市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第23講

第V部 「死人を生かす神」 

第二講  創造と復活

イスラエルにおける創造信仰の形成

聖書冒頭の言葉

 「初めに神は天と地とを創造された」。(創世記一章一節)

 わたしたちの信じる聖書はこういう言葉で始まっています。わたしも若いときから内村先生の本をよく読んできましたが、その内村先生の本の中にこういう言葉がしばしば出てきます。「何事によらず、書物というものは最初の一言葉が肝心である。その一言葉の中に著者が言おうとする全体が含まれている。これはものを書く者であればよく分かることだ」。聖書は神の書であります。神が人類にお与えになった啓示の書です。勿論実際に書いたのは人間の手ですが、出来あがった聖書全体を見たときに、確かにこれは神が御自分の民に語りかけ、また彼らの筆を通して書き留められた書だということを痛感いたします。その聖書の一番初めの言葉が「初めに神は天と地とを創造された」であります。ここに聖書全体が言おうとしていることがすべて含まれています。
 これが聖書の初めに書いてありますから、わたしたちはややもすると、この聖書を生み出したイスラエル民族は初めからこの信仰をもって出発したと考えがちであります。しかし学問的にイスラエルの歴史や信仰の成り立ちを調べると、決してそうではないことが分ります。この言葉が書かれたのはイスラエルの歴史でもかなり後の時代なのです。イスラエルがバビロンに捕らえられ、その後クロスによって許され再びエルサレムに帰ってきます。その後、モーセによって与えられていた律法をもう一度編集して、改めてそれを受けたのです。それに照らしてみると、今まで自分たちがどれほど神の契約をないがしろにしていたかが分って悔い改め、新しい契約の民としての出発をしたということがエズラ書などに書かれています。そのとき成立したのがモーセ五書と呼ばれているものです、すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記で、イスラエルの民が「律法」と呼んで一番尊んでいる書であります。このとき初めて、この「初めに神は天と地とを創造された」という言葉がこの律法の冒頭に置かれたのです。

救済史の「初めに」

 こう言いましても、決してイスラエルの民に天地創造の信仰が無かったのではありません。昔からありました。もっと素朴な形でありました。どの民族にも神話という形で、神が天と地を造ったという話はいくらもあります。イスラエルの民にもその形跡があります。イスラエルの民は、バビロンに捕らえられているときに、壮大なバビロンの天地創造の神話に触れて影響を受けました。創世記の記事の中にもバビロン神話の影響が認められます。しかし大切なことはその天地創造の神話を、自分たちの信仰の枠の中に見事に取り入れたことです。どういうことかと言いますと、彼らの信仰は初めから、歴史の中で自分たちを救う働きをしてくださった神に対する信仰です。エジプトからの救出を感謝する申命記二六章五〜一〇節がイスラエルの信仰告白の原型だと言われています。神はイスラエルの民を救うためにいろいろの業をこの地上でなして来られた。それを物語ることが歴史です。それを神学的に「救済史」というわけです。わたしたちは人間がいろいろと成し遂げ作りあげてきたもの、国や文化や制度などを記録して、それを歴史と呼んでいますが、イスラエルの民にとっては自分たちの神ヤハウェが自分たちの中に成し遂げて下さった救いの働きを物語ることが歴史であったのです。旧約聖書は本質的にそういう書物なのです。そういう救済の歴史の一番最初の神の業として、彼らは神が天と地を造られたことを挙げたのです。
 「初めに神は天と地を造られた」。この「初めに」という言葉はイスラエルの人たちにとっては、神が自分たちを救ってくださるさまざまな働きの歴史の最初という意味なのです。神は天と地を造って、最後に人間をお造りになりました。まさにこの世界は人間の舞台として、あるいは神が人間を完成されるための舞台として造られたのです。このような天地の創造の信仰に至るまでにはじつは長い年月がありました。イスラエルの民は一朝一夕にしてこの信仰に達したわけでは決してありません。この天地万物が見えざる神、人格をもつ方、霊なる神の創造のわざである、そういう神がいましてその方が造られたから天と地が存在するという信仰は、イスラエル民族がわたしたち人類に提供した最も優れた遺産なのです。どの民族も神話はもっていました。しかしそれは非常に部分的な地上のさまざまの現象を説明する物語に過ぎないのです。ところが、この天と地の存在そのものが、意志をもち、語り、わざをするような神の創造であるということを信じえたということは、イスラエル民族の非常に深い霊性が生み出した結果であります。イスラエル信仰の一番素晴らしい成果であると言ってもよいと思います。

預言者における創造信仰と終末希望

バアル宗教に対する預言者の戦い

 聖書の冒頭に「初めに神は天と地をお造りになった」という一句がイスラエルの根本的な信仰として掲げられるようになるまでには、じつに長い戦いがありました。その戦いというのは、救済史の神に対する生産力の神との戦いです。イスラエルは自分たちをエジプトから導き出した契約の神を信じて、カナンの地に入ってそこに定住し、王国を造っていきますが、その新しい土地は農耕民族の社会ですから、周囲の人たちはたいてい土地の生産力を神として拝み、それをバアルの神と呼んでいました。バアルというのは土地の主のようなものです。そのバアルのお陰で土地は麗しい産物を生み出すのだから、バアルこそ神だとして拝んでいたのです。ところがエジプトから救い出されたイスラエルの民は、そうではない、自分たちを救ってくれる神は、地上の生産力とは全く違って、天から約束の言葉を与え、契約を結ぶ神であって、この約束と契約の言葉を信頼してつながっていくことが自分たちの救いであり、この方こそ真の神であると信じたのです。
 ところが現実のイスラエルの民は、やはり自分の現実の生活に必要なものを産み出し、有益なものを与えてくれる神、土地の生産力や経済力などを神として拝んだのです。そういう傾向に対して、イスラエルの中に現れた預言者と呼ばれる人たちは、神の霊によってはっきりと、そうではない、バアルを拝んではいけない、わたしたちは語りかけ、約束を与える契約の神をこそまことの神として拝むべきなのだ、こころを尽くし、力を尽くし、精神を尽くして主ヤハウェを拝すべしと、この信仰を鼓舞したのです。これは預言者たちの血みどろの戦いでした。エリヤは周りを全部バアルの信奉者に囲まれて孤軍奮闘しました。その戦いの中で、あなたがたはこの土地の生産力を神としているけれども、その土地もわたしたちの神ヤハウェがお造りになった、またあなたがたは太陽の光のお陰で地の万物は生えて育ち、わたしたちは幸福になっていると言って太陽を拝んでいるが、その太陽も神ヤハウェがお造りになったのだ、こういう信仰にだんだん深められてきました。
 そのクライマックスを迎えるのが、まさにバビロンに捕らえ移されて悲惨などん底にいた時です。その時、あのイザヤ書四十章以下を書いた「第二イザヤ」と呼ばれる預言者が現れて、壮大な創造信仰を宣べ伝えました。イザヤ書四十章以下を読むと非常に感動します。天地の万物全てはわたしたちの主ヤハウェのお造りになったものだという壮大な創造信仰がそこで歌われています。こういう信仰の後を受けて、モーセ五書をまとめた人たちが、創造の信仰を救済史の最初に置いたのです。

終末的希望への転換

 さて、物事には初めがあれば必ず終わりがあります。初めに神は天と地をお造りになった。では神は終わりにいったい何をなさるのか。この信仰が預言者たちの信仰の中でだんだんと明確にされてまいります。当時のイスラエルの人たちは、アブラハム、イサク、ヤコブら先祖たちに現れた神は、先祖たちに約束されたカナンの地を与えてくださった、わたしたちが今このカナンの地に住んで栄えているのは神の約束が成就した結果であるとして、これが神の終わりのわざのように考えていました。ところが彼らの罪、傲慢のゆえに彼らは裁かれて、国を失いました。そういう悲惨な体験をとおして、立派な王国がカナンの地にできたことが神のわざの終わりではない、もっと素晴らしいわざが神によってなされるのだという希望にまで転換していきます。
 バビロン捕囚がその転機になりました。預言者たちは、初めに天と地をお造りになった神、イスラエルをエジプトから救い出された神が、あの初めのわざよりももっと素晴らしいわざをやがて成し遂げてくださる、と神の終わりのわざをはっきりと予言するようになります。その内容はまだおぼろげでありますが、この今の状態ではなくて、さらにまされるわざが終わりの日になされるということが信じられ、望まれるようになります。これも先に申しました第二イザヤがいちばん徹底した、また壮大な希望を宣べ伝えています。「わたしははじめであり、終わりである」。初めに天地を造り、イスラエルをエジプトから導き出して救われた方、この方は同時に終わりの方として、神の民を完成し、天地を新しく創造する方であります。終りの業は初めの業に対応する「新しい創造」です。
 こういう預言者たちの信仰は、イスラエルの民が外国の力に支配されたり、その歴史が悲惨になればなるほど、終わりの日の神の救いのわざが熱烈に待ち望まれるようになってきて、ダニエル書のような終末的で黙示録的な形になっていきます。すなわち今の世界はサタンが支配する悪しき世であって、神に敵対する強大な帝国が神の民を抑圧し虐げる悪しき時代である。しかしイスラエルの神ヤハウェは、やがて終わりのときに世界に臨んで、人間の思いをはるかに越えた驚くべきわざをなしてくださる。そのときはこの天と地はひっくりかえるようになる。星も空から落ち、月も暗くなるような天変地異が起こる。その後神が造られる新しい天と地が臨む。全世界に対する神の裁きが行われ、今神の民を抑圧している悪しき勢力は裁かれ、神を信じる聖徒たちが救われて栄光に与る。このようなやがて来る世の終わりを待ち望む信仰がだんだん盛んになります。

復活は創造の冠

終わりの日の出来事としてのイエスの復活

 そういう世界に主イエスは出現されたのです。この主イエスが十字架につけられて殺され、そして三日目に復活されたときに、使徒たちは神の御霊に示されて、じつにこの出来事こそ、初めに天と地を造られた神が終わりになしてくださった救いのわざなのだということを世界に宣べ伝えました。これもまた不思議な知識というか、理解の仕方なのです。人間の目から見れば何億という多くの人類の中の一人に過ぎないイエスの身に起こったことです。十字架の死というのは当時は決して珍しいことではありませんでした。多くの犯罪者が十字架につけられて殺されていったのですから。しかし復活ということはほんとうに唯一のことでした。けれども、もし立派な生涯を貫かれたイエスという方が神の力によって復活されたというだけのことならば、その方の個人の勝利として、個人の栄光としては立派ですけれども、わたしたちには関係のないことです。
 ところが復活の出来事はイエスという方お一人の個人的な出来事ではなくて、まさに初めに神は天と地を造られたという出来事に匹敵する終わりの出来事なのです。神はこの終わりのときに、イエスを死人のうちから復活させて最終的な救いのわざをなさったのです。神が終わりのときに死人を復活させる方だということは、当時のイスラエルの人たちは大部分信じていたのです。これはラザロの復活のところで出てきます。イエスがラザロは復活すると言われますと、マルタはこう言います、「主よ終わりの復活の日に彼が復活することは存じております」。これは当時の主流であるファリサイ派の信条にあったのです。神は律法を守る敬虔な人を終りの日に復活させるということを彼らも信じていました。そういうところに、神はナザレ人イエスを復活させることによって、その終わりの日の復活を成し遂げられたのだという福音が宣べ伝えられたのです。「時は満ちた」のです。この「時(ホ・カイロス)」は、イスラエルの歴史が成就する時であるだけでなく、天地創造の「初め」に対応する「終り」、まさに人類にとって究極のカイロスなのです。
 使徒行伝四章二節に、ペトロたちが「イエスの身に起こった死者の中からの復活」を宣べ伝えたとあります。使徒たちがイエスの復活を宣べ伝えたときに、不思議なことが起こったと、これだけを孤立した出来事として宣べ伝えたのではないのです。使徒たちが宣べ伝えた復活は、終わりの日に神が死人を復活させると約束されたあのわざが、ついに始まったのだ、死人の復活というわざがイエスの身に初めて起こったのだという、非常に普遍的な壮大な復活の告知です。初めに天と地を造られた神が終わりに死人を復活させる、その終りの日のわざが今や始まったのだ、まだそれは全部完成していないがイエスの復活においてすでに始まったのだ、そういう性質の出来事として宣べ伝えられたのです。


創造の業としての復活

 コリント人への手紙の中にもありますが、死人の復活というのは神の創造のわざです。神が新しいからだを創造されるのです。わたしたちが賜っている御霊の生命、神からの生命にふさわしいからだを創造されるのです。死人が復活するというのはいったいどんな出来事なのか、どんなからだをして復活するのか、わたしたちには想像もできません。わたしたちのからだは土に埋められて腐ってしまうか、火で焼かれて灰になってしまいます。そういう事実を見ていると、死人が復活するなどということはとうてい考えられないと実感します。けれども神は創造者であり、無から新しいものを造り出される方であります。神が「光あれ」と言われたから光が生じたのです。すべて神はそのように御言葉によって無から存在を呼び出されるのです。そういう方がわたしたちの霊にふさわしいからだを、新しく創造して与えてくださるのです。これはなんの不思議でもありません。
 パウロもこのことを説明しています。「あなたがたが播く種も一度死ななければ新しい実を結ぶことはない」と。麦や米など植物は種がそのまま大きくなってできるのではなく、一度種が死んでしまって、そこから神は別の新しいからだを与えてくださって、それぞれの植物にふさわしいからだになるのです。いろいろな種類のからだがありますが、それはみな創造者の意志によって与えられたからだであります。その方がどうしてわたしたちの新しい御霊の生命、キリストによって新しくされた生命にふさわしい別のからだ、すなわち「霊のからだ」を造って与えてくださらないことがありましょうか。だから、わたしたちが復活を信じるということは、創造を信じているからなのです。

創造信仰の完成としての復活信仰

 もう少し表現を変えて言えば、神がイスラエルの歴史の中で長年かかって創造信仰を形成して来られたのは、じつにこの終わりの時に臨んで、わたしたち神の民が復活を信じることができるようになるためでした。イスラエルの人たちや預言者たちが血を流して戦い取ってくれたあの創造の信仰を、わたしたちは今その労苦の実を刈り取って、復活の信仰において完成しているのです。なぜ神がイスラエルの歴史という長い準備の期間を必要とされたのかというと、それがなければ、今突然イエスが復活されても、ああ不思議だと驚くだけで、わたしたちは自分の目の前にある死という現実、腐り果て、灰になっていく現実を見て、自分が死者の中から復活するということはとうてい信じられないのです。創造の信仰という基盤、準備があったからこそ、わたしたちはその成果を受けて、神は新しい「霊のからだ」を造って、わたしたちを完成してくださるんだということを信じうるのです。その意味で復活は創造の冠であると申し上げているわけです。
 以上のことを簡潔に要約しますと、聖書というのは神の人類救済のわざの記録であります。時の流れの中で神が人間の救いのために成し遂げてくださった御業の記録です。その救済の歴史の初めに天と地の創造があります。そしてそれに対応する終わりに、神は死人を復活させてそのみわざを完成されるのです。神の栄光の御国というのは復活した神の子たちの共同体です。そこに神の栄光が残りなく現れます。わたしたちがこの古いからだの中にいる限り、神の栄光は隠され、卑しさの中に曇らされて現れません。しかしこの卑しいからだが朽ち果てた後、神の子が神の御霊にふさわしい「霊のからだ」を受け取るとき、神の栄光は妨げられることなく発現するでありましょう。わたしたちの希望は、わたしたちもまたその栄光にあずかることであります。「神の栄光にあずかる希望」とパウロはしばしば言っています。復活の事実なくして神の栄光にあずかるということはありません。この血肉、古いからだと人間性は神の栄光にあずかることはできません。こういうことで、初めに天地を創造された神が、終わりに死人を復活させてその御業を完成される、これが聖書全体が証言している神の救いのわざの内容であります。

初めのアダムと終りのアダム

神に背いた初めのアダム

 ところで、神の初めのわざである創造と、終わりのわざである復活において、それぞれ中心をなす存在があります。どちらも人間です。初めの天と地の創造においては、その最後にアダムが造られました。人間は天地創造の目標であり、天地のすべてのものは人間のために造られました。ここでアダムという名は個人名ではなく、「人」という意味の普通名詞です。このアダムの物語が創世記の一章から三章に語られています。アダムはからだは土のちりから造られました。すなわちこの自然界を構成している物質と全く同じ材料で造られているのです。だから生命がなくなればまた元の土に帰ってしまいます。ところがその土で造られた人間に神の息が吹き入れられることによって、「生きた魂」になりました。単に動物のような物質的な生命だけで動いているものではなくて、魂をもった存在ですから、ものを考えたり感じたり、意志をもったりすることができるのです。
 ところがその人間は、サタンの誘惑に屈して、与えられている精神力をもって自ら神になろうとし、自分を造った方、自分を存在させている方に対して高ぶって背を向けてしまったのです。自ら神になろうとして、神を必要としなくなったのです。その背きの罪の結果、人間は神の裁き、すなわち神の命を失い「あなたは土で造られたから、土に帰るのだ」という裁きを受けるに至ったのです。
 アダムの物語は、決して昔々の神話の世界の遠い話ではなくて、実は今のわたしたちの話なのです。わたしの話なのです。わたしがこうして人間として存在しているのは、創造者なる神が造って人として地上に置いてくださっているからです。そのわたしが神を神として崇めることもしないで、自分で存在し、自分で生きているように神に背を向けて、神を求めようともしない。その結果、わたしの魂は死に定められ、死を乗り超える生命、あるいは希望をもつことができないでいるのです。そこには深い虚無があります。人間が自分の内面を深く探れば探るほど、そこには深い暗黒があり、不安があり、虚無が口を開いています。わたしも若いときにそういう事実に直面して、これはいったいなぜなのか、という深い不安に襲われました。そのときに「おまえはどこにいるのか」とアダムに語られたあの神の言葉を聖書の中に聴いて、神からの距離を初めて自覚させられたのです。

キリストの型としてのアダム

 このように、初めの創造において造られた人間は、本性的に神に背いて神の栄光を受けるに足りなくなっています。それに対して、神は終わりの時に新しい創造をされます。その新しい創造のわざは死人を復活させるという形で行われます。その中心になる人物がキリストです。キリストがじつはこの終わりのときに完成する天地のいちばん核になる存在です。ですからキリストは「終わりのアダム」と呼ばれています。最初のアダムは神に造られていながら神に背いた人間でしたが、「終わりのアダム」キリストは神に全く従うことによって、初めのアダムが失ったものを回復されたのです。この義によって神はキリストを死人の中から復活させたのです。復活によってキリストは、終わりの日に神がなされる御わざ、すなわち復活のわざの初穂となり、原型となられたのです。
 だからパウロは「このアダムは来るべき者の型である」と言っています。型というのはお菓子を作るときに丸や四角の型を作りまして、そこにお菓子の材料を詰め込んで型を取ります。そういう意味で、アダムが創世記にあのように描かれているのは、じつはやがて来るべきキリストがどのような存在であるかということを示すための型としてであります。アダムは型で、本体はキリストです。なぜ神の霊感を受けた人が人間の存在をあのようなアダムの姿で描かなければならなかったのかというと、それはやがて神がキリストを世に遣わして、このキリストによって成し遂げようとしておられる最終的な救いのわざがどのようにしてなされるのかということを、予め型として示しておくためだったのです。パウロのローマ書五章の後半はまさにそのことを教えているのです。ただし方向は逆なのです。アダムの場合は一人の人が罪を犯したためにすべての人が死に定められたのですが、キリストの場合は逆で、一人のキリストが義を全うすることによって神の復活の生命にあずかり、この一人のキリストによって、キリストに属する多くの者がその義にあずかって、復活に至るのです。方向は全く逆でありますが、一人の人によって死が世界におよび、一人の人によって復活が来るという点で、アダムはキリストの型なのです。

初穂キリスト

 「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として死人の中から復活したのである。それは死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない」。(コリント人への第一の手紙 一五・二〇〜二一)

 ここで「しかし事実」と訳されている言葉は、原語では「しかし今や」という言葉です。「今や」というのは、「ついに終わりの時が臨んだ今は」という意味です。キリストが出現して約束が成就した今、キリストは眠っている者の初穂として代表して復活されたのです。初穂としてですから、キリストが復活されたという事実の中には、キリストに属する者の復活がじつは含まれているのです。初穂を捧げるということは、その畑の作物が全部同じように収穫されるということを前提にしているのです。そのようにキリストが復活されたということは、キリストに属する者がすべて復活するということの保証なのです。二一節で「それは死が一人のひとによってきたのだから」、つまりアダムによって死がすべての人間に入ったというように描かれているのは何のためか。それは死人の復活という出来事もまた一人のひとによって来るということをわたしたちに教えるためなのです。
 わたしが今のキリスト教会の信仰で問題を感じるのは、この関係が切れていることです。教義としてはキリストが復活したことを信じていると言います。しかしその復活がわたしたちの復活の根拠になっていないのです。わたしたちが死ぬという現実は否定のしようがない事実です。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように」、それとまさに同じ確実さをもって、キリストにある者すべてが生きるのです。復活するのです。同じ神が、天地万物を創造する初めの創造者であり、終わりの日に死人を復活させる神である。これを信じること、イザヤの表現を使えば同じ方が「アルファでありオメガである」ということ、この信仰はじつに大切なのです。だからわたしたちがこの神を信じるときに、わたしたち生まれながらの人間は皆、アダムに属する者として死ぬことが確実なように、キリストにある者は、同じ確実さをもって復活するのです。このことをパウロは教えたいのです。これは奥義なのです。

二つの復活の間で

復活の順序

 「ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」。
(コリント人への第一の手紙 一五・二三〜二四)

 死人の復活は始まったのです。けれども順序があります。まず最初がキリストです。ここで「最初」と訳されている言葉は原語では《アパルケー》と言いまして、二十節で「初穂」と訳されている言葉と同じなのです。「初穂キリスト、それから次にキリストの来臨に際してキリストに属する者たち」となるわけです。この次の訳に多少問題があります。二四節に「それから終末となって」とあります。まずキリストの復活があって、次にキリストの来臨のときにキリストに属する者が復活して、それからさらに何か別の段階が来るというふうに、三段階になっているように見えます。これは原語の解釈の難しい点であります。わたしはここは、K・バルトのように二段階に読むべきであると理解しています。すなわち、初めにキリストが復活する、それから主の来臨に際してキリストに属する者が復活する。「この最終の時点において」キリストはすべての君たち、すべての権力と権威とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される、と読むべきでしょう。少なくとも復活に関しては二段階になっています。わたしたちがキリストの来臨に際して復活した後に、さらに何かあるとしても、もはや復活は出てきません。わたしたちは将来の見取図は解りません。神の御計画には順序があるのでしょうが、今から将来を見ると重なって見えますから、その順序を正確に区別することはできませんし、またその必要もないと思います。

復活の保証

 いまわたしたちは二つの復活の間にいます。初めにキリストが復活された。すでに神の終わりのわざは始まっているのです。そしてやがてキリストが再び栄光を現されるときに、キリストに属する者たちが復活する。この二つの復活の間に今わたしたちは生きているのです。キリストが復活されたということは、キリストに属する者が最終的に復活するということの保証であります。この保証を具体的にわたしたちの内面に与えるのが聖霊です。聖霊は「わたしたちが神の国を継ぐことの保証」だとパウロは言っていますが、「神の国を継ぐ」ということは、具体的に言えば、わたしたちが復活に与り、復活のからだをもって神の栄光に与ることであります。それ以下では決してありません。聖霊は「御霊の初穂(アパルケー)」とも呼ばれています(ローマ八・二三)。キリストはすでにこの世界に起こった出来事としての初穂でありますが、そのキリストを信じる者に与えられる御霊は、わたしたちの内に与えられた初穂です。この二つが相応えて、神が終わりのとき再びキリストをこの世界に臨ませ、その栄光を現されるときに御自身の民を復活させられる、ということを保証しています。
 だからわたしたちは心強いのです。わたしたちは見えるものによらないで、見えないものによって歩んでいます。見えるものは、わたしたちのからだが朽ち果てて灰になっていく事実です。その事実が確かなように、神の約束もまた確かであります。この見えない神の約束を、自分の人間としての存在の根拠にして、わたしたちは生きているのです。だから心強いのです。このからだが朽ち果てて灰になっていこうとも、わたしたちは心強いのです。その灰を川に流してしまっても、わたしたちに賜っている御霊の生命に、神は新しいからだを造って与えてくださいます。「この地上の幕屋が壊れるならば、わたしたちには手で造られない建物が天に備えられていることを知っている」とパウロは言っています。「知っている」と言えるこの確信はどこから来るのか。それは見えるものによらないで、見えないもの、聖霊によって保証された神の約束によって歩んでいるからです。
 「外なる人」は日々に老い、弱り果て、壊れていきますが、御霊によってキリストに結びついて生きている「内なる人」は日々新たにされていきます。外なる人間が壊れ果てて灰になってしまった後、内なる人間に神は新しい「霊のからだ」を与えてくださいます。これはわたしたちの想像を絶したことでありますが、イエスが死人の中から復活されて、弟子たちがその復活された方にお会いしたという証言を信じて、神はそのような驚くべき御わざをなしてくださる方であると信じています。福音とか信仰といっても、こういう復活の信仰にまでこないと、ほんとうに甲斐がないとわたしは思います。キリストの名のために多くの人が殉教してきました。なぜ彼らがそのようなことができたのか。彼らには御霊によってはっきりとこの復活の希望が溢れていたのです。だから小さな女の子までも、この地上の生命を捨てることを惜しいと思わないで、むしろ栄光の永遠のからだに与ることを願って、主イエスの名のために生命を捨ててきました。今はあの初代の使徒たちの時代の信仰に立ち帰らなければならない時であります。差し迫った終わりの時であります。このような時に、一体福音とは何であるのか、わたしたち死ぬべき人間にとって何であるのか、これだけ聖書が明瞭に証ししてくれているのに、今この福音の内容が希薄になってしまっています。それが残念でなりません。

天地万物の完成

「霊の体」の確かさ

 死者の復活を否定する人たちの最大の論拠は、どんな体で復活するのか理解できないということです。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という反論に対して、パウロは「愚かな人だ」ときめつけています。自然界のいたるところに復活のしるしが刻印されているのに、彼らはそれが読めないのです。麦であれ他の穀物であれ、蒔かれた種が死んだ後、神は御心のままに、それぞれ体を与えておられるではないか。創造者である神を信じている者が、どうして新しい御霊の生命にふさわしい別の体を創造して与えられることが信じられないのか、とパウロは言っているわけです。ここでも復活、すなわち「霊の体」の存在は、神の創造の業として根拠づけられているわけです。創造者が信じられている所では、「自然の命の体」が存在するのが確かなように、「霊の体」の存在も確かなものになるのです。人間は朽ちる卑しい体で蒔かれていますが、朽ちることのない栄光の体に復活するのです。これはともに神の創造の働きです(コリント1一五・三五〜四五)。
 ここにも「順序」があります。「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人(アダム)は土ででき、地に属する者であり、第二の人(キリスト)は天に属する者です」(同四六〜四七節)。これが救済史の最も基本的な枠組みです。「土からできた」生まれながらの人間はすべて、地に属する者として、土からできた最初の人アダムの似姿で存在しています。ところが、その人間がキリストに結ばれて天に属する者となるとき、「天に属するその人」、復活されたキリストと同じ姿にもなるのです(同四八〜四九節)。こうして、最初の人アダムと終りの人キリストという順序は、人間存在の基本的な様態を示しているのです。人間はまず土から造られ、死すべき姿で存在しますが、終りの人キリストに結ばれることによって、「霊の体」をもつ栄光の存在として完成されるのです。復活されたキリストは終りの時に現れる「天に属する人間」そのものなのです。

キリストにおける万物の再統合

 初めの創造においても、終りの創造においても、中心は人間です。初めの創造においては、人間が神に背き、罪に陥ることによって、世界に死が入りこんできて、天地の万物も滅びの縄目に服することになりました。終りの創造においては、人間が復活して栄光の自由に入ることによって、天地の万象もそれに参与する形で完成されるのです。神の救済の御計画は、人間の救済を核心とする天地万物の完成の計画です。これは「ミュステーリオン」(神の秘められた計画)です。この御計画を神は今聖霊の恵みによってその民に啓示されたのです。その内容は新約聖書の一句に見事にまとめられています。

 「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。
(新共同訳 エペソ一・一〇)

 ここで用いられている動詞を直訳しますと、「キリストを頭として再統合される」ということになります。人間の背きによって、すべての被造物の世界に虚無、分裂、暗黒、滅びが入って来ました。この世界を神は定められた時(ここでの「時(カイロス)」は複数形)に従って救いの業を進め、ついに決定的な時(カイロス)にキリストを世界に送って、その十字架によって罪の贖いの業を成し遂げ、その復活によって終りの創造の業を開始されたのです。後は最終の時に復活者キリストを頭として、天の霊的存在も地の物質的存在も一切が神の栄光のうちに再統合されるのを待つだけです。その時、キリストに属する神の民が死者の中から復活して、新しい天地の中核になります。
 これは何という壮大な希望でしょうか。復活者キリストを頭として全宇宙が完成するのです。全宇宙にキリストの形が成るのです。キリストに属する者はこのような神の御計画を知らされていますので、この神の御旨が成就するように祈らないではおれないのです。こうして宇宙の完成を祈り求めて生きることにより、キリスト者の魂は宇宙を包む大きなものになります。「地の果ての創造者」を信じる信仰は、いまや復活者キリストにあって、「キリストにおける宇宙の完成」を信じ待ち望む祈りとなります。
 このように、キリストが「終りの人」として、死者の復活によって完成する天地万物の頭であり原型であることを知る時、今自分がキリストに結ばれて生きていることが、創造者のこの壮大な終末的完成の御計画に与っていることであると知るのです。これは魂が震えるような体験です。このことを深く自覚してキリストにある生涯を全うしてください。
(天旅 1989年3号、4号)