を受けることを思いとどまらせようとする願いを正面から取り上げ語り出します。それがこの書簡の第三部(四章八節〜五章一二節)を構成します。パウロは、ガラテヤの諸集会が割礼を受けてユダヤ教の枠の中に取り込まれ、ユダヤ教イエス派になることを何としても阻止しなければならないのです。そうなればパウロが宣べ伝えたキリストの福音は崩壊し、ガラテヤでの働きは無駄になってしまいます。割礼とモーセ律法が救いと無関係であることは、第二部で十分示されました。いよいよ訴えの核心に入るに当たって、パウロはガラテヤの信徒たちに、彼らをキリストにあって生んだ親としての立場から、親子の絆と情に訴えます(四・一二〜二〇)。この箇所は、ガラテヤ書が間違った道に走ろうとする子を思いとどまらせようとする親の「涙の書」であることを雄弁に語っています。
 なお、五章一三節以下の第四部は、キリストにある者はモーセ律法に規制されない自由な者であり、モーセ律法はもはや信徒の生き方を規定する原理でないとすれば、キリストにある者の生き方はどのような原理によるのか、という問に答えます。それは聖霊に導かれる生き方です。聖霊による自由の実現の道が指し示されます。以上の四部がガラテヤ書の主要部分を構成すると見られます。
 以上の概説を要約すると、ガラテヤ書の主要区分は次のようにまとめられるでしょう。
  第一部(一〜二章)        使徒としての資格の弁証
  第二部(三章一節〜四章七節)   聖書に基づく律法と無関係な福音の弁証
  第三部(四章八節〜五章一二節)  割礼を受けることの愚かさ
  第四部(五章一三節〜六章一八節) 聖霊による自由

二人の女のたとえ

 ユダヤ主義者たちはモーセ律法(聖書)を用いて異邦人信徒を説得しようとしました。それに対抗してパウロも、割礼を受けてモーセ律法の下に生きたいと思っている者たちに、そのモーセ律法を論拠にして思いとどまらせようとします。

 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。
(四・二一〜二三)

 モーセ五書の一つである創世記に、アブラハムと二人の息子の物語があります。一人は妻のサラから生まれたイサクであり、もう一人はサラの奴隷であったエジプト人の女ハガルから生まれたイシュマエルです。神はアブラハムに子孫を増し加えることを約束されましたが、妻のサラは不妊で子ができませんでした。待ちきれなかったアブラハムは、サラの奴隷であったハガルと寝て男の子を得ます。それがイシュマエルです。イシュマエルの誕生は、人間の計らいにより、通常の肉体関係によって生じたことですので、「肉によって生まれた」と言われます。それに対してイサクは、人間的には生まれる可能性のないところで、ただ神の「約束によって生まれた」のでした。パウロはここで、以下の主張の伏線として、二人の息子を生んだ母親の身分の違いを強調するために、サラを奴隷女ハガルとの対比で「自由な女」と呼んでいます。パウロは、奴隷の女から生まれた子は奴隷であり、自由な女から生まれた子だけが自由であることを言いたいのです(四・三一)。
 神はイサクとその子孫をご自分に属する民として契約を結ばれました。しかし、イシュマエルはその母親と一緒にアブラハムの家から追い出され、神との契約に与ることは許されませんでした。パウロの時代のユダヤ人は、自分たちこそイサクの子孫であって、イシュマエルの子孫である周辺のアラブ系諸民族とは違うことを誇りにしていました。ところが、パウロはこの二人の息子の物語をまったく違う意味に解釈して、ユダヤ人の誇りを粉砕します。

 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。(四・二四〜二五)

 パウロは、この物語には「別の意味」が隠されていると言います。ユダヤ人と周辺アラブ系諸民族の起源を語る文字の上の意味とは別の意味が隠されているというのです。ここで「アレゴリー」(寓喩)という語の語源になっている動詞が、「別のことを意味する」という語の本来の意味で用いられています。
 物語の二人の女は二つの契約を指し示す比喩であり、「子を奴隷の身分に産む女」すなわち女奴隷ハガルは、「シナイ山に由来する契約」すなわちモーセ契約を表しているというのです。ユダヤ人が神の永遠の契約として尊んでいるモーセ契約が、こともあろうに子を奴隷の身分に産む女奴隷にたとえられているのです。さらにパウロは、女奴隷ハガルは今のエルサレムを指していると言います。「今のエルサレム」とは、エルサレムに代表され集約して表現されているその当時のユダヤ教です。モーセ律法の順守をもって神に仕えようとするユダヤ教は、自由な相続人ではなく奴隷を生み出す宗教であると、パウロは断定するのです。先にパウロはモーセ律法を養育係にたとえ、「世を支配する諸霊」と同列に扱っていました。すなわち、子が未成年の間、子を奴隷と同じようにしつける教育係であるとしていました。しかし、ここでは奴隷を産む女奴隷という、ユダヤ人には一段と堪えがたい比喩が用いられることになります。
 この議論の流れの中に、「このハガルはアラビアではシナイ山のことである」という解釈の困難な文が入ってきます。「ハガル」という固有名詞に中性の定冠詞がついています。「シナイ山」という形で出てくる「山《オロス》」が中性名詞であることから、「ハガル」が山の名として扱われていると理解できます。するとこの文の意味は、「アラビアでは『ハガル』と言えば、シナイ山を指している」ということになります。アラビア語で「岩」を指す単語の発音と「ハガル」が似ているところから出た語源物語の一種と見られます。この場合、「アラビア」がアラビアという地域をさすのか、アラビア語を指すのかは大きな違いにはならないでしょう。イシュマエルの子孫の諸族は、シナイ半島を含むアラビアと呼ばれる地域に広く分布していました。

「このハガルはアラビアではシナイ山のことである」という一文は後の時代の挿入であるとする学説もあります。しかし、アラビアのナバテア王国でかなりの期間伝道活動をしたパウロが、アラビアでのシナイ山の意味について言及するのは自然なことと考えられます。パウロの時代の多くのユダヤ人が、シナイ山の位置を死海の東側のアラビアの地、ナバテア王国南方のハグラ(またはヘグラ)にあるとしていました。そして、ユダヤ教の伝承ではハガルとヘグラは同一であると見られるようになっていました。アラビアをよく知っているパウロが、ハガルとシナイ山を結びつけるのは自然なことです。

 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから」。(四・二六〜二七)

 二人の女は二つの契約を表しているのですから、ハガルに対して、子を自由な身分に産む自由な女サラは、アブラハムに与えられキリストによって成就される契約を指していることになります。比喩による議論の筋道からすれば、サラがこの契約を表していることを述べた上で、この契約こそがわたしたち自由な子を産む「上なるエルサレム」であることを語ることになるはずです。しかし、パウロはそのような順序を飛ばして、いきなり「天のエルサレム」について語ります。比喩の前半で、「今のエルサレム」を女奴隷ハガルにたとえた高揚が、このような飛躍を招いたのでしょう。パウロがいかに強く「エルサレム」にこだわっているかがうかがわれます。
 「今のエルサレム」が律法によって神に仕える奴隷であるのに対して、「わたしたち」キリストにある者を産む母は「上なるエルサレム」であり、二人の女の比喩において自由な女サラが表している契約である、と語られます。「エルサレム」という名は、ユダヤ人にとって神と民の関係が集約して現れる場所を指す神聖な名であり、パウロの論敵の「ユダヤ主義者」たちもこの名の権威を背景に活動したのでした。エルサレムはユダヤ人にとって母でした。その現実のエルサレムを奴隷を産む女奴隷にたとえたパウロは、もう一つ別のエルサレムがあることを見て語らざるをえませんでした。神が子としてのご自分の民に現れ、共に住みたもう聖なる場を「上なるエルサレム」と呼び、そこで神が人に与えた約束(契約)からわたしたちは産まれたのだと、パウロは語るのです。
 そのような主張の論拠として、パウロはイザヤ書五四章一節を引用します。これはバビロン捕囚後のエルサレムが、以前にまして栄えることを予言した句ですが、パウロはこれを不妊の女サラが、肉により産むハガルより多くの子を得ることを指している言葉とし、「今のエルサレム」よりも「上なるエルサレム」の栄光がまさることを語る預言とします。

自由な子と奴隷

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。(四・二八〜三〇)

 創世記(二一・九)にはイシュマエルがイサクを「からかった」とあるだけですが、ユダヤ教にはイシュマエルがイサクを殺して跡取りになろうとして野に誘ったという伝承が語り伝えられていたそうで、パウロはこの伝承を念頭においているようです。その伝承の歴史性はともかく、何時の時代にも「肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害する」のは事実です。「肉によって生まれた者」は自分の価値を拠り所とする者ですから、自己の無なることを知る「霊によって生まれた者」の存在を許すことができないのです。その存在を認めることは自己の価値を否定することになるからです。迫害の歴史はいつも「肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害」した歴史でした。
 「女奴隷とその子を追い出せ。・・・・」という言葉は、サラがアブラハムにハガルを追い出すように頼んだ言葉ですが(創世記二一・一〇)、パウロはそれが聖書に書いてあるという理由で、神の断定の言葉のように引用しています。サラの頼みの言葉にアブラハムは大いに苦悩しますが、結局ハガルとその子は出されることになります。結果としてサラの言葉は後世を決めることになったので、パウロもサラの言葉を神の定めとして引用することになったのでしょう。
 このようにパウロが聖書を強引とも見える仕方で解釈したり引用したりするのは、人はキリスト信仰によって義とされるのであって、他には何も必要でないという福音の真理を弁証するための情熱から出ていることです。キリストの真理が聖書解釈の原理となるべきことを、パウロが教えてくれています。ユダヤ人にとって、そしてパウロにとって最も神聖なモーセ律法という啓示でさえ、キリスト信仰の他に必要なものとされる時、このような激しい言葉で退けられなければならないのです。その激しさは、モーセ律法をもって神に仕えるユダヤ教を女奴隷ハガルにたとえることで極点に達します。
 ローマ書を除く諸書簡は、パウロ自身が設立した異邦人集会に書き送ったもので、異邦人への使徒としてパウロの本音がよく出ています。そこではユダヤ教がキリスト信仰に対立する面が強調され、激しい言葉で拒否されています。それに対してローマ書は、自分が設立したのではない集会のユダヤ人信徒を意識して、しかもそのユダヤ人集会の協力を期待しなければならない状況で書かれたので、ユダヤ教に関する書き方にはかなりブレーキがかかっていると見られる節があります。モーセ律法に対するパウロの態度を理解する上で、ローマ書だけを主要な論拠にすることは不正確であって、ローマ書以外の諸書を十分考慮にいれて考察すべきであると思われます。

 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(四・三一〜五・一)

要するにパウロはこう言いたいのです。わたしたちは女奴隷から生まれた奴隷の身分の子ではなく、自由な身の女から生まれた自由な身分の子です。すなわち、キリストを信じて聖霊を受け、神の御霊によって生まれた者は、モーセ律法によって奴隷として神に仕える者ではなく、アブラハムへの約束を土台としキリストにおいて成就した恩恵の契約によって生まれた者です。従って、キリストにある者はもはやモーセ律法の軛にはつながれていません。割礼を受けなければならないとか、決められた日にはこれこれの祭をすべきであるとか、安息日にはこれ以上の仕事をしてはいけないとか、これこれの食物は食べてはならないというような規定に縛られてはいません。
 わたしたちは今までは、ユダヤ人であればモーセ律法に、異邦人であれば世を支配する諸霊の諸々の規定に縛られ、それを行うことで神に仕える生き方をしていました。キリストが来られたのは、そういう奴隷の境遇からわたしたちを解放して、外からの規定に縛られることなく、内なる御霊の命に生きるようにしてくださった、すなわち自由の身にしてくださったのです。それだのに、モーセ律法の順守を必要とするような境遇になることは、せっかく自由の身にされた者が再び奴隷の軛を負うことに他なりません。あなたがたはしっかりとキリストの真理に立って、再び奴隷の身分に陥ることがないようにしなさい、というのです。

キリストか割礼か

 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。(五・二〜四)。

 ここでパウロは、「わたしパウロが言う」と特に断って、これから言うことが使徒としてのパウロが自分の全存在の重みをかけてする発言であることを強調します。この激しい手紙でパウロが言いたいのは、実にこの事に他ならないのです。すなわち、割礼を受けることはキリストから離れることである、ということです。この箇所ほど、割礼を受けてモーセ律法を守る立場とキリスト信仰が両立しない二者択一の関係であることを明確に語っているところはありません。割礼を受けるということは、モーセ律法全体を守る義務を引き受けることです。それは、モーセ律法を守ることで義とされることを追求することであり、律法を守ったという自分の価値と資格で神との関わりを築こうとする立場です。それはキリストを拒否することです。キリストとはまさに神が無条件に罪人を受け入れてくださる恩恵の支配の場に他ならないからです。割礼を受けてモーセ律法を守ろうとする者は、キリストの十字架を無意味なものとし、自分を恩恵の支配から追い出しているのです。パウロはこの段落でガラテヤの信徒たちに、キリストか割礼かどちらかを選ぶように迫っているのです。

聖霊による信仰と希望と愛

 わたしたちは、義とされる希望が実現することを、御霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼も無割礼も意味はなく、愛を通して働く信仰こそが大切です。(五・五〜六 一部私訳)。

 先に(二〜四節で)割礼を受けようとする人々が「あなたがた」と呼びかけられていました。それに対して、キリストに留まる「わたしたち」は、自己の資格や価値を放棄して、恩恵を恩恵として受ける信仰から、賜っている御霊により、義が実現する日を待ち望む希望に生きているのです。
 ここで「義とされる希望」としたところは、新共同訳では「義とされた者の希望」となっています。原文は「義の希望」です。新共同訳は、義を恩恵の賜物であるという面から見て、すでに義とされているという面に即して訳したと考えられます。しかし、義が聖霊により人間に与えられる現実であるという面から見ると、義は完成したものではなく、途上にある現実であり、将来の完成を待っている面があります。ここは、「切に待ち望んでいる」という動詞の目的語であるという位置からして、「義とされる希望」(協会訳)と理解する方が自然でしょう。
 キリストに結ばれて生きる場《エン・クリストー》では、割礼を受けていることは何の益にもなりませんし、無割礼でいることは何の不利益もありません。キリストにあって神の民であることにおいては、割礼を受けているユダヤ人であるか、無割礼の異邦人であるかは関係がないのです。これは割礼を神の民の標識とするユダヤ教の否定です。
 キリストに結ばれて生きる場において意味があるのは、「愛を通して働く信仰」に生きているかどうかだけです。信仰とは神と人との関わりです。その神との関わりが、孤立した個人の心の中の問題ではなく、隣人との関わりの中に具体的に現れてくるような質のものであるとき、その信仰は観念的な(頭の中の)信仰ではなく、具体的な信仰、愛の場に働く信仰となります。ここには「御霊」という語は使われていませんが、このような「愛を通して働く信仰」とは、御霊の働き、御霊の現れに他なりません。

新共同訳の「愛の実践を伴う信仰」という表現は、信仰と愛の実践が別々にありうるような印象を与えますので、「愛を通して働く信仰」という直訳を用いるほうがよいでしょう。

 先の五節でパウロは、「御霊により、信仰を通して、義とされる(完成の)希望に生きる」ことが、わたしたちキリストに属する者の姿であることを示しました。ここ(六節)には「御霊により」という句は表に現れていませんが、パウロが愛というときそれは聖霊の働きのことですから、「愛を通して働く信仰」とは御霊の働きの現れに他なりません。こうしてパウロはこの箇所(五〜六節)で、聖霊により一体として現れる信仰と愛と希望こそが、人がキリストに属することを示す標識であり、割礼の有無は意味がないと言っていることになります。
 ところで、人間は「聖霊による希望」とか「愛を通して働く信仰」というような目に見えないものを神に所属する者の標識とすることに耐えられないようです。割礼とか洗礼というような目に見える標識を身につけて安心したいという本能があります。それが宗教組織を形成し、霊の事態を外から規制する枠となっていきます。それは肉の願いであり、肉の働きです。パウロはここで肉の働きに対して戦い、霊の事態に生き抜くように求めているのです。霊で始めたことを肉によって仕上げようとする愚かさを暴いているのです。

十字架のつまずき

 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。(五・七〜一〇)。

 パウロは、自分が産んだ子に対する親の信頼の情によって、ガラテヤの信徒たちが外からの誘惑に打ち勝ち、真理に従って歩み続けるように呼びかけ、励まします。その中でパウロはパン種のたとえを用いています。僅かの量のパン種が粉の塊を大きく膨らます現象は当時の人々の注意を引き、僅かの原因が大きな結果をもたらすことのたとえとして広く用いられていたようです。イエスも「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」と言っておられます。パウロはここでパン種の比喩を用いて、一見それほど重大には思われない割礼を受ける行為がキリスト信仰全体を駄目にしてしまうのだと警告しているのです。

 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
(五・一一〜一二)。

 最後にパウロは、自分が受けている迫害に言及します。パウロが受けた迫害はおもにユダヤ人からのものでした。父祖の宗教(律法)に対するユダヤ人の熱心が高揚した時代において、神の民となるのに割礼も律法順守も必要でないと唱えるだけでなく、異邦人と一つになってモーセ律法を侮辱するような言動を続けるパウロのような人物は、もっとも悪質な背教者として生かしておくことはできないと考えるユダヤ人がいたのも不思議ではありません。ルカは使徒言行録においてパウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀が何回もあったことを報告しています(使徒言行録九・二三〜二四、二〇・三、二三・一二〜二二、二五・二〜三)。
 パウロがユダヤ人から迫害されたのは、イエスをメシア・キリストと宣べ伝えたからではありません。イエスをメシアと信じてもモーセ律法を忠実に守る限り、周囲のユダヤ人と対立することはあっても、命を狙われるほど迫害されることはありませんでした。使徒言行録六章の「ヘレニスト」(ギリシア語系ユダヤ人)の場合が示しているように、イエスを信じたユダヤ人がモーセ律法と神殿礼拝に対する忠誠を疑われたとき、周囲の律法熱心なユダヤ人から迫害の標的とされたのです。
 パウロは回心前エルサレムで「割礼を宣べ伝えて」いました。ヘレニストの会堂(ギリシア語を話すユダヤ人の会堂)で律法の教師として、聖地エルサレムに集ってくるディアスポラのユダヤ人や神を敬う異邦人に律法を教え、改宗者には割礼を受けるように指導していました。このようなモーセ律法に導く活動全体を「割礼を宣べ伝える」と表現していると見ることができます。もしパウロが回心後イエスをキリストと宣べ伝えるにさいして、ガラテヤの論敵であるユダヤ主義者たちがしているように、「今なお割礼を宣べ伝えている」ならば、すなわち割礼を受けてモーセ律法を順守するように指導しているならば、ユダヤ人から命を狙われるような迫害は受けないですんだのです。
 パウロは自分が受けている迫害に言及することによって、自分が宣べ伝えている「割礼なしの福音」、「律法とは無関係の義」の真理は自分の命よりも大事なものであるとしていることを、ガラテヤの兄弟たちに理解してもらいたいのです。彼をキリストに導き、キリストにあって彼らを産んだパウロが命よりも大切にしている真理を守ってもらいたいのです。
 さらにパウロは、もし今なお割礼を宣べ伝えているならば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と続けます。割礼を宣べ伝えているならば、すなわち律法を守ることによって救われると宣べ伝えているならば、十字架につけられたキリストを信じることだけが救いの道であるという「つまずき」は回避されます。ユダヤ人にとって「十字架につけられたキリスト」がつまずきであり(コリントT一・二三)、その福音がどうしても受け入れられないのは、栄光の中に現れるべきメシアが十字架の刑死という屈辱の中に死ぬという不条理が受け入れらないだけでなく、その死だけが罪人の救いのための神の業であるとされると律法を守ることは意味がなくなるからです。もし律法を守ることが救いの道とされ続けるのであれば、イエスの十字架の死も殉教者の死として位置づけられ、合理化され、イエスをキリストとして受け入れやすくなるでしょう。そのとき十字架はつまずきでなくなりますが、絶対恩恵の場、救いの根源でもなくなります。
 パウロは自分が命がけで宣べ伝えたキリストの福音によって産んだガラテヤの信徒たちが、後から入ってきたユダヤ主義者たちによって誘惑されることに耐えられず、激しい言葉で誘惑者を罵ります。パウロは「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」とまで言います。
 彼らは「割礼、割礼」と言って騒いでいるが、それほど割礼が大切であれば、いっそのこと自分を「去勢」してしまえばよいではないか、と言うのです。割礼は男性性器の包皮を切る儀礼です。改宗者の場合、成人してからこの儀礼を受けることはかなり激しい痛みに耐えなければならないのです。人の性器を傷つけることがそれほど大切なことであれば、それを要求する者はまず自分の性器を切り落として「去勢」し、模範を示せばよいのではないか、というのです。このような表現に見られる論理を越えた感情の激しさは、福音の真理を守りたいというパウロの熱心さの裏側でしょう。
 ここで割礼と去勢が関連して言及されています。これは、パウロが割礼に対する異邦人社会の見方を念頭に置いていることを示しています。ローマ人たちはユダヤ人の割礼を、異教祭儀(たとえばフリギアのキュベレ崇拝)に見られる去勢と同列にみて、野蛮な習慣として軽蔑していました。割礼を神の民のしるしとする律法に忠実なユダヤ人であれば、割礼を去勢と並べて言及することはありえません。ここにもパウロが異邦人に対しては異邦人の立場になって、ユダヤ教が強要する割礼の愚かさを感情的に訴えている実例が見られます。