市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第15講

第二節 信仰による義と聖霊

アブラハムの子

 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(三・六〜七)

 パウロはここで述べてきたこと、すなわち、神の御霊を受けることは律法の実行によるのではなく、福音を信仰の場で聞くことによるという主張を、聖書(旧約聖書)の引用によって根拠づけます。パウロは創世記一五章六節の「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」という聖句を引用します。この聖句は、パウロがユダヤ教に対抗して「信仰によって義とされる(救われる)」という彼の福音を根拠づけるときの最も根本的な聖句です。パウロがその聖句をここで、「信仰によって聖霊を受ける」ことの根拠づけに用いていることが重要な意味を持ちます。
 「信仰によって聖霊を受ける」ことを根拠づけるのに、「信仰によって義とされる」という聖句を用いていることは、パウロが「聖霊を受ける」ことと「義とされる」ことを同じ内容の事態として扱っていることを示しています。この点は、「パウロによるキリストの福音」の理解にとってきわめて重要な意味を持つのですが、それについてはこの段落全体を見た後でまとめることにして、ここではパウロの議論の流れを追っていきましょう。
 パウロに反対するユダヤ主義者たちは、異邦人であるガラテヤの信徒たちにこう言っていたのでしょう。「あなたがたはイエス・キリストを信じたとしても、異邦人のままではアブラハムの子孫に約束された救いと栄光の祝福にあずかることはできない。割礼を受けてユダヤ教徒になることで、神の民イスラエルに属する者、アブラハムの子孫となり、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者となることができるのだ」。
 このような主張に対して、パウロはこう言います。「聖書に書かれているように、アブラハムはその信仰が義と認められたのである。だから、アブラハムが神を信じたように、いま神の言葉である福音を信じる者は、その信仰が義と認められるのであるから、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても異邦人のままで、同じ信仰の人アブラハムの子孫と認められ、アブラハムの子孫に約束された祝福を受け継ぐのだ。あなたがたはこのことをよく理解して、割礼を受けさせようとする者たちに惑わされてはならない」。
 パウロは、このような主張がすでに聖書に予告されているとして、さらに創世記から引用します。

 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(三・八〜九)

 パウロは、アブラハムが召された時の主の約束の言葉(創世記一二・三)を引用します。新共同訳では、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」となっています。パウロはこの言葉を、「異邦人」が信仰によって義とされるという彼の福音の予告として引用します。パウロは、いま自分が宣べ伝えている割礼なしの福音、すなわち異邦人が異邦人のままで信仰によって義とされるという福音は、信仰によって義とされたアブラハムに「前もって告げられていた福音」であると言っているのです。これはユダヤ教のラビたちには思い浮かびもしなかった聖書解釈です。パウロは自分の聖霊によるキリスト体験から聖書を読んでいるのです。
 ここに述べてきたこと(六〜八節)の結論として、パウロは「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と断言します。アブラハムはユダヤ人にとって祝福の源泉でした。すべての祝福の約束はアブラハムとその子孫に与えられていました。いま、福音によってその祝福が、アブラハムの肉による子孫であるユダヤ人だけでなく、異邦人にも、信仰によって生きるすべての者に及ぶのです。

律法の呪い

 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。(三・一〇)

 「信仰によって生きる人々は祝福されています」という信仰の祝福の反対側として、パウロは「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」という、律法の呪いを語ります。この宣言はユダヤ教に対する正面からの対決です。もちろん、異邦人信徒に割礼を受けることを要求し、福音をユダヤ教の枠の中に閉じ込めようとするユダヤ主義者に対する対決でもあります。ユダヤ教はまさに律法の実行に頼って神の前に生きようとするからです。ユダヤ教の立場は、「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ記一八・五)という標語に要約することができます。
 モーセ律法(とくに申命記)は、律法を守り行う者には祝福を、律法を守り行わない者には呪いを宣言します(申命記二八章)。それが律法の立場です。ユダヤ教は、モーセ律法を守り行うことによって神の祝福を得ようとするのです。ところが、パウロは律法の実行に頼る者はみな呪われていると決めつけます。そして、そのような断定の根拠として、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記二七・二六)という律法の一節を引用します。
 聖書を根拠として議論するさい、パウロは「律法を守り行う者は祝福される」(申命記二八・一〜二)という祝福の宣言を無視して、呪いの宣言だけを引用します。さらに、その呪いの宣言も、「この律法のすべての言葉」という七十人訳ギリシア語聖書と比べますと、「律法の書に書かれているすべての事」という表現に変えられています。すなわち、申命記法典ではこの呪いの宣言は、直前のいわゆる「性的十戒」を守らない者に対するものですが、パウロはそれをモーセ五書のすべての律法に拡大しています。このように聖句を文脈から切り離して自分の主張の根拠として自由に用いることは、律法学者たちの聖書解釈において普通に行われていたことでした。パウロは自分の深刻な律法体験と革命的な律法理解を表現するのに、律法学者の通例に従って聖書を引用していると見られます。
 パウロの議論は、人間は誰ひとり「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守る」ことはできないという事実を前提にしています。この認識は、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」(一・一四)ユダヤ教に熱心であった時期においても、自分の体験からある程度はあったことでしょう。熱心に努力したという事実自体が、律法をすべて行うことがいかに難しいかを自覚していたことを語っています。しかし、ユダヤ教時代のパウロは、律法を守ることが命にいたる道であることを信じて疑いませんでした。ところが、ダマスコ体験とそれ以後の時期において、律法の実行によって義に到達しようとする熱意がキリストを殺す結果になったことを知って、律法の実行に頼る人間がいかに深く呪いの下にあるかを認識したのでした。

 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。(三・一一〜一二)

 このように、律法の実行によっては人間は誰ひとり神の御前に義とされないことを、パウロは徹底的に体験して、その体験からそう断言しているのですが、それを再び聖書によって根拠づけます。今度は「義人は信仰によって生きる」という預言者ハバクク(協会訳二・四)の言葉を引用します。
 ハバクク書二章四節は、ヘブライ語テキストでは「義人は彼の《エムナー》(忠誠、誠実)によって生きる」となっており、そのギリシア語訳(七十人訳)は「義人はわたしの《ピスティス》(真実、信実)によって生きる」となっています。それをパウロは、「彼の」も「わたしの」も落として、「正しい者は《ピスティス》(信仰)によって生きる」という形で引用しています。ここでもパウロは聖句をかなり自由に(文脈から切り離し、用語や意味合いを少し変更して)、自分の主張の標語として用いていることが見られます。
 この預言者の言葉が示しているように、神は人間が律法の実行によって生きることを期待せず、信仰によって生きるように定めておられる、とパウロは言うのです。信仰こそ命にいたる道として神から定められた道である、とパウロは宣言するのです。これは、預言者の一句をもって、律法を実行する者は生きるというモーセ五書全体の立場を覆す実に大胆な主張です。創世記一五章六節の場合も同じですが、パウロがこのように大胆な聖書の引用ができるのも、聖霊による「十字架につけられたキリスト」の体験と、そこから出る革命的な律法理解があるからです。
 この聖句を根拠にして、パウロはユダヤ教の根本原理を覆します。パウロは、まさにユダヤ教が根本原理としている「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(七十人訳レビ一八・五の要旨)を引用して、そこに明白に示されているように、ユダヤ教は「その定め(またはその定めの実行)によって生きる」ことを原理としているのだから、「信仰によって生きる」という神が定められた原理から出たものでないというのです。それが「律法は信仰をよりどころとしていない(直訳すれば、信仰から出ていない)」ということの意味です。

十字架と聖霊

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるためでした。(三・一三〜一四)

 こうして、律法の実行に頼る者はみな律法の呪いの下にある、ということを明らかにしたパウロは、キリストの十字架はその呪いからの解放であることを示します。
 福音(ケリュグマ)の核心は、「キリストはわたしたちのために死なれた」という宣言です。そのキリストの十字架上の死を、パウロはここで「わたしたちのために呪いとなった」出来事とします。そして、そのような理解を根拠づけるために、ここでも聖書を引用します。
 パウロが引用している聖書は申命記二一章二三節で、そこにはこう書かれています。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」。これは十字架刑に処せられた者についてではなく(イスラエルには十字架刑はありませんでした)、石打ちなどで死刑にされた者の死体を、処刑後木にかけてさらす時の規定です。パウロは、キリストが十字架の木にかけられた事実を、この聖句によって「呪いとなった」と表現するのです。
 この段落でパウロが繰り返し聖書を引用するのは、おそらくガラテヤの異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ主義者が、聖書を引用して信徒を説得しようとしていたので、それに対抗してパウロも、彼らが根拠にする聖書自身がこう言っているではないかと反論したものと思われます。
 キリストは「わたしたちのために」、すなわち、わたしたちに代わって、わたしたちを代表して、律法の呪いをご自身の身に受けてくださることによって、このキリストを信じ、キリストと結ばれている「わたしたち」を、律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、「十字架につけられたキリスト」を信じることと、律法の実行に頼ることとは絶対に両立しないのです。パウロはこのことを言いたいのです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、救いを律法の実行に頼ることは、自らを律法の呪いの下に置くことであって、キリストの十字架を無用無効とすることに他なりません。
 キリストの十字架の出来事は「わたしたちのために」神が成し遂げてくださった御業です。では、その御業はどのような目的でなされたのか、パウロは二つの並行する目的文で示します。一つは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」であり、もう一つは、「わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるため」です。この二つの並行する目的文は同じ内容を語っています。キリストの十字架は、「わたしたち」が、すなわちユダヤ人も「異邦人」も区別なく、「信仰によって」、すなわち「キリスト・イエスにあって」(「信仰によって」と「エン・クリストー」が同じ意味で用いられることについては先の段落の講解で触れました)、「アブラハムに与えられた祝福」、具体的には「約束された聖霊」によって神との命の交わりの現実に入るという祝福、を受けるようになるためです。
 この段落(三・一〜一四)は、パウロの「十字架につけられた姿の復活者キリスト」の宣教の確認と、その福音を「聞くこと」によって聖霊が授けられたというガラテヤの人々の体験の確認で始まりました。続いて、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐのは、ユダヤ主義者が主張するように割礼を受けてユダヤ教律法を実行する者ではなく、異邦人のままで信仰によって義とされる者であることが、聖書に基づいて論じられました。そして、最後にもう一度キリストの十字架に戻り、十字架こそ異邦人がキリストにあって異邦人のままでアブラハムの祝福を受け継ぐことができるためであり、約束された聖霊を受けるための神の御業であることが宣言されて、締めくくられます。

「義」と聖霊

 この段落(三・一〜一四)で注目すべきことは、「信仰によって聖霊を受けた」というガラテヤの人たちの体験(一〜五節)を、「信仰によって義とされた」という聖書の表現で説明し根拠づけていることです(六〜九節)。この事実から、パウロが「義とされる」というとき、それは聖霊を受けて、聖霊の現実に生きることを指している、少なくともそれを含んでいることが分かります。
 宗教改革は、パウロの「信仰によって義とされる」という宣言を福音の中心に据えました。ところが、「義とされる」ということが、本来なら有罪の人間が神の赦しの恵みにより無罪を宣告されるという法廷的な意味だけで理解されたため、プロテスタント諸教会の「信仰義認」の教理はパウロの福音から離れて、大切な面を見失ってしまいました。信仰者は自分の心身に何の変化も起こっていないのに、神は自分を無罪と宣告してくださっていると頭で考えなければならないのです。聖霊の賜物を受けて、御霊の力による変化が起こるとしても、それは「義とされる」こととは別の次の段階の恵みとして理解されます。「義認」と「聖化」の二段構えの教理が形成されることになります。
 パウロが「義とされる」と言うとき、そのような二段構えの教理を考えていません。たとえば、パウロは少し後にコリントの信徒に書き送った手紙の中でこう言っています。

 「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、あなたがたは主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです」。
(コリントT六・一一 一部私訳)

 「そのような者」というのは前節(六・一〇)に列挙した不義や汚れたことを行う者のことです。パウロはここでコリントの信徒たちに、信仰に入ったときに起こった変化を思い起こさせているのです。主イエス・キリストの御名を信じて告白するようになったとき、恵みとして受けた聖霊によって身に起こった変化を、「洗われた」、「聖とされた」、「義とされた」という三つの動詞を重ねて表現しています。これは三つの別の出来事ではありません。同じ出来事の描写です。動詞は三つとも、過去の出来事を示すアオリスト形です。信仰に入ったときに体験する変革を、パウロは「神の御霊によって義とされた」という表現で語っているのです。

「御霊による義」という考え方を受け入れることができない立場から、ローマ書一四章一七節は「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊による喜びとである」(協会訳)と訳されてきました。原文で「義、平和、喜び」の後についている「聖霊による」という修飾句を、義に関係づけることを避け、最後の喜びだけにつけて訳したのです。しかし、この修飾句は「義、平和、喜び」の全体にかかるはずです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」という新共同訳の方が正しいと言わなければなりません。

 このように「義とされる」ことが聖霊によるものである以上、パウロが福音の中心に据えている「義」《ディカイオシュネー》の概念も聖霊と切り離して理解することはできません。序章で述べましたように、パウロは「福音は神の力である」と宣言します。主イエス・キリストの十字架と復活を告知する言葉である福音は、ただ事実を報告する情報の言葉ではなく、それを信じる者を救いに到らせる神の力だというのです(ローマ一・一六)。パウロが「神の力」というとき、それは聖霊の具体的な働きを念頭においているのです。福音の言葉は、聖霊によって信じる者の中に具体的に働く力となるのです。
 そして、福音がすべて信じる者にとって救いへ到らせる神の力となるのは、その福音の中にすべて信じる者に与えられる「神の義」、すなわち人を義とする神の働きが啓示されているからだと、パウロは続けます(ローマ一・一七)。「神の義」とは、人間が自らの力で律法を守り行うことで達成する義ではなく、キリストにおける神の働きによって神から賜る義です。それが神の働きにより、人間の内に起こる現実である以上、その義は「聖霊によって与えられる義」ということができるのです。
 聖霊によって賜る義は、それが地上の人間の内に起こる現実である以上、完成したものではなく、途上にある義です。神の御心に敵対する生まれながらの人間本性(パウロはそれを「肉」と呼んでいます)の中で、その本性と戦いながら貫徹されなければならない義です。それゆえ、それは達成するために恐れおののきつつ努めなければならない義であり(フィリピ二・一二〜一三)、終わりの日に完成することを切に待ち望む義であるわけです(ガラテヤ五・五)。

ガラテヤ五・五の原文にある「義の希望」を、新共同訳は「義とされた者の希望」と訳していますが、この訳には問題があります。文脈からすると協会訳のように「義とされる希望」と理解すべきでしょう。

 パウロは神と人との関わりのすべての問題を「義」《ディカイオーシュネー》という概念で考えていますので、パウロの言う「義」には実に多彩な局面があります。この「パウロによるキリストの福音」シリーズの全体を通して、その理解に努めたいと願っています。今回ここに取り上げた「聖霊による義」は、義の局面のすべてではなく、多様な局面の中の一つです。しかし、義のこの一面はしばしば見落とされ、故意に無視されてきましたので、改めて義と聖霊の不可分の関わりを語っているガラテヤ書のこの段落の重要性を指摘しておかなければなりません。

御霊の約束

 パウロはこの段落(三・一〜一四)を十字架で始め、十字架で終わりました。ガラテヤの人たちが割礼を受けることの愚かさを示すのに、まず、十字架につけられたキリストの福音を信じることによって聖霊を受けたというガラテヤの人たちの原体験に訴えました(一〜五節)。次に、聖霊によってもたらされた救いが信仰によるものであることが、アブラハムについて書かれている聖書の引用によって根拠づけられ、「信仰による義」と表現されます(六〜九節)。最後に、律法の実行に頼る者は呪われているのであって、まさにその律法の呪いから解放するためにキリストは十字架につけられたのであるから、十字架につけられたキリストを信じることと、割礼を受けて救いを律法の実行に頼ることは絶対に両立しないことが語られました(一〇〜一四節)。
 この段落の最後(一四節)で、キリストの十字架が何のためのものであったかが語られています。この一文はパウロの福音を理解する上できわめて重要です。先に見たように、キリストの十字架の目的は二つの目的文によって表現されていますが、その二つは並行表現であって実質的には同じことを言っています。すなわち、ユダヤ人も異邦人も区別なく、アブラハムに約束されていた祝福である聖霊を、信仰によって(言い換えれば、キリスト・イエスに結ばれることによって)受けるためである、というのです。端的に言えば、キリストが十字架につけられたのは、わたしたち誰でもが信仰によって聖霊を受けることができるようになるためです。ですから、もしわたしたちが聖霊を受けることがなければ、キリストの十字架は無駄になってしまうのです。
 ここで「アブラハムの祝福」と「御霊の約束」が並行しています(原文の表現の直訳)。すなわち、パウロは、アブラハムに約束された祝福とは聖霊がもたらす現実であると理解していることが分かります。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記一二・三)。パウロは、今キリストにあって異邦人が聖霊を受けている現実こそ、その約束の成就であると理解しているのです。
 パウロがそのように理解していることは、ガラテヤの人々が信仰によって聖霊を受けた体験を、アブラハムが信仰によって義とされたという聖句で根拠づけ、さらにそれをアブラハムのゆえに異邦人が祝福されるという約束の成就であるとしている論理の運び(三・六〜九)からも明らかです。字句の解釈とか神学的理論によってではなく、パウロは現に福音宣教の実際において体験している現実から、イスラエル存立の基礎である「アブラハムの祝福」を「聖霊の約束」と理解したのです。パウロは続く段落(三・一五〜二二)で、約束と律法の関係を論じていますが、そのさい「約束」とは「御霊の約束」であることを忘れてはなりません。「約束を受ける」(一四節)とか「約束が与えられる」(二二節)、あるいは「相続(する)」(一八節)とは聖霊を受けることを指しているのです。
 終わりの日には神の民に神の霊が注がれて神の救済の業が成就するとの預言ないし約束は、預言書に見られます。エゼキエル書三六〜三七章、ヨエル書二章(協会訳二八〜二九節)などは代表的な箇所です。ここでパウロは個々の預言を引用するのではなく、神の民としてのイスラエルの存立にとって最も基本的な「アブラハムの祝福」を「御霊の約束」と理解している点が重要です。このことによってイスラエルの歴史全体(すなわち旧約全体)が、キリストにおける御霊の注ぎによって神の救いが完成されるという目標を目指す約束となります。パウロからかなり後のルカが、聖霊の約束を「父の約束」と呼ぶとき(ルカ二四・四九、使徒一・四)、パウロのこのような「約束」理解の流れを受け継いでいると見ることができます。

約束としての遺言と契約

 兄弟たち、分かりやすく説明しましよう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。(三・一五)

 先の段落は「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(三・一)という激しい叱責の呼びかけで始まりましたが、ここでは調子を変えて、「兄弟たちよ」と親しみをこめて呼びかけます。どうにかして説得したいというパウロの熱意が伝わります。「分かりやすく説明しましょう」とあるところは、直訳しますと「人間にしたがって語ります」となります。すなわち、人間社会一般にみられる習慣に従って説明しようということです。そして、人間社会の習慣として「遺言」が取り上げられます。
 人間社会の約束ごとである「遺言」でさえ、必要な条件と形式を満たして作成されて法律的に有効となりますと、その後だれも無効にしたり、追加したり、変更したりすることはできません。これは手紙の読者がよく知っている事実です。パウロが「人が作った」遺言「でさえ」と言うのは、「人が作った遺言《ディアセーケー》でさえそうであるならば、まして神が定められた契約《ディアセーケー》は後で無効にされたり変えられたりすることはありえないではないか」(一七節)と言うためです。
 ここで《ディアセーケー》というギリシア語が二つの意味で使われています。一つは世俗的な「遺言」という意味です。もう一つは、イスラエル宗教の核心である《ベリース》(普通「契約」と訳されているヘブライ語)のギリシア語訳として、神と人との関係を規定する「契約」という意味です。パウロは人間社会の《ディアセーケー》(遺言)を比喩として、神の《ディアセーケー》(契約)の決定性・優位性を印象深く語るのです。
 このような比喩が成り立つのは、遺言も契約も共に「約束」という性格を持っているからです。厳密に見ますと、人間の遺言と神の契約は違いがあります。「契約」には、たとえばアブラハムに土地と子孫を与えるという契約の場合のように、約束という面がたしかにあります。しかし同時に、モーセの十戒が「契約」と言われるように、人間が果たさなければならない義務という一面があります。ここでパウロは「契約」を約束としての面だけに限って見ています。たしかに遺言と契約はともに、与える者の一方的な意志に基づく約束であるという点では共通しています。

 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。(三・一六)

 人間の遺言の比喩から本題の神の契約に入る前に、パウロは神の約束としての契約の構造に注意を促します。ヤハウェはアブラハムに「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(創世記一三・一五)と約束し、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記一七・七)と契約されました。この契約の相手方、約束の受け取り人は「あなたとあなたの子孫」となっています。「子孫」というのはヘブライ語でも単数形ですが、本来の文脈では集合的にイスラエルの民を指す語です。パウロはこの本来の集合的な意味を知らないわけではありません(三・二九、ローマ四・一三以下など)。しかし、ギリシア語訳聖書で複数形ではなく《スペルマ》という単数形が用いられていることを理由に、パウロはここではあえて「子孫」がキリストを指すと解釈します。このような一見強引な解釈は、自分の革命的な律法理解を聖書によって根拠づけるために、パウロが律法学者としての知識と技術をフルに活用している結果であると見ることができます。
 パウロが神の約束の受け手をアブラハムとキリストとするのは、アブラハムに約束されたことがキリストにおいて成就するという「約束」の基本構造を明らかにして、その間に入ってきたモーセ律法は約束を変更する資格のないこと(一七節)や、モーセ律法に有効期限があること(一九節)など、律法に関する重要な発言をあらかじめ根拠づけるためです。

 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。(三・一七)

 先に述べた(一五節)人間社会の《ディアセーケー》(遺言)を比喩にして、パウロはここで本題である神の《ディアセーケー》(契約)の問題に入ります。人間の遺言ですら一旦有効になったら、その後だれも変更したり無効にしたりすることはできないのであれば、まして一度立てられた神の契約は、後からできた「モーセ律法」によって無効にされて、その契約が約束していた内容が反故にされることはありえないではないか、とパウロは言うのです。「あらかじめ有効なものと定められた契約」というのは、モーセ律法より先にアブラハムに与えられた契約が、(創世記一五章や一七章のように)繰り返し正式の契約締結の手続きを経て有効にされた事実を指しています。その契約締結から「四百三十年後にできた律法」というのは、モーセ律法の授与はアブラハムの時代から見て、四百三十年にわたるカナンとエジプト滞在(七十人訳ギリシア語聖書出エジプト記一二・四〇)の後であるからです。
 この節のヘブライ語テキストは、「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった」となっていますが、七十人訳ギリシア語聖書では「エジプトとカナンに住んでいた期間」となっています。パウロはギリシア語聖書に従って、アブラハムからモーセまでを四百三十年としたのでしょう。

 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。(三・一八)

 「相続」《クレロノーミア》というのは、もともとイスラエルの各部族が約束の地パレスチナで受け継いだ土地を指す語でした。しかし、パウロの時代のユダヤ人の間では、神がその民に終わりの時に与えると約束しておられた祝福を指す終末論的な用語になっていました。先に見ましたように、パウロはこの語で、今キリストを信じる者が聖霊を受けて、神との新しい交わりに入っている現実を指しています。
 もし「相続」、すなわち終末的な祝福の中身である聖霊を受けることが、モーセ律法の順守から来るのであれば、もはや相続は約束から来るものではなくなります。約束は無効になったことになります。そういうことはありえません。神は約束によってアブラハムに相続の恵みをお与えになったのです。神の約束は反故になることはありえません。ですから、相続が律法の順守から来ることはありえないのです。パウロは、約束に対する神の信実を根拠に、律法順守によって聖霊を受け、終末的祝福を受け継ぐとするユダヤ主義者を論駁するのです。

律法の役割と位置

 では、律法とはいったい何か。律法は違犯を明らかにするために付け加えられたもので、約束を与えられたあの子孫が来られるときまでのものであり、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。(三・一九〜二〇 一部私訳)

 「では、律法とはいったい何か」。この問いが、とくにユダヤ人から起こるのは当然です。終末的な救いの祝福が約束に基づくものであり、ただ信仰によってそれを受けるのであれば、いったい律法は何のために与えられたのか。律法も神から来たのではないか。それを守ることは、神ご自身が求めておられることではないか。律法を順守することが祝福を得る唯一の道ではないか。この問いはユダヤ人には当然です。その問いに答える形で、パウロはユダヤ人にとっては全く革命的な律法理解を明らかにします。
 まず第一に、律法の役割について、パウロはユダヤ人が卒倒しそうなことを語ります。モーセ律法は民の「違反のゆえに」または「違反のために」付け加えられたものだというのです(ここの「違反」は複数形)。この「違反のために」という句には様々な理解があり、それに応じて様々な翻訳があります。「違反を促すため」(協会訳)から、「違犯を明らかにするため」(新共同訳)、「違反を抑えるため」まで、解釈は多様です。どの解釈をとるにしても、民の側に違反があったから律法が付け加えられたのだという主意はかわりません。違反がなければ律法が付け加えられることはなかったのです。
 このような律法の見方は、「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」ことを原理とするユダヤ教からすれば、とんでもないことです。神はモーセを通して律法を与え、それを守る者を自分の民とされるのです。ユダヤ教ではまず律法があって、順守する者は命を得、違反する者は裁かれるのです。律法があるから違反もあるのです。
 それに対して、パウロは違反があるから律法が付け加えられたと言います。ということは、パウロは違反を律法違反の行為とは考えていないことを示しています。パウロが違反というのは、律法以前の問題、すなわち約束に対する民の不信、契約に対する民の背信を意味しているのです。民の背信を明らかにする、すなわち、民が約束の受け手としての本来の信の場にいないことを示すために、律法が与えられたのです。ですから、キリストによってまことの信が出現したとき、律法はその役割を終えるのです。
 第二に、パウロは律法には有効期限があるとします。律法は「約束を与えられたあの子孫が来られるときまで」、ある特定の役割を果たすために「付け加えられた」ものである、とパウロは言います。律法の役割は「あの子孫」キリストが到来される時までであるというのです。パウロはこのことを「キリストは律法の終わりとなられた」とも表現しています(ローマ一〇・四)。これはユダヤ人にとって衝撃的な宣言です。ユダヤ人にとってモーセ律法は永遠に有効な神の定めです。その律法がある期限をもってその役割を終えて廃止されるということは、神の律法への冒?、赦しがたい?神です。
 しかも、律法は神の救済の基本的な枠組みを形成する要素ではなく、約束と成就という救済の基本的構造に臨時に後から「付け加えられた」ものに過ぎないというのです。この言い方も、律法とその順守を救済の基本的枠組みとするユダヤ教徒には耐えがたいものであるはずです。
 第三に、律法の制定と約束の授与との間の手続きの違いに触れて、約束の方が根源的なものであることを説きます。パウロは、律法が「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」であると言います。これは、「この人(モーセ)が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです」というステファノの告白に見られるように(使徒七・三八、なおヘブル二・二も参照)、当時のユダヤ教では、律法が天使たちを通し、モーセを仲介者として民に与えられたとされていたことを反映しています。
 律法は仲介者を通して制定され、約束は仲介者なしに与えられたという違いから、パウロは、救済の枠組みにおいて約束が律法の上位にある秩序(オーダー)にあることを説きます。「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません」が、「約束の場合、神はひとりで事を運ばれた」からです。仲介者というのは、対立する当事者双方の事情を考慮して、両方の立場が成り立つように配慮して、両者を結びつけます。それで、仲介者を立てた場合は、当事者の一方が相手を無視して自分だけで行動することはできません。相手の事情に制約されることになります。モーセという仲介者の手を経て制定された律法は、弱さとか違反というような人間の側の事情に制約され、神の本来の意志の表現ではないというのです。それに対して、アブラハムに与えられた約束は、仲介者なしに直接神からアブラハムに与えられたもので、神は「ひとりで事を運ばれ」、相手方の事情に制約されないので、本来の意志を純粋に表現していることになります。こうして、約束の方が律法より上位の、より本源的な神の秩序であるというのです。

 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。(三・二一〜二二)

新共同訳はこの二節を次の段落に入れていますが、内容が約束と律法の関係を扱う重要なものですから、ここではこの段落が二二節まで続くとして扱います。

 これまでの議論からすると、律法は神の約束に反するものになるではないか、という批判者の問を先取りして、パウロは自らその問を提起し、それに対して「決してそうではない」と答えます。このような問は、約束と律法を対等のレベルに置いて、「あれか・これか」の関係で見る立場から出たものであって、問自身が誤っているのです。約束と律法は対等のものではありません。律法は、約束とキリストにおける成就という救済の基本的枠組みの中に、ある特定の役割をもって限られた期限つきで後から「付け加えられた」ものに過ぎないのです。従って、約束による救いの枠組みの中で、ある期間ある役割を果たすものであって、決して約束に反するものではありません。しかし、約束に取って代わる資格のある救いの道ではありえないのです。
 これが神の救済史の事実なのですが、もし仮に、「人を生かすことができる律法が与えられたとするなら」、すなわち、約束と対等の立場で、別の救済の道として律法が与えられていたら、人は律法によって義とされ、約束による救済の道は棚上げにされ、不要になっていたことでしょう。しかし、事実はそうでないのです。そのような仮定に対して、「しかし」事実はそうでないことを、「聖書」が明らかに語っているではないか、とパウロは反論します。ここで「聖書」がどの箇所を指しているのか特定されていませんが、おそらく、次のような、すべての人間の背反を語る詩編一四編(一〜三節)のような箇所が念頭にあるものと考えられます。

 神を知らぬ者は心に言う、
「神などいない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される、
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。

 このように「聖書」がすべての人間を罪の支配下にあるものと断罪するのは、「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」という仮定が成り立たないことを確認し、律法が救済の道として約束と「あれか・これか」の対等の立場にあることを否定するためです。こうして救済の道として残るのは約束の道だけです。
 約束のものを受けるのに必要なものは信仰です。アブラハムは神の約束の言葉を信じました。その信仰が彼の義と認められたのです。時が満ちてキリストにおいて神の約束が成就したいま、イエス・キリストを信じて、すなわち「キリストにあって」、神の約束を信じる者に、神の約束である聖霊が与えられるのです。聖霊によって終末的な救済の現実に入るという「相続」が与えられるのです。
 こうして見てくると、パウロにおいては、福音《エウアンゲリオン》は約束《エパンゲリア》であると言えます。福音とは、神が一方的に無資格の者に、義、救い、聖霊というよいものを与えようと語りかけておられる約束の言葉です。それは恩恵の言葉です。それを受けるのは信仰だけです。すなわち、自分の誠意とか信念ではなく、そういうものは放棄して、約束された方の信実だけに自分の全存在を委ね、すでに約束されたものを受けたと感謝し、恩恵を賛美することです。

パウロにおける「救済史」

 この段落(三・一五〜二二)は、前の段落(三・一〜一四)と後続する段落(三・二三〜四・七)と合わせて、使徒パウロの「救済史」理解をもっとも明確に示す重要な箇所です。
 パウロはキリストにおける救済を「救済史」の枠組みの中で理解し、かつ提示しています。パウロは熱烈なユダヤ教徒として、世界の創造者である唯一の神を信じ、その神がアブラハムの子孫であるイスラエルを御自身の民として選び、イスラエルの歴史の中で救いの働きを進めてこられたことを確信していました。このように、地上の人間の歴史の中に神の救いの働きを見る信仰の立場から見られた歴史を「救済史」と言います。旧約聖書はイスラエルにおける「救済史」を証言する書であり、旧約聖書から生まれたユダヤ教は「救済史」を枠組みとする宗教です。ユダヤ教はこの点で、神話に基づく祭儀や個人の内面的な悟りを救済の根拠とする諸宗教と決定的に異なる性格をもつ宗教となっています。パウロはユダヤ人として当然、このような「救済史」的な救済理解を一般のユダヤ人と共有しています。
 このような救済史的な性格のユダヤ教の基盤に成立した福音は、キリストの出来事を「救済史」の中の出来事、しかも特別の、最終的な出来事として宣べ伝えます。イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、イスラエルの歴史の中で進められて来た神の救いの働きの完成であり、律法と預言者(旧約聖書)の成就であると宣べ伝えます。パウロも最初期の教団の福音宣教の定式を引用することによって、このような一般の救済史理解を共有していることを示しています(ローマ一・二〜四、コリントT一五・三〜五参照)。
 ところが、パウロの救済史理解にはパウロ独自の大きな特色があります。パウロが語る救済史は、この段落で見たように、アブラハムに与えられた約束とキリストにおけるその成就という枠組みに集中しているのが特色です。旧約聖書には、モーセによる出エジプトと律法授与とか、ダビデによる王国の建設とその永続の約束、預言者たちによるバビロン捕囚の警告と再建の約束というような、救済史上きわめて重要な出来事が他にもあります。ところが、パウロはそのような出来事に触れること少なく、キリストにおける救済をもっぱらアブラハムへの約束の成就として示しています。
 パウロ七書簡に出てくる人名の回数を単純に比較しますと、アブラハム二一回、モーセ九回、ダビデ三回となります。パウロは、この段落で見たように、ユダヤ教において神とイスラエルの契約そのものであり救済の土台として神聖視されているモーセ律法を、アブラハムに与えられた約束による救済の枠組みの中で過渡的な役割を果たすものに過ぎないとしています。パウロがモーセについて語る他の箇所(コリントT一〇・一〜六、コリントU三・七〜一八)でも、予型とか教訓として扱われているだけで、キリストにおいて成就されるべき約束の担い手とは見られていません。
 また、パウロは、一般のユダヤ人が救済の希望の根拠としているダビデ契約についても全然触れません。ダビデ契約というのは、預言者ナタンによってダビデに与えられた、ダビデの王座がその子孫によって永遠に確立されるという約束です(サムエル記下七・一二〜一三)。ユダヤ人は異教徒の支配の下で苦難の歴史を歩んだとき、この約束に基づいて「ダビデの子」によって神の民の支配が回復され、救済の時が来ると期待したのです。それで、ユダヤ人に福音が宣べ伝えられたとき、ナザレのイエスこそ約束された「ダビデの子」であると強調されたのです(たとえばマタイ福音書)。ところがパウロは、一般の福音宣教の言葉を引用している箇所(ローマ一・二〜四)以外で、イエス・キリストを「ダビデの子」と呼ぶことはありません。ということは、パウロは救済史をダビデに与えられた約束とその子による成就という枠組みで見ていないことを示しています。ローマ書四章のダビデは、働きはなくても義と認められる者の例証として出てくるだけで、救済史の土台となる約束の受領者ではありません。
 このように、パウロがモーセ律法でもダビデ契約でもなく、もっぱらアブラハムへの約束を救済史の土台としているのは、パウロのキリスト体験に基づく救済理解から出ていると見ることができます。パウロはダマスコ途上でキリストに遭遇したとき、律法は救いの道ではないことを徹底的に知りました。彼は律法に対する熱心のゆえに、イエスを信じる者を迫害し、イエス・キリストに敵対する者になっていたのです。十字架・復活のキリストにひれ伏し、キリストの圧倒的な恩恵によって生きるようになったとき、パウロは律法順守の道ではなく、キリストにおいて与えられている神の救いの恩恵を、恩恵として無条件に受け取る信仰だけが救いの道であることを身をもって悟ったのでした。神の義(救い)は律法の外に現されたのでした。
 救いが律法と関係なく与えられるという体験が、パウロを異邦人の使徒としたのです。律法の枠の外にいる異邦人が、律法の枠の外にいるままで、信仰によって義とされる(救われる)ことを宣べ伝える使徒としたのです。このパウロにとって、モーセ律法はもはや救済史の土台ではありません。神の約束を信じることによって義とされたアブラハム、異邦人に無条件で祝福を約束するアブラハムの出来事こそ、律法と関わりなくキリストにあって義とされる異邦人への福音の土台となる救済史的出来事です。
 また、パウロが体験したキリストは、ユダヤ人と異邦人との区別なく、すべて信じる個人に内住し、救いに到らせてくださる霊なるキリストですから、ユダヤ人が「ダビデの子」として期待していたように、ユダヤ人を異教徒の支配から解放してくださる民族主義的なメシアではありません。従って、パウロが引用でない自分の文章の中で、キリストを「ダビデの子」と呼ぶことはありません(テモテU二・八はパウロからかなり後の成立と見られます)。こうしてパウロにおいては、救済史はアブラハムへの約束とキリストにおける成就という枠組みに集中していくことになります。
 なお、パウロにはこれ以上に大きな救済史の枠組みとして、アダムとキリストの対応がありますが、それについては後にコリント書の講解で詳しく取り扱うことになりますので、今回はガラテヤ書に見られるイスラエル史の範囲内での救済史に限定します。