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第三節 神の子

養育係としての律法

 信仰が到来する前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が到来したので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。(三・二三〜二五 一部私訳)

 先の段落(三・一五〜二二)でパウロは約束と律法を比べ、アブラハムへの約束とキリストにおける成就こそが救いの出来事であって、約束と成就との間に入ってきた律法は救いの道ではないことを示しました。「では、律法とは何か」という問に対して、パウロはここでもう一つの比喩を用いて答えます。それが「養育係」の比喩です。「律法とはわたしたちをキリストのもとへ導く養育係である」という答です。
 「養育係」《パイダゴーゴス》というのは、当時のヘレニズム社会の裕福な家庭で子供の教育としつけを担当した家庭教師のことです。これはおもに教養のある奴隷の仕事でした。貴族の跡取り息子でも、成年に達するまでは奴隷である《パイダゴーゴス》によって、読み書きの教育を受けるだけでなく、生活の隅々まで監視され、厳しいしつけを受けたのです。
 パウロは律法の意義と働きを「養育係」にたとえます。養育係はその家の息子をしつけ教育して、跡取りにふさわしい者にしますが、その教育やしつけによって跡取り息子を造るわけではありません。父親から生まれたという事実が男の子を跡取り息子とするのです。養育係はその息子を未成年の期間しつけるだけです。そのように、律法もわたしたち人間が未だ目的に到達していない未成年の間は、わたしたちを取り囲み、監視し、生き方を外から強制したのです。
 ここで、わたしたち人間が成年に達して到達する目標が、「信仰」と呼ばれています。養育係がその役割を終えて、わたしたちが成年に達する時のことが、「信仰が到来する」とか「信仰が啓示される」時と表現されています。この「信仰」は、人間の宗教的な心構えとか態度一般を指すものではないことは明らかです。そのような意味での「信仰」はいつの時代にもありました。ここでパウロがいう「信仰」とは、「律法はわたしたちをキリストへ導く養育係となった」という言葉が示しているように、「キリスト信仰」のことです。すなわち、キリストに結ばれて、キリストと共に生きる現実です。パウロはこのような現実を普通「キリストの信仰」《ピスティス・クリストゥ》と表現していますが、内容を特定する「キリストの」を略して、たんに「信仰」という語でこの現実を指すことがよくあります。ここはその典型的な例です。
 このような意味での「信仰」は、キリストの出現により歴史の中の特定の時に「到来する」ものであり、神の働きにより上から「啓示される」ものです。けっして人間の心構えによっていつでもありうるというものではありません。人間はこのような「信仰」によって、すなわちキリストに結ばれ、キリストと共に生きる現実によって「義とされる」のです。子として神との命の交わりに生きることができるのです。養育係である律法はけっしてわたしたちを義とすること、すなわち同じ命に生きる子として神との交わりに入れることはできません。こうして、養育係の比喩は、わたしたちが神の子、跡取り息子であることを思い起こさせ、以下の議論へ自然に続いていきます。

キリストにあって神の子

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。キリストの中へバプテスマされたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(三・二六〜二九 一部私訳)

 「信仰が到来したので、もはや、わたしたちは養育係の下にはいません」という前節を受けて、その到来した「信仰」によって、あなたがたはみな成人した神の子であるという事実を、パウロはガラテヤの信徒たちに思い起こさせます。そして、「信仰によって」という句に、その中身を示す「キリスト・イエスに結ばれて」《エン・クリストー・イエスー》という句を直ちに続けます。パウロにおいては、「信仰」とは《エン・クリストー》の現実、すなわち、キリストに結ばれ、キリストと共に生きる現実に他ならないのです。「信仰によって」と《エン・クリストー》は同格で並んでいるのです。

二六節は「キリスト・イエスにある信仰によって神の子である」(協会訳、岩波版の青野訳もほぼ同じ)と訳されることがあります。ここの原文の順序は「神の子である、信仰によって、キリスト・イエスにあって」となっています。この訳は、「キリスト・イエスにあって」という句を「神の子である」に関連づけないで、「信仰」を説明する句として理解しています。この解釈は、「信仰」が《エン》という前置詞を伴う用例がないという文法的な困難だけでなく、パウロの信仰理解からも採ることはできません。パウロにおいては、信仰とは「キリストの信仰」、すなわち、キリストを内容とする信仰、キリストに結ばれキリストと共に生きる現実に他ならないからです。それで「信仰によって」と「エン・クリストー」とは、交換可能な句として、どちらか一つが使われています。この節のように同格で並んで使われるのは珍しいケースですが、これは先行する箇所で律法に対立する信仰を強調した流れの継続として、まず「信仰によって」を挙げ、その後に中身を示す句を続けた結果だと説明することができます。

 パウロは続いて、この「キリストにある」《エン・クリストー》という現実がどのようにして始まったのかを語ります。それは「キリストの中へバプテスマされ、キリストを着た」からです。ここに用いられている《バプティゾー》という動詞は、「洗礼を授ける」というような儀礼的な意味ではなく、語本来の「(〜の中に)浸す」という意味で理解しなければなりません。たしかにパウロはこの語を「洗礼を授ける」という意味でも用いていますが(コリントT一・一三〜一七)、霊の事態を語るときにも用います(ローマ六・三)。とくにこの動詞が《エイス》(の中へ)という前置詞を伴って用いられているときは、「〜の中へ浸し入れる、組み入れる」という霊的な意味に理解すべきです。たとえば、「キリストの死の中へ《バプティゾー》された」(ローマ六・三)とか、「一つの霊によって一つの体の中へ《バプティゾー》された」(コリントT一二・一三)という用例では、この意味で用いられていることは明らかです。ガラテヤ書のこの箇所でも、「キリストの中へ《バプティゾー》された」はこの意味に理解すべきです。
 イエス・キリストの御名を信じる者を「キリストの中へバプテスマする」のは、聖霊の働きです。「洗礼を受ける」行為が、イエス・キリストの御名を信じ告白し、その結果、約束の聖霊を受ける場となる限り、「洗礼を受けてキリストと結ばれた」という事態が起こります。このように理解する限り、「キリストの中へバプテスマされる」ということは、聖霊による霊的出来事です。福音における「バプテスマ」は、本質的にはみな「聖霊によるバプテスマ」なのです。
 「エン・クリストー」の現実に入ることを水の中に浸すという比喩で語ったパウロは、その結果を「(衣服を)着る」というもう一つの比喩で語ります。あるものの中に浸された者は、そのものに包み込まれるのですから、キリストという霊的現実の中に浸し入れられた者は、「キリストを着て、キリストに包み込まれた」者となります。神の前に現れるわたしはもはや裸のわたしではなく、キリストを着て、キリストに包み込まれたわたしになります。このわたしが神と共に生きる神の子なのです。
 キリストを着た者は、中に包まれている人間がユダヤ人であろうがギリシア人であろうが区別はなくなります。神との関わりにおいては同じです。これは、どの民族の者でも区別はないと言っているだけではありません。ユダヤ人とギリシア人というのは宗教的な区別です。多くのユダヤ人は、異教徒は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ、神の民、神の子となることはできないと考えていました。それに対してパウロは、ユダヤ教徒であろうと異教徒であろうと、キリストを着ている限り、区別なく神の子であると宣言します。これは重大な宣言です。どの民族、どの宗教の人間も、固有の伝統の中にいるままで、キリストを着ることによって神の民となることができるというのです。
 また、奴隷も自由な身分の者の違いもありません。奴隷と自由人の区別は、パウロの時代の社会では、もっとも深刻な社会的身分の違いでした。キリストを着ることによって、神の子の交わりにおいては、この社会的身分の壁もなくなるのです。
 さらに、男と女の差別もありません。宗教によっては、女性を救済から締め出すものもあります。締め出すところまで行かなくても、男性中心の父権社会(ユダヤ人社会もギリシア・ローマ社会もそうでした)では、様々な制限をつけたり、一段低く見る傾向があります。その中で福音は、神の子としての立場においては、男性と女性の差別をいっさいしません。
 このように、民族、宗教、身分、性の差別がいっさいなくなったのは、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて《エン・クリストー・イエスー》一つだからです」。キリストに結ばれて生きる場では、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も、みな同じ神の子として扱われるのです。ここの「一つ」は、もはや対立する二つのグループではなく、同じ扱いを受ける同一のグループに属する者という意味に理解すべきでしょう。
 この段落(三・二六〜二九)では、パウロ以前に伝承されていた洗礼定式が用いられていると、多くの研究者が見ています。パウロは伝承された洗礼定式に、「信仰によって」とか「キリスト・イエスにあって」というようなパウロ的な主張を強調する句を挿入し、二九節を加えたと見られます。学者の分析によると、元の洗礼定式は次のような文章であったとされます。

 「あなたがたはみな神の子である。
  キリストの中へバプテスマされた者は
   みなキリストを着たのであるから。
  ユダヤ人もギリシア人もない。
  奴隷も自由人もない。
  男と女もない。
  あなたがたはみな一つだからである」。

 この洗礼定式は、初期の福音宣教が社会的な制約を乗り越えて一つの共同体を形成しようとする激しいエートスをもっていたことが感じられ、それが当時のあらゆる階層(とくに低い階層)の人々を引きつけていったのでしょう。
 ここに挙げられている三種類の差別について、第一のユダヤ人とギリシア人の区別については、救いに関わるかぎりキリストにあってそれが廃されていることを、パウロは命がけで主張し、反対者と闘いました。しかし、ユダヤ人であることやギリシア人であることを止めるようにとは求めていません(コリントT七・一八)。また、第二の自由人と奴隷の身分の違いと、第三の男女の社会的立場の差別については、具体的な生活の問題としては、パウロは当時の社会通念に従っており、直ちに差別を無視するように主張はしていません。むしろ、奴隷は召された時の奴隷の身分にとどまるように勧め(コリントT七・二〇〜二四、 なお二一節の意味については議論があります)、祈りの場でも女性は女性としての社会的な枠内にとどまるよう勧めています(コリントT一一・二〜一六、 同一四・三三〜三六)。

なお、この箇所の男と女の問題については、E・S・フィオレンツァが『彼女を記念して』(山口里子訳)の第六章「男と女もない」で、フェミニスト神学の立場から詳しく論じています。

 しかし、「キリストにあって」はこのような差別がなくなっているとの理解は、後世の歴史において、福音が社会的差別の廃止のための秘かな原動力となり、ときには激しい起爆剤になりました。このような歴史を跡づけることは、聖書講解の範囲を超えますのでここで扱うことはできませんが、最近興味深く感じた問題に一つだけ触れておきます。
 女性新約聖書学者であるエレーヌ・ペイゲルスの『ナグ・ハマディ写本(原題は「グノーシス諸福音書」)』(荒井・湯本訳)によると、古代教会において正統派とグノーシス派が対立したとき、正統派が神を男性的用語で語る旧約聖書を継承して、教会組織も男性中心であったのに対し、グノーシス派の教会では女性を重んじ、女性の聖職者とその典礼執行を認め、神を語る用語にも女性語を多く用いました。パウロの「キリストにあっては男も女もない」という主張は、正統派よりもグノーシス派において実践されていたのです。この点で、古代のグノーシス派は現代のフェミニスト神学の先駆けをなしています。
 「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。ここでの「キリストのもの(キリストに属する)」という表現は、「キリストにある」《エン・クリストー》と同じ事態を指しています。キリストに属する者は、キリストと一緒に、約束を受け継ぐ「アブラハムの子孫」となります。先にパウロは、「アブラハムとその子孫に約束が告げられた」と言われる時の「子孫」はキリストを指すと言いましたが(三・一六)、わたしたちはキリストに結ばれ、キリストに属する者となることによって、キリストと一緒に約束を受け継ぐ者となるのです。
 その「約束」とは、三章(とくに一四節)の講解で詳しく触れてきましたように、聖霊を受けて神の子としての現実に入ることです。この「約束を受け継ぐ」ことについて、パウロは次の段落(四・一〜七)でさらに詳しく語ることになります。

世を支配する諸霊

 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても奴隷と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
(四・一〜三 一部私訳)

 「つまり、こういうことです」と言って、パウロはこれまでに述べたことを要約し直します。まず、先の「養育係」とよく似た比喩を用いて、キリストに達するまでの人間の状況が描かれます。全財産の相続人も、未成年の間は「後見人」とか「管理人」の監督の下に置かれていて、奴隷と何ら変わるところがないのと同様に、わたしたちも、未成年である間は、「世を支配する諸霊」に奴隷として仕えていたと描かれます。
 先の「養育係」の比喩(三・二三〜二五)では、「律法」が養育係にたとえられていました。「律法」というのはモーセ律法を指していますから、その比喩は直接にはモーセ律法の下にあるイスラエルがキリストに達することを語っていたことになります。それに対してここでは、「世を支配する諸霊」が後見人とか管理人にたとえられています。それは、モーセ律法の下にいない異邦人も同じように、キリストに到達するまでは、「世を支配する諸霊」に監視され拘束されて、奴隷と変わるところがないことを語るためです。
 では、「世を支配する諸霊」とは何でしょうか。原語では「コスモスの《ストイケイア》」となっています。《ストイケイア》とは本来物事の基本とか(基本的)要素という意味の語です。それで、宇宙の物質的構成要素(ペトロU三・一〇、一二)とか、宗教の初歩の(基本的な)教え(ヘブル五・一二)という意味にも用いられます。しかし、パウロはここと四章九節で、コスモスを構成する霊的諸力とそれが地上の諸宗教に現れた形を一体として《ストイケイア》と呼んでいると見ることができます。
 当時のヘレニズム世界では、コスモス(宇宙)は「支配」《アルケー》とか「権威」《エクスーシア》とか「勢力」《デュナミス》などと呼ばれる霊的諸力で構成される霊的空間とイメージされていました。パウロがこのような宇宙観を共有していたことは、パウロの手紙に散見する言葉遣いからも分かります(コリントT一五・二四など)。地上の諸宗教、とくに異教の諸宗教は、このようなコスモスの霊的諸力を神々として拝むものです。おそらくパウロは、このような霊的諸力とその異教的表現を、最高究極の霊的現実であるキリストと対比して、宗教の初歩的段階として《ストイケイア》と呼んだのでしょう。
 ここで注目すべきことは、パウロがモーセ律法を「世を支配する諸霊」《コスモスのストイケイア》と同列に扱っている事実です。先にパウロはイスラエルについて、キリストが到来されるまでは、モーセ律法という「養育係」の監視の下に閉じ込められていたと語りました。今ここでは、異教徒を念頭に置いて、「後見人」または「管理人」である「世を支配する諸霊」の監督の下におかれ、奴隷と変わるところがないと言います。そして、時が満ちて御子が現れたとき、それは「律法の支配下にある者」を贖い出して、神の子とするためであるとされます(四・五)。すると、ここの「律法の下にある者」の中には、イスラエルだけでなく、異教諸宗教の異邦人も含まれることになります。モーセ律法の下にある者も《ストイケイア》の下にある者もひとしく、奴隷の状況から救い出されなければなりません。キリストの福音の前では、モーセ律法も異教諸宗教もひとしく、人間を奴隷の状態につなぎ止める「養育係」や「後見人」に過ぎないのです。

子とする霊

 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(四・四〜七)

 「時が満ちる」というのは、先に「後見人」のたとえで「父親が定めた期日までは」と言われていたように、神が定めた時が到来することを指しています。キリストの出現は神が定めた時が来たことを意味しています。それで、キリストの福音はいつも「時は満ちた」という告知で始まります。神が定めた時が到来して、「神が」御子を派遣されたのです。キリストの出現とキリストにおける救済の到来は、徹頭徹尾神の働きなのです。
 ここでキリストの出現が、「神が御子を遣わされた」と表現されています。この表現には、キリストはイエスとして地上に現れる前に、神の永遠の御子として神と共におられたことが含意されています。このような表現が用いられているのはパウロの場合は僅かですが(他にはフィリピ二・六〜八などもキリストの先在を前提としています)、先在されている御子が地上に派遣されたという思想は、後にヨハネ福音書において中心的な位置を占めることになります。この箇所はすでにパウロにおいて、先在・派遣のキリスト論が萌芽として存在することを示しています。
 「神は御子を遣わされた」という句の後に、「女から生まれ」と「律法の下に生まれ」という句が続きます。「女から生まれ」というのは、神が御子を世に派遣されるにさいして、黙示思想が期待したような栄光をまとって天から出現する超自然的な人格ではなく、わたしたち普通の人間とまったく同じように、女の胎に宿り、通常の出産の経過を経て生まれたということ、すなわち、わたしたちと同じ限界を担う人間として、誕生から死までの地上の生涯を生きられた方であることを意味しています。
 ここの「女」は普通の女を指す語であって、とくに「処女」という意味はありません。パウロには、イエスが「処女」から生まれたから神の子であるという思想はありません。イエスは復活によって神の子として立てられたのです(ローマ一・四)。
 「律法の下に生まれ」というのは、キリストはモーセ律法の支配下に生きる一ユダヤ人として生まれたことを意味しています。救済者キリストは「女から、しかも律法の下にある者として生まれた者」、すなわちナザレのイエスです。パウロは地上のイエスの働きや言葉に触れることはあまりありません。しかし、パウロが宣べ伝えるキリストは決して超自然の現象ではなく、人間の思想でもありません。あくまでも、一ユダヤ人としてパレスチナの地に生き、律法が支配するエルサレムで律法に裁かれて刑死したイエスという具体的な人物と切り離すことはできません。
 御子キリストが女から生まれた普通の一ユダヤ人として、律法の支配の下に生き、律法によって裁かれて死なれたのは、律法の支配下にある人間を「贖い出す」ためであったのです。「贖い出す」という語は本来「買い戻す」という意味ですが、ここでは金銭の支払とは関係なく、ある不幸な状況から「解放する」とか「救出する」という意味で使われています。
 わたしたちを奴隷の状態から救出して神の子とするために、御子がわたしたちと同じ人間となり、同じように律法の支配の下に服されたのは、(比喩を用いれば)牢獄につながれている者を救出しようとする解放者は、まずみずから牢獄に入ってこなければ、つながれている者たちを自分と一緒に連れ出すことはできないのと同じです。四節と五節の背後には、表現されてはいませんが、このような比喩が下敷きになっているのではないかと考えられます。

 こうして、御子であるキリストにあって(キリストに結ばれて)、共に神の子とされたのだから、神はわたしたちの心の中に「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を送ってくださったのです。
(四・六 一部私訳)。

六節冒頭の《ホティ》は、わたしたちが子である「こと」(新共同訳)ではなく、子である「から」(協会訳やRSVなど多くの英訳)と理解する方が適切でしょう。どちらの訳も内容的には大差はありません。新共同訳のように「こと」と理解すると、「事実から分かります」というテキストにない語句を無理に入れなくてはならなくなります。

 わたしたちキリストにある者は、祈りにおいて「アッバ、父よ」と呼びかけます。この呼びかけはもともとイエスの呼びかけでした。イエスはいつも神に「アッバ」と呼びかけて祈っておられました(「アッバ」は「父」のアラム語)。そして、弟子たちに、「祈るときは、『アッバ』と言いなさい」と教えておられました(ルカ一一・二)。ところが、イエスの在世中は、弟子たちはイエスのように「アッバ」と祈ることはできなかったのではないかと思われます。福音書に描かれている弟子たちの信仰は、イエスの境地からはほど遠いからです。弟子たちは、イエス復活後に聖霊を受けてはじめて、イエスが神の霊によって「アッバ」と呼びかけ、父との深い交わりに生きておられた境地を理解し、自分たちも「アッバ」と祈ることができるようになったのす。
 ですから、わたしたちが内から溢れるものに促されて、おのずから「アッバ、父よ」と祈るとき、子としてのイエスが父に祈っておられたのと同じ霊によって祈っているのです。この事実は、イエスが神の子であったように、わたしたちもキリストにあって、イエスと同じように神の子であることを示しています。
 ここでパウロは「彼(神)の子の霊を送ってくださった」と書いていますが、この「彼の子の霊」は、新共同訳のように「御子の霊」と理解することもできますし、また、「彼の子(神の子)という身分の者の霊」と理解することもできます。ここと同じことを語っているローマ書八章一五節では「神の子とする霊」となっています。そこでは明確に「《フィオテシア》(子とすること、子の身分を与えること)の霊」という表現が用いられています。ローマ書との並行関係から見ても、また、前節(五節)に用いられていた「子とすること」《フィオテシア》の結果を語る流れからしても、ガラテヤ書のこの箇所は一般的な「神の子たる者の霊」と理解する方が原意に近いのかもしれません。しかし、この場合、無理に一方に決めないで、両方の意味を含ませて理解する方が、一層含蓄深いと思われます。
 こうして、キリストにある者はもはや奴隷ではなく、子です。子であることは「相続人」であることを意味しています。パウロにおいては、「相続人」というのはアブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者であり、キリストにある者は約束の聖霊を受けることで、すでに相続しているのです。しかし、キリストにある者も時間の中にいる限り、その相続にも将来の相があります。現在はキリストと共に苦難を受け継いでいるが、将来キリストと共に栄光を受け継ぐことになります。ローマ書八章ではこの相続の将来の面が詳しく語られるようになります。しかしここでは、キリストにある者は、律法の下にいる奴隷ではなく、子であり相続人であるということを論点としていますので、パウロは相続の将来の面にまで立ち入りません。

なお、「神による相続人」という表現は珍しく、「キリストによる神の相続人」と読む写本も多くあります。どちらの読みを採るにせよ、この箇所の論点には影響ありません。