市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第14講

第四章 律法ではなく御霊によって

        ―― ガラテヤ書から(4) ――


        (本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)




第一節 聖霊体験

十字架につけられたキリストの宣教

 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(三・一)

 ガラテヤの信徒にあてた手紙の前半(一〜二章)で、パウロは異邦人信徒に割礼を受けることを要求するユダヤ主義者に対抗して、自分が復活者キリストから直接遣わされた使徒であること、自分が宣べ伝えた割礼なしの福音こそ真正の福音であることを弁証してきましたが、ここに来てガラテヤの信徒たちに直接語りかけます。この語りかけには、先に見ましたように(四・一二〜二〇参照)、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」という、使徒パウロの深い憂慮と涙がこめられています。
 今になって割礼を受けるということは、全く「物分かりの悪い(理解力のない)」ことであり、何か悪霊的な力に「惑わされた」としか言いようのない愚かな行為であると、パウロは嘆き、非難し、思いとどまらせようとします。すでに手紙の冒頭で、割礼を受けることは福音を否定することに他ならないと告げていましたが(一・六〜九)、ここでその愚かさを具体的に指摘します。
 まず、パウロが宣べ伝え、ガラテヤの人々が聴いて受け入れた救済者「キリスト」がどのような「キリスト」であったかを思い出させます。パウロが宣べ伝えたキリストは「十字架につけられたキリスト」でした。パウロはここで、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と語っていますが、これはパウロの宣教内容についてのパウロ自身の証言として重要です。
 この一文を語順通りに直訳しますと、「(その)あなたがたには、目の前に、イエス・キリストが、公然と示されたではないか、十字架につけられた方として」となります。これはどういうことを言っているのでしょうか。パウロがガラテヤの人々に、福音書の受難物語がしているように、十字架刑に至るイエスの受難の出来事を、まるで目の前に見るように描写して、詳しく語り聞かせたということでしょうか。そうではないと思います。パウロは、イエスの受難の出来事の現場に居合わせた目撃証人ではありませんが、ペトロたちから伝え聞いて事の成り行きは知っていたはずです。同行しているシラス(シルワノ)もエルサレム原始教団の一員であったのですから、受難の出来事はよく知っていたはずです。それで、もちろんパウロたちはその宣教にさいして、イエスの十字架刑の出来事について少なくとも概略は語ったはずです。しかし、ここでパウロが「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」と言うとき、それは歴史的出来事としてのイエスの受難ではなく、現在の霊的現実としての「十字架につけられた姿のキリスト」のことを指していると理解すべきです。その理解はパウロ自身の次のような証言からも支持されるでしょう。
 このガラテヤでの伝道からおそらく一年以内になされたコリントでの宣教について、パウロは次のように書いています。

 「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、御霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。(コリントT二・一〜五)

 パウロの福音とは「十字架につけられたキリスト」を告知するものでした。この「十字架につけられたキリスト」《クリストス・エスタウローメノス》こそ、パウロが宣べ伝えた福音の核心です。「キリスト」につけられた《エスタウローメノス》という分詞形は(ガラテヤ三・一、コリントT一・二三、コリントT二・二の三箇所とも同形です)、完了分詞が用いられています。すなわち、この形は「十字架につけられた」ことが、過去の歴史的出来事だけを指すのではなく、その結果が現在に現れている相であることを示しているのです。この意味で、「キリストが十字架につけられた姿で示された」という新共同訳の訳文は、この理解を指し示す良い訳だと思います。
 だいたい、パウロが「キリスト」と言うとき、地上の歴史的人物ではなく、復活して現在働いておられる霊なるキリストを指しています。もちろん、そのキリストは地上で十字架刑によって殺されたイエスと別の人格ではありません。パウロはそのイエスを、神が終わりの時に遣わすと約束されていた「メシア」《クリストス》であり、復活して天に上げられた「主」《キュリオス》であると宣べ伝えているのです。パウロはそのキリスト、すなわち《キュリオス》として天に上げられ、霊として働かれるキリストを、現在「十字架につけられている」という相(姿)をもつ方として宣べ伝えるのです。このようなキリストの相を、後にヨハネ黙示録は「神の玉座の前に立つ、屠られたような小羊」(黙示録五・六)という象徴的なイメージで語るのです。
 イエスの十字架刑の物語は歴史家も語ることができます。しかし、「十字架につけられて殺されているという相をもった復活者キリスト」という矛盾した霊の現実は、人の知恵の言葉や論理で説得できるものではありません。それは「御霊と力の迫り」(新共同訳で「証明」と訳されている語は「迫り」と訳した方が適切ではないかと思います)によって、聴く者の魂に直接示されなければなりません。パウロがコリントでの宣教について述べているこのような表現は、一年ほど前に同じように人間的な弱さの中で行われたガラテヤでの伝道(四・一三)にも、そのまま当てはまるはずです。パウロはガラテヤでも、ひたすら御霊の働きに頼って、「十字架につけられたキリスト」を公然と宣べ伝えたのです。そしてその結果、その福音を信じたガラテヤの人々に聖霊が注がれて、彼らも聖霊が直接魂に示してくださる「十字架の相をもつ復活者キリスト」の霊的現実にひれ伏したのでした。これが、「目の前に、はっきりと示された」という表現の意味です。すなわち、「目の前にはっきりと見るように、十字架につけられたキリストという霊的現実があなたがたの魂に直接示された」というのです。
 このように「十字架につけられたキリスト」を信じることは、割礼を受けてユダヤ教律法を順守しようとすることと相容れないものであることが、どうしてあたながたには分からないのかとパウロは迫るのです(一節)。すでに直前の段落で自分の体験として両者が相容れないものであることを語っていましたが(二・一五〜二一)、ここからの段落(三・一〜一四)で、パウロは「十字架につけられたキリスト」を信じるとはどういうことなのか、それがいかに律法順守の立場と両立しえないものであるかを説いていきます。

聖霊を受けた体験

 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。(三・二)

 「十字架につけられたキリスト」を信じることと、割礼を受けてユダヤ教律法を順守することが、救いの道としては両立しえないことを示すのに、パウロはまず第一にガラテヤの人たち自身の体験に訴えます。ガラテヤの人たちは、パウロが宣べ伝えたキリストの福音を信じて受け入れたとき、「御霊を受けた」のでした。それは明確な体験であって、しばらく経ってパウロがこの手紙を書いたときにも、その体験を根拠にして議論を進めることができたのです。
 では、「御霊を受けた」というのはどのような体験だったのでしょうか。ここでは「御霊を授ける」ことと「奇跡を行う」ことが並行して語られている(五節)以外に示唆はありません。この表現は、ガラテヤの人たちが「御霊を受けた」とき、何らかの神の「力ある業」(「奇跡」と訳されている語《デュナメイス》は本来は「力ある業」)が体験されたことを示唆しています。これは、授けられた神の霊が彼らの中に働いて、人目を驚かす不思議な現象があったことを意味しています。それがどのような現象であったのか、ここでは具体的には触れられていません。この時期に書かれたパウロの手紙の中で、「御霊の働き」または「御霊の現れ」として、「奇跡を行う力」と並んで、病気をいやす力や預言する力、異言を語る力などがあげられていますが(コリントT一二・四〜一一)、おそらく、このような「御霊の現れ」がガラテヤの人たちの間に見られたのでしょう。ずっと後に成立した使徒言行録では、福音を受け入れたときに与えられる聖霊の現れとしては、異言で語ることが中心的な位置を占めるようになります。また、パウロのこの時期の伝道から二〇年近く後のマルコ福音書では、「御霊を受ける」ことが「聖霊によるバプテスマ」という表現で語られるようになります(マルコ一・八)。
 「御霊を受ける」体験においては、外に現れる現象よりも、内に体験される霊的内容が重要です。それは何らかの意味と程度においてキリストが体験されることに他なりなりません。しかし、その内容は「キリストの福音」全体に関わることで、ここで扱うことはできません。ここでは、パウロの福音宣教には「御霊を受ける」という体験が伴っていたという重要な事実を指摘するに止めます。
 パウロは「あなたがたに一つだけ確かめたい」と言って、ガラテヤの人々が「御霊を受けた」体験を思い起こさせます。この体験が何よりも雄弁に、そして、それだけで十分に、割礼を受けることの愚かさを証明しているからです。
 パウロはガラテヤの人々に尋ねます、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか」。もちろん、答は「否」です。さらに畳み掛けて尋ねます、「それとも、福音を聞いて信じたからですか」。もちろん、答は「しかり」です。異邦人であるガラテヤの人々は、まだユダヤ教律法のことは何も知らず、割礼を受けてユダヤ教に改宗するようなことは思い浮かびもしない時に、パウロたちからキリストの福音を聞いて信じ、その結果御霊を受けるという体験をしたのでした。ユダヤ教律法とまったく無関係に、「十字架につけられたキリスト」を通して聖霊を受けるということは、彼ら自身が体験している最も確かな事実でした。
 ここでも原文は、御霊を受けたのは「律法の実行」によるのか、それとも「信仰の聴聞(聞くこと)」によるのか、という正確に対応する二つの名詞表現が用いられています。たいていの翻訳はこれを「律法を実行した」と「(福音を)聞いて信じた」と訳しています。しかし、「実行」に対応しているのは「聞くこと」ですから、対応関係を正確に訳すと、「御霊を受けたのは、律法を実行したからか、それとも信仰の場で聞いたからか」となります(福音という語は原文にはありません)。パウロの表現には、御霊を受けるのは「聞いたことを、人が信じる」ことによるというよりは、聞くことが直ちに聖霊を受ける出来事になるという勢いがあります。聞いた告知の内容を、人が判断して受け入れるかどうかを決めるのではなく、宣べ伝えられた福音を素直に、全存在をかけて聞くことが直ちに御霊を受ける体験となるのです。この出来事は使徒言行録一〇章のコルネリオの体験に典型的に物語られています。ペトロがイエス・キリストのことを話し続けているとき、「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」のでした(使徒一〇・四四)。
 パウロはこう言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ一〇・一七)。パウロにとって、信仰とは聞いたことに向かい合い、判断し、決断する人間の側の主体性ではありません。信仰とはキリストの言葉(福音)を聞くことによって、その言葉が聞く者の中に生み出す神との新しい関わり方です。一切は福音によって語りかける神の側のイニシャティヴによります。このような信仰理解からしますと、「聞くこと」についている「信仰の」という属格も、何か聞くこととは別にある「信仰によって」という意味ではなく、「信仰をもたらす」ような質の聞き方でという意味になります。これは全存在を語りかける方に投げ入れた聞き方、自己を無としてひれ伏して聞く聞き方ということになります。人がこのように「信仰の場で」福音を聞くとき、聞くことが直ちに聖霊が注がれる場となるのです。

肉で仕上げる愚かさ

 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、御霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・。(三・三〜四)

 このようにガラテヤの人たちの信仰生活、すなわちキリストと共に生きること、救いの道を歩むことは、御霊を受けることで始まりました。パウロはその事実を思い起こさせ、今割礼を受けてユダヤ教律法を順守することで救いを完成しようとするのは、「御霊で始めたことを、御霊に敵対する肉によって仕上げしようする」筋違いの愚かな試みであると諭すのです。
 パウロが「肉」《サルクス》というとき、それは生まれながらの人間の本性を指しています。その人間本性は自我の高ぶりによって神と対立し、神の本性とは敵対します。そのため人間の方からなす業によっては、それが聖なる神の律法を対象とする行為であっても、神と人の交わりを形成することができません。それで、神はご自身の御霊を与えることによって、人間の本性(肉)から出る業がなしえないこと、すなわち神と人との交わりを実現してくださったのです。このように、肉がなしえないことを実現するために御霊が与えられたのです。その御霊で始めたものを肉で仕上げようとすることが、いかに愚かなことか、あなたがたには分からないのですかとパウロは迫ります。
 しかし、「肉によって仕上げようとする」ことの愚かさを認識できるのは、徹底的に律法の道を追求して、その中で人間本性の神への敵対性と弱さを体験したパウロにして初めて持てる認識ではないかと思います。神の律法の圧力の下で人間本性の弱さを深刻に体験してこなかった異邦人のガラテヤの信徒たちには、そのような認識は無理なことだったのでしょう。ガラテヤの人々でなくても、わたしたち人間にはみなこの愚かさがつきまといます。この時ガラテヤの人々が愚かさを見せてくれたおかげで、パウロがこの涙の書簡を書き、その結果このガラテヤ書簡が、福音の歴史において繰り返し、「御霊で始めたものを肉で仕上げようとする」人間の愚かさを暴きチェックすることになりました(宗教改革はその代表的な事例です)。ここにも神の摂理の導きが感じられます。
 パウロは、繰り返しガラテヤの人々が御霊を受けた体験に戻り、「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」と迫ります。「あれほどのこと」というのは、御霊の働きとして神の「力ある業」を体験したことだけでなく、十字架につけられた姿の復活者キリストを啓示されるという内なる体験も指していると見られます。内と外に大きな体験を伴う御霊の体験は、あなたがたに救いはまったく一方的に神が与えてくださる事態であって、人間の働きが入り込む余地はないのだということを示したはずではないか。それだのに、いま割礼を受けることで、救いを人間の働きによって仕上げようとすることは、「あれほどの」体験をしたことが無駄であったことになる、とパウロは嘆きます。そして、「無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・・」と、もう一度その原体験に立ち戻るように期待します。

 あなたがたに御霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
(三・五)

 パウロは最初の問(二節)を繰り返します。二節では「あなたがた」が主語で、「あなたがたの体験」が問題になっていましたが、ここでは神が主語で、神がなされる働きが問題になっています。また、「御霊を授ける」ことの具体的な現れとして、「奇跡を行う」という神の働きが加えられています。そのような違いはありますが、実質的には二節の質問の繰り返しです。パウロが執拗なまでにこの問を繰り返すのは、十字架につけられたキリストの福音を「聞くことによって」聖霊を受けることを、信仰の原体験としてパウロがいかに重視しているかを示しています。パウロのキリストの福音の宣教は、それを聞く者が聖霊を受けるという現実の上に成り立っているのです。