市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第8講

第二章 ユダヤ教の克服

        ―― ガラテヤ書から(2) ――


        (本章で書名のない引用箇所はすべてガラテヤ書の章節を指しています)

はじめに

 第一章では、ガラテヤ書によってダマスコ体験までのパウロ、すなわち「ユダヤ教にいた時」のパウロとダマスコ途上での回心について述べました。本章ではそれに続いて、ダマスコ体験以後のパウロの活動について、とくにユダヤ教との関わりに注目して見ておきたいと思います。もちろん、ここでパウロは自分の伝記を書いているのではなく、キリストの福音を確立するために、自分がユダヤ教とどのような関わり方をしてきたかを語っているのです。この点については次章以降で詳しく触れることになりますが、本章では前章に続いて、本人が書いた一次資料としてのガラテヤ書に基づいて、パウロの初期の宣教活動を歴史的に見ていくことにします。



第一節 初期の宣教活動

ダマスコでの活動

 「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。
(一・一五〜一七)

 パウロが復活されたイエスに出会った出来事はダマスコを中心とする地域で起こったことは、パウロ自身のここでの証言からも裏付けられます。パウロは回心直後の行動として、「エルサレムには上らず、アラビアに赴き、再びダマスコに戻った」と語っています。この表現は、行動の起点がダマスコであることを示しています。パウロは回心の出来事においても、その後の活動においても、ダマスコの信徒の群れと深いつながりがあったことは、使徒言行録九章(一〜二五節)が伝えていますが、これはパウロ自身の証言(こことコリントU一一・三二〜三三)からも裏付けられています。

ダマスコのキリスト教徒共同体がどのようにしてできたのか、またパウロの回心時にはどの程度の規模で、どのような活動をしていたのかは、資料がないので確実なことは分かりません。「語録資料Q」を生み出した信仰運動は、ギリシア語系ユダヤ人の運動と考えられるので(Qはギリシア語の文書です)、ガラテヤからシリアへと北に向かったこの運動の流れの中で、ダマスコにギリシア語系ユダヤ人信徒の群れが形成された可能性もありますが、確証はありません。パウロの回心と異邦人への使徒としての召命に重要な役割を果たすことになるアナニアは、ギリシア語系ユダヤ人で、おそらくダマスコの共同体を代表する中心的な人物であったと考えられます。

 使徒言行録九章の記事によると、ダマスコ途上で復活者イエスに遭遇したとき、天からの強烈な光に打たれて、パウロは目が見えなくなり、人に手を引かれてダマスコの町に入り、「直線通り」と呼ばれる通りにあるユダの家に連れてこられます。そして、三日間何も食べず飲まずに過ごします。復活者イエスの神的栄光との遭遇体験は、パウロの身体的機能の一部に一時的機能停止をもたらすほど強烈なものであり(突然の強い聖霊体験のさい身体機能に変化を見ることは現代でも体験されています)、パウロはその強烈な体験を反芻しながら、ものが見えない暗闇の中で三日間祈り続けたのでしょう。そして、その祈りの中で、アナニアという人が入って来て、自分の上に手を置き、元通りに目が見えるようにしてくれるという幻を見ます。
 一方、ダマスコ共同体の有力な信徒であるアナニアに、主が幻の中に現れて、「直線通り」のユダの家にいるパウロを訪ねるように語られます。アナニアは、パウロが信徒を迫害する者であり、そのためにダマスコに来ていることを訴えますが、このパウロこそ異邦人にイエスの名を伝えるために主が選ばれた器であることを示されて、主の指示に従います。そして、パウロのところに来て、パウロに按手して、目が元通りに見えるよう、また聖霊に満たされるように祈ります。すると、パウロの「目からうろこのようなものが落ち」、元通りに見えるようになります。そこで立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気を取り戻します。

このアナニアとパウロの物語は、一〇章のコルネリウスとペトロの物語と酷似してます。両方の当事者が同じ時に主から幻を示されて、その幻に導かれて面識のない両者が出会い、そこで福音の展開にとってもっとも重要な意義のある出来事が起こります。二つの記事は、これらの出来事はまさしく神から出ているのだと言おうとしています。ペトロとパウロの描き方に並行関係があることは、見逃すことのできないルカ使徒言行録の特徴ですが、ここにもそれが顕著に出ています。

 パウロがダマスコでバプテスマを受けたことを疑う理由はありません。イエスがその宣教活動においてバプテスマのことを語らず、またバプテスマを授けることもされなかったにもかかわらず、初期のキリスト信徒の共同体が、新しく主イエスへの信仰を告白する者にバプテスマを授けたことは、福音宣教活動に関する最初期の証言であるパウロ書簡自身からも確認できます。パウロ自身もバプテスマを授け(コリントT一・一四)、キリストに属する者はみなバプテスマを受けたことを前提にして語っています(ローマ六・三〜四)。そこの「わたしたち」には当然パウロ自身も含まれます。パウロがダマスコの共同体でバプテスマを受けたとすると、当然ダマスコの共同体が受けているキリスト伝承を教えられ、それを受け入れて共同体に参加したことが推定されます。その際パウロが受けたキリスト伝承がどのような内容のものであったのか確定することはできませんが、後にパウロが「わたし自身も受けたものです」と言って引用しているキリスト伝承(コリントT一五・三〜五)とそのまま同じではないかもしれませんが、ほぼそのような内容のキリスト伝承を受けたと考えられます。
 パウロは回心直後から、ダマスコのユダヤ人会堂で、イエスがメシアであることを論証して、ダマスコのユダヤ人社会に大きな衝撃を与えます(使徒言行録九・二〇〜二二)。ダマスコのユダヤ人会堂は、パウロのエルサレムでの迫害行動も、ダマスコにやってきた目的もよく知っていました。そのパウロがイエスをメシアとして宣べ伝えたのですから、驚くのは当然です。会堂内のイエスを信じるユダヤ人たちは、迫害者として恐れていたパウロが、自分たちの側に立ってイエスを宣べ伝えるようになったのですから、大いに力づけられてますます大胆にイエスを告白したことでしょう。会堂では指導的な地位にあるパウロが逆転したのですから、ユダヤ人会堂は混乱に陥ったと考えられます。
 パウロのダマスコ滞在は短期間でした。「三年後にエルサレムに上った」(一・一八)というときの年数は、ユダヤ人の慣用から足掛け三年という意味と考えられますので、一年余りから三年足らずの期間ということになります。その期間のいつごろかは分かりませんが、パウロはしばらくダマスコから離れてアラビアに赴いています。ここに用いられている動詞は、「(〜から離れて)行く、出て行く」という意味の動詞です。「退いた」という新共同訳は、なにか人里離れた場所に引きこもるという印象を与えますが、これはパウロのアラビア行きを瞑想のためであるとする説からの解釈でしょうか。ここは協会訳のように、「再び戻る」の起点として、単純に「出て行く」の方がよいと考えられます。
 「アラビア」というのは、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの東に隣接する砂漠と山岳の広大な地域です。この地域には、前一世紀から後一世紀にかけて、ペトラ(死海の東側、約一〇〇キロ南)を首都とするナバテア王国が繁栄していました。この王国は新約聖書時代のユダヤ人の歴史と深く関わっています。パウロが滞在した時代のダマスコは、ポンペイウスの征服以来すでにローマ領でしたが、このナバテア王の管理下にあり、アレタ王(四世、在位前九年〜後四〇年)の代官が駐在して統治していました。

ナバテア王国は、アラブ系民族であるナバテア人が建てた王国で、首都ペトラを起点とする東西の隊商路を抑え、交易により大いに栄え、アレタ王(またはアレタス王、四世、在位前九年〜後四〇年)の時代に最盛期を迎えていました。隣接するユダヤ人のハスモン王朝とヘロデ王朝(ヘロデ大王の母はナバテアの出身)と概して良好な関係にありました。ただ、ハスモン家のアレクサンダー・ヤンナエウスが領土拡張政策をとったとき紛争が生じたり、ヘロデ・アンティパスが妻としていたアレタ王の娘と離婚してヘロディアと結婚したこと(洗礼者ヨハネがこれを非難)が遠因となって戦争になるような事件もありました。しかし、両王朝の基本的な友好関係から、ナバテア王国にはユダヤ人が多く住み、ユダヤ教会堂もあって、交流は盛んであったようです。パウロもナバテア王国ではユダヤ教会堂で福音を語ることができたはずです。なお、イエスの誕生にさいして東方から訪れた三人の占星術の学者たちはナバテア王国の首都ペトラから来たという説もあります。

 パウロがダマスコから出て行って「アラビア」に赴いたのは、瞑想のためではなくキリストの福音を宣べ伝えるためであったと見る方が自然です。ダマスコの信徒たちが、自分の所属する王国に宣教活動を広げようとすることは当然で、パウロはその活動の先端を担ったと考えられます。パウロが、ダマスコ周辺の他の地域(地中海沿岸地方とかデカポリス地方など)ではなくアラビアを選んだのは、そこにはまだ主イエスの名が宣べ伝えられていなかったからだとする見方が、アンブロシウス以来あります。パウロが後にローマ書(一五・二〇)で言っているように、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせる」という原則を、この時から実行していたと見られます。パウロがナバテア王国のどの地域で活動したのかは分かりません。首都のペトラまで行ったのかどうか、確認することはできませんが、その地方の主要な大都市で福音を伝えるというパウロの基本的な方針からすると、その可能性は大きいと考えられます。繁栄した大都市ペトラにはユダヤ人の会堂もあり、そこに集まる「神を畏れる」異邦人に福音を語ることが期待できたからです。もしパウロがかなりの期間ペトラなどナバテア王国の都市で宣教活動を続けたとすれば、この時からすでに天幕造りなどの手仕事で独立の活動をしたのではないかと考えられます(アラビアでは天幕造りは貴重な技術でした)。成立したばかりのダマスコの教団はまだ宣教師を「送り出す」ほどの力はなかったことでしょう。ただ、この伝道活動は成果がなかったようで、パウロもルカもこのアラビアでの活動には全然触れていません。パウロのアラビアにおける福音活動は、彼の滞在中に起こったヘロデ・アンティパスとアレタ王四世の間の戦争(34年と36年の間と見られる)によって中断された可能性があります。
 アラビアでのパウロの福音宣教は、ユダヤ人に対するものか、それとも異邦人に向かってなされたのか、資料がないので確かなことは分かりません。パウロ自身の書き方(ガラテヤ一・一六〜一七)は、ダマスコ途上の回心後ただちに異邦人に福音を伝えたという印象を与えますが、ルカはアラビアでの活動は報告せず、ただダマスコのユダヤ人会堂でイエスがメシアであることを論証したと伝えています(使徒九・一九b〜二二)。おそらくパウロ自身は回心当初から異邦人に福音を伝える使命を感じていたのでしょうが、実際に異邦人に福音を語るにはユダヤ教会堂に集まる「神を畏れる」異邦人に語る以外に方法はないのですから、結果としてはルカが伝えるように、ユダヤ教会堂で福音を語ったということになります。それにパウロ自身も「最初にユダヤ人に、それから異邦人にも」と繰り返し言っているように、まずユダヤ教会堂で福音を語ったと考えられますので、パウロのガラテヤ書での証言とルカの記述は矛盾しません。
 パウロが伝道地としてアラビアを選んだのは、ダマスコに近いという理由だけでなく、アラブ系の民族であるナバテア人がもっとも身近な「異邦人」であったという理由も考えられます。同じアブラハムを父とするイシュマエルの子孫であるアラブ諸民族は、イスラエルの民にとってもっとも身近な異邦人の隣人であったのです。異邦人に福音を伝えることを主から与えられた使命と感じているパウロは、まず東のアラブの民に向かったのです。もしパウロのアラビア伝道が中断されず成果を収めていたら、福音は東に向かい、アラブの民がキリストの民となっていたかもしれません。そうすれば、その後の世界の歴史も変わっていたでしょう。しかし実際には、東への門は閉ざされ、パウロは西に向かうことになります。
 瞑想する一人の修行者を権力が弾圧することは考えられませんので、アラビアでの活動を含むパウロのダマスコ時代は、初期の熱心に燃えた活発な宣教活動の時期であったと見られます。その結果、福音に反対するユダヤ人から告訴されたのでしょう、騒乱を引き起こす危険人物と見られて、アレタ王の代官から逮捕されようとします。パウロは信徒の協力で、かろうじてこの危機を逃れ、ダマスコから脱出します。パウロにとって、キリストの使徒として最初に経験した生命を脅かす危険は忘れられないものであったようで、後に書いた手紙の中で使徒としての苦難を列挙したとき、最後にこの体験に触れてこう書いています。

 「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」。
(コリントU一一・三二〜三三)

 パウロに対する脅迫について、ルカはアレタ王の代官によるものであることには触れず、ユダヤ人の陰謀によるものだとしています(使徒言行録九・二三〜二五)。おそらく、イエスを殺そうとしたユダヤ人たちがローマ総督を利用したように、パウロを殺そうとしたユダヤ人たちがアレタ王の代官を動かして、代官の手でパウロを処刑させようとしたのでしょう。なぜユダヤ人がこれほどパウロを憎んだのか、それはダマスコに来るまでのパウロがイエスに従う人々を憎んだのと同じ理由です。すなわち、それまでは律法の神聖を擁護するチャンピオンであったパウロが、ダマスコではイエスをキリストと信じることが救いであって、ユダヤ教律法はもはや救いには無用であると唱えたからです。パウロがダマスコでユダヤ人たちから生命を脅かされたという事実は、パウロが最初から「律法(ユダヤ教)とは別の神の義」を宣べ伝えたことを示しています。さらに、ダマスコ途上での復活者キリストとの遭遇が、パウロの律法(ユダヤ教)観にとっていかに決定的な逆転であったかを示唆しています。

パウロのアラビア伝道については、M.Hengel and A.M.Schwemer, " PAUL Between Damascus and Antioch -- The Unnown Years " Westminster John Knox Press, 1997 の106頁以下が詳しく論じています。ダマスコ途上の回心からアンティオキアに来るまでのパウロの生涯についての本章の論述は、この著作が提供する情報と論証に多くを負っています。この著作は、先に紹介した、ダマスコ途上の回心までのユダヤ教時代のパウロを描いた M.Hengel, The Pre-Christian Paul, SCM Press 1991 の続編として、不明な点が多いこの時期のパウロを理解するための貴重な文献です。

エルサレムでのペトロとの接触

 「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません」。 (一・一八〜二〇)

 パウロはこの手紙では、自分の使徒としての資格が人間的な任命や派遣によるものではないことを強調しています(一・一、一・一一〜一二)。ガラテヤでの批判者たちが、パウロはエルサレム教団の権威の下に立つ者であるのに、エルサレム教団と異なる主張をしているという批判をしたのに対して、パウロは自分がエルサレムとの関わりの中ではじめて使徒となったのではないことを強調しなければならなかったのです。それで、回心直後の行動についても、「エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに赴いた」(一・一七)と語り、それに続いてこの箇所で、批判者たちにも周知の「三年後」のエルサレム訪問について、それがきわめて個人的な性格のものであり、エルサレ使徒団による任命とか派遣というような問題とは無関係であることを、「神の御前で断言します」と誓うのです。
 たしかに、パウロがエルサレムの使徒団から任命されて使徒となったのではないことは事実であったとしても、パウロがエルサレム教団と無関係にキリストの福音を宣べ伝えようとはしなかったことも事実です。まず第一に、パウロがエルサレムに上ったのは、「ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとして」でした。イエスをメシア・キリストとして宣べ伝える以上、イエスについての正確な知識が必要です。イエスの言葉と働き、またその生涯の出来事を直接目撃した証人は、イエスの生前の弟子たちでした。彼らがエルサレム教団の「アラム語系ユダヤ人」(ギリシア語で《ヘブライオイ》と呼ばれている、アラム語を話すおもにパレスチナ生まれのユダヤ人を、本書ではこう呼んでいます)の指導者として、イエスに関する伝承を担っていました。その中で、ペトロが代表的人物として当時すでに教団の内外で認められていたはずです。パウロがこのペトロに会おうとしたのは、ペトロが代表して担っているイエス伝承を知るためであったと考えられます。
 この「三年後」のパウロのエルサレム訪問は、ルカが使徒言行録九章二六〜三〇節で伝えています。それによると、エルサレムの弟子たち(アラム語を語るユダヤ人の信徒たち)はパウロがイエスの弟子になったとは信じることができず、迫害者として恐れたようです。しかし、バルナバの説明と仲介によってパウロを受け入れ、パウロはエルサレムの使徒団と交わりをもち、ギリシア語系のユダヤ人に福音を語ったことになっています。しかし、ガラテヤ書のパウロ自身の証言によると、パウロはケファ以外の「使徒たち」に会うつもりはなかったようで(主の兄弟ヤコブに会ったのは、ケファに会うことに伴った結果のようです)、自分のエルサレム来訪を秘密にしておこうとした気配があります。
 ペトロはこの不意の訪問者、かっての神の教会の迫害者を自分の家に受け入れ、十五日間にわたって語り合います。このとき二人が語り合った内容は、イエス・キリストのことに集中していたはずです。その間にパウロが受けたのは、ペトロが聴いたり目撃した地上のイエスの言葉や出来事(イエス伝承)だけでなく、当時のエルサレム教団が宣べ伝えていた福音の定式もこの時に継承した可能性があります。すなわち、パウロがコリントの信徒にあてた手紙T(一五・三〜五)で、「わたしも受けたものです」として引用している福音の言葉、キリストの出来事を告知するキリスト伝承です(この福音定式をパウロがいつどこで受けたかについては議論がありますが、その言葉遣いはともかく、その基本的内容はすでにこの機会に受けたと推察するのが順当でしょう)。
 しかし、一方的にパウロがペトロからイエス伝承やエルサレム教団のキリスト伝承を受けたということではなかったはずです。パウロもペトロに向かって、ダマスコ途上で復活者キリストと遭遇した体験を中心に、自分の身の上に起こった神の恵みの出来事について詳しく語ったはずです。それだけでなく、この体験によって自分の聖書理解(すなわち律法理解)がどれほど徹底的に変わったかを説明し、自分がすでに宣べ伝えている「律法とは別の神の義」について熱烈に語ったことでしょう。聖書に関してはパウロは専門家であり、ガリラヤの漁師ペトロに、主イエス・キリストを信じる場で「律法と預言者」がどのような意義をもつのかを説明する立場であったと考えられます。何よりも二人ともがすでに聖霊の深い取扱いを体験し、聖霊によって御言葉(福音)を語っている人物ですから、この二人のイエス・キリストをめぐる緊迫した語り合いと祈りの中には、聖霊の親しい導きと啓示があったとしなければなりません。このようにしてペトロの家にこもって二人だけで過ごした十五日は、けっして「短い訪問」ではなく、最初期の福音の展開において最も重要な意義をもつ大きな出来事であったと言わなければなりません。
 このパウロとの出会いは、その後のペトロに重大な影響を与えたと見られます。使徒言行録が伝えるところでは、その後ペトロは異邦人に熱心に福音を伝えています。その代表的事例が使徒言行録一〇章のコルネリウス一族への宣教です。カイサリアで異邦人コルネリオの家に入り、そこで福音を語ってエルサレムに戻ったペトロに対して、エルサレム教団のある者が無割礼の者と食事をして律法を汚したと非難したとき、ペトロは堂々と割礼のない異邦人もそのままで約束の御霊を受けて救われるのであると、パウロのような主張をしています(使徒一一・一〜一八)。ルカはこれをペトロに与えられた幻によるものだとしています。たしかに、律法順守を当然とするエルサレム教団が「律法の外の神の義」という世界に踏み出すためには、このような特別の啓示が必要であったかもしれません。しかし、ペトロにそのような幻を受け入れる素地がなければ、このような幻による啓示も成り立たなかったでしょう。この出来事やその後のペトロの言動は、この時のパウロとの出会いがペトロにとっていかに決定的な影響を与えたかを物語っています。
 その影響は、その時の出会いから「十四年後」に行われたエルサレム会議でのペトロの弁論(使徒一五・七〜一一)にもよく出ています。エルサレムの使徒たちの中でペトロが率先して立ち上がってパウロの立場を擁護したのは、ペトロがこの時にパウロから受けた影響の中にいることをよく示しています。さらに、その後の異邦人との共同の食事をめぐるアンティオキアでの衝突事件では、パウロはペトロの理解と行動の不徹底さを非難することになりますが(ガラテヤ二・一一〜一四)、そこでもペトロがすでに「異邦人のように生活している」ことが前提とされています。たしかに、ペトロは生前のイエスの律法を超えた振舞いと教えに接していたのですが、それだけではここまで律法から自由になって、異邦人のように生活することはできなかったでしょう。そのことは、イエスの直弟子であったエルサレムの使徒たちが律法順守を当然としていた事実からも分かります。パウロと「十五日間」にも及ぶ徹底的な話し合いと祈りの時を持ち、パウロから深い影響を受けたペトロだけが、エルサレムのアラム語系ユダヤ人指導者たちの中で例外的にパウロの主張をよく理解することができたと言えます。
 ところで、パウロがこの時エルサレムに上ったのは、「ケファと知り合いになろうとして」という動機だけでなく、別の動機もあったのではないかと考えられます。それは、熱烈なユダヤ教徒パウロの聖都エルサレム重視の姿勢から推察される動機です。パウロにとって神の御業の中心地はエルサレムの他には考えられませんでした。もし自分が受けたキリストの啓示が神からのものであれば、そのキリストの福音はまずエルサレムにおいて確立されなければなりません。パウロは回心後まず、エルサレムで自分が受けたキリストの福音を宣べ伝えることを願ったことでしょう。しかし、自分がかって所属していたギリシア語系ユダヤ人のシナゴーグ(ギリシア語を話すユダヤ人の会堂)からの激しい迫害を覚悟しなければなりません。彼らから見ればパウロは裏切り者です。パウロはダマスコでの回心後、エルサレムに戻る時期を待っていましたが、ダマスコから追放されるに及んで、エルサレム上京を決行したと見られます。
 パウロはかっての仲間であるエルサレムのギリシア語系ユダヤ人(ギリシア語を話すユダヤ人)に語りかけましたが、パウロが宣べ伝える「律法とは別の神の義」は、彼らの敵意を燃やすだけの結果となり、彼らはパウロを殺そうと企みます。三年前の迫害者パウロは、自分が迫害したのと同じ理由で迫害される者になったのです。パウロはわずか二週間ほどでエルサレムから脱出しなければならなくなります。
 パウロの最初のエルサレムでのユダヤ人伝道は成果を上げることができませんでした。しかし、パウロの気持ちの中では、このエルサレム伝道は全伝道活動の出発点をなしています。パウロがその活動の最後の段階で書いたローマ書(一五・一九)において、「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と言っています。この言葉から、パウロの視野の中では、エルサレムがやはり神の業の出発点として、中心の位置を占めていることがうかがえます。