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第二節 アンティオキアでの活動

シリア・キリキアへ

 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。(一・二一〜二四)

 使徒言行録(九・二九〜三〇)によりますと、エルサレムを脱出したパウロはカイサリアに下り、そこから(おそらく船で)故郷のタルソスに向かいました。タルソスでパウロがどのような活動をしたかは、資料がないので確かなことは分かりませんが、やはり活発な伝道活動を続けたものと考えられます。ダマスコ途上の回心以来、パウロはダマスコ、アラビア、エルサレムで、ユダヤ人からの激しい迫害の中にも屈せず活発な伝道活動をしてきました。そのパウロがタルソスに来て、それが自分の生まれ故郷だからという理由で休暇の数年を過ごしたとは考えられません。タルソスは(先に見たように)キリキア地方第一の大都市で、それぞれの地方の主要都市にまず福音を伝えるというパウロの基本的な伝道方針からしても、パウロがタルソスで無為な年月を過ごしたことはありえません。

ルカがタルソスでのパウロの伝道活動について何も伝えていないという事実は、パウロがタルソスで伝道活動をしたことを否定する根拠にはなりません。ルカは伝道活動を当然のこととして、とくにその詳細を伝える必要を感じなかっただけであると考えられます。ルカはすべての出来事を記述しようとはしていません。ペトロやピリポの場合にも記述に長い空白期間があります。タルソスはその後二〇〇年にわたって福音宣教の歴史に名をとどめませんが、二五〇年ころに「タルソスの司教ヘレノス」がアンティオキアにおける司教会議で活躍したことが報告されています(エウセビウス『教会史』六・四六・三)。タルソスには、この時のパウロの宣教以来キリスト者共同体がずっと存在し、キリキア地方で指導的な役割を果たしていたと推定してよいでしょう。

 ところが、当時すでに多くの異邦人を迎え入れて活発に活動していたアンティオキアの教団で、エルサレムから派遣されて指導していたバルナバが、パウロを捜しに来て、タルソスで活動していたパウロを見つけ、アンティオキアに連れて帰ったとされています。その後パウロはバルナバらと共にアンティオキア教団で指導的な立場で活動します(バルナバについては後述)。

パウロがバルナバの要請でタルソスからアンティオキアに移ったのは何年のことかは確定できません。おそらく39年か40年頃ではないかと推定する研究者が多いようです。そうだとすると、パウロのアンティオキア時代はほぼ一〇年に及ぶことになります。

 タルソスでの活動とアンティオキアでの活動は、合わせると十四年以上の期間に及びます(二・一)。とくにアンティオキアで活動した期間は、異邦人教団の指導と異邦人世界への伝道活動を通して、パウロの神学形成にきわめて重要な意義を持っています。しかし、パウロはここで、「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました」と、この期間のことをわずか一行の短い文で触れるにすぎません。ここではあくまで、エルサレムの直接の影響が及ばない地域で過ごした事実に触れることで、自分の使徒としての資格がエルサレム教団とは直接の関係がないことを強調しようとしているからです。

ここで「シリア」というのは、ローマの属州としてのシリア州(それにはパレスチナも含まれます)ではなくて、アンティオキアを中心地とする地域の名として用いられています。「キリキヤ」はタルソスを中心地とする地域です。実際にはキリキアのタルソスで活動したのが先であったにもかかわらず「シリア」を先にあげたのは、当時のローマの合併属州であった「シリア州」はシリア、キリキア、パレスチナなどの諸地方を含む地域ですが、その北方部分を指すのに「シリア・キリキア地方」という呼び方が定型化していたからであると考えられます。

 エルサレムではギリシア語系ユダヤ人の会堂で議論をした他は、ペトロとヤコブに密かに会っただけですので、「ユダヤ」(パレスチナのユダヤ人居住地域の総称)にある、アラム語を話すパレスチナ・ユダヤ人の成立したばかりの若い諸集会には、パウロは顔を知られていませんでした。彼らはただ、ダマスコやアンティオキアでのパウロの活動を伝え聞いて、迫害者を福音の使徒に変えられる神の大いなる恵みの御業を賛美するだけでした。
 ここの「ユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」というパウロの証言は、パウロがエルサレムでイエスの信徒を迫害したこと、さらにエルサレムで律法教育を受けたことを否定する根拠としてよく引用されます。しかし、当時のキリスト教諸集団にもユダヤ人会堂にも、アラム語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人の二つのグループがあって、両グループはかなり別の生活圏を形成していたこと、パウロのエルサレムでの活動はもっぱらギリシア語を話すユダヤ人の間のことであったこと、さらに、「ユダヤ」という用語はエルサレムだけを指すのではなく、広くパレスチナのユダヤ人居住地域を指すものであることを考慮に入れると、この証言はパウロのエルサレムでの教育と迫害活動を否定する根拠にはならないことが理解できます。

アンティオキア教団の成立

 パウロは、最初のエルサレム訪問から再び会議のためにエルサレムに上るまでの十四年間の大半を、アンティオキア教団の指導的な一員として過ごしました。アンティオキア教団は初期の福音の展開の歴史においてきわめて重要な意義をもっていますし、パウロにとってもアンティオキア時代は重要です。パウロは、後で見るような事情から、手紙の中でアンティオキア教団について触れることは避けていますので、他の資料から分かる範囲内で、アンティオキア教団とパウロのアンティオキア時代について、ここで概略のことをまとめておきたいと思います。
 アンティオキア教団の成立と状況については、使徒言行録一一章一九〜三〇節と一三章一節が伝えています。それによりますと、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のためにエルサレムから散らされたギリシア語系ユダヤ人の中のある人々が、アンティオキアまで来て、そこで初めてユダヤ人以外のギリシア語を話す人々に、「主《キュリオス》イエス」の福音を語り伝えたとされています。この宣教活動は成功し、多くの非ユダヤ人(ユダヤ人から見れば「異邦人」)が信仰に入り、アンティオキアにユダヤ人と異邦人の両方を含む集会が成立することになります。

使徒言行録一一章二〇節の《ヘレニースタイ》(ギリシア語を話す人々)は、六章一節や九章二九節の用語と同じです。しかし、状況からして、六章と九章ではユダヤ人の中でギリシア語を話す人々をさしましたが、それと違ってここでは、一九節の「ユダヤ人」と対照されているという文脈から、ユダヤ人以外のギリシア語を話す人々、すなわちギリシア人一般を指すと理解されます。《ヘレネス》(ギリシア人)と読む有力な写本もあります。

 アンティオキアは合併属州であるシリア・キリキア州(パレスチナもこの州に含まれます)の州都であり、当時ローマとアレキサンドリアに次ぐ、ヘレニズム世界第三の大都市でした。この大都会に異邦人を多数含む教団が成立したことは、初期の福音の展開にとってきわめて重大な意義をもつ出来事でした。ガリラヤという田舎で始まった「イエス運動」が、エルサレムで都会的な教団になり、さらに二、三年というごく短時日の間にアンティオキアで大都会的な性格を帯びた教団となったことは、福音の驚くべき活力を示しています。アンティオキアのようなヘレニズム的大都市ではユダヤ人の勢力や影響力も限られており、大都会の自由な雰囲気の中で初めて、異邦人を含む教団が成立し活動することができたと言えます。また、これ以後福音がヘレニズム世界に進展してゆくさいに、(後にパウロの伝道に見られるように)アンティオキアでの大都市的教団がモデルとなり、福音は都会的宗教として、まず大都市に拠点を確立していくことになります。
 それまでにも、あるいは並行して、ペトロやフィリポらも異邦人に福音を伝えています。しかし、異邦人の入信は「神を敬う者」に限られていたり、個々の特別な場合に限られていました。ところがアンティオキアで初めて、異邦人が異邦人として原理的に受け入れられるようになったのです。教団の指導者はバルナバやパウロをはじめユダヤ人が占めていましたが、信徒の数から見れば異邦人がユダヤ人を上回っていた可能性があります。少なくとも外から見た場合、教団はもはやユダヤ人の集団ではありませんでした。それまでは、キリスト信徒の群れはユダヤ教の中の一派としてしか認められていませんでした。しかし、アンティオキアで初めて、信徒の群れはユダヤ人とは別の集団であることが認められるようになり、《ユーダイオイ》(ユダヤ人、ユダヤ教徒)とは別の名称である《クリスティアノイ》(クリスティアン、キリスト教徒)という名で呼ばれるようになったのです(使徒言行録一一・二六)。
 アンティオキアの教団は多数の異邦人を含んでいただけではなく、異邦人への伝道を使命とするようになります。バルナバやパウロをはじめ、この教団の指導的立場のユダヤ人たちは、ユダヤ人に対する伝道よりもユダヤ人以外の諸民族に広く福音を宣べ伝えることを優先課題とします。それまでの散発的な異邦人伝道とは違って、異邦人伝道が原理的に選び取られた使命となるのです。これは福音の進展にとって決定的な段階が踏み出されたことを意味します。後に書かれた書簡で、パウロは異邦人への使徒としての使命感と、異邦人伝道優先の救済史的な根拠づけを語っていますが、このような使命感と神学的洞察はアンティオキア時代に確立されたと見てよいでしょう。

《キュリオス・イエスース》

 アンティオキアでの宣教活動を語るさいに、ルカは「主イエスを福音として告げ知らせた」とか「主に立ち帰った」とか「主に導かれた」と言うように、「主《キュリオス》」という称号を繰り返して用いています。これは偶然ではなく、アンティオキアでの異邦人伝道において初めて、《キュリオス》という称号が重要な意味をもつようになったことと関係しています。
 すでにヘブライ/アラム語を話す教団でも、イエスに対して「主」という称号が用いられていました。たとえば、「マラナ・タ」というアラム語は、「主よ、来たりたまえ」を意味します。しかし、多くの異邦人を擁し、外の異邦人世界に宣教することを使命としたアンティオキア教団において、「主」を意味する《キュリオス》というギリシア語の称号は新しい意味内容を得て、信仰告白の中心的な位置を占めるようになります。
 ギリシア語を用いるヘレニズム世界に福音が宣べ伝えられていった時、「イエスはキリストである」という告白の意味が理解されなくなっていきます。「キリスト」というギリシア語は、本来「神から油を注がれた者」という意味のヘブライ語「メシア」の訳語であり、神から遣わされた救済者を指す称号でした。ところが、ユダヤ人の宗教的伝統(旧約聖書)と無縁なヘレニズム世界の人々は、そのような「キリスト」の意味を理解できないので、「イエス・キリスト」とか「キリスト」を一人の人の名前として扱うようになります。ヘレニズム世界で称号としての「キリスト」が個人の名前になっていく過程は、かなり急速であったようで、アンティオキアですでにその過程が始まっていると見られます。アンティオキアで信徒が《クリスティアノイ》(キリストの人々)と呼ばれたのも、そのような過程の始まりを示すしるしであると見られます。
 そこで、イエスの救済者としての地位を表す称号として、「キリスト」に代わって《キュリオス》が用いられるようになります。七十人訳ギリシア語聖書で神を指す《キュリオス》称号が、復活して高く挙げられたイエスにも適用されることになるのです。そのさい、「主がわたしの主に言われた」という詩編一一〇編一節の表現が重要な役割を果たしたと考えられます。《キュリオス》は、「あらゆる名にまさる名」、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、その前にひざまずく名」であります(フィリピ二・九〜一〇)。これは、《キュリオス》を全宇宙の支配者《コスモクラトール》の称号として用いていたヘレニズム世界の人々には、分かりやすい称号でした。イエスは復活して神の右に上げられ、天上や地下の諸霊、地上のすべての民を支配する地位につかれたのです。このような意味で、「イエスは《キュリオス》である」と言い表すことが、ヘレニズム世界での信仰告白の核心となったのです(コリントT一二・三、フィリピ二・一〇)。「主《キュリオス》イエス・キリスト」という御名に、この信仰が凝縮しているのです。
 復活されたイエスの地位を表す称号が「メシア/キリスト」から《キュリオス》に変わったことは、福音がユダヤ教の枠を超えて広くヘレニズム世界の諸民族に伝えられるようになった事態に対応しています。「メシア」はあくまでユダヤ教の枠の中での救済者でした。それに対して、《キュリオス》はギリシア語圏の人々に直ちに理解されて、ユダヤ人と異邦人の区別なく「すべての者の主」(使徒一〇・三六、ローマ一〇・一二)となることができました。
 パウロはこのアンティオキア教団で確立していた「主イエス・キリスト」の福音を携えて全世界に宣教の働きを進めていくことになります。パウロはこの《キュリオス》としてのイエスの信仰を、アンティオキア教団から「受けた」だけではなく、アンティオキア教団でのパウロの指導的な地位からすると、パウロ自身がこの信仰の形成に積極的に貢献したと考えられます。パウロ書簡に見られる《キュリオス》キリスト、「御子」キリスト、先在・派遣のキリスト、御霊のキリストなどの深遠なキリスト論は、ダマスコでの聖霊体験を土台として、ユダヤ教の伝統、ヘレニズム世界の文化的背景、教団の具体的状況の中で、アンティオキア時代に形成され確立したものと見られます。この意味で、パウロの伝記の中で空白期のようなアンティオキア時代は、きわめて重要な時期であったと言えます。

キプロス・ガラテヤ州南部への伝道旅行

 このアンティオキア時代に、パウロがバルナバと共にキプロスとガラテヤ州南部の諸都市に伝道したことが、使徒言行録一三章と一四章に伝えられています。この伝道活動は、出発の記事(一三・一〜三)と帰着の記事(一四・二六〜二八)からも分かるように、二人はアンティオキア教団から派遣され、その教団の宣教活動の一環として行ったものでした。ここでその詳細に立ち入ることはできませんので、本講解の関連で必要な点について絞って簡単に触れておきます。
 パウロとバルナバは、バルナバの出身地であるキプロスでの活動の後、小アジアに上陸してピシディア地方のアンティオキア、ルカオニア地方のイコニオン、リストラ、デルベの諸都市に伝道します。ここに名をあげた諸都市はみな、ローマの行政区画上は「ガラテヤ州」に属します。当時の「ガラテヤ州」は、北部ではアンキュラ(現在のアンカラ)を中心とするガラテヤ地方、南部ではパンフィリア地方、ピシディア地方、ルカオニア地方(これらの地方を新共同訳が「州」としていることは問題です)を含む、南北に長い州でした。それで、「ガラテヤ書」はこの時にパウロが伝道した「ガラテヤ州」南部の諸都市の諸集会にあてられた手紙であるとの説が出てくるわけです。しかし、そうではなくて「ガラテヤ州」北部の、本来ガラテヤと呼ばれていた地方の集会にあてられたものであることは、後述する「執筆の事情」のところで触れることになります。
 この伝道旅行において、パウロとバルナバはユダヤ人にも異邦人にも福音を告げ知らせています。まずユダヤ人の会堂に入って、イエスが約束されたメシアであることを説きますが、不信のユダヤ人たちに退けられ追い出されます。かえって異邦人たちが多く福音を受け入れ、信仰に入ったことが強調されます。この伝道旅行でもパウロはユダヤ人から石打のリンチを受けていますが(使徒一四・一九)、これはパウロが、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、キリストを信じることによって救われるという福音を宣べ伝えたことで、ユダヤ人の憎しみを買ったことを示しています。アンティオキアに帰ってきて教団で行った報告においても、「神が異邦人に信仰の門を開いてくださった」ことが特に意味のあることとして取り上げられています(一四・二七)。これは、すぐ後にくるエルサレム会議の主題を準備する表現です。ルカはこの伝道活動の記事で、アンティオキア教団の活動によって多くの異邦人が信仰に入ってくるようになった事態を報告しているのです。
 この伝道活動は普通、パウロの「第一次伝道旅行」と呼ばれています。この伝道地域がキリキアにごく近い地方に限られていることが注目されます。それはアンティオキアの教団が、合併属州である「シリア・キリキア州」(その首都がアンティオキア)の範囲を超えて、徐々にその宣教活動を広げていく様子を示しているようです。この伝道旅行はアンティオキア教団の宣教活動の一環としてなされたものですから、パウロが独立で進めた「第二次伝道旅行」と「第三次伝道旅行」とは性格が異なりますので、並べて一連の番号をつけるのは問題ですが、本書では通例に従って、こう呼ぶことにします。また、この伝道旅行をエルサレム会議の後、アンティオキアでのペトロとの衝突事件の前の時期と考える説もありますが(佐竹明『使徒パウロ』も)、その根拠は十分ではないと思われます。

万民の主イエス・キリスト

 このように、ダマスコとアンティオキアを拠点とするパウロの初期の宣教活動を見ていきますと、パウロはごく初期からユダヤ人の激しい敵意に会い、命の危険にさらされていたことが分かります。パウロに対するユダヤ人の敵意は、パウロがステファノに代表されるギリシア語系ユダヤ人キリスト教徒に対して抱いた敵意と同じです。すなわち、イエスをキリストと信じることによって救われるのであって、そのさいユダヤ教律法の順守は必要ではないとする主張に対して、律法に熱心なユダヤ人が抱く敵意です。パウロは律法にきわめて熱心なユダヤ教徒であり、その熱心さのゆえにイエスを信じる者を迫害したのですから、ダマスコ途上で復活の主イエスと出会ったときに、律法順守によって義とされようとする姿勢の倒錯を徹底的に思い知らされたのでした。パウロは、まさに自分が迫害していた信仰に転換したのです。それで、パウロの福音宣教は、回心の直後から「ユダヤ教律法とは無関係の救い」を宣べ伝えるものとなったのです。
 このことは、パウロが最も初期の活動時期においてすでに、ユダヤ教に無関係の異邦人に福音を告げ知らせる立場におり、その使命を自覚していたことを示しています。回心の体験と異邦人伝道の使命感とは、パウロ自身ダマスコ体験を「御子をわたしの内に啓示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」と語ることができるほど、密接に結びついていました。
 パウロにとってイエス・キリストはユダヤ人の救済者メシアであるだけでなく、地上のすべての民の主《キュリオス》であり、救い主《ソーテール》であるのです。キリストはユダヤ人を信仰によって義とし、ユダヤ教の外にいる異邦人を信仰によって救ってくださる方なのです。この福音理解に呼応して、実際の福音宣教の働きにおいても、パウロは他の誰よりも積極的にユダヤ人以外の民族に福音を宣べ伝えていきます。この「万民の主」としてのイエス・キリストの福音は、今回見たように、パウロのアンティオキア時代に確立していたことが分かります。