市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第29講

補  遺

補 説 1

            世に勝つ信仰  ― 歴史の中のキリストの民

はじめに ― 主 題

 「そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です。あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし、何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。

(ローマ一二章一〜二節 私訳)


 使徒パウロが世界に告知した「キリストの福音」は、使徒の最後の書簡であるローマ書にもっとも体系的に提示されています。その書の前半(一〜八章)は、キリストにおいて成し遂げられた神の救いの働きを告げています。そのキリストにあって成し遂げられた神の働きによって、キリストに属する者が「新しい人間」として生きるようになる消息は、以前(一九八七年)夏期特別集会で「ローマ書による『新しい人間』」と題して語りました。その内容は拙著『教会の外のキリスト』(本書)の第W部「ローマ書による『新しい人間』」にまとめておきました。今回はその後を受けて、キリストにあって「新しい人間」とされた者が実際にこの世で生きるときの歩み方について、使徒パウロが勧告しているところを聴こうと願います。
 その勧告はローマ書一二章以下にまとめられていますが、その要約的な前置きが一二章一〜二節にあります。今回はそれを主題聖句として、この世におけるキリスト者としての歩みについて、使徒の勧告を聴くことにします。その中でも、「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし」という勧告にある「この世と同じかたちになる」ことと、「かたちを変えられる」こと、この二つがキーワードとなります。


序 「世」とは何か

 わたしたちは「この世」の中に生きています。しかし、キリストにあって生きる者、「新しい人間」は「この世と同じかたちになることなく」生きることが求められます。では「この世」とは何か、まずそれを明らかにしておく必要があります。
 「世」と訳されるギリシア語原語は二つあります。《コスモス》と《アイオーン》です。この二つの用語は、その起源も意味内容も違いますので、それぞれが用いられている場所で、その意味を確認し、それを用いている文の文意を理解しなければなりません。はじめに、パウロ七書簡における用例によってその意味内容を整理しておきます。

《コスモス》

 《コスモス》というギリシア語は、本来「秩序、整然としていること」を意味する語であり、そこから「飾り、装飾」という意味にも使われるようになります。化粧品を意味する「コスメティック」という現在の英語も、ここから来た語です。
 ギリシア人はこの《コスモス》という語を宇宙とか存在界全体を指すのに用いました。ギリシア人は存在界全体を秩序ある美しい統一体と見て、それを《コスモス》と呼びました。また、地上の人間世界も《コスモス》と呼ばれています。もともとギリシア思想においては、この秩序ある存在界全体は、それに合致して生きることが善であるとして、価値の源泉、神的存在と見なされていました。
 パウロ書簡においても、《コスモス》という用語は、宇宙とか被造物の総体、世界とか人の住む世界全体、または世間とか人間界という意味で用いられています。

 参考にパウロ七書簡における 《コスモス》の用例 を上げると、 
「宇宙・被造物の総体」という意味では、ローマ一・二〇、コリントT四・九、八・四、ガラテヤ四・三 など。
「世界・人の住む世界全体」という意味では、ローマ三・六、三・一九、一一・一二、一一・一五、コリントT三・二二、
 一四・一〇、など。
「世間・人間界」という意味では、ローマ五・一二〜一三、コリントT一・二〇〜二一、一・二七〜二八、三・一九、五・一〇、 六・二、七・三一〜三四、一一・三二、コリントU一・一二、五・一九、七・一〇、ガラテヤ六・一四、フィリピ二・一五など。

《アイオーン》

 それに対して《アイオーン》というギリシア語は、本来限りなく長い時すなわち永遠を意味する語ですが、比較的長い時間的スペースを指す語として、「世代、時代、時期」という意味でも用いられます。聖書では、この語はおもにヘブライ語の《オーラーム》(過去または未来の遠い時、永遠を指す語)の訳語として七十人訳ギリシア語聖書で用いられています。この語はヘブライ的終末論の時代区分として、とくに黙示思想においてよく用いられ、「神は二つのアイオーンを造られた」などと、神が特定の仕方で民を扱われる時代区分を指すのに用いられています。パウロ書簡においても、「今のこの時代(世、代)」とか「諸々の時代」、「永遠」(複数形で「代々に」の意)などと用いられています。

 パウロ七書簡における 《アイオーン》の用例 をあげると、
「今のこの時代(世、代)」という意味では、ローマ一二・二、コリントT一・二〇、二・六、二・八、三・一八、コリントU四・四、  ガラテヤ一・四など。
「次に来る時代(世、代)」という意味の用例はパウロにはありませんが、マルコ一〇・三〇などに出てきます。
「諸々の時代」という意味では、コリントT一〇・一一。
「永遠」「代々に」(複数形で、頌栄文に多い )という形は、ローマ一・二五、九・五、一一・三六、一六・二七、コリントT二・七、八・一三、コリントU九・九、一一・三一、ガラテヤ一・五、フィリピ四・二〇など。

「歴史」

 このように《コスモス》は空間的に見られた世界で、ギリシア的思考の用語ですが、《アイオーン》は時間の面から見た世界で、もともとヘブライ的思考の用語です。新約聖書においては、この二つの用語はまだ別々の意義を担って用いられていますが、その二つが共に、キリストにある者の在り方とか生き方に対立するものとして意識されることによって、その両者を統合する思想に向かう出発点となったのではないかと考えられます。すなわち、ギリシアの空間的宇宙論にヘブライ的時間軸が加わったことで、時間の中で目標(終末)に向かって変化するシステム世界の物語としての「歴史」という現代的な歴史概念を生み出すきっかけになっていると見ることができます。
 きわめて大雑把に言うと、イスラエル預言者は約束と成就という神の働きを、イスラエル民族の歴史という比較的狭い空間と時間スパンで見ていましたが、捕囚後にギリシア思想と接触するに至って、イスラエル預言者たちのエスカトロジー(終末論)はコスモロジカル(宇宙論的)になり、ヘレニズム期に形成されたユダヤ教黙示思想において、歴史を世界の創造と世界の終わりの間の世界経過の全体、宇宙存在の全体にまで拡大しました。逆にギリシアの《コスモス》(ある原理で統合されている存在界全体、システム世界)は、もともと時間軸はなく、静止した不動のシステムと考えられていましたが、その中にイスラエルの預言者的精神が取り入れられて、時間の中で変化する、初めと終わりのある時間軸をもつようになり、現代のわたしたちがもっている「歴史」という概念を生み出すことになったのではないかと考えます。

T 世からの救出

悪の世

 「キリストは、この悪の世《アイオーン》からわたしたちを救い出すために、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」(ガラテヤ一・四)

 歴史は悲惨です。世界の歴史の悲惨な現実を見ますと、心が押しつぶされる思いがします。「誰が歴史の悲惨に耐えることができようか」と叫びたくなります。なぜ歴史はかくも悲惨なのでしょうか。
 それは、この世界の歴史を形成する原理が自己の支配拡大への欲求であるからだと思います。イエスも言われました、「異邦人の間では(この世界では)、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(マルコ一〇・四二)。この世界の歴史を形成する原理は力の支配です。力ある者が支配するという原理です。
 人間の支配欲には限りがありません。人間は富を増し加えるために自然界を支配しようとします。しかし、無制限な利己的自然支配は環境破壊を招き、生存の基盤そのものを破壊します。また、人間は他人を支配する権力を持ちたがります。しかし、無制約な権力は社会の混乱・無秩序を招きます。それを抑止して秩序を維持するために公の権力による統制が必要です。しかし権力は自己を絶対化する傾向があり、自己を絶対化した独裁権力がいかに悲惨な結果を生むかは、歴史が数多くの実例を示しています。
 このように、人間の本性は支配欲です。物に対する支配欲が所有欲であり、人に対する支配欲が権力欲です。この本性的支配欲がむき出しになって形成する歴史は悲惨です。その悲惨を防ぐには、無制限の支配欲を抑制するための工夫と努力が必要です。歴史は支配欲とその抑止力の相克であると言えます。
 ところで、パウロはこの人間本性を「肉」と呼んでいます。肉の働きが世を形成するのですから、パウロ書簡で肉に関する叙述と世に関する叙述は並行しています。もしわたしたちが肉に従って歩むならば、わたしたちは世に埋没し、押し流され、世と共に滅びることになります。これが「世に負ける」ことです。
 パウロはこう言っています。「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」(コリントU一〇・三)。これは、こう言い換えることができるでしょう。「わたしたちは歴史の中に歩んでいますが、歴史の原理に従って戦うのではありません」。もしわたしたちが歴史の原理に従って歩むならば、わたしたちは歴史に埋没し、押し流され、歴史と共に滅びることになります。これは「歴史に負ける」ことです。では、歴史に打ち勝つためにはどうすればよいのでしょうか。「歴史の原理に従って戦うのではない」とはどういうことでしょうか。今回はこのことについて考えてみたいと思います。

歴史の悪に対抗する思想

 このような歴史の悲惨と重圧の下に苦しむ者たちの呻きの中から、新約聖書成立の前後の時期に二つの特色ある思想が生まれました。ユダヤ教黙示思想とグノーシス主義です。
 弱小民族であるイスラエルの民は、周囲の強大な帝国によって入れ替わり立ち替わり支配され、苦難の歴史を歩んできました。その苦難の中で、預言者たちの救済の預言はヘレニズム期に黙示思想という形を取ることになります。黙示思想とは、現在の歴史を悪が支配する時代と見て、この悪の時代の後に神ご自身が直接支配される栄光の時代が到来することを待望する思想です。このそれぞれの「時代」を《アイオーン》と呼び、「神は二つの《アイオーン》を創造された。現在のこの《アイオーン》と来るべき《アイオーン》である」とします。しかも、この神の計画は隠されていて、選ばれた特別の人物に「黙示」によって啓示されるとしました。
 ヘレニズム世界でも、周辺の抑圧された階層の人たちの中から、ギリシア思想が価値の源泉として神格化している《コスモス》を悪と見て、その《コスモス》から解放されることを救済と見る宗教思想が生まれてきます。それがグノーシス主義です。この《コスモス》を「宇宙」と訳すことから、グノーシス主義は「反宇宙論的二元論」の思想だと言われます。これは、現実の世界《コスモス》を悪と見て、この《コスモス》とは別の(上にある)次元に善なる至高神がいますとし(二元論)、自分の本来の光に目覚めた魂がその《グノーシス》(知識、霊知、悟り)によって、その故郷である至高神に帰還することが救済であるとする宗教思想です。
 黙示思想とグノーシス主義は、その思想の枠組みや語り方は違いますが、現在の世界や歴史を悪と見て、それからの救済を志向する抑圧された階層の思想であるという点で共通しています。グノーシス主義は(抑圧された)ユダヤ教の周辺で生まれたと見られています。今回は黙示思想やグノーシス主義を紹介することが目的ではありませんので簡単にしておきますが、この二つを取り上げたのは、この世界や歴史を悪と見て、その悪に対抗することを説くという点ではキリストの福音も共通している面がありますので、福音がその二つの宗教思想と異なる点を明らかにして、キリストの福音が与える救済の質を確認したいからです。

歴史からの解放

 福音もこの悪が支配する世から救われよと呼びかけます。ペトロはペンテコステの日の最初の福音告知を、「邪悪なこの時代から救われなさい」という言葉で結んでいます(使徒二・四〇)。パウロも、ガラテヤ書の前置きの部分で、キリストの救いの働きを要約してこう言っています。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラテヤ一・四)。先に見たように、「世」を歴史と理解するならば、キリストは悪が支配する歴史からわたしたちを解放するために十字架の上に死なれたということになります。
 ただし、福音が信じる者を歴史から解放するのは、歴史から孤立した隠者の生活に導くためではなく、歴史の中へと解放するのです。往相は還相と一つです。歴史の原理の支配から解放して、別の原理に生きる民として歴史の中に送り返すのです。歴史から解放されず、歴史の中に埋め込まれたままでは、すなわち「この世と同じかたち」のままでは、どうして歴史に打ち勝つことができるでしょうか。福音はまずわたしたちを歴史から解放して、この悪の歴史とは別の原理に生きることができるようにするのです。
 イエスは、「異邦人の間では(この世界では)、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」と言って、歴史が力の支配であることを描いた後、それと対比して弟子たちの歩み方についてこう言われました。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ一〇・四三〜四四)。
 キリストの民は、強い者が弱い者に仕えるという原理で生きます。これは、強い者が力によって支配するという歴史の原理とは逆の原理です。キリストは、歴史から解放された民が、このようなまったく別の原理で生きることができるようになるために、この歴史のただ中に来られたのです。そのことを、イエスは続いてこう言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ一〇・四五)。
 人の子としてのイエスご自身がこのような別の原理で生きて模範となられただけでなく、イエスを信じる民が同じように生きることができるようになるために、十字架の上に御自分の命を献げられたというのです。どうしてイエスの十字架の死が、わたしたちを歴史から解放して、歴史とは別の原理で生き、歴史に打ち勝つ力になるのか、この間の消息をもう少し詳しく見ることにしましょう。

U 世との戦い

歴史の中の旅人

 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ三・二〇)。

 わたしたちキリストの民の本国は天にあります。ここでいう天とは、空の上にある場所というような空間的概念ではなく、時間的概念であり、「終末」を意味します。キリストの民は終末に属する民です。地上では旅人です。時間の中、歴史の中では旅人です。キリストの民は終末から歴史の中へ送り込まれた民です。地上(歴史の中)に歩むキリストの民は、キリストが天(終末)から来られて、終末が成就するのを待望しないではおれません。
 キリストの民は地上で、父の御旨が「天におけるごとく地にも」成ることを祈り求めて歩みます。すなわち、終末に成就することが歴史の中にも実現することを生涯を貫く目標として生きないではおれません。「主の祈り」こそ、キリストの民のいのちの質を表現する祈りです。
 このようにキリストの民が終末を内に宿すのは、キリストにあって神の御霊が到来しているからです。キリストの民は御霊により終末の現実を身に宿して生きているのです。キリストが十字架の上に死なれたのは、このキリストの贖いの死によってキリストに属する者が約束の御霊を受けることができるようになるためでした(ガラテヤ三・一〜一四)。
 そもそもイエスの「神の国」とか「神の支配」というのは、御霊による終末の現臨の事態でした。終わりの日に到来すると約束されていた神の御霊がイエスに宿り、あのような働きと宣教をさせたのでした。今、わたしたちはキリストにあって同じ御霊を受け、イエスと同じように終末を内に宿して生きるようになり、終末に属する民となったのです。

終末と世との対立

 キリストの民はこの御霊によって、歴史の姿が自分の内に来ている終末の事態と違うことを認識します。旅人は本国と旅先の違いをいつも自覚し、旅の苦労の中で故郷の麗しさに憧れています。
 イエスの場合、本国の麗しさは父の恩恵の告知として語られました。イエスは「貧しい人々」に人間の側の資格を条件にしないで注がれる父の慈愛を告げ知らされました。それは終末時に御霊によって成就すると約束されていた救いの事態の到来でした(ルカ四・一六〜二一)。それに対して「世」は律法主義のユダヤ教という姿で対抗し、ついにイエスを死に追いやりました。
 パウロの場合は、終末と世の対立は人間における御霊と肉の対立として内面化されています。キリストにあって賜っている御霊は、わたしたちの内に新しい質の命となって生き始めています。その命の質は、わたしたちの生まれながらの命の質とは違い、むしろ逆方向に向かう質のものです。パウロは、この生まれながらの命の質を「肉」と呼んで、キリストにある者は御霊に従って生きることによって肉の働きを克服することを求めています(ガラテヤ五・一六〜一七、ローマ八・一二〜一三)。
 ヨハネの場合は、終末は復活者イエスにおいてすでに到来していることが強調され、それは光と命の領域として描かれます。そして、イエスに対抗する「ユダヤ人」に代表される世は闇と死の領域とされ、イエスを信じることによって死から命に移ることが告知されます。
 ヨハネの場合は別の機会に譲り、今回は使徒パウロが、このような対立・相克の中にいるわたしたちにしている勧告の言葉に耳を傾けましょう。

世と同じかたちにならないで

 パウロはわたしたちに、「この世《アイオーン》と同じかたちになる」ことがないように求めています。「この世」は、先に見たように、支配欲を原理とし、力による支配の構造をもつ世界です。それがこの世の形、すなわちこの世の原理、構造、姿です。その原理と構造に埋没しないように警告されています。もしわたしたちがこの世のかたちに同化して、この世に埋没するならば、この世と共に滅びるだけです。この《アイオーン》は滅びに定められているからです。
 わたしたちに求められているのは「かたちを変えられる」ことです。ここに用いられている動詞の命令法は受動態の現在形で、「かたちを変えられ続けよ」という意味合いを含んでいます。この「かたちを変える」《メタモルフォー》という動詞は、パウロ書簡ではこことコリントU三・一八の二箇所だけに出てくる動詞ですが、パウロの福音理解を示す重要な語です。キリストに属する者は、(黙示思想のように)ただ未来の救済を待ち望むのではなく、現在すでに聖霊によって、キリストの栄光に向かってかたちを造り変えられつつあるのです(コリントU三・一八)。それは現在の事実です。パウロはここで、その事実に身を委ね続けよと勧告します。この命令法の内容を敷衍すると、「あなたがたのかたちを変える聖霊の働きに身を委ね続けよ」となります。「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられよ」という勧告は、「肉に従うのではなく、御霊に従って歩みなさい」(ガラテヤ五・一六)と内容は同じことを言っています。

聖霊による変容

 この「かたちを変えられること」、変容《メタモルフォーシス》については、昨年(二〇〇三年)の誌友会で主題として取り上げ、「栄光への変容」と題して語りました。その内容は今回の主題と深く関わっていますので、その要点をここで見ておきます。
 パウロは、「わたしたち(キリストにある者)は皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の御霊の働きによることです」と言っています(コリントU三・一八)。この「御霊の働きによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく」ことが救いの中身です。
 信仰による義がパウロの救済論のすべてのように言われることがありますが、信仰による義は、御霊が働く場に入っていくための入口です。救いの中身、実体は、御霊による栄光への変容です。現実に御霊の働きによる「栄光から栄光へ」の変容があるので、その変容が将来完全な栄光の姿で現れることを待ち望む希望に生きることができるのです(ローマ八・一八〜二一)。将来の救済と栄光の希望は、現在の御霊による栄光への変容の現実が終末というスクリーンに投影されたものです。わたしは最近、パウロの救済論の実質はこの「御霊による変容」にあると痛感しています。

新しい意識をもって

 ところで、この「かたちを変えられよ」という命令法の動詞の直後に、「意識の新しさに」という与格(三格)の名詞が続いています。大多数の現代語訳は、この与格を手段の与格と理解して、「意識を新しくすることによって」と訳しています。しかし、パウロの福音理解においては、「かたちを変えられる」のは意識を新しくするというような人間の側の改革によるのではなく、聖霊の働きによるのですから、この与格を手段の与格と理解することはできません。ここは「意識の新しさへと」と理解し(様態を示す三格)、「かたちを変えられた」ことの結果として生じた事態とすべきです。そうするとこの勧告は、「かたちを変えられ、(その結果)意識を新たにされて、・・・・をわきまえるようになりなさい」と続きます。
 聖霊によって「かたちを変えられて」、その結果新しくされた意識とか理解力(原語では《ヌース》)をもって、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるように」なることが求められます。この勧告は、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるか」は、律法のような基準があって、一律に外から教えられるものではなく、各自が御霊に導かれる実際の歩みの中で判断する感覚を訓練されなければならないことを教えています。
 人生と歴史の現実は複雑です。その中で、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」ことは、しばしば大変むつかしい問題です。そこには知恵が求められます。人生体験の豊かさからくる知恵も有益ですが、何よりも御霊による知恵が必要です。「御霊は一切のことを、神の深みさえも究める」方だからです(コリントT二・一〇)。今までの古い常識的な意識、ただこの世の人生体験から出る理解力だけでは、神の御心を悟る知恵は生まれてきません。聖霊によって新たに造り変えられた意識や理解力をもって、人生に対処していく中で鍛えられる知恵だけが、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」に至ることができます。これは困難な課題ですが、キリストにあって神の御霊の救いにあずかっている者の生涯に課せられた重い課題です。

V 世に対する信仰の勝利

善をもって悪に打ち勝て

 ローマ書では、このような総論(一二・一〜二)を掲げた後、パウロは一二章から一三章で具体的にキリストにある者の歩みを勧告します。その中でやはり愛についての教え(一二・九〜二一)が印象的です。そこで使徒は、キリストの愛に生きる者は「悪を憎み、善に固着し」(九節)、「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するように」求め(一七節)、「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」(二一節)と励ましています。
 このように善と悪という概念を用いて愛を語るさい、パウロは善とは何か、悪とは何かを定義したり説明しないで、読者は当然分かっているものとして語っています。哲学的な分析や定義はさておき、わたしたちが日常生活の中で善としているもの、悪としているものは、さしあたり「人が人としての尊厳をもって生きることを助ける行為が善であり、それを妨げる行為が悪である」と見ると、ここでパウロが言っていることが具体的になり、分かりやすくなるのではないかと思います。
 人が生きるのに必要とする資財を盗み、騙したり脅したりして奪うのは悪ですし、身体を傷つけたり健康を脅かすのは悪です。中傷して名誉を傷つけたり、呪ったりする言葉の悪もあります。最大の悪は人を殺すことでしょう。自分の主義主張のために、無関係の人を無差別に殺すのは悪魔の所業です。
 それに対して、生きるのに必要な資財を生産し、公平に分配し、病を癒し、健康を維持増進し、精神的にも豊かに生きることができるように文化の質を高めることなどは善です。人としての尊厳をもっていきることに困難な状況にある隣人を助けることは善です。隣人がよく生きるために自分を犠牲にすることは最高の善となります。
 キリストに属する者は、善そのものにいます神の子なのですから、「悪を憎み、善に固着し」、いつも「すべての人のために善を配慮する」者とされています。悪が自分に向けられたときでも、その悪に対して悪をもって報復するのではなく、善をもって対処するように求められます。言い換えれば、キリストに属する者はどのような状況においても、どのような相手に対しても、無条件に善だけをなすように求められています。この状況と相手に絶した無条件の善を「絶対善」と呼ぶならば、キリスト者とは絶対善に召された者と言うことができます。
 イエスも父の絶対善を根拠にして、わたしたちに絶対善を求められました(マタイ五・四三〜四八)。パウロにおいても、キリストにある絶対恩恵の場で、一見人間の本性に反するような絶対善が求められています。恩恵として賜る御霊の力だけが、このような絶対善を実現する力です。わたしたちが悪に対して悪をもって報いるならば、悪が勝利し、人間は悪に征服されたことになります。歴史には悪の勝利の凱歌が鳴り響いています。
 世は相対善の世界です。自分に向けられた善に対しては善をもって報いますが、悪に対しては悪をもって報います。それは「肉」の世界です。わたしたちが御霊の愛によって、悪に対して悪を報いるのではなく、善をもって報いるとき、すなわち絶対善に生きるとき、わたしたちは肉を克服して世に打ち勝つのです。そのような信仰こそ「世に勝つ信仰」です。わたしたちキリストに属する者は、絶対善をもって悪に打ち勝ち、歴史の中に善を実現する使命に召されています。

歴史の中のキリストの民

 このように、キリスト者は変容された者として世にあります。キリストに属する民は、変容された民として歴史の中に生きます。そのことによって歴史を内側から変容する「パン種」となります。
 イエスの「からし種」と「パン種」のたとえ(マタイ一二・三一〜三三)は、イエスの弟子すなわちキリストの民が世界を内側から変容する者であることを比喩の形で語っています。それはどんなに小さいものであっても、目に見えないような僅かの勢力であっても、必ず世界を覆う大きな変化をもたらすものであることを語っています。「地の塩」の比喩(マタイ五・一三〜一四)も、腐敗を防ぐという形での歴史に対するキリストの民の変容力を語っていると言えます。神は御自身の民を通して歴史の中に働かれます。

 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。
(フィリピ二・一二〜一三)

 わたしたちの内に行われる「聖霊による変容」という神の働きに従順に従うことが、「自分の救いの達成」であり、それが歴史の中で「パン種」として働き、歴史を救う力となります。
 世界を内側から変容していくという過程には華やかさはありません。目を見張らせるような大事件を起こして変革していくのではありません。表面には見えないようなところでこつこつと善を行い、世の人々にそのような方向の変化を願わせ、機会あるごとに世の仕組みをその方向に変えていく原動力になります。
 状況によっては、その変化はかなり急激な形をとり、革命的な変化となる場合があるかもしれませんが、それは特殊な場合の特殊な結果です。原則は、パン種のように、内側から世の風潮を変えて、社会全体が善に向かうように、すなわちどの人も人としての尊厳をもって生きることができる社会に向かうように願わせる原動力となることです。たとえば、キリスト者が苦しんでいる人たちを献身的に助ける働きを続けるのを見て、やはりお互いに助け合って生きることができる社会が願わしいという風潮が形成され、それが機会を得て制度化されるとき「福祉国家」が生まれます。その時キリストの民は、力ある者が自分の益のために支配するという「この世」の原理に打ち勝ち、世界を変容したのです。
 預言者イザヤは、終末時に「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ一一・六)時代が到来するという幻を見ました。この幻は、力ある者がその力によって弱い者を虐げるのではなく、その力をもって弱い者に仕え、強い者も弱い者も喜びをもって共に生きる時代が到来することを預言しています。この幻は実現しています。終末の時代は到来しています。キリストにあって「聖霊による変容」が起こるとき、人間が神の命の質にあずかり、栄光から栄光へ変えられる過程が始まっています。強い者が力をもって弱い者を支配するのではなく、お互いに仕える(人としての尊厳をもって生きるのを助ける)者となる時代が来ています。
 ただ、わたしたちが地上にある限り、この新しい質の命は生まれながらの古い人間性(肉)の中にあるのですから、それは完成された姿ではなく、戦いの過程の中にあります。わたしたちは「肉に従うのではなく、御霊に従って歩むように」求められます。「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて」歩むように求められます。わたしたちが御霊の命に忠実に生きるならば、この世にありながら世の原理に同化せず、世に打ち勝ちます。歴史の中に歩みながら、歴史の中に埋没せず、歴史を変容していく力となり、歴史に勝利します。
 もしキリストの民が肉に従い、「この世」のかたち(原理)に同化するならば、それは敗北です。キリストの民の歴史には、勝利と敗北が織りなされています。ここでそのすべてを見ることはできませんが、ごく僅かの代表的な事例を見ておきましょう。

歴史におけるキリストの民の勝利と敗北

 福音が初めローマ帝国の領域に伝えられたとき、主イエス・キリストを信じた者たちは、聖霊の力強い働きの中で新しい命に生きる喜びを言い表し、主イエスの御名を大胆に告白しました。ローマ帝国は原則として支配する民族の固有の宗教を尊重しましたが、周囲の民衆はローマの伝統的な神々を崇めないキリスト教徒を白眼視し、圧迫するようになります。ローマ帝国も、締め付けを厳しくして帝国の統合を図ろうとする時期、とくにそれを皇帝礼拝という形で強行しようとした時期には、皇帝とは別に主キリストを告白するキリスト教徒を弾圧し、抹殺しようとします。
 その弾圧迫害に対抗して、キリスト教徒はこの世の原理、すなわち力をもって対抗するのではなく、ひたすら御霊による喜びと希望をもって主を告白し、この世に属するものはすべて、自分の命をも含めて、権力の支配に委ね、殉教の道を選びます。いかなる力も信仰を抹殺することができないことを知ったローマ帝国は、ついにキリスト教を公認し、かえって帝国の統合の拠り所としてキリスト教を国教とするに至ります。信仰が力の支配に打ち勝ったのです。信仰が世に勝ち、歴史に勝利したのです。これは、世界史における信仰の勝利のもっとも感動的で輝かしい一頁です。
 ところが、キリスト教が国教となり、キリスト教会が皇帝権力と癒着するようになったとき、キリスト教会が権力による統合とか支配というこの世の原理に侵され、信仰を力で強制したり、裁判で反対者を追放したり処刑したりするようになります。このような事態は、皇帝権力と教会が融合した、いわゆる「コンスタンティヌス体制」が典型的に実現した東ローマ帝国のビザンチン教会に見られますが、皇帝権力がなくなった西方でも、ローマカトリック教会はこのような権力による支配の体質を強くしていきます。ローマカトリック教会が支配した中世ヨーロッパでは、教会が民の支配者として権力を振るい(大司教は領主でもありました)、地域の王権と権力を争い、教会に反対する者は宗教裁判で追放し、処刑しました。このように教会が権力による支配に陥ったとき、信仰は世に敗北したのです。キリストの民は歴史の中に埋没したのです。
 このような教会の権力支配の体制を打破したのが宗教改革です。もちろん宗教改革は純粋な福音の回復のための運動として始まったのですが、新しい社会的勢力となって必然的にローマカトリック教会の権力支配と戦い、それを打破する運動となりました。その過程で力と力の抗争となり、悲惨な宗教戦争を引き起こしたりしましたが、その苦しい経験を経て、信仰を国家権力から分離して、政教分離の原則を確立するに至りました。こうして権力に対して個人の信仰の自由が確立され、それが市民的自由の根底として近代社会を成立させることになります。これも信仰が世に打ち勝った成果です。
 教会が社会的勢力となり体制化するときは、力による支配と抗争は避けられない問題でしたが、その中にもキリスト教世界は、聖霊によって浄められ、世の原理をはるかに超えて神の栄光を顕した聖徒を数多く生み出してきました。しかし同時に、たとえばキリストの名をもって称えられる社会が奴隷貿易を行ったというような敗北も多くありました。これは富を追い求める世の原理にキリストの民が敗北したことを意味します。
 現代においても、キリストの民が、たとえキリスト教の理念を実現するという目的のためであれ、それを力(とくに軍事力)の優位を拠り所にして押しつけるならば、それは勝利ではなく敗北です。キリストの民は歴史を内から変容する民ではなくなり、歴史に埋没したのです。

来臨待望との関係

 使徒パウロはわたしたちに、「かたちを変えられて、(その結果)意識を新たにして」生きるように求めています。キリストにあって御霊の働きによってかたちを変えられた結果、わたしたちの内に生じる新しい意識ないし自覚には、主要な特色が二つある、とわたしは思います。
 その一つは恩恵の場にいる自覚です。キリストにあるという場は恩恵が支配する場です。自分が今こうして御霊の働きの中で新しい命に生きることができるのは、自分の資格を問わないで無条件に赦し受け入れてくださっている父の恩恵によるのだという自覚です。その自覚から、無条件に隣人を愛する愛も出て来ます。この恩恵の場の自覚はキリスト者にとってもっとも基本的な自覚ですが、このことについては機会あるごとに繰り返し語ったり書いたりしていますので、ここではこれだけにしておきます。
 もう一つの意識は、終末の場にいるという自覚です。使徒パウロは最後に、終わりの日が近いことを自覚するように促して(ローマ一三・一一〜一四)、実際的な歩みについての勧告を締め括っています。
 「あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです。今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです」(一三・一一)。
 この終わりの日のことは、新約聖書では(パウロ自身を含めて)「来臨」《パルーシア》と呼ばれ、復活者キリストが栄光の中に世界に到来されて救いを完成される日として待ち望まれています。しかし、パウロはそれをキリストの「顕現」《アポカリュプシス》とも呼んでいます(コリントT一・七)。パウロは、今キリストの民の中に隠された形で働いておられる復活者キリストが栄光の中に顕われてくださる時と見ていることを示しています。イエスも繰り返し、「隠されているもので顕れないものはない」と言っておられます。
 ここで見てきたように、救済をすでに始まっている変容の過程と理解するとき、終わりの日の完成は、今は肉(生まれながらの人間本性)の中に隠されている復活の命が顕現する時であり、世(歴史)の中に隠されている神の栄光の支配が顕現する時となります。その待望は、今は全然存在しないものが突如天から到来するという黙示思想的な待望ではなく、現在すでにあるものが対抗する力に勝利して顕現するという希望です。パウロはそのような希望に生きています(ローマ八・一八〜二五)。聖書の来臨待望はこの希望の表現です。パルーシア信仰は、歴史の内に隠されて働く信仰が究極的には勝利するという確信の表明です。

(2004年夏期誌友会 福音講話)