市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第10講

第三節 エルサレム会議

エルサレムとアンティオキア

 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。(二・一〜二a)

 イエス・キリストの福音は当初(三〇年代と四〇年代)、シリア州を中心に進展していきました。シリア州は北ではシリア・キリキア地方、南ではパレスチナの諸地方、すなわちユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、沿岸地方を含んでいます。この州の主要都市は、北では州都であるアンティオキア、南ではユダヤ人の聖都であるエルサレム、そして中間にあるダマスコと地中海沿岸のカイサリアです(パウロの生涯と活動は最初から最後までこれらの諸都市と深く関わっています)。この時期、シリア州の各地に信徒の群れが広がっていったと見られますが、その中でエルサレム教団とアンティオキア教団が福音の担い手としてもっとも重要な位置を占めていました。
 二つの教団は対照的な性格の教団でした。エルサレム教団はおもにヘブライ/アラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人から成る教団であり、ユダヤ教の伝統に忠実で、イエス伝承の担い手またイエスの復活の証人としての「十二人」を中心とする、母教会的な教団でした。それに対してアンティオキア教団は、エルサレムから追放されたギリシア語系ユダヤ人によって設立され指導される教団で、ギリシア語を用いるユダヤ人と多数の異邦人から構成されていました。もともとユダヤ教律法や神殿祭儀に批判的なギリシア語系ユダヤ人によって設立され指導されていることや、非ユダヤ人信徒が多数を占めていること、さらにヘレニズム世界の代表的大都市にあるという環境から、アンティオキア教団はユダヤ教伝統には拘束されない自由な立場を取り、異邦人への伝道を熱心に推し進める教団でした。
 この二つの教団は、性格が対照的ではありますが、同じ主イエス・キリストに属する民として、お互いに重要性を認めて密接な関係を維持したようです。ルカが伝えるところによると、アンティオキアに信徒の群れが成立したとき、エルサレム教団は主要メンバーの一人であるバルナバを派遣して、貴重なイエス伝承や福音伝承を伝えていますし、その後も「預言者たち」がエルサレムからアンティオキアに来ています。また、飢饉の時にアンティオキア教団はエルサレムに援助の金品を送り届けたりしています(使徒一一・二七〜三〇)。

バルナバ

 この二つの教団の結びつきに最も重要な役割を果たした人物はバルナバです。バルナバは、ルカが伝えている伝承(使徒四・三六〜三七)によると、本名はヨセフ、キプロス系のレビ族のユダヤ人です。新共同訳はキプロス「生まれの」と訳していますが、原語は出身とか家系を示す語であって、必ずしも出生地を指すわけではありません。聖都エルサレムには様々な地方出身のディアスポラのユダヤ人が住居を構えていましたから、バルナバの家族もキプロスから出てきてエルサレムに住んでいて、そこでバルナバが生まれたという可能性もあります。出身地からして、また後の活動が示すように、バルナバはギリシア語を母語とするはずですが、幼いときからエルサレムでヘブライ/アラム語に親しみ、バイリンガルな生活をしたのではないかと推定されます。それで、エルサレムにイエスを信じる人たちの集会が成立したごく初期に、キプロスの土地資産を売却して「使徒たち」に提供し、共同生活に参加したようです。「使徒たち」(彼らはアラム語系ユダヤ人)から「バルナバ」(慰めの子)と呼ばれて篤い信頼を受けていたこと、これほどの重要人物でありながらギリシア語系ユダヤ人の「七人」の指導者名簿に彼の名がないこと、ステファノ事件をきっかけとする迫害の後もエルサレムに残っていることなどから見て、バルナバは「十二人」を中心とするアラム語系ユダヤ人の共同体に参加し、その中で重要な位置を占めていたと考えられます。アレクサンドリアのクレメンスは、バルナバをイエスの七十二人の弟子(ルカ一〇・一)の一人であったとしています。
 バルナバはステファノに代表されるギリシア語系ユダヤ人の一員であって、迫害でエルサレムから追われ、アンティオキアまで行って異邦人に福音を伝えた「キプロス出身の」人である(使徒一一・二〇)、すなわちアンティオキア教団の創設者の一人であるという推察もあります(佐竹『使徒パウロ』も)。しかし、「七人」に含まれていないこと、ギリシア語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人の中にも、アラム語をもよくして「十二人」を中心とするエルサレム教団に属する人たちがかなりいたこと(たとえばマルコやシラスなど)、後にバルナバがエルサレムとアンティオキアの橋渡し役を果たすという事情を考えますと、バルナバは初めからアラム語系ユダヤ人の共同体に参加していたと見る方がよいと考えられます。
 ギリシア語を話すディアスポラのユダヤ人でありながらエルサレム教団で重要な地位を占めるというバルナバの特殊な立場が、彼にアンティオキア教団とエルサレム教団の橋渡し役をさせることになります。まず、アンティオキアに多くの異邦人を含む教団が成立したとき、エルサレム教団からバルナバが派遣されて(バルナバが自発的に行ったのをルカがそう表現したという可能性も捨てきれません)、アンティオキア教団に貴重なイエス伝承と福音伝承を伝えて指導し、教団の指導者として中心的な役割を担います。このような立場から、アンティオキア教団が、会議であれ援助であれ、エルサレム教団と関わるときはいつも、バルナバが第一に代表として選ばれることになります。
 さらにバルナバは、パウロの初期の活動において、よき理解者また同労者として重要な役割を果たします。パウロが回心後三年目に初めてエルサレムを訪れたとき、迫害者としての前歴を恐れるエルサレム教団の人々に、キリストの証人としてのパウロを紹介したのはバルナバでした。エルサレムでユダヤ人から命を狙われて脱出し、タルソで活動していたパウロを探し出して、アンティオキア教団で一緒に活動するようにしたのはバルナバでした。そして、アンティオキア教団の異邦人伝道の担い手として、キプロスやガラテヤ州南部の諸都市でパウロと伝道の労苦を共にしたのはバルナバでした。
 このような事実から、バルナバはパウロの福音理解に深く共鳴していたことがうかがえます。先に見ましたように、パウロはユダヤ教律法への熱心さのゆえに、律法からの自由を唱えるギリシア語系ユダヤ人信徒を迫害したのですが、それだけに、復活したイエスに遭遇して回心したとき、ユダヤ教律法がもはや救いの道としては終わったのだという理解も徹底していました。アンティオキア教団において、パウロはユダヤ教伝統から自由な福音の提唱において急先鋒であったと思われます。バルナバもディアスポラのユダヤ人として、エルサレムにいたときからステファノらの主張に共感するところがあったのでしょうが、アンティオキアに来てからは、パウロと一緒にますます明確に律法から自由な福音を推し進めることになったと見られます。
 バルナバはアンティオキア教団の中心人物ですから(使徒一三章一節では指導者の筆頭に上げられています)、バルナバの福音理解はアンティオキア教団の在り方を決める大きな要因となったはずです。アンティオキアでは、異邦人で信仰に入った者に割礼を受けることは求められませんでした。すなわち、割礼を受けてユダヤ教徒となり、ユダヤ教の諸々の規定を守ることは要求されなかったのです。アンティオキアでは、異邦人は異邦人のままで、キリストに結ばれることにより神の子とされ、神の民に属する者となるという原則が確立していました。

割礼の問題

 ところが、この点について問題が起こりました。「ある人々がユダヤから(アンティオキアに)下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えた」のです(使徒一五・一)。ユダヤからアンティオキアに下って来た「ある人々」とは、おそらくエルサレム教団の「ファリサイ派から信者になった人々」(使徒一五・五)か、彼らの同調者たちであったと考えられます。
 成立後十数年を経て、エルサレム教団にも変化が生じていました。イエスの直弟子である少数のガリラヤ人がエルサレムで始めたイエスをメシアとする宣教活動は、神の霊の大きな働きによって、多くのエルサレムのユダヤ人を獲得していきます。大祭司を頂点とするサドカイ派は初めから厳しく反対して、この運動を弾圧しましたが、ファリサイ派やエッセネ派の中には信仰に入る者が多く出ました。ルカが「祭司も大勢この信仰に入った」(使徒六・七)と言うとき、サドカイ派の上級祭司ではなく、下級祭司やエッセネ派の祭司的な立場の人々がエルサレム教団に参加するようになったという事実が背後にある可能性があります。
 彼らはユダヤ教伝統の熱心な擁護者たちでしたから、このようなユダヤ人が増えるにつれて、エルサレム教団ではユダヤ教の伝統に忠実に生きることが強調されるようになる傾向が出てきます。モーセ律法と神殿祭儀に対して自由な立場をとるギリシア語系ユダヤ人がエルサレムから追放されてからは、この傾向は加速されたと考えられます。エルサレム教団の中でユダヤ教律法の厳格な実行を求めるグループの中心的な人物は、「主の兄弟」と呼ばれるヤコブでした。この人物は、パウロが回心後三年目にエルサレムを訪ねたとき、すでにペトロと並んで影響力のある立場にいたことがうかがえます(一・一九)。
 ヤコブは「主の兄弟」と呼ばれ、イエスの兄弟(イエスの従兄弟であるとする説もあります)であるという血縁から、教団の中で重要視されたのでしょう。ヤコブはイエスの存命中はイエスの活動に懐疑的でしたが、復活されたイエスの顕現に接して回心し、エルサレムの教団に加わったとされています。ヤコブは「義人」と呼ばれていることからも分かるように、ユダヤ教律法の厳格な実行者として、ユダヤ人社会でも尊敬されていました。それで、エルサレム教団の中でユダヤ教伝統に忠実なグループが増えるにしたがって、ヤコブの権威も増し加わり、それと共にペトロを代表とする「十二人」の影響力は相対的に低下したようです。この傾向を決定的にしたのは、ヘロデ・アグリッパ一世が、律法熱心なユダヤ人の歓心を買おうとして、四三年にエルサレム教団に迫害の手を伸ばし、「十二人」の一人であるゼベダイの子のヤコブを剣で殺し、ペトロを逮捕した事件です。ペトロは奇跡的に獄から救い出されますが、すぐにエルサレムを去って他の土地に行きます(使徒一二章)。
 この事件でペトロがエルサレムを去ってからは、「主の兄弟」ヤコブがエルサレム教団を代表するようになります。ますます増大するユダヤ人の敵意の中でエルサレム教団が存続するためには、ユダヤ教律法への忠誠において模範的とされるヤコブのような人物が教団の顔となることが必要という面もあったようです。パウロがあげているイエス復活の証人のリストにも、ペトロを筆頭とする系列と並んでヤコブを筆頭とする系列(コリントT一五・七)が出ていることにも、ヤコブの権威の確立がうかがえます。後にユダヤ人キリスト教の流れの中で成立したと見られる偽典には、復活されたイエスは最初にヤコブに現れた(ヘブル人福音書)とか、イエスはヤコブを後継者に指名した(トマス福音書)という伝承が用いられるようになります。
 このような傾向を強めつつあるエルサレム教団が、アンティオキアでは異邦人がどんどんと割礼を受けないままで教団に加入しているということを伝え聞いたとき、これを放置できない事態と見たわけです。律法への熱心に燃える一部のユダヤ人がアンティオキアまで来て、イエスを信じる異邦人信徒は、割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ神の契約にあずかることはできない、すなわち救われないと主張して、異邦人信徒に割礼を施すことを要求します。彼らは異邦人伝道に反対したのではありません。異邦人信徒に割礼を受けてユダヤ教徒になること、すなわちユダヤ人になることを要求したのです。このような主張を掲げた人々を、普通「ユダヤ主義者」と呼んでいますが、厳密に言うと「ユダヤ化主義者」と呼ぶべきでしょう。彼らはたんにユダヤ教の優越性を叫んだのではなく、異邦人信徒をユダヤ人にしようとしたのです。以下で通例に従って「ユダヤ主義者」という用語を使いますが、内容は「ユダヤ化主義者」であることを念頭に置いて読んでください。

 「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。(使徒一五・二)

 パウロやバルナバはこの福音のユダヤ化に激しく反対します。もし「ユダヤ化主義者」の要求に屈して、異邦人信徒に割礼を施してユダヤ教徒にするようなことをすれば、キリストの福音はユダヤ教の枠に閉じ込められ、すべての民への救いの告知ではなくなり、パウロたちの宣教はユダヤ教の一派の宣教活動にすぎなくなります。
 エルサレムから来た一部のユダヤ人がこのような割礼の要求をしたので激しい議論になりましたが、この点で意見が対立したからといってエルサレム教団との関わりを絶つことはできません。エルサレムは何といっても神がその名を置かれた聖都であり、そこに成立した教団は主イエスの直弟子たちが設立した教団として、全世界のキリストの民にとって根になる存在です。それから切り離された福音は、根なし草になってしまいます。当時の代表的教団であるエルサレムとアンティオキアの二つの教団が分裂すれば、生まれたばかりのキリストの民は致命的な打撃を受けます。ここはどうしても、異邦人に割礼を施してユダヤ人にすることは拒否して福音の真理を護ると同時に、エルサレム教団との関係を維持する方策を話し合わなければならないという状況に迫られます。そこで、アンティオキア教団はパウロとバルナバを含む数名の代表団をエルサレムに派遣することになります。
 パウロはこのエルサレム行きを「啓示によるもの」としています。この「啓示」がパウロの個人的な祈りの中での体験であるのか、教団の祈りの場での霊感された預言によるもの(たとえば使徒一三章二節)かは決定できません。いずれにしても、このエルサレム行きはエルサレム教団の指図によるものではなく、パウロまたはアンティオキア教団側からの自発的な決定であること、いや、神の指示によるものであることを言おうとしています。
 パウロは「その際、テトスも連れて行きました」。テトスはギリシア人の信徒で、割礼を受けないままでアンティオキア教団の一員として活動していました。パウロはテトスを、割礼を受けない異邦人信徒の実例として、意図的にエルサレム会議に連れて行ったのです。
 「その後十四年たってから」は、最初のエルサレム訪問から(足掛け)十四年と考えられますので、このエルサレム会議はほぼ四八年と見られます。パウロはこの時五十歳前後の働き盛りの年代であったことになります。

パウロの立場

 わたしは、自分が無意味に走っていることにならないために、また走ったことにならないために、自分が異邦人に宣べ伝えている福音を、おもだった人々との個人的な協議の場においてですが、人々に提示しました。(二・二b 私訳)

この節の動詞《アナティセマイ》は「(協議や決定のために)提示する」という意味です。新共同訳の「に話して、意見を求めた」という表現は意味が弱いと思います。NRSVもこの私訳とほぼ同じ理解を示しています。

 ガラテヤ書のこの段落(二章一〜一〇節)と使徒言行録の一五章は、同じエルサレム会議のことを書いていると考えられますが、二つの記事は一読してかなり違った印象を受けます。それは、パウロはこの会議の一方の当事者であり、自分の立場を主張するために書いているのに対して、ルカは数十年後に福音の進展の歴史を語るにさいして、教団の一致を美化する立場で書いているという、両者の立場と動機の違いからくるものでしょう。
 使徒言行録一五章の記事によりますと、この会議はヤコブを議長とする使徒たちと長老たちの公式会議という印象を受けます。それで、この会議はエルサレムの「使徒会議」と呼ばれることが多いわけです。しかし、「おもだった人たちに個人的に」というパウロの記述からすると、公式の会議というより個人的な会談であったようです。すくなくともこの話し合いは、後世の世界教会会議のように、使徒たちが全教団の指針を決定するという性質のものではなく、あくまでエルサレム教団の「おもだった人たち」(ヤコブ、ケファ、ヨハネら)とアンティオキア教団の代表者(バルナバ、パウロ)による二教団間協議であったと見られます。
 いずれにせよ、パウロにとってはこのエルサレム会談は重要な協議でした。パウロはすでに十数年にわたって「律法とは別の(すなわち、ユダヤ教の外での)神の義」を宣べ伝えてきました。現在も異邦人に、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、イエス・キリストを信じることによって救われると宣べ伝えて、多くの異邦人を異邦人のままで教団に受け入れてきました。もし、このようなパウロが宣べ伝えてきた福音が、エルサレム教団の指導者たちに認められず、異邦人信徒に割礼が要求されるようなことになれば、パウロは、その要求を受け入れて異邦人信徒に割礼を施すか、その要求を拒否してエルサレム教団と分裂するか、どちらかを選ばなければならない窮地に立たされます。異邦人信徒に割礼を施すことにすれば、パウロがこれまで、ユダヤ人から命を狙われる危険を冒しても宣べ伝えてきた、律法から自由な福音のための働きは無意味になってしまいます。もし異邦人信徒の割礼を拒否してエルサレム教団と袂を分かてば、パウロが設立した教団はイエスの直弟子たちが伝えたイエス伝承と福音伝承から切り離されて、新しい別のヘレニズム的救済宗教に陥る危険を背負います。
 おそらく熱烈なユダヤ人としての体質からして、パウロにはイスラエルの宗教的伝統の担い手であるエルサレムから切り離されるということは考えられなかったのでしょう(そのことはパウロの以後の活動にも現れています)。また、イエスをキリストと告白する信仰を宣べ伝える者として、イエスの出来事の原証人であるエルサレムのユダヤ人指導者と分裂することはできなかったのでしょう。それで、もしエルサレム教団が異邦人信徒に割礼を求める決定をしたら、「ユダヤ主義者」はエルサレムの権威を後盾にして活動を強め、異邦人に割礼を強制する傾向は歯止めがきかなくなるでしょう。そうすれば、パウロが現在進めている異邦人伝道は無意味になりますし、これまで苦労してきたことも無駄になります。そこでパウロは、自分が宣べ伝えている「律法とは別の神の義」の福音が人間の思いから出たものでなく、復活されたキリストとの出会いを通して神から直接与えられた啓示であると確信していますので、この福音をエルサレム教団のおもだった人々に直接提示して、この福音に対する彼らの承認を迫ります。ここはどうしても、エルサレム教団の正式の承認を得て、エルサレムの権威を後盾にして異邦人信徒に割礼を要求する「ユダヤ主義者」の活動を封じ、自分の異邦人伝道が無駄にならないようにしなければならないのです。

会議の成果

 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。 (二・三〜四)

 協議の経過と結論については、パウロは何も語っていません。ギリシア人であるテトスが割礼を強制されなかったという事実だけを報告して、エルサレム教団がパウロの立場を承認したことを伝えます。パウロが意図したとおり、目の前にいる異邦人信徒テトスに割礼を施すべきかどうかで激論があったようです。テトスに割礼を要求するエルサレム教団の一部のユダヤ人を、パウロは同じキリストに結ばれている兄弟と呼ぶに値しない者と断定して、「偽兄弟」と呼んでいます。彼らがエルサレム教団の中にいるのは、神によって召されてキリストの民に加えられたのではなく、盗人のようにこっそりと忍びこんできたのだと決めつけます。パウロがこのように激しい言葉で彼らを非難するのは、いまガリラヤの信徒に割礼を要求している「ユダヤ主義者」に対する激しい憤りが、当時のエルサレムの敵対者たちに重ねられているからでしょう。
 彼らが盗もうとして狙っていたものは、「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」だとパウロは言います。キリストに結ばれている者は、もはやユダヤ人も異邦人も区別なく、神の子とされているのです。ユダヤ教の規定にはもはや拘束されていないのです。そのような自由の中に生きている異邦人信徒に割礼を強要することは、外にいる自由な彼らを再びユダヤ教の細かい規定に拘束される奴隷として、自分たちの特殊な囲いの中に取り込もうとする行為であり、他人に所属する者を奪う盗人の行為であると、パウロは極言するのです。

 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。(二・五)

 このような「潜り込んで来た偽の兄弟たち」の異邦人信徒に割礼を施せという要求、さしあたってはテトスに割礼を施せという要求に、パウロたちは屈服することなく、また諸般の事情を考慮して、テトスだけならばとかの条件をつけて、ある程度譲歩するということもいっさいしないで、自分たちの主張を貫き、テトスの割礼を拒否しました。もしここでテトスの割礼を認めるならば、異邦人信徒に割礼を施せという彼らの主張を認めることになり、やがてはパウロが設立した諸集会の異邦人信徒にその要求が波及することを防ぐことができなくなります。
 もしそうなれば、パウロが宣べ伝えてきた「福音の真理」、すなわち、ユダヤ人と異邦人の区別なく、信仰によってイエス・キリストに結ばれることによって救われるという、福音のもっとも基本的な原理が崩れることになります。ユダヤ人にならなければ救われないことになるのです。パウロはこの時、福音の全将来がかかっていることを自覚して、「かたときも」譲歩屈服することはしなかったのです。
 パウロが、「福音の真理があなたがたのもとにとどまっているように」と書くとき、それは、この手紙の読者であるガラテヤの信徒だけではなく、将来の異邦人信徒の全体を念頭において書いています(エルサレム会議の時点ではガラテヤの集会はまだ存在していません)。パウロがこのとき断固としてテトスの割礼を拒否してくれたおかげで、わたしたち現在の異邦人信徒は、割礼を受けたり、安息日規定を守ったり、豚肉を食べないなどの食物規定を守ったりしなくても、すなわちユダヤ人にならないで、日本人は日本人のままで、キリストにあって救いに到らせる神の力を受けることができるのです。

 おもだった人たちからも強制されませんでした。―― この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。―― 実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。(二・六)

 この異邦人信徒の割礼の問題、具体的にはテトスの割礼の問題に関して、エルサレム教団の「おもだった人たち」も、テトスに割礼を強制することはなかったし、パウロの異邦人伝道に対していかなる注文をつけることもなかった、とパウロは言明します。そのさい、パウロが主張する「福音の真理」が彼らの了解の上に成立するものではなく、パウロに直接与えられた啓示に基づくものであることを強調する文を挿入します。エルサレム教団の「おもだった人たち」がどのような権威を持つ者であれ、それはパウロに無関係であること、パウロが提示する福音は神から受けたものであり、エルサレム教団の権威に依存するものでないことを、改めて明言します。

異邦人への使徒

 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目(もく)されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(二・七〜九)

 七節から九節までは長い一つの文で、主文は「それどころか、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目(もく)されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」という箇所です。その前に「〜を知って」(七〜八節)と「〜を認めて」という理由を示す副文があり、後に「〜ことになった」という結果を示す副文が続きます。
 「おもだった人たち」は異邦人信徒に割礼を要求するどころか、「反対に」(七節冒頭の語)、異邦人信徒の割礼を拒否するパウロとバルナバの立場を認めて、一致のしるしとして右手を差し出したのです。それは、「おもだった人々との個人的な協議の場において」パウロが行った捨て身の告白によって、彼らが、パウロが与えられた神の恵みによって使徒とされたことを認め、パウロに「無割礼の福音」が任されていることを知ったからです。
 パウロは、「この福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」(一・一二)ものであることを自覚していますし、今の自分の態度に異邦世界における福音の将来がかかっていることを確信していますので、エルサレム教団の「おもだった人々」の前に、恐れることなく、自分の全存在を投げ出して、確信するところを語ります。このパウロの姿は、後にこのパウロの「信仰による義」の福音を携えて、ローマ教会指導者の前で「われここに立つ」と叫んだ改革者ルターの姿を想い起こさせます。
 パウロの場合は、エルサレム教団の指導的な立場にいる人々が、自分たちを導いている同じ御霊がパウロに彼独自の福音を委ねられたことを認めたので、一致の握手をすることができました。彼らは、復活されたイエスがペトロに現れて、福音を宣べ伝え、主の民を養うことを任されたこと、それがエルサレム教団(それは割礼を受けている者たちの教団でした)の土台であることを知っていましたが、そうされた同じ主がパウロに働きかけて、異邦人への使徒とされたことを認めたのです。律法熱心なヤコブを筆頭とするユダヤ人指導者たちが、「無割礼の福音」を宣べ伝えるパウロを認めるということはよくよくのことです。その場に御霊の力強い働きがあったとしか考えられません。
 ここで、彼らはパウロに「無割礼の福音」が委ねられていることを認めたと語られています。この句は、「ペトロには割礼の福音が任されたように」という句と並行していますので、「割礼を受けていない人々に対する福音」と理解してよいでしょう。しかし、この表現は同時に「割礼を伴わない福音」と理解することもできます。事実、パウロは割礼を受けていない異邦人に「割礼を伴わない福音」を宣べ伝え、ここでもそれを主張しているのです。彼らはその「割礼なしの福音」を認めたのです。
 ここで初めて、エルサレム教団で「柱と目(もく)されるおもだった人たち」が「ヤコブとケファとヨハネ」と名前を挙げられています(この三人の名前のリストでヤコブが筆頭にきていることについては先に触れました)。この協議に出席した人たちはこの三人だけではないかもしれませんが、この三人がエルサレム教団を代表して、アンティオキア教団を代表するパウロとバルナバに、一致のしるしとして右手を差し出したのです。ここに性格の異なる二つの代表的な教団は、異邦人信徒の割礼問題で決裂することを回避し、握手することができたのです。
 この合意成立の結果、パウロとバルナバが代表するアンティオキア教団は異邦人への福音宣教を使命として働き、「彼ら」(ここではおもにアラム語系ユダヤ人から成るエルサレム教団を指すと見られます)は割礼を受けている人たち(ユダヤ人)に福音を伝える役割を引き受けることになったのです。

エルサレム教団への献金

 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(二・一〇)

 この合意にさいして、エルサレム教団の「おもだった人たち」はパウロとバルナバに、ひいては異邦人信徒たちに、「どんな義務も負わせませんでした」が、ただ一つ、「貧しい人たちのことを忘れないように」という要望が加えられました。
 「貧しい人たち」というのはエルサレム教団の信徒たちを指します。エルサレム教団は最初から資産を共有する共同体を形成したことが、使徒言行録の初めの五章に示唆されています。信徒たちは資産を持ち寄って使徒たちに委ね、その共有の資産によって、食卓を共にし、教団の運営や活動を進めたようです。詳しいことは分かりませんが、このような共同体の在り方は、エッセネ派の影響があったのではないかと考えられます。先にも触れましたように、当時エルサレム南西地区にはエッセネ派の居住区がありました。そして、最後の晩餐が行われ、イエスの復活後、最初の信徒たちが集まった家を記念する教会も、このエルサレム南西のシオン地区にあります。おそらく、エルサレム教団はこの地区に集会の場所を持ち、最初から自然に、身近にあるエッセネ共同体をモデルにして共同体を形成したのではないかと考えられます。「十二人」の指導体制、「三人」の最高幹部、共同の食卓、資産の共有など、エルサレム原始教団には「死海文書」に見られるエッセネ派クムラン宗団の共同体規定に似たところが多く認められます。
 エッセネ派の人々は自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいました。これは詩編などで、神に敵対する傲慢な人たちに対して、神に縋る敬虔な人たちを指すのに用いられている呼び方を受け継いだものです。イエスの弟子たちも、主がご自分の民を「貧しい人々」と呼ばれたことを知っています。エルサレム教団は自分たちのことを「貧しい者たち」と自称するようになります(後にユダヤ人キリスト教徒の一派は、「貧しい」のヘブライ語である《エビオーン》から「エビオン派」と呼ばれるようになります)。
 初期のエルサレム教団は主イエス・キリストの来臨《パルーシア》を熱烈に待ち望んでいましたので、このような共有資産で運営していくことで十分と考えられました。しかし、十年二十年と時が経ちますと、共有資産だけではやっていけなくなります(このエルサレム会議の時にはエルサレム教団の成立から二十年近く経っていました)。外からの運営資金の供与がどうしても必要となってきます。エルサレム会議の時、「柱と目(もく)されるおもだった人たち」は、パウロとバルナバに「割礼なしの福音」を異邦人に宣べ伝えることを認めて、働きの領域を二つに分けましたが、そのさい、異邦人の諸教団がエルサレム教団の維持のために資金協力はするようにと要望したのです。
 パウロはこの要望に応えて、自分が創設した異邦人の諸教団から献金を集めてエルサレム教団に届ける活動を熱心に進めます。すでにこの「ガラテヤ書」を書いた時点で、パウロは「これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」と言っています。この募金活動は、パウロの伝道生涯に重要な意味を持つようになり、しばしば手紙の中で触れるようになります。それについては、別の機会に詳しく触れることになりますが、ここでは、エルサレム会議でなされた要望の性質について説明するにとどめます。

パウロがガラテヤ書を書いたのは、いわゆる「第三次伝道旅行」の最後にエフェソで活動した時期であると見られます。この「第三次伝道旅行」は「募金旅行」とも言われるように、「第二次伝道旅行」で設立した異邦人諸集会を再訪して、エルサレム教団への献金を集めることが目的の一つでした。それで、エフェソでガラテヤ書を書いた時には、「これこそわたしが心がけてきた点です」と言うことができました。この募金活動がいかに困難な問題を抱えることになったかについては、『パウロによるキリストの福音V』でコリント書Uを扱うときに詳しく触れることになります。