市川喜一著作集 > 第9巻 パウロによるキリストの福音T > 第6講

第二節 迫害者パウロ

熱心党の時代

 パウロは「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心」であったと言っています。そして、ルカの報告によれば、エルサレムの住民に向かって、「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と語りかけたとされています(使徒言行録二二・三)。このパウロ自身にもエルサレムのユダヤ人についても用いられている「熱心」という語は、この時代のユダヤ教の雰囲気を示すキーワードになっていました。
 先祖からの伝承(律法)を守るのに熱心な「ハシディーム」の流れは、ハスモニア時代とヘロデの時代を通してずっと続いていましたが、紀元後の一世紀に入って新しい様相を見せるようになります。紀元六年にアルケラオスが追放されて、ユダヤはローマ皇帝直属の属州となりました。それにともなって、人口調査(ケンスス)が行われます。この人口調査は当然徴税のための土地調査を含んでいました。この人口調査と土地課税に対して、それに従うことはイスラエルの土地に対するヤハウェの主権を否定することであり、ヤハウェだけを神として拝むことを求める第一戒に違反することだとして、ファリサイ派の中の過激な人たちがローマに対する抵抗運動に立ち上がりました。その運動は、短刀(シカリ)での暗殺(それでシカリ派とも呼ばれる)、ゲリラ戦争、暴動など、武力闘争へと進んでいきます。この運動を最初に指導したのがガリラヤのユダと呼ばれる人物です。彼らは《ゼーロータイ》(熱心党)と呼ばれ、ヨセフスによって(サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派と並んで)ユダヤ教の第四党派として数えられるようになります。

ゼーロータイ運動の詳細は、M・ヘンゲル『ゼーロータイ―紀元後一世紀のユダヤ教「熱心党」』(大庭昭博訳 新地書房)を見てください。

 イエスが活動された時代(三〇年前後)には、この「熱心党」はかなりの影響力をもっていたようです。イエスの弟子の中にも「熱心党のシモン」が数えられています(マルコ三・一八)。また、福音書で「強盗」とか「暴徒」と訳されている《レースタイ》という語(バラバや一緒に十字架につけられた二人もこう呼ばれています)は、この熱心党活動家をローマ側から見た呼び方です。結局、イエスもこのような反ローマの革命家として処刑されることになるのです。
 この時代の熱心党運動の特色は、彼らのテロの目標が自分たちの父祖の宗教を汚す異教の支配者に向けられただけでなく、異教徒の支配に妥協して律法を汚す(と彼らが考えた)同胞ユダヤ人に向けられたことです。これには聖書に先例があります。民数記二五章(一〜一八節)に、イスラエルが異教の娘たちのバアル礼拝に加わってヤハウェの怒りを引き起こし、民に災害が臨んだとき、ピネハスが民の目の前でそのような行為をしたイスラエル人を女と一緒に、槍で刺し殺したという物語があります。主はピネハスの行為をよみしてこう言われたと記されています。

 「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情を持ってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである』」。(民数記二五・一〇〜一三)  マカベヤの反乱も同じ「情熱」から始まりました。シリア王の役人が異教の祭壇にいけにえを捧げることを要求したとき、祭司マタティアはこれを断固として拒否しますが、目の前で一人のユダヤ人が王の命令に従っていけにえを捧げようとします。「これを見たマタティアは律法への情熱にかられて立腹し、義憤を覚え、駆け寄りざまその祭壇の前でこの男を切り殺し」、「律法に情熱を燃やす者はわたしに続け」と叫んだのです(マカバイT二・一五〜二八)。これがマカベヤ戦争の発端となります。彼らにとってエリヤも「燃え立つ律法への熱情のゆえに天にまで上げられた」大先輩でした(マカバイT二・五八)。
 ガリラヤのユダから始まる運動は、自分たちこそピネハスやエリヤやマタティアの「熱情」を受け継ぎ、自分の命をかけてもイスラエルから律法を汚す者を取り除き、それによってイスラエルの罪を贖い、神の救いをもたらすのだとしたのです。この「熱情」から彼らは「熱心党」と呼ばれるようになります。このように「熱心党」の運動は、本来イスラエルの中の宗教運動ですから、彼らの敵意の対象はまず第一に、イスラエルの中で律法を汚す者に向かうことになります。それで大祭司さえ彼らのテロの犠牲になります。彼らの運動は徐々にユダヤ人社会に浸透し、ついにローマに対する全面戦争にまでいたります。しかし、その運動の末期には、内部で分裂して対立する党派が、お互いに相手を律法を汚す者として攻撃し、血で血を洗う抗争に陥り、ローマの軍事力に敗北する前に自己崩壊し、七〇年のエルサレム神殿の崩壊を招きます。

ステファノの殉教

 パウロがエルサレムでファリサイ派の学徒として律法の研鑽に励み、さらに教師として律法を教える仕事に携わっていた二十年代と三十年代初頭では、熱心党の活動がどの程度になっていたかは、ヨセフスも沈黙していて確実に知ることはできませんが、福音書の記事などから、その影響はかなり浸透していたと見られます。とくに「ハシディーム」の流れを汲む敬虔なユダヤ人の間では、「律法への熱心」は合い言葉となっていたのでしょう。パウロも父祖の伝承を守ることに徹しようとする自分の姿勢を、繰り返し「熱心」という言葉で表現しています。さらに、パウロは「熱心の点では教会の迫害者」と言っています。律法を汚す者を糾弾することが律法への熱心の証明であると考えるほどに、熱心党の理念に影響されていたと言えます。
 イエスがエルサレムで十字架刑に処せられたとき、パウロはエルサレムにいてその出来事を知っていた、あるいは現場に居合わせていた可能性が十分にあります。ファリサイ派律法学者パウロにとって、「木にかけられた者」とは神に呪われた者であって(申命記二一・二三)、そのような者が神から遣わされたメシアであるなどということは、とうてい受け入れることはできない不条理の極み、「つまづき」そのものです。そのようなことを宣べ伝え、それに従う者たちに対しては、パウロは軽蔑の目で見下し放置していたと思われます。このような宣教に対して、パウロがただちに反応して行動を起こした形跡はありません。むしろ、ファリサイ派指導層はこの新しい信仰運動を放置したと伝えられています(使徒言行録五・三三以下)。
 ところが、イエスに従う者の中の一部のユダヤ人が、イエスを信じることによって、神殿礼拝やモーセ律法の順守はもはや必要ではないのだと主張するに及んで、律法への熱情に燃える正統派のユダヤ人との間に激烈な論争が起こります(使徒言行録六・八〜一五)。ついに激高したユダヤ人が、そのような主張をする者の代表者であるステファノを捕らえてリンチにかけ、石打で殺すという事件が起こります。パウロはステファノを殺す側の一員として、その事件の現場に居合わせます(使徒言行録七・五八)。
 おそらく、このステファノ事件をきっかけとして、パウロはイエスに従う者を迫害する活動を積極的に開始したと考えられます。律法と神殿を汚すようなことを宣べ伝え、敬虔なイスラエルの民を堕落させる者は、厳しく糾弾して処罰し、汚れを取り除かなければなりません。そうしないならば、その汚れに対してイスラエルの上に神の裁きを招くことになります。パウロはシナゴーグの責任を担う一員として、律法への熱情に駆られて、そのような主張をするイエスの信徒たちを厳しく探索し、尋問し、処罰する行動を開始します。
 当時のシナゴーグは異端的な言動をするユダヤ人に刑罰を課す権限をもっていました。その刑罰の中に「四十に一つ足りない鞭」という刑罰があります。パウロが直接鞭を下したのかどうかは分かりませんが、律法に対する熱情が鞭打ちを激しくして、イエスを告白する信徒を死にいたらしめた場合があったかもしれません(後にパウロがこの刑を受ける立場になります)。パウロは「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒言行録二二・四)とまで言っています。

《ヘレニースタイ》の会堂での迫害

 ステファノのリンチ事件をきっかけとして始まった迫害について報告している使徒言行録の記事(八・一〜三)を見ますと、奇妙な事実に気付きます。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とルカは伝えています。ルカが「使徒」というのは、イエスの弟子であったペトロを初めとする十二人で、エルサレム教団の指導者の立場にある人々です。この大迫害で皆散らされていったのに、使徒たちだけは何の関係もないかのようにエルサレムに残ることができたのは、奇妙な事態だと言わなければなりません。事実、使徒言行録はこの大迫害の後もエルサレムには有力な教会が存続して活動したことを報告しています。いったい、この迫害は誰に向けられたものでしょうか。
 事態を理解するための示唆が使徒言行録六章(一〜六節)にあります。そこでは、《ヘレニースタイ》すなわち「ギリシア語を話すユダヤ人」と《ヘブライオイ》すなわち「ヘブライ語(厳密にはアラム語)を話すユダヤ人」との間に対立があったことが示唆されています。新しく選ばれた七人の指導者がみなギリシア名をもつ《ヘレニースタイ》であること、彼らが伝道者としての活動をしていることから見て、教会の一致を強調しようとするルカの記事の背後に、別の二つのグループの存在が透けて見えてきます。すなわち、この「七人」で代表される《ヘレニースタイ》の集団と、「十二人」に代表される《ヘブライオイ》の集団です。
 ここで、当時のエルサレムがバイリンガル(二言語)の国際都市であったことを思い起こしていただきたいのです。先に見ましたように、ユダヤ人のシナゴーグもアラム語を話すユダヤ人の会堂とギリシア語を話すユダヤ人の会堂に分かれていました。使用言語が違うので、会堂での礼拝活動も別にせざるをえないのです。アラム語を話す《ヘブライオイ》の会堂は、おもにパレスチナ生まれのユダヤ人から成り、ギリシア語を話す《ヘレニースタイ》の会堂は、ヘレニズム世界の各地から聖地エルサレムに戻ってきて滞在または生活していたディアスポラ・ユダヤ人の会堂でした。これには出身地別の会堂が多くあったようです。パウロ自身も《ヘレニースタイ》の一人であり、この《ヘレニースタイ》の会堂で律法の教師をしていたのです。
 ペンテコステの日に始まるとされる使徒たちの宣教活動によって、多くのユダヤ人が信仰に入ったのですが、その中にディアスポラのユダヤ人も多くいたことが、使徒言行録二章七〜一一節の記事からうかがえます。イエスを信じた人々は使徒たちの指導の下に集会を形成するのですが、使用言語の違いから《ヘブライオイ》と《ヘレニースタイ》は別の集会を形成せざるをえませんでした。これはユダヤ教の会堂と同じ事情です。最初期のエルサレムの信徒の群れが二つのグループに分かれて集会を形成するようになったのは、おそらく宣教開始後数カ月ぐらいのごく早期のことであったと考えられます。エルサレムにおけるアラム語人口とギリシア語人口の割合から単純に推定しますと、《ヘレニースタイ》の集会は少数派であったと見てよいでしょう。
 「使徒」たちを含め《ヘブライオイ》の集会は、パレスチナ育ちのユダヤ人が多く、先祖からの伝承(律法)に忠実に生きることに何の疑問ももたず、あくまでユダヤ教の枠の中でイエスをメシアと信じる信仰を告白していったのです。それに対して、《ヘレニースタイ》の集会では、先祖からの伝承に対して自由な立場をとる人が多く、イエスの言葉の中に見られる律法を超える思想に共鳴し、その面を強調する傾向が出てきたと考えられます。復活されたイエスに聖霊によって結ばれて救いを受けている以上、神殿の犠牲もモーセ律法もその役割は終わったのだとする彼らの告白は、彼らが所属する《ヘレニースタイ》会堂のユダヤ人を刺激し、激しい論争が起こったのでした。
 このような事情で、ステファノに対するリンチ事件も、それに端を発する迫害も、《ヘレニースタイ》の諸会堂の間での出来事であったと言えます。「使徒」を初めとする律法に忠実な《ヘブライオイ》の信徒たちは、この迫害の嵐の外にいて、エルサレムに残ることができたわけです。(以下、ギリシア語を話すユダヤ人を「ギリシア語系ユダヤ人」と呼びます。)
 ステファノ事件以後、パウロは事態の重大さを感じ、シナゴーグの信仰を担う教師としての責任感と律法への熱心に駆られて、主導的に迫害を開始します。会堂の中のイエスの信徒たちを探索し、捕らえ、尋問し、律法に反する言動をする者に刑罰を課していきます。もちろん、パウロ自身はそうすることが神に仕える道だと確信しているわけです。
 迫害でエルサレムから散らされたギリシア語系ユダヤ人信徒たちは、地中海沿岸地域の諸都市やキプロス、アンティオキアまで行って、同胞ユダヤ人にイエスの福音を宣べ伝えました(使徒言行録一一・一九)。その中の一部の者たちはダマスコに逃れました。ダマスコは多くのユダヤ人が住むエルサレムと関わりの深い都市でした。ダマスコには(確証はありませんが)すでにガリラヤなどから伝えられた福音によって、イエスを信じるユダヤ人の集会が成立していたようです。しかし、エルサレムから逃れて行ったギリシア語系ユダヤ人信徒によって、ダマスコのユダヤ人諸会堂が深刻な影響を受けることを恐れて、エルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂は、すでに信徒の探索に指導的な働きをしていたパウロを、その目的のためにダマスコに派遣します。

パウロがエルサレムで信徒の迫害をしたという使徒言行録の記述に対して、ガラテヤ書一章二二〜二四節の、「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。……」というパウロ自身の証言に基づく重大な反論があります。また、パウロがエルサレムで律法の研鑽をしたこと自体も疑問視されています(序章で紹介した佐竹明『使徒パウロ』も)。しかし、当時のキリスト教諸集団にもユダヤ人会堂にも、アラム語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人の二つのグループがあって、両グループはかなり別の生活圏を形成していたこと、パウロのエルサレムでの活動はもっぱらギリシア語を話すユダヤ人の間のことであったこと、さらに、「ユダヤ」という用語はエルサレムだけを指すのではなく、広くパレスチナのユダヤ人居住地域を指すものであることを考慮に入れなければなりません。パウロはエルサレムではギリシア語系ユダヤ人の会堂で議論をした他は、ペトロとヤコブに密かに会っただけですので、「ユダヤ」(パレスチナのユダヤ人居住地域の総称)にある、アラム語を話すパレスチナ・ユダヤ人の成立したばかりの若い諸教会には、顔を知られていませんでした。彼らはただ、ダマスコやアンティオキアでのパウロの活動を伝え聞いて、迫害者を福音の使徒に変えられた神の大いなる恵みの御業を賛美するだけでした。このような状況を考慮に入れますと、この証言はパウロのエルサレムでの教育と迫害活動を否定する根拠にはならないことが理解できます。