市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第22講

第V部 「死人を生かす神」 

第一講  聖書と復活

聖書の読み方

信仰の土台としての聖書

 今回は、主題として掲げましたただ一つの点、「神は死人を生かしてくださる神である」をはっきりと信じて、明日からの歩みをしてくださることを願ってお話をしていきたいと思います。「神は死者を復活させる方である」と言いましても、確かにわたしたちは神がイエスを死人のうちから復活させたことを信じていますし、特別な人を復活させるということは信じています。しかし自分のことは何かそうでないように生きている人が多いのではないでしょうか。大切なことは、「神が死人を生かす神である」ことを信じるとは、神がこの自分を死者の中から復活させてくださることを信じることです。それを信じないのであれば、この福音の信仰というのは空しいことだとわたしは思います。神はこのわたしを死人の中から復活させてくださるのだという、このことがはっきりするまで、しっかりと共に聖書を学び、祈り、受け止めていきたいと思います。
 わたしたちの信仰の土台は聖書であります。皆様もお一人ひとり聖書を信じて、もう少し具体的に言いますと、聖書は神からの語りかけ、神からの啓示であると信じて、生きているわけです。この集会を始めるにあたりまして、改めてこういう問いを出してみたいと思います。一つは、聖書はどのような意味で神の啓示であるのか。もう一つは、聖書はこのわたしに何を啓示しているのか、あるいは何を語りかけているのか。このごく基本的な問題を取り上げて、そこから今回の話を進めてまいります。わたしたちは聖書を信じて信仰の生活をしているわけですが、もしこの中に聖書を信じられないという方がいらっしゃるならば、聖書を信じる人生とはどういうことであるのかを、この集会で見ていただければ、そしてわたしたちと一緒に聖書を信じるようになっていただければ幸いです。

聖書とキリスト

 聖書を信じて生きていく際に、いろいろな聖書の受け止め方があります。わたしたちがごく自然にしていることは、日常の信仰の歩みの中で聖書を読んでいて、ハッと神様は今自分にこのように語りかけてくださっているのだと感じて、その言葉を自分の導きの光として生きていく、そういう受け止め方をしていることが多いと思います。朝聖書を開いて祈りながら読み、寝る前にまた祈りながら読む。今日はこのような御言葉を受けた、このような語りかけを聞いた、という受け止め方をしています。それがわたしたちの日々の歩みの魂の糧になっています。これは非常に大事なことなのです。
 しかしよく考えますと、このような受け取り方には一つの前提があります。聖書というのは極めて人間臭い書物でありまして、色々な人間世界のことがごった煮のように詰め込まれていますから、確かに神が選ばれた人に語りかけた言葉も記録されておりますけれども、人間同士の話や言葉も多いわけです。時には悪人の言葉もあります。ですからわたしたちが聖書をそのように神からの語りかけとして読んでいるときには、無意識の中にも選別をしています。これは人間の言葉として自分には特別に関わりのないもの、これは今自分に語りかけられている神の言葉と、選り分けているわけです。
 どうしてこのような選り分けをしているのか。わたしたちは自覚していませんけれども、それはまずわたしたちの中に生けるキリストとの交わりという事実があって、この事実に響き合うものを神からの語りかけとして、感謝をもって聴き取っているわけです。ですからこのように聖書を信じて信仰生活をする際に、このごった煮のようにいろんなことが書き込まれている聖書を神からの啓示として受け止めていくには、まず生けるキリストとの交わりという事実が前提になっているわけです。
 この事実がなければ、いくら聖書を理論的に整理して、一つのシステムとして理解しようと思っても、なかなか困難ですし、もしそれができたとしても、一つの聖書的な思想はできるかも知れませんが、わたしたちの魂を生かす信仰の土台にはなりません。ですからわたしたちが聖書を真実に生命の道に導く光として受け取るためには、生けるキリストという方がはっきりと示されてこなくてはならないのです。聖書が全体としてわたしたちにしようとしていることは、まさにそのこと、すなわちキリストをわたしたちに示すことです。それが聖書の本来の目的なのです。このことは主イエスご自身がはっきりと語っていらっしゃいます。ご存じのようにヨハネ福音書(五・三九)の中で、「あなたがたは聖書の中に永遠の生命があると思って調べているが、この聖書はわたしについて証しをするものである」と言っておられます。聖書とはキリストについて証しする書、キリストがどのような方であるのかを世界に示そうとして、神がわたしたちに与えて下さった書物であります。
 ですからわたしたちが聖書を信じるという時に、この聖書が全体として示そうとしている内容、すなわち主イエス・キリスト、この方を通して見るのでなければ聖書を正しく受け止めることはできません。それがなければ、聖書からいろいろと良さそうな句だけを抜き出して人生訓を作ったりするようなことになってしまいます。しかしそのために神は聖書をこの世界にお与えになったのではないのです。あくまでもキリストを示すためであります。よくキリストを示すのには新約聖書だけあれば充分ではないかと言う人があります。新約聖書、とくに福音書は地上に現れたキリストであるイエスという方をわたしたちに伝えている。使徒たちは復活されたキリストを伝えている。この新約聖書だけあればイエス・キリストを知ることができるのではないかと考える人がありますが、そうではありません。聖書が全体としてキリストを証言しているのです。すなわち旧約と新約との二つがあいまって初めて聖書の全体になるわけです。新約だけでは聖書ではないのです。もちろん旧約だけではキリストを示すことができません。

約束の神

神の約束に生きたアブラハム

 では、世界にキリストを示すのに、なぜ神は旧約と新約という二つの聖書を必要とされたのでしょうか。これは聖書を通して示される神のご性質とでも言いましょうか、その働き方の質からしまして、必然的にそうならざるをえなかったのです。なぜかと言いますと、この聖書の神は「約束の神」だからです。この地上でのご自分の働き、それはいつも人間を救おうとされる働きでありますが、その働きをなさるにあたって、まず約束を与えられるのです。約束というのは実際にその業をする前にあらかじめ言葉をもって、「わたしはやがてこういうことをする」ということを語って約束することです。まず約束の言葉を与えて、その約束の言葉を実現するという形でご自分の業をなさるわけです。
 これは先程読んでいただいたローマ書(四章)の中にも、わたしたちのご先祖の話が出てまいりました。人はみな先祖の自慢は好きでして、わたしの先祖はこんなに立派だと言いたがりますけれども、わたしたちに誇るべき先祖があるとするならば、それはアブラハムであります。血脈の上から言いますと民族は違います。しかし神の前の霊の流れから言うならば、アブラハムこそすべての神の民の先祖であります。このアブラハムの生涯は創世記の中に詳しく記録されていますけれども、実際にアブラハムという人物があのような生涯を送ったということの記録ではありません。勿論事実があったからこそあのような記録ができたのですけれども。まさにアブラハムの生涯をあのように描いたという描き方が大切なのです。
 ご存じのように、アブラハムの生涯においては、いつもまず神が現れて約束を与えられます。アブラハムの生涯はその約束を信じて生きる生涯でありました。人間にはいろいろな生き方があります。狩猟の生活から始まり、土地を耕してそこから収穫を得て生きる農耕の生活、今は産業が発達して物を効率良く作って豊かな生活をしています。それが人間の生きる土台だと考えて、それぞれの時代にふさわしい生き方をしてきました。しかしアブラハムの生き方はちょっと想像ができないような生き方でありました。まずアブラハムに現れた神が「わたしが示す土地に往け」と、アブラハムが全然知らない土地に往くように命じられました。「わたしは必ずおまえを祝福し、おまえの子孫を増やし、豊かに祝福する、おまえはもろもろの民の祝福の基となる」。こういう約束を与えられるわけです。アブラハムがもうかなり歳をとってからのことです。人間誰でも歳をとると今まで暮らしていた生活の基盤から離れて、どんな生活が待っているか分からない見知らぬ土地へ往くということはなかなかできないものです。アブラハムもそれまでは普通の生活だったかも知れませんが、その神の呼びかけを聴いてからは、ただ神がそう約束されたから、それだけの理由で、どんな生活ができるのか当てもない所に向かって旅立っていきました。そしてその一生を通じて、その神の約束だけを信じて歩む生涯でありました。

アブラハムの信仰の到達点

 自分はもう生きる当てもないし根拠もないけれども、神が約束された以上は、その御言葉に従っていけば必ず生きていけると、約束された神に委ねて生きる、これが信仰の姿です。こういうアブラハムの信仰の生涯で、信仰が現された重要な場合だけが二、三記録されています。一つは、子供はとうてい生まれるはずのない状況で、神が「おまえの子孫はあの空の星のように増えるのだ」と約束されたので、人間としては全く望みがないのに、なお子の誕生と子孫の継続を望み見たのです。これがアブラハムの信仰でありました。だから彼は義と認められたのです。神に受け入れられる者とされたのです。
 アブラハムの生涯の最後には、その約束によって与えられたイサクを祭壇に犠牲として捧げるようにという神の命令を受けるという試練がありました。彼は本当にその矛盾に苦しんだはずでありますが、人間の力と思いを超えてイサクを与えてくださった神がなされる命令だから、イサクを屠って捧げても必ず神がまた生かして返してくださるはずだと確信することができたのです。ですからさきのローマ書(四・一七)にもありましたように、「アブラハムはこの神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。
 アブラハムの信仰もその生涯を通してずっと進んできました。そして最後に、「神は死人を生かす神である」という信仰にまで達したのです。これは決して一朝一夕にしてできた信仰ではないのです。アブラハムの生涯にはわたしたちの想像を越える苦難もあり不安もあったことでしょう。ただその中でアブラハムは「約束された方は真実である、必ず約束の言葉を成し遂げてくださる」と信じて動揺しなかったのです。この御言葉への信頼がアブラハムの信仰を訓練して、遂に死人を生かす神を信じる信仰にまで達したわけです。
 アブラハムの生涯に凝縮されて描かれていますけれども、これは実はわたしたちの信仰の成長過程の描写でもあります。人類はいろいろな種類の宗教をもち、信仰をもってきましたが、一体人間がもつ信仰はどこまでいかなくてはならないのかと言うと、「死人を生かす神」を信じる信仰にまでいかなくてはならないのです。それがわたしたちを造られた神が、わたしたちの信仰を導こうとされている目標なのです。

約束によって形成されたイスラエルの歴史

 アブラハムの生涯がこのように約束を信じて生きる生涯として描かれているということは、実はその子孫であるイスラエル民族、神から選ばれたイスラエルの民の生き方が先祖アブラハムの物語に凝縮しているのです。イスラエルがどういう点で神から選ばれているのかというと、神から約束の言葉を与えられているということです。それは「契約」と言われます。神と人間との契約はいつも一方的です。神がこういうことを行うと約束されて、人間がそれを受けて信じ、神との関わりの中に入っていく。そういう関係が聖書のいう契約の姿でありますから、その本質は約束であると言ってもよいと思います(創世記一五章参照)。ですからわたしたちが旧約(旧い契約)と呼んでおります書物、すなわちイスラエルとその神ヤハウェとの間に結ばれた契約の書でありますが、これは約束の書なのです。神がイスラエル民族にずっと与えてこられた約束なのです。そしてイスラエルの歴史の中で神は自分が与えた約束を実現し、成就しておられるのです。成就することによって約束を与える方がいかに信実であるかということを示しておられるのです。
 例を挙げるときりがありませんが、アブラハムの生涯もそうでありました。「来年は男の子が生まれる」という約束はちゃんと実現したのです。もっと大きな例をとると、あの出エジプトという、いわばイスラエルの民族形成の出来事も、あれは約束の成就であったのです。神はアブラハム、イサク、ヤコブになした約束を憶えて、その約束を実現するために、エジプトに囚われているアブラハムの子孫たちを救いだし、カナンの地に導いて行かれたのです(出エジプト記二・二四〜二五)。神がアブラハムにこの土地をおまえの子孫に与えると約束されたので、それを実現するためにあの小さな、別にとりえもない民族を物凄い力をもってエジプトの地から救い出し、栄光を現されたのです。また、あの荒野の四十年の旅路は、まさに約束を信じるか信じないかが試された時期であったのです。民の中の多くの者は、折角神の大きな力を体験してエジプトから救い出されたにもかかわらず、神がなされた「必ずカナンの地を与える」との約束を信じることができず、いつも不平を言ってつぶやいたのです。

挫折と希望

約束された方の信実

 このように、聖書は神が約束を与え、その約束を人間がどのように受け止めて行動したかを描く書であります。神は約束のとおりイスラエルの十二部族にカナンの地をお与えになりました。ですからイスラエルの民は、カナンの地に入り、そこで牧畜をし、農業をして生活したのですが、彼らは自分たちが今この地に一つの民族として生存しているということを、昔から「自然に」この土地に住みついて来たのではないと考えていました。あくまでもアブラハムに現れたヤハウェなる神が自分たちに約束し、その約束を実現してくださったお陰で、今このようにこの土地に住んでいることができるのだと自覚していました(ヨシュア記二一・四三〜四五)。
 イスラエル民族の信仰告白の一番素朴な形が申命記の二十六章(五〜一〇節)にあります。これは年三度の祭りでヤハウェの神殿の前に出るときになされた告白文です。

 「わたしの先祖はさすらいの一アラム人でありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行ってその所に寄留し、ついにそこで大きく強い、人数の多い国民になりました。ところがエジプト人はわたしたちをしえたげ、また悩ましてつらい労役を負わせましたが、わたしたちが先祖の神、主に叫んだので、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの悩みと骨折りとしえたげとを顧み、主は強い手と伸べた腕と、大いなる恐るべき事としるしと、不思議とをもってわたしたちをエジプトから導き出し、わたしたちをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわたしたちに賜りました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜った地の実の初物をいま携えてきました」。

 自分たちがこの土地に住むことができるのは、あくまでも自分たちの契約の主ヤハウェがその契約の故に、エジプトから救い出してここに導いて下さった結果であるとして、その感謝のしるしとして初物を持ってきましたという告白です。彼らにとっての感謝は、彼らの神が小さい者に対して慈しみ深い方であること、また神が信実なる方である、すなわち約束したことを必ず実現してくださる方であるということであります。
 ですから、詩編をお読みになるとお分かりになると思いますが、この神の慈しみと神の誠、この二つがいつも賛美されています。この二つが彼らにとっての存立の土台だからです。これが無ければ彼らは存在しえないのです。生きておれないのです。このことは、わたしたちも信仰を深めてまいりますと、実際に深く共感します。わたしたちがいまこのように生きておれるのは、まさに神があわれみ深い方であり、また神が信実な方であるからこそ、わたしたちがこのような救われた者として、神の子として存在しうるのです。
 「アブラハム・イサク・ヤコブの神」は「約束の神」、すなわち約束を与え、それを実現する神です。その神を信じて生きる生涯にとって、土台は「約束された方の信実」です。「約束された方は信実である」(ヘブル書一一・一一)。信仰とは、神の信実だけに基づいて、神の言葉に従って生きることです。

約束と希望の転換

 さて、約束の地に入りましたイスラエルはやがてサウル、ダビデ、ソロモンというような非常に優れた王をいただきまして、立派な王国を造ります。人間というのは調子が良くて栄えるとつい神を忘れるものでありまして、イスラエルの民の中にも自分たちの王国が立派になると、何かもう人間的な力がこのような立派な壮大な業をしたかのように思って、だんだんと自分たちの存在が神の恵みと信実に基づいているのだということを忘れ、神との契約をおろそかにするようになります。自分たちの力に頼り、高ぶるようになってきます。その結果、神の審判が臨み、王朝は長くは続かず、アッシリヤとかバビロニアという大きな帝国に滅ぼされてしまうことになります。
 このような王朝の時期に神は一つの約束を与えておられました。それは預言者ナタンを通してダビデに与えられた約束で、サムエル記(下七章)に記録されています。それは神がダビデの子孫を堅く立てられる、ダビデの王朝を末長く立てられるという約束です。それがイスラエル民族の希望の拠り所となったわけです。ところが現実はどうかというと、イスラエルの民は、高ぶりのために心はだんだんと主であるヤハウェから離れ、神の裁きが及んで、遂に王国は滅ぼされてしまうのです。これがバビロンの捕囚です。バビロンに捕らえ移されるという、国の滅亡を体験いたしました。一見約束が果たされなくなってしまったような状況になったのです。そのときに預言者が現れて、神がダビデに約束されたあの約束、ダビデの子孫は世々に堅くされるという約束は決して廃るのではないことを説きました。人間の造った王朝は滅びたかも知れない。しかし神がダビデの子孫に与えられた約束は必ず実現する。必ずダビデの子孫から滅びることのない永遠の王国を立てる者が現れる。神が油を注いで永遠の王として立てられる方がダビデの子孫から興る、と預言者は予言しました。すなわち神の約束は人間の目に見える国家の滅亡という現実を転換点として、永遠なるものに転換していくわけです。それがメシア預言です。必ずダビデの子孫から永遠の王国を建てる人物が現れるという希望が生まれて来るのです。
 非常に大ざっぱな話ですが、このようにイスラエルの歴史はいつも約束を与えられ、その約束を信じて導かれ、あるいはその不信の故に裁かれ挫折し、この約束をめぐって展開するドラマでありました。その約束はあるいはアブラハムに子供が与えられたことだとか、エジプトから解放されたことだとか、カナンの土地を与えられたことだとか、こういうことを通して実現していきました。しかしその実現というものは、なお最終的なものではなかったのです。というのは、今も王朝の例で示しましたように、人間の目から見れば最後には滅びてしまったのですから。もっと次元の高い成就があることを預言者たちは気づきまして、今までこの歴史の中でずっと約束して来られたことを最終的に実現してくださる時が必ず来ること、すべての約束が成就する終わりの日が来ることを彼らは語って止まなかったのです。

型と本体

型としての歴史的出来事

 もう一つ旧約聖書を読む際に大事な視点を心得ておかなくてはならないと思います。約束というのは何も「わたしはこういうことをする」という言葉でもってされる約束だけではないのです。別の形の約束もあります。これは「型と本体」という関係で説明することができます。型というのはたとえばお菓子などを作るときに、木などで型を作ってそれに材料を入れて作ります。わたしたちが目的としているのはその形をしたお菓子のほうです。ところがそれを作るのに中空の型を使います。こういう関係が神がなされる約束とその成就という出来事の中にも使われているのです。たとえば神がイスラエルの民をエジプトから救い出されたという出来事、これは確かに歴史上に起こった出来事ですが、それ自体が最終的な神の目的ではなくて、実はそれはやがて最終的に神がなさる人間のための救いの業をあらかじめ示す型であったのです。
 その型が示そうとする本体は何かというと、これは言うまでもなく、キリストによってわたしたちが罪と死の支配から解放されるという出来事なのです。これが本体なのです。そのことをあらかじめ示すために、エジプトのパロの権力から御自分の民を救い出すという業を、歴史の中で神はして見せられたのです。それに続く四十年の旅も、また一つの型であります。神がなされた約束を信じてこの地上のさまざまな試練に満ちた生活を続けていくわたしたち人間が、救われた者の最終目標に至る旅、これをあらかじめ示す型であります。パウロはコリント人への第一の手紙(一〇・一〜一三)で、荒野の旅をそのような型として説明しております。
 その後カナンに定住したイスラエルにはダビデという英邁な王が与えられて、立派な王国が形成されます。そのダビデ王国も決して神がイスラエルに与えようとされた目的ではなかったのです。神は立派な帝国を造るためにあのようなさまざまな業をして来られたのではないのです。あれは最終目標ではないのです。ダビデの王国は、やがて神が油を注いで立てられる真の王が全世界を統べ治め給う、そういう「神の支配」をあらかじめ示す型であったのです。ところがイスラエルの民は型であるというような性格は分かりませんから、これこそ神の栄光であるとしてそれを自己目的にしてしまったので失敗したのです。その過程で、王国は神の最終的な目標ではない、それは型に過ないということを、神は預言者たちを通してイスラエルに教えられたのです。

型としての神殿

 神殿も型に過ぎないのです。宗教が大きくなると、必ず立派な神殿を建てて、これこそ宗教の成果であり、わたしたちの信仰の実であって、神はこんな立派な神殿で皆が拝むことを実現された、このように考えがちなのです。けれども、神殿というのも決して神がこの地上になされる業の最終目標ではないのです。それはやがてキリストにあって、神の霊が信じる者の群れの中に宿って、そういう形で神の栄光が地上に実現し、最終的に神の国が完成する、そういう霊の事態を示す型に過ぎないのです。神殿の中で行われるもろもろの儀式もまた一つの型に過ぎません。やがて神の霊によって神を礼拝する者がこの地上に起こされるときに、それがどのような質のものであるか、どのような姿のものであるかを示すための型なのです。
 このように旧約聖書の性格を、その概略をごく大雑把に見てきました。旧約聖書ではいつもイスラエルの歴史そのものが、約束が与えられそれが成就するという形で進んできました。その約束もいろいろな種類がありますが、イスラエルの歴史そのものが、実は全体として大きな約束を形成しているのです。やがて神が最終的になされる救いの業を約束し、型として示しているのです。そういうイスラエルの中にイエスが現れ給うたのです。キリストが来られたのです。そして「時は満ちた」と宣言されたのです。この「時は満ちた」という一句は非常に重要なのです。イエスはしばしば立派な宗教家として、世界の聖人と並んで評価されますけれども、単に立派な教えを人間に与えた方というのではなくて、まず第一の意義は、約束としてのイスラエル二千年の歴史を成就する方、全部それを実現する方として来られたということなのです。

成就としてのイエス・キリスト

旧約聖書の復活預言

 イエスは旧約聖書全体を実現する方として御自分を自覚しておられました。イエスはしばしば弟子たちに、「人の子は聖書に記されている通りに苦しみを受け、三日の後に復活する」ということを語っておられます。イザヤ書五三章など、やがて神から送られる神の僕が苦難を受けるという予言はあちこちにあります。ところが、復活するという予言はあまりありません。死んだ者が復活するという考え自体は旧約聖書の中には非常に少ないのです。むしろ、創世記から申命記に至るモーセ五書の中にはこういう信仰はありません。ですからサドカイ派の人たちは、モーセ五書だけが権威のある啓示であるとしていましたので、その中に復活が書かれていないという理由で復活を否定しています。復活という考え方が出て来るのは、イスラエルの歴史の中でもごく後期のことでありまして、ダニエル書に至ってはじめて、かなりはっきりと死んだ者が目覚める、復活するという表現が出てまいります。
 しかしイエスはそういう言葉遣いがあるかないかではなくて、聖書の始めから終わりまで全部が御自分が復活することを証言しているのだと理解しておられました。これは不思議なことだと思います。サドカイ派の人たちは復活を否定していましたが、彼らに対してイエスは、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから間違っている」と言っておられるところがあります(マルコ一二・一八〜二七)。サドカイ派の人たちも熱心に聖書を研究していました。けれども彼らはその聖書に基づいて復活を否定していました。しかしイエスはたった一つの所からでも、たとえば神がモーセに現れ給うたときに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られたことからしても、だからアブラハムは生きているではないか、神は死んだ者の神でなく生きている者の神である以上、アブラハムは生きている、アブラハムは復活するのだということを読み取っておられたのです。
 どうしてこのような違いが出てくるのでしょうか。イエスの中には神の生命、まだ隠されていますけれども、復活という形で現れないでおれないような最終的な神の生命が宿っていたからこそ、同じ聖書を読んでいながら、聖書全体が復活を約束していることを理解していらっしゃったのです。ですから、ここは大事なことなんですが、「聖書全体」が」やがて現れる救い主の受難と復活を予め語っているのだと、イエス御自身はそのように理解しておられました。

聖書に書かれているとおりに

 福音がイエス・キリストを宣べ伝えるときにまず第一に言っている事は何かと言うと、パウロがコリント人への第一の手紙一五章の始めの部分で引用しているとおり、「キリストが聖書に書かれているとおりにわたしたちの罪のために死んだこと、聖書に書かれているとおりに三日目に復活したこと」です。これが福音の内容であるということを言っているのですが、いつも十字架のこと、すなわちキリストが罪のために死なれたこととキリストが復活されたことを語るのに、「聖書に書かれているとおり」という言葉が必ずつくのです。ここでいう「聖書」は旧約聖書のことです。だから福音は、この旧約聖書全体を、わたしたちの罪のための贖いのわざが行われるということの約束と、やがて神が死人を復活させてくださるということの約束として理解していると言えます。福音はこの二つの点に絞って「聖書」を理解しているわけです。
 そしてこの二つの約束をイエス・キリストが実現してくださったのです。主イエスが十字架の上に血を流されたときに、あの聖書全体が約束していたわたしたちの罪の贖いが成就したのです。わたしたちが神に背き続けて、神の前に積んできた罪過の汚れが、その贖いのわざのおかげで拭われたのです。それから、その神が最終的に死んだ者を復活させて、死の力から解放して救ってくださるということが成就したのです。ですから、わたしが最初に申しました、聖書は全体としてキリストを証しするということは、その内容を見ますと、イスラエルの二千年の歴史の中で約束されてきたことが、主イエス・キリストの出現によって成就した、ということなのです。その中身は何かというと、神がわたしたちの罪を、神に対する背きの罪を拭い去って下さる、そういうわざが行われたということと、神が死人を復活させて、人間を死の支配から救い出して下さるということ、この二つのことがついに成就したのです。

神の究極の約束としての復活

約束の構造

 たしかに、復活されたのはイエス・キリストお一人であります。けれども、このイエスが復活されたという事実は、実はキリストに属する者、キリストの民を死人の中から復活させるという約束を形成いたします。先にも触れましたように、神が約束の神であって、まず約束を与えてそれを実現するという形で、そのわざを為してこられた方だと申しました。けれども、一つの約束を実現されたその行為がまた次のさらに大きな救いの業を約束する約束になっているのです。一つの例を取って見ますと、先に述べました出エジプトの出来事ですが、あれはアブラハムに「お前の子孫にこのカナンの地を与える」と約束されたから、その約束を実現するために自分の民イスラエルをエジプトから神の奇跡の力をもって救い出して、カナンの地をお与えになった。それは約束の成就であります。しかしその約束の成就も、やがて神が人間を罪と死の支配から救い出すという最終的な業を約束しているのです。一つの約束の成就がさらに大きな約束を形成しているのです。
 神が旧約聖書の中で約束しておられたことは、主イエスが十字架され、復活されることによって全部実現したのです。同時に、その実現が今度はキリストを信じる者の復活を約束する約束になっているのです。それは新しい契約なのです。先に申しましたように、契約は約束であります。キリストによって結ばれた契約によって、神はキリストを信じる者に約束を与えて下さっているのです。その約束とは、信ずる者は死人の中から、イエスが復活されたように復活するということです。これが新約の約束の内容です。この約束の中には主キリストを信ずる者には、キリストの十字架によって罪が赦され、その罪が贖われるという約束があります。そしてキリストを信じる者には聖霊が与えられる、これも約束であります。わたしたちはその約束を体験することができます。たしかに聖霊を受けて御霊による喜び、御霊による新しい生命を体験いたします。だから新約という約束はわたしたちの体験の中である程度成就しています。けれども、わたしが死人の中から復活するということはまだ将来のことであります。ですからこれはまだ約束であります。しかし神は何重にも、約束を成就するという形でその信実を示して来られました。また個人的な体験の中で神がいかに信実な方であるかということを体験してきました。神は約束したことを必ず成就されるということを体験してきました。ですからわたしたちは福音のいちばん大切な約束、最終的な約束である死人からの復活、この約束をも信じないではおれないのです。
 これを信じないことになれば、わたしたちの今までの信仰は最後の目的を失ってバラバラになってしまいます。たしかに個々の点で祝福されたり、喜びや力を与えられたりして、それなりに意義はあったかもしれない。しかし神が最終的にわたしたちに与えようとしておられるものは何か。わたしたちは皆死にます。例外なく必ず死にます。その死んだわたしたちを、死人の中から復活させてくださる。これはわたしたちには想像できないことなのです。けれども神はイエスを現実に死人の中から復活させて、神はこのような形で死人を復活させる神であるということを示されたのです。

神の約束としての死者の復活

 今日申し上げたいことは、死人からの復活は神の約束であるということです。人類を創造された神の最終的な約束であるということです。聖書全体が一体何をわたしたちに語っているのか。旧約と新約という構造をもって懸命に語ること、これは決して言葉だけの約束ではないのです。イスラエル二千年の血みどろの歴史と、イエスが現実に十字架の上で血を流されたという事実、このわたしたちの世界の中で現実に起こった出来事を通して、神は全人類に約束しておられるのです。最終的な救いは、神が死人の中から人間を復活させることによって実現します。神は必ずそうすると約束していらっしゃるのです。この約束をしっかりと聴き取ることです。これが、わたしたちが聖書を信じるという時の究極の内容だとわたしは思います。わたしたちはキリストにあってこの約束を聴きました。この約束をされた方は信実であることを聖書は示していますし、わたしたちもある程度個人的にそのことを体験してきました。わたしたちは約束された方は信実であるというこの一点に、自分の生死を賭けます。
 わたしたちは死というものがどのようなものであるか、まだ充分に理解していません。死の彼方に何があるかを知りません。しかし、こう約束された方は信実であるというその一点に自分の生きることも死ぬことも全て賭けています。そして神の約束を信じて生きて行くことは決してむなしいことではない、この希望は空しく終わるものでないことを、わたしたちは体験的に知っています。なぜかというと、聖霊によって神の愛が注がれているからです(ローマ五・五)。パウロも言っていますように、聖霊の力がわたしたちの内にあって、この約束に賭けて行くことの手応えを保障しているからです。
 さらに、同じ御霊がわたしたちに「神の奥義」を悟る知恵、知識を与えてくださっています。「奥義」は最近の訳では「秘められた計画」、あるいは「隠された計画」と訳されています。それは、天地創造の初めから最終的な完成に至るまでの神の御計画であって、神が御心の奥に深く秘めておられるものです。それは人の思いではとうてい計り知ることのできないものです。それは隠されている神の御計画ですけれども、この御計画の基本的な構造が聖霊によって今や神の民に啓示されているのです。この御計画によってわたしたちは召され、キリストの民とされているのです。この御計画を立てられた方は必ずこれを実現されます。そういう神の御計画の奥義を知ることが許されていること(その内容については次講で触れます)、これもまたわたしたちが復活を信じて生きていくひとつの根拠であります。

死・生・神

 聖書を信じて生きていくということがどのような内容であるか、わたしが聖書を信じているその信じ方を告白するという形でお話ししたのですが、死人からの復活を信じることは、人間の知恵や想像力をいくら駆っても、とうてい理解し難いことであります。しかし考えてみますと、わたしたちは皆死ぬという現実に直面しなくてはなりません。死はわたしたちにとっては暗闇であり矛盾でありますが、この死を突破して、死の現実があるにもかかわらず、生かしてくださる方があるということを信じることが、じつは「神を信じる」ことの中身なのです。
 「死人を生かす神」という主題の中に、死、生、神という三つの言葉が出てきますが、死と生は人間にとってどうしようもない矛盾であります。死のあるところにはもう生命はなくなっていますし、生命はいつも死に脅かされています。この矛盾を解決して、わたしたちが死という力を突き抜けて本当の生命に生きることができるのは、死人を生かす神を信じうるときだけです。人生にはいろいろな問題があります。それがわたしたちの目には解決されたり解決されなかったりして、さまざまな矛盾を感じます。どうしてこんなことが起こるのだろうか、どうしてこんなふうになってしまうのだろうか。そういう矛盾を背負って生きていますが、その最後の矛盾は死と生の矛盾です。真実に突き詰めていきますと、死というのはどうしようもない矛盾であります。それらの矛盾を突き抜ける力、それは死人を生かす神をわたしたちの魂が本当に信じることができるようになるときであります。
 神がイエスを死人の中から復活させたと信じる者を、神は義としてくださる。この信仰の中に実は十字架の贖いも含まれ、そしてまた、わたしたちが死人の中から復活させられることによって救われるのだという希望も含まれています。繰り返して言います。誰であっても「口でイエスは主であると告白し、心の中で神がイエスを死人の中から復活させたと信じるならば救われる」のです(ローマ一〇・九)。何も難しいことはないのです。イエスが主であると信じることも、イエスが復活されたと信じることも、実は同じことです。口と心は聖書の世界ではいつもひとつです。心の中で神がイエスを死人の中から復活させたと信じ、そのイエスが万物を支配し給う主であると告白し、自分を主に属する者にしていくとき、その人は救われるのです。死生の矛盾を突き破って、死から救われた者として復活の希望をもって生きることができます。
 たしかにわたしたちが時間の中にいる限り、復活はまだ希望であります。しかしこの希望こそ信仰と一体であり、死ぬべき人間に与えられた最大の贈り物であります。救われるとは、実にこのような希望に生きるようになることです。この希望によって、わたしたちはこの地上にいる間感謝していられるのです。死はもはやわたしたちにとって暗闇でもなければ、不安でもない。それはさらに主と共に、近くにいることができるための一歩に過ぎないのです。死後の世界はなおわたしたちには分からないことばかりです。けれども神の約束は信実であることをすでに体験することを許されていますから、これほど確かな希望はありません。神が死人を生かす神であるということは、まず最初に神が死人を生かすことを約束していらっしゃることをはっきりと認めることから始まってまいります。そしてその約束をされた方が信実であるということを体験し、深めていくことによって確かなものになってまいります。皆さんにはそれぞれの恵みが注がれて、すでにキリストにおいて示された神がいかに信実であるかということを知ってこられました。その神が聖書全体を通してあなたに約束しておられるのです、「わたしはあなたを復活させる」と。
(天旅 1989年1号、2号)