市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第21講

第U部 神の民の歩み

11 キリストに達するまで

キリスト道

 人間には様々な生き方があります。人はそれぞれ何かを依り所とし、何かを目標として生きています。何を依り所とし、何を目標とするにしても、それを自覚していることが大切です。もしそれを自覚しないならば、その人の人生は、世の流れに押し流されるだけの、自由も創造性もない、生きる意義も感じられない人生、ただ一場の夢として終わる人生になってしまうでしょう。
 このように、その依り所、原理、目標が自覚された生き方は、わが国では古来「道」と呼ばれてきました。ですから、キリストを依り所とし、キリストを目標とするわたしたちキリスト者の生き方は、「キリスト道」と呼ばれるべきでしよう。信仰は、知識や思想や主義の問題ではなく、各人の現実の生き方の問題です。「キリスト教」ではなく、「キリスト道」と呼ぶべきであるとの提唱(小池辰雄「無の神学」)は、全くそのとおりです。新約聖書でも、「キリスト教」という用語はなく、キリスト信仰は「この道」と表現されています(使徒行伝一九・九、二三など)。
 では、この「キリスト道」とはどのような生き方でしょうか。それは使徒たちが示してくれていますが、とくに使徒パウロは、使徒自身が書いたものが残されていて、その生き方と考えを直接知ることができるので、実例としてあげてみましょう。パウロはその生涯の後期に獄中で次のように書いています。

 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。(フィリピの信徒への手紙 三・八〜一四)

 ここに、「キリスト道」を歩む者の姿が見事に告白されています。パウロは「律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義」を依り所とし、「キリストを得る」こと、すなわち「死者の中からの復活に達する」ことを目標として、歩むというより「ひたすら走る」のです。彼はキリストに捕らえられた者として、そうせざるをえないのです。その道を歩むことが、今まで価値あるものとしていたすべてを失うことになっても、その道を歩まざるをえないのです。その道が「キリストの苦しみと死の姿に合わせられる」という苦難の道であろうとも、そのことが「キリストとその復活の力を知る」ことになるので、そのあまりのすばらしさに、他の一切を損失と見て、かえってキリストの苦しみに合わせられることを願わないではおれないのです。このように、「キリスト道」を走る自分の生き方を告白するだけでなく、パウロは使徒としてキリストを信じる者すべてに、自分にならってこの道を歩むように呼びかけているのです。

キリスト道を歩む者の原型としてのイエス

 さて、このように、「キリスト道」を立派に歩んだ先輩聖徒たちは、じつに数多くいます。しかし、この「キリスト道」を最初に完全に歩み抜き、その目標に到達した人物は、ナザレのイエスその人であります。こう言うと、イエスをキリストと呼びなれているキリスト者には、奇異に感じる人が多いのではないかと思います。しかし、イエスは初めからキリストであったわけではありません。地上のイエスは、わたしたちと全く同じ人間です。そのイエスが十字架の苦難を通り、死者の中からの復活によってキリストとされたのです。福音は、人々が十字架につけて殺したイエスを、神が死者の中から復活させて、主(キュリオス)またキリストとしてお立てになった、と言っています。このことは、イエスの側に即して表現すると、「復活によってキリストになった」と言えます。イエスは十字架と復活によって「キリストに達した」のです。キリスト道の目標地点である復活者キリストに到達されたのです。
 「キリスト」とは復活者のことです。復活者の別名です。復活者以下の者はキリストではありません。キリストとは、神のすべてのご計画と約束を、完全に、最終的に体現成就する人物です。そして、神は「死者を復活させる神」ですから、復活した者にして初めてキリストでありうるのです。イエスは「死者の中から最初に生まれた方」(コロサイ一・一八)として、すべて死者の中から復活する者たちの初穂であり、原型です。この意味でイエスは「初めの者」、「すべてにおいて第一の者」です。

イエスの道

 「イエスはキリスト道を歩み抜いて、目標に到達された」というのは、わたしたちの立場からイエスの生涯を描写した表現であって、イエスご自身は「キリスト道」とか「キリスト」ということは語っておられません。イエスにとって、イスラエルの歴史の中に自己を啓示してこられた神、すなわち聖書を通して語りかける神のみ旨こそ、歩むべき道であり、成就すべき目標であったわけです。イエスは聖霊を受けて、この神から子と呼びかけられ、この神を父と呼んで、親しい交わりの中に生きられたのです。それで、イエスにとっては、父の慈愛と信実、またその力こそ生きる依り所であり、父のみ旨こそ実現すべき目標であったわけです。そのような生き方がイエスにとっての「道」であったわけです。イエスが語られる言葉には、このことがよく表れています。そして、イエスが父の道を歩まれた結果が十字架であり、到達されたところが復活であったのです。イエスがその道を歩み抜かれた結果、「イエスはキリストとなられた」のです。
 そうしますと、イエスが歩まれた父の道と、わたしたちが「キリスト道」と呼んでいる道とは重なっていることが分かります。イエスは父の慈愛と信実、その力を依り所とし、父のみ旨を実現することを目標として生き、人々にもそのように生きるように教えられましたが、実は、その内容は、わたしたちがキリストを依り所とし、キリストに到達することを目標として生きる「キリスト道」と同じなのです。両者とも復活に到る同じ道なのです。キリストに到達することを目標地点とする同じ道です。違うのは、イエスの場合は最初にその道を歩んだ方として、まだキリストの姿は「父」のみ旨の中に隠されたままで現れていませんでしたが、イエスが復活してキリストとなられた今は、このイエス・キリストの中に、父の慈愛と信実、そのみ旨はことごとく、成就実現してあらわになっているという点です。ですから、今キリストの道を歩むわたしたちは、イエスが言われる父の慈愛や信実やみ旨が成就実現して具体的に現れているキリストを依り所とし、また目標として生きることができるのです。そうしますと、イエスが祈り、またわたしたちに祈るように教えられた「父よ」という祈りは、わたしたちの場合は、「主イエス・キリストよ」という御名を呼び求める祈りと重なってくることが理解できます。

イエスの弟子

 このように、イエスの道とわたしたちの「キリスト道」とが同じであるからこそ、イエスの言葉がわたしたちの生き方の道しるべとなるのです。もし、二つの道が別のものであれば、わたしたちがイエスの言葉を聴くことは無意味になります。二つの道が同じであるから、わたしたちはイエスの弟子として、イエスと共に「キリスト道」を歩むことができるのです。
 ここで、イエスの弟子として生きるということの意味を考えてみましょう。イエスが弟子を召されたとき、「わたしに従ってきなさい」と言っておられます。この「従う」というのは、その言葉の意義はともかく、実際にイエスが求めておられることは、「一緒についてくる」ことです。イエスとは別に離れて生活していて、以前に聞いたイエスの言葉を思いだして、その言葉を実行するように求めておられるのではありません。実際、ペトロたちは何もかも捨てて、イエスについて行きました。当時の「弟子」というのは、現代の学校で知識を学ぶ生徒とは違って、師と一緒に生活することによって、師の生き方に体現されている真理を身をもって学ぶ者であったわけです。
 では、イエスがもはや地上におられない今、イエスの弟子として生きるとはどういうことでしょうか。今日では普通、イエスの弟子としてイエスに従うとは、福音書に記録され伝えられているイエスの言葉を実行することだと理解されています。はたしてそうでしょうか。そういうことは可能でしょうか。多くの人が、そう理解し、そのようにイエスに従う努力をし、そして挫折しました。
 実は、今日でもイエスの弟子というのは、イエスと一緒に生きる者のことです。復活されたイエス、すなわちキリストと共に生きる者です。復活者キリストを依り所とし、キリストを目標として、キリストに合わせられて生きる者、すなわち「キリスト道」を歩む者です。イエスと一緒に生きないで、全然別の所にいて、イエスの言葉だけを実行しようとしても挫折するだけです。イエスと共に生きることによって初めて、イエスと共にキリストに達すること、すなわち復活に到達することができるのです。

狭い門から入れ

 では、復活されたイエス、すなわちキリストと共に生きることはどうして可能になるのでしょうか。それは、イエスが聖霊を受けることによって、父と一つに合わせられて生きられたように、今わたしたちも信仰によって、すなわち、わたしの罪のために十字架され、三日目に復活されたキリストに自己の全存在を投げ入れることによって、約束された聖霊を受け、聖霊によってキリストと合わせられて生きるようになるのです。この時はじめて、わたしたちはイエスと共に生きる弟子となり、イエスの道がわたしの道となるのです。イエスと共にキリストに到る道を歩むことになるのです。この時、イエスの言葉はただちにわたしの歩みの道しるべとなり、歩む力となるのです。
 イエスはこの道について、またこの道に入る門について、こう語っておられます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ七・一三〜一四)。この門が狭いのは、それが十字架の門であるからです。この門を通るには、自己の価値や立場を全部否定して、ただ神の恩恵に依りすがらなければならないからです。その道が細いのも、イエスの弟子として生きるには、「自分を捨て、自分の十字架を背負って従う」という自己否定が求められるからです。これは、自己を立てようとする人間本性の反対ですから、この門を通り、この道を歩もうとする者は少ないのです。しかし、この門はすべての人に開かれています。この道には定員の制限はありません。誰でも、十字架の下にひれ伏し、復活の主キリストに自分を委ねるならば、恩恵により注がれる聖霊が、わたしたちにイエスと共にこのキリストに到る道を歩む力を与えてくださるのです。
(アレーテイア 54号 1991年5月)